●こんな旅さえできなくなった。●
☆7日目 2019年7月1日(月)
機内で何をするでもなく時間を過ごし,日本に戻ってきた。羽田空港からセントレア・中部国際空港までは国内線を使ったが,国内線の搭乗時間まで少しあったので,夕食をとった。
以前は,海外旅行をするとやたらとカレーライスを食べたくなったものだが近ごろはおそばである。ということで,今回もまた,おそばを食べた。
東京と名古屋を飛ぶ国内線は,行きも帰りも北側が見られる座席に座れば富士山を見ることができるから,その座席を選ぶのだが,このところいつも天気が悪く,富士山を見たことがない。それは飛行機に限ることでなく,新幹線に乗って東京と名古屋間を移動しても,富士山をみたことがない。
2019年の日本はずっと天気が悪かった。それにしても悪すぎる。そしてまた,ずっと暑い。こんな異常な天気を私は知らない。
国内線は,いつものように,搭乗ゲートに来るまで3枚もの紙をくれる。書かれてあるのは,乗る飛行機の搭乗ゲート案内だったり,セキュリティを通ったという証明書だったりだが,これらはすべて何の意味もない書類である。
先日,機内持ち込みのできないはさみを持ち込んでしまった乗客がいたために,乗客全員の保安検査をやり直したという事件があったが,こうしたときに,その証明書を持っていたところでまったく効力などないのだから,そんな書類をもらったところで意味がない。また,搭乗ゲート案内の書類には,実際の搭乗ゲートが変更されても,変更前のものが書かれているから,これもまた,まったく意味がない。
要するに,こんな書類を渡す必要はまったくない。こういうムダなことばかりをするのが日本という,世界から遅れた滑稽な国なのだ。
この国のやっていることの90パーセントは意味のないことなのである。こうして,何事も非効率に仕事をし,ブラックになり,生まれてから死ぬまで,90パーセントは無意味に働き続けているのであろう。
私は,こうして,ふらっとアメリカを旅して,日本に帰ってきた。
この旅では,パロマ天文台もフラグスタッフもローウェル天文台もバリンジャー隕石孔も大谷翔平選手も,見たいと思っていたものややりたいと思っていたことをすべて見,やることができた。とても幸運であった。
本当に,2019年,この年にこの旅をしておいてよかった。もしこの旅が実現していなかったら,今,ものすごく後悔していることであろう。
こんな旅なら何度やっていもいいなあ,とこの時は思ったが,今は,そんな旅さえできない。
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2019夏アメリカ旅行記-帰国②
●CAのお仕事●
離陸してからずっと外を見ていた。眼下に広大なアメリカの大地が見えた。ヨーロッパと違って,アメリカからの帰国便は飛行機が西に向かって飛ぶ。つまり,地球の自転と反対方向なのである。
地球は半径が6,380キロメートル余りなので,地球の1周は,40,000キロメートルほどである。1日に1回転するから24で割ると,時速1,500キロメートルとなる。これが赤道にいるときの自転速度である。
ロサンゼルスから東京に帰る飛行経路は円周がもっと短いから,時速はおよそ1,000キロメートルといったところである。飛行機の時速は800キロメートルから1,000キロメートルだから,自転よりほんの少しだけ遅い。ロサンゼルスからの帰国便では,地球の自転と飛行機の進む方向が反対だから,飛行機は飛びながらほんの少しずつうしろに下がっているということになるわけだが,およそほぼ同じ速さと考えることができる。したがって,機内ではずっと同じ時間のままということになる。
だから,窓から見た太陽はずっと同じ場所にある。窓を閉め切っているからわからないだけで,要するに,乗っている間中ずっと昼間なのである。そして,太平洋の真ん中にある日付変更線を越えるときに,日にちだけが1日進み,行きに得した分を返還する,ということになるわけだ。
その昔は飛行機に乗ると,客室の中央に大きなスクリーンがあって,乗客はみな同じ映画を見た。そんなのどかな時代だった。それが今はそれぞれの座席にモニターがあって,自分の好きなものを見ることができるようになった。これだけハードウェアが凝っているのに,ソフトウェア,つまり,コンテンツが固定されていたりして,なかなか好きなものがない。
現在では,家にいても Amazon Prime などで映画が見られ,音楽を聴くことができるが,Amazon Prime の方がマシなプログラムが並んでいる。
やろうと思えば何でもできる時代になったのに,そして,機内で10時間も時間を過ごすのに,ハードウェアは進化してもソフトウェアのほうは工夫がなさすぎるというわけだ。
考えてみれば,日本で夜行の高速バスなどを利用して旅行をするときだって,6時間以上の長い時間を狭いバスの中で過ごすのだが,こちらの方は寝ていれば到着してしまうから,退屈する,ということはない。ところが,どうして飛行機の機内で同じようにくつろげないのかと考えると,それは,食事のせいだと思い当たった。機内では,食事が運ばれたり片づけられたりとあわただしく,そのために,ゆっくりと過ごせないのだ。そんなもの,乗るときに弁当とペットボトルでも配ってしまえばそれでいいように感じる。そうすれば,食べたいときに食べて,寝たいときに寝ればいいわけでわずらわしくないのだ。それぞれに,牛肉がいいか鶏肉がいいかなどと聞きながら食事を配っているから,時間もかかるし,煩わしい。
飛行機に乗ると,非常時以外,客室乗務員の仕事は,食事を配って片づけることだけのような気がしてならない。かつてはスチュワーデスといった,それは憧れの花形職業だったように思うのだが,今日,それが CA とよばれるように変わったけれど,その仕事にさほど魅力があるとは私には思えない。ちなみにCAというのは cabin attendant の略称であるが,これはジャパニーズイングリッシュ。英語では cabin crew,もしくは flight attendant という。
2019夏アメリカ旅行記-帰国①
●航空会社で違うこと●
☆6日目 2019年6月30日(日)
帰国する日になった。
昨年はレンタカーを返却するときに場所がわからず苦労したので,今年はそういったことがないようにと,地図を頭にいれてきたのだが,道路標示に従って運転していくと何の苦もなくレンタカーリターンの場所にたどりついた。昨年戸惑ったのはどうしてだったのだろう?
レンタカーを返すときは車にトラブルもなく旅が無事終わることでいつもほっとする時間である。
・・
今回はわずか5泊7日の旅だったが,ロサンゼルスとフェニックスの2か所でレンタカーを借りた。フェニックスではトヨタのカローラ,ロサンゼルスではニッサンのセントラであった。
私は今後もアメリカに来る機会があることを望んでいるが,こうして旅をしていると,アメリカはストレスがない国だとわかる。というか,アメリカの田舎は誠に旅がしやすいと感じる。しかし,アメリカの都会には興味がなくなったし,アメリカには住みたいとも思わなくなった。
こうして旅を振り返っていると,いつも頭に浮かぶのがフラグスタッフののどかな町の風景であるのが不思議なことだ。というより,フェニックスに限らず,アメリカのさまざまな地方で泊まったモーテルをチェックアウトをしようと迎えた朝の景色ばかりなのである。
そうしてモーテルを出発するときは,また,いつでもその場所に来ることができるだろうと思うのだが,再びその地に行くことはほとんどない。
地球は狭そうで広く,人生は長いようで,かくも短い。
ロサンゼルスでは事前にチェックインがしてあったし荷物はキャリーオンだったので,セキュリティを通って,そのままデルタ航空のラウンジに向かった。ここで朝食をとって,搭乗時間までゆっくりと過ごす,これもまたいつもと同じであった。こうしたラウンジもまた,日本の空港では味わえないゆったり感である。
やがて,搭乗時間になったので,ラウンジを出て,ゲートに向かった。
帰りもまた,行きと同じくプライムエコノミーの先頭席である。ファーストクラスやビジネスクラスのようなフルフラットにはならないが,席が広く,また,食事が豪華で,これなら長時間のフライトも苦にならない。
飛行機も,以前はデルタ航空ばかり乗っていたのでわからなかったが,航空会社によってさまざまなことがずいぶんと異なる。それぞれ長所もあり短所もあるが,今回,デルタ航空であっても機体がヨーロッパ製のエアバスだったので,イヤホンのジャックの形状が異なっていて2口のものだったのには驚いた。
USBコネクタは,もう,ずいぶんと前からデルタ航空の飛行機にはついていたが,フィンランド航空の飛行機には最近までなかったし,オーストラリアのカンタス航空だと,離着陸のときイヤホンやUSBのコネクタに接続しているとはずせと言われる。食事もまた,航空会社によってずいぶんと異なるのだ。
少し前,ひさびさにシドニーからの帰国便でJALの国際線に乗ったが,トイレに歯ブラシが用意されていたのには驚いた。いつも思うのだが,日本人というのは,こうした過剰なサービスには気が回るのに,というか,飛行機のトイレで歯磨きなどされたら,混雑して仕方がないと思うのだが,その反面,街を歩いていてトイレで入っても,手拭きペーパーさえない。立派なコンサートホールのトイレでさえ,なにもない。
なんか,やっていることがものすごくちぐはぐなのである。
まあ,それが日本である,ということにしておこう。
とまれ,広い機内では,いつものように,特にすることもなく,だらだらと時間をつぶすことになった。映画を見るも,本を読むも,何をするのも,歳をとると面倒になってきた。時間を忘れてわくわくできるような何かがないだろうか,といつも思うのだが,妙案がうかばない。将棋の棋士なら詰将棋でも解いていれば時間を忘れるのだろうが,無能な私は歳をとって頭を使う気にもならなくなった。地上の旅なら風景を見ているだけで何時間もすごせるのだが,空の上ではそうもいかない。
ところで,アメリカからの帰国便は地球の自転の逆らった飛ぶので,太陽から見たらいつも同じところを飛んでいる,というより浮いているから,ずっと太陽は同じところにある。だから,座席は太陽の光が直接入ってこない右側に座るに限るのである。
やがて,日付変更線を越えて,日にちだけが1日過ぎ,行きに徳をした分を回収されて,そのうちに日本の陸地が見えてくると着陸である。そういえば,行きは着陸前の食事がでてくるのが遅くて,離陸直前にはっちゃかめっちゃかになったことを思い出したが,帰りはそういうこともなく,食事が出てきた。
これで旅も終わりである。この時は,この旅は旅をしたという高揚感もときめきもなく単に通勤をしているような気持ちになってしまっていたのがとても寂しかった。しかし,今は,そういう旅すらできなくなってしまった。それもまた,寂しい。
2017秋アメリカ旅行記-帰国③
●スーパームーンの月が海に反射して●
隣の席は今回も空いていたので,私は2席を独占していた。ハワイからの帰国便は西向きに飛ぶので,地球の自転に逆らっていて,しかも,飛行機の速度は約800キロメートルから1,000キロメートルで地球の自転速度1,200キロメートルより遅いので,相対的には進んでいても,絶対的には少しずつ後ろに下がっていくことになる。しかも,ハワイ便は赤道に近くジェット気流の影響をもろに受けるから,帰りの時間のほうが行きよりも速度が出ず,ずっと長くかかる。
したがって,窓から見たときの太陽の位置はほとんど変わらず,時間も過ぎず,ずっとお昼のままであったが,飛行機が少しずつ後ろにさがっていくうちに夜のとばりに引き寄せられて,機体は次第に地球の影に入っていって,日が暮れてきた。ちょうどそのころに,日本の陸地が見えるようになった。
まず,房総半島の輪郭に沿ってもののすごい灯かりが見えるようになった。私は,なんだこれは,と思った。
以前,池上彰さんが,朝日新聞に,北朝鮮の夜の暗さと韓国の明るさを比較して,夜空が明るいのが文明の象徴のような文章を書いていたが,それはまったくの間違いであり,私は同意できない。確かに電力事情の悪い北朝鮮の夜は明るくしようとしてもできないだろうが,たとえ明るくできたとしても,夜を明るくして空に向かって光を放つことが文明の証ではない。特に,日本の夜景は常軌を逸している。
やがてさらに明るく眩しい東京の上空を過ぎると,それでも次第に地上は少しは暗くなっていった。そのころ,眼下に雪をかぶった富士山が暗闇に浮かび上がって見えるようになったのだが,おそらく,そのとき乗客の中で窓から富士山が見えているとわかっていた人はほとんどいないだろうと思った。
富士山の上空をすぎると,私は飛行機がどこを飛んでいるのかわからなくなったが,日本の地理を頭に描いてみると,おそらくそこは静岡県の上空あたりだったのであろう。山々に挟まれた谷あいに沿って眩しいほどの光の帯が延々と続いていて,日本の夜空は,たとえどんな山奥の上を飛んでいても。地上はまったく暗くならないのであった。
そのうち,三河湾の輪郭がはっきり見えるようになってきて,飛行機の着陸が近づいたのがわかった。
ちょうどこの日はスーパームーンで,三河湾には煌々と輝く月の光が海に反射して,幻想的なシルエットが浮かんで見えるようになってきた。こうした風景が見られるのは,満月でありしかもちょうどそのときに飛行機に乗っているときだけだから,きわめて珍しいことであろうと思った。
次第に飛行機は高度を下げはじめ,やがて,セントレアの滑走路が見えてきた。
定刻に着陸した。扉が開いて,私はカバンを引いて一番に機内から出て,入国ゲートを混まないうちに大急ぎで通り過ぎた。私は荷物を預けていなかったので,バゲッジクレイムを素通りし,さらに税関で書類を渡して通過して,着陸10分後くらいには,すでに電車に乗り込んでいた。これでは旅行というよりまるで通勤だな,と思った。
2017秋アメリカ旅行記-帰国②
●ラウンジは13番ゲートの前にある。●
1時間遅れでホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港に到着した。
ここで私は間違えた。
私の考えていたシナリオは次のようなものであった。お恥ずかしい話だが,これほど多く飛行機を利用しているのに,私はいまでも空港のシステムがよくわからない。
前回,マウイ島に行ったとき,今回と同様に,ホノルルからマウイ島まではハワイアン航空を利用し,ホノルルからの帰国便はデルタ航空だった。ハワイアン航空では荷物を預けると別料金が発生するので機内持ち込みにしたが,ホノルルでデルタ航空の帰国便にチェックインをして,その際にカバンを預けるつもりであった。私はカバンを預けなければならないチェックインは,一旦空港を出てチェックインカウンタに行く必要があると思っていた。しかし,外に出なくても,そのままコンコースを通ってデルタ便の搭乗ゲートでチェックインをすることができるのだった。
そこで,今回もまたそうしようと,私は,今度は空港内のコンコースを歩いて,帰国便の出るデルタ便の搭乗カウンタに行ってみたのだが,まだ時間が早すぎて係員がいなかった。そこで,しばらく時間を潰そうと,デルタ航空のスカイクラブラウンジに行くことにしたのだが,ラウンジが見つからないのだった。
・・・・・・
ホノルルのスカイクラブラウンジは13番ゲートの前にある。
・・・・・・
これを私はすっかり忘れていた。次回来るときは忘れないようにと,自分のためにここで太字で記しておくことにする。
このラウンジは2年まえに新設されてこの場所に移動したものであって,空港にあった案内板には古い場所が書かれてあったのだった。それを知らず案内板に書かれた場所に行ってもラウンジがないものだから迷っているうちに,私は間違えて空港を出てしまった。そこで,カウンタでチェックインを済ませたあとで,再びめんどうなセキュリティを通って空港に入りなおす羽目になってしまったのだった。
このホノルル空港でのセキュリティのひどいところは,私はゴールドステイタスにもかかわらず,係員の指示が悪くて少しも優先になっていないことであった。おまけに,私の並んでいた優先ラインに,これからフライトに向かう客室乗務員が一挙に大量に押し寄せたために彼らが優先されて,さらに動かなくなったことである。
私は,こうして,通る必要もなかったセキュリティを通る羽目になったことで自分に憤っていたのに加え,さらにこの状態になって,本当に嫌になった。
今回の旅は,何から何までテンションがあがらない。来る時の異常なまでのセキュリティの厳しさ,カウアイ島での天気の悪さ,そして,帰りの空港での不手際と,まったく楽しくない旅になってしまったのである。
それでもどうにか再び空港に入って,やっとのことで見つけたラウンジに入った。そこでスタッフにこの場所がわからず迷ったと言ったら,スタッフが「どうしてこんなにわかりやすい場所がわからなかったのですか?」と言われて,再び頭にきた。それはそれとしてというか,その腹いせにというか,ラウンジでたらふく朝食兼昼食を食べて,それまでの憂さを晴らしたら,今度は,機内食が食べられなくなった。
帰りの座席も行きと同様にずいぶんと空いていたから,今回も当然コンフォートにアップグレードされて,行きと同じように,ファーストクラスのひとつ後ろの足が届かないくらい広い座席を自分で指定して座った。ホノルルから名古屋までは実質の飛行時間は8時間43分である。お腹がいっぱいで箸が進まない夕食を眺めながらなんとなく外を見ていたら,やがて,眼下には,気持ちが悪いほど眩い日本の夜景が見えてきた。
2017秋アメリカ旅行記-帰国①
●ホノルルから飛行機が来ない。●
☆5日目 12月2日(土)
今日は帰国だけの日である。
フライトがリフエ空港を飛び立のは8時33分だったので,午前7時ころに空港に着くようにホテルを出た。
空港に到着してレンタカーを返すときに手続きをした係りの女性は日本人で,日本語で話しかけられた。カウアイ島はいつもこんなに天気が悪いのですか? と私が聞くと,今年は例年よりも早く天気が悪くなりましたね,と言われた。
この旅だけで判断できないのだが,私はこの旅でカウアイ島は天気の悪い島,というイメージが定着した。そのなかでも唯一2日目だけが快晴だったので,この日,予定を変更して島のほとんどの場所に行ってきて本当によかったと思った。
やはり,何事も好機を逃してはいけないのであるが,これもまた,いつもの教訓である。私は,いつも何かおもしろい出来事が起るときにその場所に居合わせている,といわれるが,それは決して偶然なことではなく,何かおもしろそうなことが起きそうなときにそこに足を運ぶからこそ,そういう場所に居合わせるのである。
話題になったあとでそこに群れる人がほとんどだが,話題になったときはもう手遅れなのである。こういう人は投資をしても失敗する。週刊誌などで「株高だ」「円安だ」と書かれたときにはすでにトレンドは逆になっているのだ。
今日は朝早く空港に着いたので,空港にあったレストランで朝食をとることにした。しかし,たいして何もないレストランであった。客もまた,ほとんどいなかった。空港のレストランは高いだけでおいしくないというのは世界共通の話ではなかろうか。
やがて,搭乗時間が近づいたので,空港の搭乗ゲートに行った。
私は,年に20回程度飛行機に乗る機会があるが,定刻どおり飛んだことなどほとんどない。予定していた飛行機がキャンセルになったり,一旦飛び立ったのにトラブルが発生して戻ってきて,乗り換え便に間に合わなくなったりしたことすらある。
だから,海外旅行は帰りのフライトに乗るまで,いや乗ったあとも日本に帰るまで気が許せないのである。しかし,このところはなぜかフライトが順調だったので,そうした現実をほとんど忘れていた。
そしてこの日であった。
飛行機というはバスと同じで,空港に到着した飛行機が折り返して運行している。私が今日ホノルルまで乗る飛行機もまた,ホノルルからやってきて折り返すという運行なのだが,あいにく早朝のホノルルの天気がよくなくて,出発が遅れたらしかった。そこで,乗るべき飛行機がホノルルからまだ到着しないのであった。
私は,セントレア・中部国際空港とホノルル間のデルタ航空便と,ホノルルからカウアイ島間のハワイアン航空便は独立して購入しているので,定刻よりもかなり遅れてホノルルに到着したら,次の便が待っていてくれないのである。こんなこともあろうかと,予約した時点で,ホノルルでの待ち時間を5時間もとってあったので,たとえ数時間おくれても,まだかなりの余裕があった。やはり,こういうときのために,十分な時間をとっておくべきだと改めて思ったことだった。
この日の朝は,カウアイ島でもずいぶんと強い風が吹いていたので,ホテルをチェックアウトするときに予定通り飛行機が飛ぶのかずいぶんと心配したのだが,まさにその心配が的中してしまったことになる。
予定より1時間ほども遅れて飛行機がホノルルからやってきた。したがって,この日は,カウアイ島からホノルルまでの飛行機は1時間遅れて飛び立つことになった。
機内からはカウアイ島を眼下に見ることができた。カウアイ島はホノルルのあるオアフ島から西にある島だから,今後私がハワイにまた来ることがあるとしても,あえてカウアイ島を訪れることはなかろう。だから,この景色も見おさめかと思った。私は,ハワイは天気がよくなければ意味がないと思うので,残念ながら,天気の悪いカウアイ島には何の未練ももたなかった。
2016夏アメリカ旅行記-帰国③
●デルタ航空のコンピューがダウン●
実は,帰国の数日前,アトランタに本社のあるデルタ航空のコンピュータがすべてダウンした。そのためにアメリカ国内のデルタ航空の便が運休になり,大混乱した。このニュースを見ていて,私は帰りの飛行機が無事に飛べるかどうかずっと心配していた。私はこのころ,利用した便が定刻に飛んだことがほとんどなかった。
結局,翌日もこの影響が残っていたので,私は空港に着くまで心配だったのだが,私の帰国に合わせるかのように,この日は前日までの混乱がうそのように平常運行していた。
ただし,空港を歩いていると,前日まで運休になって乗ることができなくなった乗客のための救済カウンタが設置されてあったから,これを見て昨日までの混乱を思い起こした。
生きること自体も旅のようなものであるが,まさに旅をするというのはあらゆるトラブルに巻き込まれる可能性があって,その都度,さまざまことが体験できるのだ。そして,その折々で,何を優先するべきかということを的確に判断することが一番大切なのだ,ということを私は常に学ぶことになる。
今回の旅では,来るときは機長が病気になって,セントレア・中部国際空港からデトロイトまでの便が,機長が交代するためにシアトルで一旦着陸することになった。そのためにデトロイト到着がかなり遅れて,デトロイトからオーランドまでの便があわやアトランタ乗換えに変更されそうになったり,交渉の末,直接オーランドに行く便にしてもらったがそれでも到着がかなり遅れることとなり,深夜に到着したオーランドではホテルに着くのが大であった。
それとは打って変わり,帰りは定刻通りデトロイトに着くことができた。しかし,もともと今回は乗り換え時間が1時間半ほどしかなかったので,慣れ親しんだデトロイトの空港で今回はお寿司を食べることもできず、そればかりか,ターミナルの端から端までを走りに走ることとなった。
セントレアへの便が出発するゲートにやっと着いたときはすでに搭乗終了間際で,やっとのことで機内に乗り込むことができたのだった。今回の旅もこうして帰国の途に着き,2016年の夏の,アメリカの東海岸をキーウェストから国道1に沿って北上しフィラデルフィアに到達した旅を終えて帰国したのだった。
若いころは旅に対しての思い入れも今より深く,いろんなことを感じたものだが,次第にそうしたことの多くがどうでもよくなってきた。こうして,旅をすることが慣れっこになってくるとこだわりもなくなってきて,それと同時に,旅先でのときめきもまたなくなってくるわけだ。残念なことであるけれど……。
この旅を終えて,何がしかのむなしさでも味わうのかと思ったが,自分でも驚くほど,新たにやりたいことがいくらでできてきたのもまた不思議なことであった。これからの私の旅は,その年齢,年齢に応じてスマートにできればいいなあ,と思うこのごろである。
私は,この旅をもって,アメリカ合衆国50州制覇というひとつの目的を達成し,同時にMLB30球団のボールパークもすべて訪れることができたた。そして,この先,また新たな楽しみを見つけたいものだと,このときは思ったのだが,それからの1年,私がどういった旅をしているかは,そこで何を見,何を経験したかは,すでにこのブログに書いたとおりである。
地球は広いのか狭いのか?
これだけ多くの旅客機がさまざまな航空会社から毎日地球の上空を飛んで,多くの人が移動しているという当たり前のことがすごく不思議に思える。1機の小さな機体に100人以上もの人たちが乗り込んでいるのに,目的地の空港に到着すると,まるで水を満たしたコップのなかに一滴の青いインクを垂らしたように,すぐに青い色は消え去って,透明な水にもどるように,その国に溶け込んでいく様がとても不思議に思える。しかし.その人その人にとれば,人それぞれ,私がここに書いているような旅の思い出を作っているわけなのである。
2016夏アメリカ旅行記-帰国②
●外は雷雨●
☆16日目 8月11日(木)
朝が来た。
昨晩同様,この日も朝食をとらず早々にチェックアウトをして,ホテルのシャトルサービスを利用して空港に向かった。空港に到着して荷物を預ければ,旅はこれですべて終了である。今回の,長年行きたかったところ,やりたかったことをすべて詰め込んだ長期間,長距離の旅はこれで終わりである。
「長期間」といってもわずか2週間なのだが,仕事や留学ならともかく,観光としての旅行はこの程度がよいのである。これ以上長期間になると,たとえば爪切りのような,日常的な持ち物が必要になってくるのである。旅は身軽に,そして非日常に限るのだ。
いや,旅に限らず,生きるということは,すべて身軽に限るのである。近頃はiPadやらiPhoneのようなものがあるから,余分なものを持つことなく大抵のことができるから,さらに身軽になってとても助かるわけだ。そしてまた,日々,非日常のときめきが必要なのである。
このブログにすでに書いたように,アメリカでこそ効力を発揮するのが「エアラインアライアンス」である。この「エアラインアライアンス」においてゴールドステイタスさえ手に入れておけば,「TSA Pre」と書かれた優先者用のセキュリティを通って,ターミナルに入り,エアラインアライアンスのラウンジで出発までゆったりと過ごすことができるわけである。
今回の旅は東海岸だったから,フィラデルフィアからデトロイトを経由してセントレア・中部国際空港に帰ることになる。MLBの日程の都合で,旅の途中でワシントンDC とフィラデルフィアを往復することになってしまったが,そのためにアムトラックにもメガバスにも乗ることができたから,そのこともまた,それはそれでムダでなかった。
東海岸のメガロポリスは,おおよそアメリカらしくない。ここは日本の東京から大阪にかけてとさほど違いはない。ここには日本の企業もたくさん支社を構えていて,仕事で在留している日本人もたくさんいるに違いない。だから,私がこの旅で経験し,ここに書いたようなことは,そうした人たちにはあたりまえのことであったかもしれないが,私にとっては貴重な経験であり,多くの思い出ができた旅であった。
しかしまた,帰国後,アメリカに住む私の知人が「もう東海岸は懲り懲りでしょう」と言ったが,その言葉こそが私の気持ちを代弁している。
私は,この旅の35年前に生まれてはじめて憧れだったニューヨーク,ワシントンDC ,そして,ボストンとひとリ旅をした。また,今から数年前に,再びニューヨークとボストンに行くことができた。そして,今回はそのときに行くことができなかったワシントンDCにも再訪し,そしてまた,生まれてはじめて念願のフィラデルフィアにも行くことができた。そして,およそ,アメリカの東海岸がどういうところかは自分なりに納得がいった。
そして出した結論が「もうこれでいいや」ということであった。私にとっては,こうした人口の密集した車だらけの贅沢極まりないアメリカではなく,広大な台地に広がる大自然こそがアメリカの魅力,なのである。
朝食をとったりネットを見たりしてしばらっくラウンジで過ごしていると,やがて搭乗時間になったので,ラウンジを出て搭乗口に向かった。
何事も偶数番号と奇数番号をうまく使い分けるアメリカのシステムは搭乗口もまた同様で,コンコースの左側と右側で、搭乗ゲートの番号も偶数と奇数に分かれている。
いつものとおり,国内線ではファーストクラスにグレイドアップされて,広い座席に座って離陸を待った。ふと窓どから外を眺めてみると,かなり強い雨が降っていて驚いた。
この旅でも晴れ男の私はずっと天気に恵まれたが,帰国の日になっても,空港に到着するまではその予感さえなかったのに,現在は,まだ朝であるにもかかわらず,かなり強い雷雨になっていた。
さて,これから20時間余りをかけて,私は日本に帰国することになる。
アメリカも東海岸は遠い。
それでもデトロイトに到着さえすれば,セントレア・中部国際空港まで乗り換えなく行くことができるし,アメリカの国内線は待ち時間さえ少なければ時間の無駄もない。この日の帰国便はデトロイトでの乗り換え時間が非常に少なく,その点は便利なのだが,もし国内線のデトロイト到着が遅れると帰国便に乗り損ねる心配があるから,それもまたよしあしである。
飛行機は定刻にデトロイトに向けて離陸した。
2016夏アメリカ旅行記-帰国①
●なんとかホテルにたどり着く。●
不愛想で,かつ,不気味な運転手であったが,こうして,なんとか私はホテルの最寄りのバス停で降りることができた。
旅先ではこれまでもいろいろなことがあったが,いつも,なんとか奇跡的に目的地にたどり着くことができている。しかし,おそらくそれは奇跡的ということではなく,だれであってもそのようにうまくいくのであろう。
それにしても,電車に比べて,バスというのは利用するのが難しいものだ。それはアメリカだから,ということではなく,日本でもそう違いはない。 しかし一旦乗車してみると,バスを利用している人は弱者が多く,彼らはみな親切なのである。人の痛みというのをよく知っている。だから,助け合いの精神があって,なんとかなるのである。
そしてまた,バスに乗ると,その土地に住んでいる人のことがよくわかるのである。
とはいえ,ずっとその土地に住んでいても,いつも車を使っているからバスについて尋ねても知らない地元の人も多い。
このブログ書きながら探しても,私の手元には空港のバス停以外,バスの写真がないのが残念なのだが,写真を写している余裕がなかったから仕方がない。バス停の写真の次に私が写したのは,今日の写真,つまり,夜明けの前のホテルの写真であった。
話を少し戻そう。空港から乗ったバスで運転手に促されて降りたバス停からホテルまでは,徒歩でわずか5分程度であった。しかし,この日はものすごく暑い日で,少し歩くのも嫌であった。そうして,やっとホテルのある広い敷地に着いのだが,同じ敷地にはホテルが2軒あって,私が予約したのはずっと奥まったところの古いほうであった。
そのホテルの部屋の写真が今日のものであるが,写真で見ると古びて見えないのがマジックである。
チェックインをするためにフロントへ行った。確かにこのホテルの口コミに書いてあったとおり,フロントにいた女性はきわめて親切で愛想がよかった。しかし,だからといってホテルが新しくなるわけではない。
このホテルにはレストランがなく,朝食は隣のホテルでとるのだと言われた。また,朝は夜明け前から隣のホテルと共通の空港までのシャトルサービスがあるという話であった。
私はこのホテルに到着した時点で,なぜこんなホテルを予約したのか再び後悔した。しかし,だね,こういうわけのわからないことが,将来,ずっと思い出になるのである。
私はアメリカで,ものすごく多くのこうした「しがない」モーテルに泊まった経験があるが,ほとんどの快適だったホテルのことは忘れてしまったが,記憶に残っているのは,まさしく,こうしたホテルばかりなのである。
これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのホテルは宿泊代が10,000円以下になるとろくなことはない。このわずか数千円の差が決定的なのである。アメリカでも,女性はこんなところには泊まらない,と聞く。
ともかく,たとえ古かろうと汚かろうと,私はこの旅の最後の1泊を無事にホテルで迎えることができてホッとした。この日は,まだ夕食もとっていないかったが,もう食事をとらずに寝てしまうことにした。
明日になれば早朝に空港に行って,デルタ航空のラウンジで,お腹いっぱいの朝食が無料で食べられるであろう。それを楽しみに最後の夜を過ごすとしよう。
2014夏アメリカ旅行記-帰国
☆12日目 8月13日(水)
東海岸からの帰国と違って帰国便の出発が遅い。
今回は,ボイジー発が午後1時15分。ボイジーからシアトルまでの間には時差があって1時間32分のフライトなのだが,午後1時47分にシアトル着。そして,シアトルでの待ち時間がわずか2時間と少し,午後3時1分シアトル出発で成田着が翌日の午後4時55分であった。わずか9時間と54分のフライト,アイダホは近くて楽だ。
まだ8月13日だが,3か月にわたる長い夏休みが終わって,アイダホの子供たちは新学期が今日から始まった。朝,私も一緒に小学校へ行ってみた。
アメリカの学校の登校風景なんて,パック旅行では行けるものではないから,私には,こうした体験が一番おもしろい。教室で小学校の先生ともおしゃべりをした。
アメリカの学校はきれいで楽しそうだった。
日本人は,アメリカの学校に比べて,日本の学校のほうがずっとちゃんとしていると思っているが,果たしてそうなのだろうか…?
その後,「Chick fil-A」 というおいしいチキンバーガーのお店に寄ってから,ボイジーの空港まで送ってもらった。
自動チェックイン機で帰りの航空券を発券した。
ここで,ひとつ,大切なことを書く。
デルタ航空の自動チェックイン機,国際線はパスポートを読み取らせるだけで航空券が発券されるが,この読み取り機のパスポートを挿入する口が少しパスポートのサイズよりも大きい。大概エラーがでる。実は,パスポートの左側を挿入口に合わせないと読み取らないのだ。これがコツである。こんなことどこにも書いてない。私の経験である。
・・
ボイジーの空港は国際便の発着がなくローカル空港なので,のんびりムードであった。セキュリティで,係官に私が日本に帰るというと,ポケットから小さな会話集を出して,その中から日本語を探し出して挨拶をした。
とてもフレンドリーでとげとげしさのかけらもなく,セキュリティチェックなどあってないようなものだった。
ゲートで飛行機を待っていると,ひとりの女性がこちらに向かって歩いてきた。
彼女は,シアトルで肝臓の移植手術を受けに行くところだと言った。彼女はモンタナ州ビュートの生まれだという。以前このブログに書いたが,私は,モンタナ州で交通事故にあってビュートの病院に入院したことがあるので,その偶然だけで,親しく話ができた。世の中は本当に狭いものだ。
やがて,ボイジーからの飛行機が出発して,ほどなくシアトルに到着した。
結局,私は,シアトルでも彼女のかばん持ちということになった。
彼女は,今も元気でいるだろうか?
・・
シアトル・タコマ国際空港のコンコースは,ギターを弾く女性がいたりして,ボイジーの空港とはまったく違って華やいでいた。私は,この時までシアトルは狭い空港という認識だったので,のんびりしすぎて,危うく帰国便に間に合わないところであった。決してシアトルは狭い空港ではないのだ。空港内に移動のための地下鉄も走っている。
シアトルからの帰国便は予想通り空席があって,私の隣も空いていた。
帰国するのがお盆からのUターンラッシュの数日前の平日ということろがポイントなのである。
私は中央の座席の通路側に座っていたのだが,通路を隔てた窓側の3席を独り占めしていた初老の女性がいた。彼女には似つかわしくない? テニスラケットを持ち込んでいた。
国際線に乗ると,どういう「人となり」なのかよくわからない人がけっこういて,観察しているとおもしろい。その女性も,旅慣れているのかいないのか? 金持ちなのかそでないのか? さっぱりわからない人であった。なにせ,そのテニスラケットの入ったカバンを座席のうしろの隙間に強引に押しこもうとして,客室乗務員に注意されたりしていた(飛行機は電車ではない!)。しかし,英語がけっこう堪能だったりと,本当によくわからない人であった。
きっと,私も,他人には謎の人物であろう!?
離陸直後,その女性が得体の知れない行動を開始した。
イスを取り外したり,床に這い蹲ったり…。ずっとそういった行動を繰り返していた。しかし,客室乗務員も離陸直後で忙しく,相手にしていなかった。
私は暇だったから,何をしているのかとずっと見ていると,どうやらイヤリングか何かをなくしたらしかった。やがて,仕事にけりのついた客室乗務員が近づいてきた。聞くでもなく聞こえてきた話では,なにやら高価なものをなくしてしまったらしい。
結局,数時間の探索ののち,探し物は無事見つかったようであった。
そんな姿を見ていたら,あっという間に成田に到着してしまった。
・・
成田からのエクスプレスは,行きとは違い順調だった。
8月14日夜帰宅。この時から,私の2014年の暑い日本の夏が,再びはじまったのだった。
◇◇◇
「2014年夏アメリカ旅行記」はこれで終了です。次回からは「2015年アメリカ旅行記」です。
コクピットから煙が出てフライトが引き換えしたり,その結果帰国便に乗り遅れたり,やっと帰国したのに新幹線が止まっていたり,チェックイン間際に突然国内線のフライトがキャンセルになったりと,2015年の旅行はハプニング満載です。
2014春アメリカ旅行記-帰国②






デトロイトから中部国際空港便は,いつもの通り,午後3時35分の出発なので,待ち時間が4時間あった。
ちょうど昼食の時間であった。
私は,今回も,デトロイトの「空」でちらしずしを食べることに決めていたから,躊躇なく「空」に行き,ちらしずしを注文した。ここのちらし寿司は全く日本のものとかわらない。
お客さんは,日本人以外にもたくさんいるが,日本人で注文をしているものは,ほとんどがラーメンだった。
後は,特に書くこともない。
いつものように,空で日本と全く変わらないちらしずしを食べ,残りの時間は,特にすることもないから,広くもないデトロイトの空港で,時間が過ぎるのをだらだらと待った。
A34は,デトロイト-名古屋便の搭乗ゲートである。この便は,さらに名古屋からマニラまで行く。
そこで,このゲートの周りは,日本人よりもフィリピン人がたくさんいた。
そういえば,ここに着いた,つい1週間と少し前には,この空港からの眺めは,一面の銀世界であった。しかし,わずか1週間と少ししか過ぎていないのに,全く雪はなく,窓からの景色は,春そのものであった。
これも,いつものように,隣のゲートには,成田便が出発するゲートがあって,その待合所には,所在なげに,多くの日本人が座っていた。ここまで来ると,アメリカというよりも,まあ,日本と変わらない。
もう,旅が終わったなあ,という残念な,でも,無事に終わったなあというある種の満足感が沸き起こることも,いつもと同じである。
それにしても思うのは,これだけ多くの日本人が,それも毎日,太平洋を横断して,アメリカに来たり帰ったりしているわけなのだが,いったい,その目的は何なのだろうか,ということである。
私の様に,なんの意味もなく,ただ,遊びに来ている人ってどのくらいいるのだろうか。そんな人は珍しくないのだろうか。
ただ,観光地を少し離れてしまうと,本当に日本人はいなくなる。
名古屋便に関していえば,名古屋からさらにマニラまで行くから,フィリピンまで搭乗する人が圧倒的に多いのだけれど,あれほど多くのフィリピン人がアメリカに行く理由は何なのだろうか。確かに,英語に関していえば,日本人よりもずっと優位には違いないが…。
私は,いつも,そのことを不思議に思う。
それに,日本人は他のアジアの人たちに比べて,アメリカに渡航する人の数が減少しているように思う。
こうしてアメリカを旅してみて思うのは-アメリカといっても,場所によってずいぶんと様子は違うのだが-いずれにしても,どこへ行っても,日本国内を旅行することに比べれば,ずっと安価に,広々とした景色やら,MLBのようなダイナミックなスポーツを楽しむことができる。
だから,本当は,行くのに少し時間はかかるけれども,もっと多くの日本人がアメリカの旅を楽しみたいと思っているはずなのである。
おそらくは,東京ディズニーランドが人気なのも,ミニアメリカにあこがれているからなのだろう。
しかし,問題は語学なのである。
中学校からずっと勉強を強いられている(変な日本語です)のにもかかわらず,まったく,実用の域に達していない。それだけならともかくも,苦手意識だけは世界一なのである。きっと,多くの日本人が国外脱出をしてしまわないように,国を挙げて,学校教育で英語という名を借りて,受験文法を教え込み,苦手であるという意識を植え付けようとしているのに違いがない。近ごろでは,それだけではもの足らず,それをさらに小学校からに拡大しようとしているのだ。こうして,ますます英語嫌いが増産されるというわけだ。
・・
そんなつまらないことを何となく考えていたら,あっという間に13時間が経って,中部国際空港に到着した。バッゲジクレイムでカバンが出てくるのを待っていると,係の女性職員たちが,待っている我々に,おかえりなさいませ,といって一列に並んで礼をしたのにはびっくりした。前回帰国したときはそんなことはなく,もっとラフに会話ができて楽しかった。きっと,上司が代わって,こういうわけのわからない躾を強要したのに違いがない。
こういうことをおもてなしだと勘違いしている日本人が増えてきた。本当にどうかしている。もうそういうことはいい加減にしてくれ,と思った。
2014春アメリカ旅行記-帰国①





☆10日目 3月22日(土)
帰国する朝になった。
実は,この日,飛行機の出発時間が7時15分とあまりに早く,私はずっと不安であった。ここで乗り遅れてしまうと,どうにもならなくなる。したがって,この日のために空港の近くにホテルを予約したのであり,ホテルの送迎サービスも半ば期待できずに,レンタカーを借りたままにしてあった。
前日の晩は,目覚ましを三つ設定した。そこまで念入りに次の日に目が覚めるようにしたのに,ああ,なんということであろうか。
・・
日本から海外にツアーで出かけるときなどで,空港には,出発時刻の3時間前に着くようにとか書かれてあったりするが,実際は,1時間くらいあれば十分である。ただし,大きな空港だと,出国時の検査に列ができていることがあって,最も時間のかかるのがこの場所である。
アメリカでも,大都市の空港は鬼門である。その点,小都市のローカル空港は,日本のそれとほとんど変わらない。しかも,そこで出国できてしまうから,非常に楽である。
私は,この朝,4時30分に起きることにした。そして,5時30分にチェックアウトをしようと思った。
それが,朝,午前2時30分に目覚めた。私は,ベットの脇にあったホテルの目覚まし時計を見た。時刻は午前4時20分と表示されてあった。私は迂闊であった。これだけ目覚ましを設定しておきながら,最も信用ならないと思っていたホテルの目覚まし時計についてはなんの設定もしなかった。それどころか,時刻合わせすらしなかったのに,その時間を正確な時間だと思い,起床してしまったのだった。
起きてしばらくして,まだ,夜中の2時30分すぎだと知った。しかし,ここで再び寝てしまうと,本当に寝過ごしてしまうと思った。私は,寝ることができなくなった。まあ,いいや,あとは帰りの機内で寝るだけだ,と思って,ずっと時間が経つのを何をするでもなく過ごすことになってしまった。
そんな次第で,私は,午前2時30分から2時間も,何をするわけでもなく,でも,眠らないように我慢しながら,出発の荷造りをしたのだった。やがて,なんとか朝が来て,私は,チェックアウトをした。
昨日予行練習をしたように,レンタカーを近くのハーツの営業所に運転していった。広いハーツの営業所は午前5時間からの営業であったけれども,こうしたレンタカーリターンがたくさんあるらしく,私の到着したのは5時前だったが,空港へ行くシャトルバスにはすでに運転手が待機していて,私が車を停めると,キーを差したままでレンタカーリターンはOKだと言った。
そこでレンタカーを返却? して,私は,シャトルバスに乗り込んだ。
シャトルバスの乗客は私ひとりであった。
私がこれから日本に帰るのだというと,運転手の娘さんが,日本で英語のアシスタントティーチャーをしていたと言った。こちらに住む人で日本に行ったことがあるという人は,大概,こうした英語のアシスタントティーチャーと軍人くらいのものである。
サンアントニオの空港はそれほど大きくないが,早朝だというのに,ターミナルはすでに多くの人でごった返していた。自動チェックインの機械を操作して,帰りのチケットを印刷し,カウンタに行ってカバンを預けた。
セキュリティを済ませて,待合所に行った。
ここで朝食をすまそうと思ってみると,ダンキンドーナッツがあった。このマサチューセッツ州に本社を持つダンキンドーナッツは,昨年の夏に行ったボストンに多くの店舗があったのだが,なんとなく入りそびれていたので,ここで,ダンキンドーナッツを食べることにした。
結論を言うと,これは,日本のミスタードーナッツと何ら変わるものでなかった。
そのうちに時間になって,私は機内に入った。
・・
まあ,そんなわけでいろいろあったけれど,無事にサンアントニオを離陸して,機内で3時間,時差が1時間あるので,午前11時すぎに,私は,デトロイトに到着した。
2012アメリカ旅行記-帰国③
名古屋でマニラ行きに乗り換えることができるので,名古屋便の搭乗口は,多くのフィルピン人がいた。日本人はほとんどいなかった。
やがて,やっと搭乗の時間になって,飛行機は3時間以上遅れて,デトロイトを出発した。
フィルピン人で溢れかえる機内は,少しの空席があって,幸い空席のとなりの席を手に入れた人は,2つの座席を独占して倒れるように眠っていた。私の隣の席も空いていたが,そういうすることをなさけないと思った。
機内には,もう,「Hi!」といって気さくに話しかけるアメリカの香りはどこにもなかった。客室乗務員も,アメリカの国内便のような気さくさや明るさはこれっぽっちもなかった。みんなが不機嫌そうだった。
これからの13時間を越す退屈なだけのフライトが憂鬱だったので,空いた隣のその向こうに座ったフィリピン人の老夫婦が何か語りかけたけれども,返事をしなかった。空いた席を使いたいということだった。私は,勝手にしろ,と心の中でつぶやいた。
やがて,機内にいるのがさんざんいやになったころ,夏の熱気でむせかえる中部国際空港に到着した。夜9時だった。マニラ乗換え便は夜12時発なのだそうだ。
まだ,せめて日本に生まれたのは幸運なことだったかもしれないな,と思った。
バゲッジクレイムにはデトロイトからの到着便の荷物を待つ人は少なく,隣の香港,その隣の韓国からの帰国便は,お土産を一杯抱えた家族連れで,ごった返していた。
空港からの名鉄特急の指定席は満員だった。隣に乗り合わせた,私と歳の近い女性は,韓国からの観光旅行の帰りだった。韓国に行って,日本が韓国でした歴史を嘆かわしいと感じたと話した。とても気が合って,楽しく話をしていたら,あっという間に,名古屋に着いた。
また,ひとつの夢が実現した。そして,またひとつ,夢を失った。今度は,どんな夢を実現しようか?
・・・・・・
自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。たとえそれが完璧な片思いであろうとも。
北杜夫「どくとるマンボウ青春記」より
・・・・・・
2012アメリカ旅行記-帰国②
やがて,フライトの時間になって,時間通り,ミネアポリスからデトロイトへ向かった。
この旅行では,はじめのうちは,座席がいつも1番前だったのに,ビスマルクのときと,今回は,1番後ろの座席になった。機内サービスのソフトドリンクが来る頃には,もう,着陸態勢に入っていた。アップルジュースを頼むと,グッドアイデアねと言われて -残っている飲み物の種類が限られていたのだろう- 缶からジュースを注いだ残りの入った缶も全て渡された。
デトロイトの空港には「空」という名の寿司屋があって,アメリカ人が上手に箸で寿司を食べていた。
今回の旅行の最後のフライトは出発が3時間遅れなので,20ドルのミールクーポンをくれた。それでマクドナルドへ行って,ハンバーガーをテイクアウトした。以前,このマクドナルドで,セットだったのに,英語が聞き取れずもうひとつサラダを頼んで,2つ抱えて困ったことを思い出した。あれはもう10年も昔のことだ。
さして広くないデトロイトの空港で,本を読んだり音楽を聴いたりして,怠惰に時間を過ごした。時折,日本語の放送「こちらデトロイトはアメリカ東部標準時です。時間をお確かめください」が聞こえる。
この旅では,シアトル,ソルトレイクシティ,ラピッドシティ,ビスマルク,ミネアポリス,デトロイトと,いろいろな空港に降り立った。時差も4回変わった。
この旅は,ノースダコタ州に行こうという動機からはじまったが,結果的に,アメリカを横断することになった。ノースダコタ州はそれほどまでに遠かった。そして,想像した以上にすばらしいところだった。
デトロイトの空港にも日本人はほとんどいなくて,東京便の搭乗口には中国人があふれていた。
名古屋便の表示を見たとき,ああ,帰国するんだなあ,と思った。今回の旅は終わりなんだなあ,と思った。
2012アメリカ旅行記-帰国①
☆9日目 7月29日(日)
いよいよ,帰国である。
きょうは雨。これまで,1日目にラピッドシティに着いたときだけ雨。旅行中は,夕立でこそあったけれど,いつも晴れていた。国立公園に行ったときは,ほとんど快晴で,暑いくらいだった。
この地域は,1日中雨ということはないという話だったけれども,もし,この旅行中,雨天だったら,印象はまったくちがったものだったろう。その意味でも,非常に幸運だった。
早朝,ホテルのロビーに下りてみたけれど,まだ,パンが届いていなかったので,何も買わず,空港で朝食をとることにして,部屋でコーヒーだけを飲んだ。
少し早めにホテルをチェックアウトして ―結局,追加料金なんて1ドルも要らなかった― 傘をさして,電車の駅に向かった。早朝のトラムの駅は,食べかけの食料が散在していて不愉快だった。反対側のホームに,女性がひとり,ターゲット・フィールド行きのトラムを,ぼーっと待っているように見えた。やがてトラムが来たのに,彼女はそれに乗るでもなく,まだ,ホームにいた。
空港経由のモール・オブ・アメリカ行きは,前のトラムが出たばかりだったので,かなりの時間待つ必要があった。やがて,次のトラムがきた。
空港へ向かう車窓からの景色は,自宅から空港へ向かうときの日本の景色とさほど変わらなかったように感じた。やがて雨はあがり,今日もミネアポリスには真っ青な空が広がっていた。
今回の旅で,自分にとって,アメリカも特別な存在でなくなってしまった。少しさびしい気持ちだった。
やがて,トラムはミネアポリスの空港に着いた。
デルタ空港のカウンタに着いて自動チェックインをすると,ミネアポリス-デトロイト便は予定通りだが,デトロイトからのフライトが3時間遅れという表示があって,いやになった。
荷物を預けようと係の女性と英語で話をしていたら,途中で,彼女は,日本の方ですが?と言って,お互い日本語になった。めったに日本語で話ができないのでうれしいということだった。だれも何を言っているかわかりませんから,と言って,雑談になった。アメリカで仕事をしている日本人もアメリカにいるとこちらの文化に同化して,明るく気さくになる。仕事なんて,こういうふうにすればいい,と思う。アメリカでは,組織の中で自分に任された仕事をこなすのに,つねに上司にお伺いを立てたり報告をしたりする必要はなく,自分の責任で決断してやればいいのだそうだ。失敗したときはきびしいけれど,それは仕事だから当然だ。
ノースダコタに行ってきたんですよ,と言ったら,彼女は,ノースダコタがどういうところか知らないと言ったので,ここに住んでいるのなら,空路ビスマルクまで行って,そこからドライブしてメドナに行けば,3日は十分に楽しめますよ,なにせ,アジア人の団体客がいないから最高ですよ,といった話をした。現地在住の,しかも,ノースダコタ州の隣のミネソタ州に住んでいる人にすら,ノースダコタ州は馴染みのない場所なのだろうか。であればなおさら,今回行った価値があると思った。
荷物を預け,ミネアポリスの空港で,さしておいしくもないサンドイッチの朝食をとった。