前日に弘前城に訪れた人が,まだ桜は咲いていなかったと言っていたのですが,この日はすでに桜が咲いていて,やったぜ,と思いました。まさに今日開花したばかりなので,観光客もかなり少なくて,これもまた幸いしました。私のきらいなインバウンドの団体もいませんでした。
これが私が一度は見たかった弘前城の桜なんだなあ,と思いました。
私は,旧東奥義塾外人教師館にあるカフェ「Salon de café Ange」で昼食をとってから,南の追手門から弘前城に入りました。北に向かって進んでいくと,左手にボランティアガイドの受付がありました。会津若松城に行ったときボランティアガイドさんをお願いしたのですが,弘前城でもお願いをして,ボランティアガイドさんについて弘前城をまわりました。
頼りなさそうな年配の女性のガイドさんでしたが,知らないことを多く教えてもらえて,ずいぶんとためになりました。私が印象に残ったのは,次のようなものです。
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【その1】
弘前城の最初の天守は,1609年(慶長14年)津軽藩2代藩主の津軽信枚(のぶひら)により本丸南西隅に建てられた5重の建物でした。しかし,1627年(寛永4年)の落雷で出火し焼失しました。
現在の天守は,ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て,本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として,9代藩主津軽寧親(やすちか)のときに建てられたもので,1810年(文化7年)に着工し,1811年(文化8年)に竣工しました。
天守は,外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設けて堂々としていますが,内側である西面と北面には破風がなく連子窓を単調に並べただけという「二方正面」になっています。これは,幕府から役人が来たとき,西面と北面だけを見せることで,武家諸法度で禁じた天守の再建と見なされないようにした工夫だそうです。
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【その2】
現在,1915年(大正4年)以来100年ぶりの平成の天守石垣の修理が行われているので,天守は,2015年に,約70日かけて,元の位置から北西へ約78メートル離れた本丸中央部に移動させました。
当初の予定では2021年に石垣の修理が完了する予定でしたが,地質調査の結果,天守が載っていた土台部分の石垣と天守の基礎に耐震補強が必要となり,天守が元の位置に戻るのは早くて2025年度の予定となりました。
現在も,天守の内部に入ることができますが,天守を外からみることができる特設の展望デッキもあります。展望デッキからは,天守と岩木山と桜を同時に見ることができるのですが,これは,天守が移動している今だけの特権だそうです。
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【その3】
石垣の修理で天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘され「いかすみ石」と名づけられました。それぞれの石の大きさは,大きさ約3メートル,幅約1メートル,重さ約3トンで,「いかすみ石」は,両側の石をつなぐチキリと呼ばれる鉄や鉛製の金具により固定されていました。
約100年前の大規模な石垣修理が行われた際に組み込まれた可能性が高いといいます。
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【その4】
「弘前の桜は凄い」といいます。
その理由のひとつは,ひとつの房につく花の数が違うということです。通常,桜木の房には3,4個の花がつきますが,弘前公園の桜には5個から7個もの花がつきます。そこで,弘前公園の桜は密度が高く,これが,観る人に圧倒的な迫力を与える要因となります。
もうひとつは,枝の形にあります。弘前城の桜の樹は横一杯に枝を広げ,そこに通常より多い花をつけているので,雄大で煌びやかな佇まいを有し,目の高さで桜を愛でることができます。これは,津軽地域の名産である「りんご」に深く関りがあって,弘前公園の桜は,りんご栽培を応用した剪定技術を使って,桜の樹の管理をしているからだといいます。
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「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」のことわざどおり,元来,桜は切り口から病気にかかりやすいため剪定はタブーと考えられてきました。ところが,55年前に樹勢が弱っていたシダレザクラに枝を深く切る強剪定を施したところ樹勢が回復。これを機に,弘前公園の桜は剪定されるようになりました。これが,リンゴの栽培技術を参考にした「弘前方式」とよばれる管理方法です。
この弘前方式により、これまで多くの桜が守られてきました。
りんご栽培は実の収穫をしやすくするため,また,日光が均等にあたるように枝が横に張るように剪定します。この技術を応用して桜の房に栄養を与えることで,花の数を増やし,濃密な桜の枝ぶりが誕生したのです。
また,4年前の大雪で根元から倒れてしまった樹齢100年を超えるオオシダレは,別の桜の苗木から根っこをもらってつなぐ「根接ぎ」という方法で,何度か苦境を乗り越え,支柱に支えられながらも,今年も元気に花を咲かせています。
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ガイドさんと別れ,次に,私が目指したのが,弘前公園中濠観光舟でした。
弘前公園中濠観光舟は,弘前さくらまつりの期間中,弘前城のお濠を舟で遊覧するものです。なお,弘前さくらまつりは,当初は4月19日からでしたが,1週間前倒しとなって,4月12日から行われていました。
弘前公園中濠観光舟の乗り場に行くと,黒山の人だかり…。ではなく,空いていて,すぐに乗ることができました。おそらく,満開直後で,観光客が少なかったからでしょう。
濠まで枝を伸ばす満開の桜の景色は格別でしたが,桜の花びらが水面に浮かんだお堀を船で進みながら見上げるというのもまた雅なので,桜が散ってくるころにも,楽しむことができそうです。
弘前公園中濠観光舟は,東内門前の石橋前乗船桟橋から辰巳櫓を曲がり,杉の大橋付近で折り返し来たコースを約20分でまわります。杉の大橋をくぐったときの景色が最高,ということですが,橋の上からもたくさんの方が手を振ってくれます。そうした人たちの中に若い女性のグループがいて,船頭さんが「どこの学生?」と声をかけると「弘大」という返事。おそらく,この春,弘前大学に合格した学生さんたちなのでしょう。
どこからともなく津軽三味線の音が聞こえてきたりして,最高の舟旅となりました。
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あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが,弘前高等学校の文科生だつた私は,ひとりで弘前城を訪れ,お城の広場の一隅に立つて,岩木山を眺望したとき,ふと脚下に,夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき,ぞつとした事がある。私はそれまで,この弘前城を,弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども,見よ,お城のすぐ下に,私のいままで見た事もない古雅な町が,何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ,息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ,こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼こもりぬ」といふやうな感じである。私は,なぜだか,その時,弘前を,津軽を,理解したやうな気がした。
太宰治「津軽」序編
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは