しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:弘前市

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私が昨日知ってぜひ行ってみたいと思った,太宰治が弘前高校(現在の弘前大学)時代に下宿をしていたという家に,やっと来ることができました。
保存公開に際して,当時の家が,元の立地から約100メートル南東に向きを変えずに移築され,「太宰治まなびの家」として公開されていて,場所は,弘前大学にほど近いところでした。
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「太宰治まなびの家」は,太宰治が1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年),旧制弘前高校在学時の3年間を過ごした藤田家住宅です。藤田家は太宰治の実家である津島家の親戚筋にあたりました。
この家の2階奧の,押入,縁側,出窓がついた6畳間が太宰治の部屋でした。
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太宰治は,1929年(昭和4年)12月10日の深夜,この部屋で,常用していた多量の睡眠剤カルモチンを飲み,最初の自殺未遂を敢行しました。当時つき合っていた,小山初代との関係が真因ではないかと推測されている一方,偽装自殺説もあるそうです。

「太宰治まなびの家」を出てから,弘前大学に向かいました。
弘前大学では,2009年(平成 21 年)太宰治生誕 100 年の節目の年に,太宰治と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため,太宰治文学碑が建立されました。碑面には,「津軽」の一節が刻ま れていますが,この碑文は,太宰治の長女・津島園子さんが最も好きだというものだそうです。
なお,弘前大学資料館にも太宰治の資料が展示されていると「太宰治学びの家」で聞いたのですが,今回は時間がなく,そこまでは行くことができませんでした。
どうやら,私は,もういちど,弘前市に足を運ぶ必要があるようです。
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私には,また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて,主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても,結局は,津軽の現在生きてゐる姿を,そのまま読者に伝へる事が出来たならば,昭和の津軽風土記として,まづまあ,及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが,ああ,それが,うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」序編
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これで,今回の3泊4日の旅が終わりました。
ゆっくりと昼食をとる時間がなかったので,コンビニで買ったサンドウィッチを弘前駅のベンチで座って食べてから,午前12時15分のバスで青森空港へ向かいました。青森空港着午後1時10分。青森空港のラウンジで一服して,午後2時15分のFDAに乗って帰宅しました。
この日は曇りがちの天気で,一面雲がありましたが,ほどなくして,御嶽山のあたりだけ雲が切れて,1か月前よりずっと雪を被った山頂が見えました。
今回も天気に恵まれ,というか,恵まれすぎて暑かったのですが,念願だった天童市の人間将棋と弘前市の弘前城の満開の桜を堪能することができました。

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2024年4月16日。今回の旅も最終日となりました。
せっかく青森駅前の東横インに宿泊したのに,結局,青森市周辺には行きたいところもなく,最終日もまた,弘前市に行くことにしました。というのも,前日,りんごを食べながら話をしている途中で,弘前市に太宰治が下宿していた家が保存され公開されているという話を聞いて,ぜひ行ってみたいと思ったからでした。
ということで,東横インで朝食を済ませ,チェックアウトをして,青森駅に向かいました。私が乗ったのは,午前7時4分秋田駅行きで,弘前駅到着は午前7時50分でした。
この日の予定は,弘前駅から徒歩で,弘前東照宮,熊野奥照神社,弘前八幡宮と北上して,そこで引き返し,最勝院(さいしょういん),そして最後に,太宰治が下宿をしていたという旧藤田家住宅に行くことでした。これまで2度弘前市に来たのですが,すべて,行ったことがないところでした。

弘前駅から西に歩いていくと,まず,目についたのが旧青森銀行津軽支店の建物でした。
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1880年(明治13年)の弘前大火を教訓に1883年(明治16年)宮本甚兵衛が防火建築として設計した角三呉服店は,当時の洋風建築の要素を取り入れたものでした。
1917年(大正6年)に津軽銀行に譲渡されたとき,玄関前には洋風柱と印象的な棟飾りのポーチ,内部にはカウンターなどが設けられ,近代銀行建築に改装されました。1943年(昭和18年)からは青森銀行津軽支店として,1998年(平成10年)まで活用されてきました。
弘前市で現存する近代洋風建築の中では最古の建物とされていて,現在は「弘前市立百石町展示館」として一般公開されています。
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まだ朝早く,中に入ることはできませんでしたが,外観を見ることができました。

そこから北に向かって,弘前東照宮を目指して歩きました。
GoogleMapsが示す場所に到着したのですが,そこには薬王院という立派な寺があるだけで,それらしきものがありませんでした。歩きまわっていると,薬王院の裏手に空き地があって,そこに本殿だけが存在していました。
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弘前天満宮は,弘前藩2代藩主・津軽信枚が南光坊天海を通じて幕府に日光東照宮から東照大権現の神霊を迎えることを願い出て,1617年(元和3年)に,弘前城天守の傍らに東照大権現を勧請したのがはじまりです。
1624年(寛永元年)に現在地に遷座し,社殿を造営,薬王院が管掌することとなりました。
明治期に住民の希望で神仏判然令により薬王院と分離しつつ復興されました。
平成に,境内で運営していた結婚式場への過大投資が原因で経営難に陥り,宗教活動を停止し,本殿も売却されることになりましたが,2015年(平成27年)弘前市が収得し,祭神は黒石市にある黒石神社へ移されました。
本殿は創祀当時の建物で,素木造である上に彫刻や金具をほとんど用いない簡素な造りとなっています。
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といった経緯があって,現在は,本殿であった建物だけが囲いに覆われて存在していました。

北に歩いていって,熊野奥照神社に到着しました。
地図ではかなり遠そうだったので,行くことができるか不安だったのですが,それほどの距離ではありませんでした。
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熊野奥照神社は,紀元前85年,阿部比羅夫が秋田・能代の蝦夷を討ち津軽に所領を定めた際に,熊野三所大権現を奉ったのが最初といわれます。
津軽藩祖津軽為信が社殿を修復し,現在の本殿は2代目藩主津軽信牧の再建による,弘前最古の建造物です。
1880年(明治13年)に阿部比羅夫,坂上田村麻呂を合祀したことで,熊野奥照神社となりました。
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一見,単なる神社ですが,こんな歴史があるのだと思いました。

熊野奥照神社からさらに北に進むと,大きな鳥居があって,その向こうに社殿が見えたのが弘前八幡宮でした。
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弘前八幡宮は,津軽総鎮守,弘前総鎮守,弘前城鬼門守護の社です。
古来「弓矢八幡」武神として武家信仰の中核で,津軽地域の「一代様信仰」として,戌(いぬ)年,亥(いのしし)年生まれの守護神と崇敬されています。
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ということでした。
従来の本殿は裏手にあって,見るには許可が必要とありました。許可を取るのは簡単そうでしたが,それほど興味があったわけでもなし,面倒になってやめました。

そこで引き返し,ずいぶん南まで歩いていって,最勝院に着きました。
遠くからでも目につく五重塔が満開の桜と調和してきれいでした。弘前市の見どころは弘前城だけではありません。
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市民から「五重塔の寺」として親しまれている最勝院は,真言宗智山派の寺院で,山号は金剛山,寺号は光明寺。
1532年(天文元年年)常陸出身の弘信が現在の弘前市堀越に堂宇を建立したことにはじまります。
2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことにともない,城の鬼門に寺院を移転し,弘前八幡宮の別当寺(寺社をかんりするための寺)とされました。
明治時代の神仏分離令で,最勝院以外は廃寺となり,最勝院は廃寺となった寺院の檀家を引き受けて現在地に寺籍を移転しました。
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最勝院は大きな寺で,伽藍は,本堂,仁王門,五重塔,如意輪観音堂,五智如来堂,護摩堂,聖徳太子堂,薬師堂,庚申堂,鐘楼がありました。本堂は1970年の再建で,本尊は大日如来です。
五重塔は,1667年(寛文7年)に完成した日本最北端のものということです。
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弘前市にこれほど立派な寺があるのに驚きました。
まだ梅が咲いていて,梅と桜のそろい踏みが見られました。

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1か月ほど前に弘前市に来たときに見つけたのが,弘前城の近くにあった旧第五十九銀行本店本館でした。美しい木造2階建ての建築で興味をもったのですが,開館時間が午後4時30分だったので、入ることができませんでした。そこで、今回は行ってみようと思っていたので,弘前城の帰りに寄ってみました。
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旧第五十九銀行本店本館は,1904年(明治37年)現在の青森銀行の前身・第五十九国立銀行の本店として建設されたものです。
外観はルネサンス風の意匠を基本としていますが,外壁は板の上から瓦を張りその上は漆喰で塗りつぶされ,窓も外側は漆喰塗としており防火構造が取り入れられています。また,塔屋と屋根は和小屋組とトラスの折衷構造となっています。
1943年(昭和18年)に青森銀行が創立されてからは弘前支店として使用されていました。1965年(昭和40年)に建て替えのため,一度は取り壊されることとなりましたが,1967年(昭和42年)に青森銀行記念館として保存が決まり,現在は,弘前市が所有しています。
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こうした明治時代の建物は,現在,各地で公開されていますが,どれも威厳があり,堂々としていて,当時の人たちの矜持を感じます。

そのあと,昭和のようなノスタルジーあふれる弘前市内をのんびりと散策しながら,弘前駅に向かいました。
途中,「りんごを食べませんか?」と声がかかったので,りんごをいただくことにしました。声をかけたのは,りんご歴史研究所というものをやっている女性でした。
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今でこそ青森といえば「りんご」ですが,「りんご」がはじめて持ち込まれ栽培を開始した当初は苦難の連続だったと伝えられています。りんご歴史研究所はそんな先人たちの挑戦を後世に伝えると共に,青森で未来に向けて挑戦する方々を応援していくために設立されました。
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ということで,私は大のリンゴ好きであり,青森県のりんご栽培の歴史も興味があったので,りんごを食べながら,いろいろとお話をすることができて,楽しい時間になりました。

午後5時ころに弘前駅に着きました。
弘前駅午後5時41分発の快速があったのでその列車に乗ることにして,それまでの時間,弘前駅のビルにあったおそば屋さんに入って,夕食代わりのきつねそばを食べました。軽食のつもりだったのですが,おなかがいっぱいになりました。
やがて,目的の列車が来たので乗り込んで,午後6時23分に青森駅に着きました。
昨年来たときはまだ完成していなかった立派な青森駅がそびえていました。
今回青森駅前の東横インに宿泊したのは,弘前市内のホテルが見つからかなったこともありますが,青森市内に何かおもしろい見どころがあるのでは? という期待からでした。
東横インにチェックインを済ませ,再び外に出ました。

青森駅前はアーケード街となっていて,ねぶたが通るために電線がなく,極めてきれいな街でしたが,午後7時前だというのに閑散としていて,ほとんど人通りもなく,仙台駅前とは雲泥の差でした。
すでに夕食は済ませてあったので,少しお酒でも飲もうと思って歩いていたのですが,適当な店がまったくありませんでした。思っていた以上に,青森市は何もないところでした。
仕方なく,東横イン近くの居酒屋に入りましたが,外の静寂とは違って,店内は客でごった返していてものすごくうるさいし,注文してもなかなか料理は来ないし,やっと料理が来ても,高いだけで量はなく,また,会計を頼んでも何分もまったく反応がないしと,ゆったりと旅のお酒を味わおうという期待とははまったく違ったところで,印象最悪でした。こうしたちょっとしたことで,その街のイメージが台なしになります。
こんな店,入らなければよかったと後悔しました。これもまた,今回の旅の反省点でした。

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長勝寺から観光案内所まで戻ってきました。私が車を停めたのは,弘前市観光案内所の駐車場でした。
これで弘前市の観光を終えて,この日の宿泊先まで行くことにしたのです。しかし,観光案内所のあたりに気になる建物がいくつかあったので,弘前市を出発する前に入ってみることにしました。

弘前市の市街地には多くの洋館があるのですが,ひときわ変わった形をした洋館は,旧弘前市立図書館でした。これは,1906年(明治39年)に建てられ,1931年(昭和6年)まで市立図書館として利用されたものです。設計・施工は堀江佐吉で,木造洋風3階建て。八角形の双塔をもつルネッサンス様式を基調としながら,随所に和風様式が取り入れられているということでした。現在,一般に無料で公開されていて,1階は旧市立図書館の形態を復元し,当時の関係資料が展示してありました。また,2階には地方出版物や同人誌の紹介,ビデオによる文学碑めぐりのコーナーなどがありました。
その隣にあった洋館が旧東奥義塾(とうおうぎじゅく)外人教師館でした。旧東奥義塾外人教師館は,1903年(明治36年)弘前市立東奥義塾に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたもので,木造2階建て。設計は,本間俊平とも堀江佐吉ともいわれています。キャンパスの移転に伴って,1987年(昭和62年)に市に寄贈され,ここもまた,一般公開されています。また,当時の街並みを再現したミニチュアが庭にありました。
最後に,観光案内所の隣にあった山車展示館に入りました。山車展示館は,1994年(平成6年)に建設されたもので,藩政時代から伝わる弘前市内各町会の山車を一堂に展示してありました。また,弘前ねぷたまつりの時に出陣する直径4メートルの「津軽剛情張大太鼓」も収納されていました。

さて,これで弘前市の観光を終えて,青森県の西海岸に向かいます。私がこの日宿泊するのは深浦町というところなのですが,そこがどういうところなのかはまったく知りませんでした。つまり,私は自分が宿泊する場所について知識もなく予約をしたのです。
先日,NHKBSPで「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」という番組が放送されていて,何となく見ていたのですが,その番組で日本一の大イチョウというものが紹介されていました。何でも,その大イチョウは青森県深浦町の「北金ケ沢の大イチョウ」だということを聞いて,私が泊まるところの近くだ,と驚きました。この番組は,2021年12月30日に初回放送された「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」の第4話の再放送だったのですが,それで,今回,ぜひ見たいと思っていました。
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「北金ケ沢の大銀杏」に行く途中で目についたのが「関の甕杉」という案内標示でした。
「関の甕杉」は深浦町関に位置する大杉で,推定樹齢1,000年以上,樹高30メートル,幹周り8.2メートル,という巨木でした。中世にこの一帯を支配した安東氏の内紛で戦死した霊を弔うために植樹されたと伝えられているもので,杉自体が神格化され「神杉」から「甕杉」,または,遠くから眺めると水甕の形に似ていることなどが名前の由来になったといいます。
また,そのとなりには「関の古碑群」がありました。これは,1340年(暦応3年)から1401年(応永8年)までに時宗の信徒が建立した関集落周辺の石碑を「関の甕杉」の下に集めたもので,42基あります。この地は中世「阿曽米関」(あつまえせき)とよばれる関所があったと推定される地域で,鎌倉末期に津軽大乱の戦場になったとの伝承もあります。
このあたりには,大イチョウのほかにも不思議なものが存在するものだと思いました。

「関の甕杉」を見てから,「北金ヶ沢の大イチョウ」を目指しました。迷うこともなく,案内標示を見つけました。目的地に着きました。少し離れたところに広い駐車場があったのですが,停まっていた車は私の車以外には1台だけでした。
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「北金ヶ沢の大イチョウ」は深浦町北金ケ沢塩見形に位置する大木で,推定樹齢1,000年以上,樹高31メートル,幹周りは22メートルもあります。
伝説によると,この地は,飛鳥時代の7世紀中ごろに,越国守・後将軍・大宰帥を歴任した武将で,658年(斉明天皇4年)に蝦夷に侵攻し比羅夫に従った蝦夷の首領のひとりだった安倍比羅夫が勧請した神社の境内で,創建した際にイチョウの苗が植えられたと伝えられています。
「北金ヶ沢の大イチョウ」には数多くの気根・乳垂があることから、赤子をもった母親の母乳の出がよくなると信仰され,「垂乳根の公孫樹」(たらちねのいちょう)とよばれるようになりました。周囲には多くの小祠や石仏が建立され,気根に御神酒と御米を奉納し祈願する風習は昭和50年代まで見かけたとされます。
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あまりに大きくて,全体を写真に入れるのに苦労しました。
大イチョウのとなりにJR五能線の線路があったので,列車と一緒に写真に収められたらいいなあ,と思ったのですが,2時間に1本程度しか走っていないので,それはムリな話でした。

その翌日。
私は,深浦町の民宿に泊まって,再びここまで戻ってきました。その途中で,何とJR五能線を走る列車を見ました。JR五能線の線路は国道101号線に沿っているのですが,列車は駅に停まるから車の方が若干早く,「北金ヶ沢の大イチョウ」のあたりで待っていれば,列車と大イチョウを一緒に写真に収められるのでは,と思いました。
それが,今日の1番目の写真です。

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弘前城から南西の場所に,多くの寺が集まった場所,禅林街がありました。
ここは寺町。2代藩主津軽信枚が弘前城の南西,風水でいう裏鬼門の方角の砦として,1610年に津軽一円の曹洞宗三十三か寺を集めたものです。
私は,弘前城から歩いて行ってのですが,けっこうな距離がありました。
寺町の入口には黒門と称する門がありました。
行ってみて驚いたのは,江戸時代に植えられたという杉並木が奥までずっと続いていた不思議な光景でした。観光案内所で,長勝寺だけは公開されているといわれたので,そこまで行ってみようと思いましたが,長勝寺は杉並木の一番奥にありました。
行ってみてはじめて知ったのですが,長勝寺は曹洞宗で津軽家の菩提寺で,1528年(大永8年)に鰺ヶ沢町に建立されたものを,1610年(慶長15年)に弘前城築城とともに現在地に移したのです。三門が境内を見守り,境内には鎌倉時代の梵鐘,歴代藩主や奥方の霊廟,本堂,庫裡などが並んでいました。
しかし,何か寂しげ。しかも,寂れた感がありました。ここでもまた,津軽家は尊敬されていないような感じがしました。

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南部家家臣の大浦為信(おおうらためのぶ)が戦国時代後期に南部家の内紛に乗じて津軽地方を統一し, 豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,本領安堵のお墨つきを貰って独立して津軽為信と改名し弘前藩の初代藩主となりました。
津軽為信はしたたかで,関ヶ原の戦いでは,自身は東軍につき,息子は西軍に属させて,どちらか一方が生き残って家名を絶やさないということをしました。
その一方で,家臣に裏切られた南部氏は津軽氏のことを快くは思っていませんでした。
津軽氏の独立から200年以上が過ぎた1821年(文政4年),南部盛岡藩士の下斗米秀之進(しもどまいひでのしん=相馬大作)らが,江戸から帰国途中の9代藩主津軽寧親(やすちか)を狙撃する事件を起こしたのです(相馬大作事件)。
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現在でも,青森県の南部地方と津軽地方の人間はソリが合わないのは,このような歴史の因縁が原因です。
津軽藩の石高は4万6千石。4代藩主津軽信政(のぶまさ)による新田開発で実質の石高は30万石近くあったといわれていますが,凶作が続き,藩士1,000人の大リストラを断行するなど,弘前藩は江戸時代を通してたびたび冷害・地震・津波・洪水といった天災に見舞われ、経済的に追いつめられることも多かったのです。
北辺の地は,ひとたび飢饉に見舞われると,藩の財政は奈落の底に突き落とされます。
コメは上方で現金化されていたから,いわば「コメ=現金」であり,コメが採れないとお金だけを借りることになるから,借金だけが増えて,財政が破綻してしまうのです。
そのようなわけで,天明の大飢饉では,飢饉にもかかわらず領民に米を回すことができず,領内で8万人の死者を出しました。津軽家の殿様は,石高を優先した政治を行ったために,相次ぐ飢饉によって,領民が不幸になっていったのです。
また,江戸時代末期には,異国船の来航などで蝦夷地の警備を任され,さらなる経済負担を生みました。
このような状況で,津軽藩は幕末を迎えましたが,戊辰戦争では,一度は奥羽越列藩同盟に属したもののすぐに脱退し,新政府軍側につきました。その結果,戦後に1万石が加増されたのですが,庄内藩や盛岡藩を敵にしたので,遺恨を残すことになりました。

司馬遼太郎さんが「街道をゆく」で次のように書いています。
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コメが,この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず ―西方の諸藩でさえ江戸中期以後,換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに― コメに偏執し,相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高30万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。
格式が高くなったぶんだけ江戸での経費がかさみ,農民の負担も重くなる。
コメ一辺倒政策の悲劇といっていい。
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私が購入した弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園の3施設共通券,弘前城の次に行ったのが,弘前城植物園でしたが,行く途中で見つけたのが日本一太いソメイヨシノ。これは環境省が実施している全国巨樹巨木林調査で日本最大幹周のソメイヨシノとされたものです。幹周は537センチメートル,樹高は10メートルです。少なくとも1901年(明治34年)には植栽されていたものと思われるので,推定樹齢は100年以上です。

1988年(昭和63年)に弘前公園三の丸の一角に開園した,面積7.65ヘクタール,1,500種124,000本の草木がある弘前城植物園は,弘前城内南東を囲う形となっていて,出入口は南案内所(追手門側)と北案内所(東門側)のふたつがあります。私は北案内所(東門側)に着きました。
入口からまっすぐに歩いて行くと,右手にボタン園がありました。さらに進むと年内中央に花時計がありました。1975年(昭和50年)製作のものです。そこを右手に折れると南案内所があって,その右手側白神山地生態園がありました。気軽に白神山地を観光できるようにと整備されたもので,156本のブナがあります。白神山地生態園を抜けて,植物園の端を回り込むと,大石武学流庭園が園内の南東にありました。
植物園は私以外にほとんど人がおらず,静寂が保たれていました。この時期は花も少なく,観光客は素通りするようでした。

弘前城植物園をでて,藤田記念庭園に向かいました。
藤田記念公園は弘前公園に隣接し,弘前市出身の藤田謙一氏が1921年(大正10年)に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園で,その後弘前市が市政施行百周年記念事業として整備し,平成3年に開園しました。総面積は約21,800平方メートルあって,東北地方では平泉毛越寺庭園に次ぐ大規模な庭園ということです。
ちょうどお昼だったので,きっとレストランがあるだろうと期待したのですが,ありました。それが「クラフト&和カフェ匠館」でした。建物は藤田謙一氏が建てた岩木山麓開発事業の事務所の倉庫で,これまで弘前市内から出土した遺物を中心に展示していた考古館でしたが,新たな観光拠点としてリニューアルオープンしたのものだそうですます。和をテーマにした喫茶スペースで,おばんざい定食を食べることができました。

昼食を終えて,園内を歩きました。
高さ13メートルの崖地をはさんで高台部と低地部にわかれていて,高台部は岩木山を眺望する借景式庭園で,洋館・和館・匠館が建ちならんでいました。また,低地部は池泉廻遊式庭園で,散策しながらハナショウブ,ツツジの群落,滝などの景趣の変化を楽しむことができるということですが,この時期は花がほとんど咲いていなかったのが残念でした。
ほとんど観光客もおらず,静かで豊かな時間が流れていきました。

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藤井聡太新名人誕生。
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弘前城を出て,そのあとは,観光案内所でもらった地図に従って,弘前城下を歩くことにしました。曇っていても,雨は降っておらず助かりました。
弘前城の北門(亀甲門)を出たところにあるのが石場家住宅でした。ここは江戸時代中期の建物で津軽地方の数少ない商家の遺構です。
さらに進むと弘前市仲町(なかちょう)伝統的建造物群保存地区となります。かつて武家屋敷が並んでいたところで,武家住宅や表門が点在し,サワラ生垣や板塀などがつくる江戸時代の敷地割りを今に伝えています。西側を閉鎖的に東側を開放的に作られているのは,岩木山からの西風や西日を避ける工夫です。4軒の住居が公開されていて,その中で,私は旧岩田家住宅を見学しました。

弘前城の東の端まで戻ってくると,そこにあったのが「津軽藩ねぷた村」でした。この観光施設では,弘前の夏の夜を彩る弘前ねぷたまつりや,津軽の民芸品,津軽三味線の生演奏,庭園などを見学することができます。私が入った時間は,ちょうど津軽三味線の生演奏がはじまった時間で,その迫力に感動しました。何事も生演奏はすごいものです。
建物を出たところにある広い庭は「揚亀園」といいます。明治時代の後期に小幡亭樹によって作庭された「大石武学流」の庭園だそうです。
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「大石武学流」と称される作庭流派の発祥は全く不明で,この地方の伝統的作庭の唯一の古典的手法となるものだそうです。 津軽地方における作庭の遺構で最も古いものは弘前城の三之丸のものとされています。この庭は,藩の「庭園守護職」であった山鹿八郎左衛門が関与したものと考えられていて,山鹿家が兵学の家でもあったことから「武学」の名がついたのでは,といわれています。ただし,大石武学という人物が実在したかどうは根拠が薄弱だそうです。
また,弘前市の瑞楽園に大石武学流と作庭者が明記したものが残されているということです。
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小堀遠州作の庭がブランド化されているのとおなじようなものでしょう。

私は,弘前城に入ったときに3施設共通券というものを購入しました。3施設というのは,弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園です。そこで,「津軽藩ねぷた村」を見た次に,私は,これらの施設で,すでに弘前城は見学したので,それ以外の2つの施設を見にいくことにしました。
弘前城植物園は弘前城の中にあるので,再び弘前城に向かって堀に沿って歩いていくと,サギの置物が松の枝に停まっているのが見えました。人の気配を感じると飛び立つのに,びくともしないから,置物かと思ったのです。しかし,観察していると,首が動くので,どうやら生きているようでした。
これほど警戒心のないサギ,私の家の近くにはいません。何かとても愉快になりました。

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私は,日本各地を訪れたときに,まず興味があるのが,江戸時代にその地を支配した殿様です。それは,現在の日本の姿は江戸時代に形作られたと思うからで,薩摩藩の島津家,長州藩の毛利家はいうに及ばず,加賀藩の前田家,水戸藩の徳川家,米沢藩の上杉家など,江戸時代に同じ家の殿様が続いていて安定した藩政を行っていたところは現在文化水準が高いのです。
まず,先に訪れた弘前市の観光案内所で,江戸時代の殿様はだれだったのか聞いてみたら,知らない,と言われて驚きました。弘前城に入ったところにあった博物館で再び聞いてみたら,弘前藩の殿様は津軽家だとわかりました。しかも,津軽家は国替えされることもなく,江戸時代ずっと続いていたのです。であるのに,この地方には,津軽家をリスペクトする雰囲気がないし,ほどんど知られていないのです。
私にはこれがとても意外でしたが,このことは,また,後で書きます。

幕末期,新政府と戦った東北地方の諸藩には天守が残っていません。これがほとんど天守が残っている四国地方との違いですが,弘前城は,東北地方で唯一天守が現存しています。これにも理由がありますが,このこともまた後で書きます。
弘前城は,初代弘前藩主の津軽為信(ためのぶ)によって計画され,2代藩主の津軽信枚(のぶひら)が完成させたものです。初代の天守は五層の壮大なものでしたが,落雷で焼失しました。現存の三層の天守は2代目ですが,天守は基本的に再建の許可は下りないので,1808年(文化5年)に幕府の許可を得てその2年後に櫓という名目で再建されたものです。
弘前城本丸東面の石垣は,1983年(昭和58年)に起きた日本海中部地震の際,石垣の膨らみである「はらみ」が明らかとなり,このまま放置すると天守が崩落してしまう可能性が指摘されたので,2008年(平成20年)から修理事業が進んでいます。まず,高さ2.5メートル,総重量約400トンの3階建て天守を本丸の内部へ約70メートル移動させて,天守北側平場の発掘調査,水濠の水抜きなどがからはじまり,石垣の修復が行われています。
工事の様子は木造の展望台が設置されていて眺めることができます。
また,移動した天守は中に入ることもできますが,展望デッキからは,曳屋で移動した天守と岩木山の見事な景観を望むことができます。
  ・・
天守が移動してしまっているので残念,と思うか,もともとの天守台の場所では絶対に見ることができない天守と岩木山の絶景や石垣修理の現場が見られる百年に一度の絶景! と考えるかは人それぞれでしょうが,天守が元の場所に戻ったらまた来てみたいものだと,私は思いました。

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この旅の2日目,2023年5月19日です。
朝は午前5時に千人風呂に行きました。こんな早くても,すでに5,6人の人が入浴していました。私も含めてお年寄りは朝は早起きなのです。私も,常日ごろから午前4時過ぎの起床です。
朝食が午前7時からだったのですが,それ以前にすでに並んでいました。日本いうバイキング,つまり,ビュッフェ形式で,私はこれが嫌いなのですが,致し方ありません。それでも早めに行ったので,座席を確保して,ゆったりと食事をすることができました。
食事を終えて,酸ヶ湯温泉をチェックアウトしました。
この日の目的地は,まずは弘前市,そして,青森県の西の海岸線に沿って,この日に予約した深浦の民宿まで行きます。天気予報は午前中なんとか雨が降らず,午後は天気が悪くなって雨,ということでした。前日はとても天気がよくて,奥入瀬渓谷も十和田湖も美しく見ることができたし,この日は弘前という都会の観光なので,まあ,よしとしますか。明日は天気も回復するということでした。

国道394号線は,むつ市から下北半島の東側を海岸線に沿って進み,小川原湖の北側を西に向かい,さらに青森県の中央部を進み,途中,八甲田山の北側を国道103号線と併用しながら黒石市へ行き,そこから国道102号線と併用しながら弘前市に至る国道です。
私は,この日の朝,酸ヶ湯温泉からこの国道394号を走っていました。その途中で渡ったのが城ヶ倉大橋でした。
このあたり,かつて城ヶ倉と沖揚平間は,城ヶ倉峡谷の急峻な地形を幅員狭く急勾配の九十九折りで越す難所でした。1974年,この部分をつけ替えて長大な城ヶ倉大橋を作ることになりました。そこで1995年にできたのがこの城ヶ倉大橋という,城ヶ倉峡谷を眼下に見下ろす長大なアーチ橋で,作られた当時は,上路式アーチ橋として,アーチ支間長が255メートルで日本一でした。
私は,当然,いつもの通り,そんなことはまったく知らず走っていたのですが,こりゃすごい,と橋のたもとにあった展望台に車を停めてしばし見入りました。
帰宅してから調べてみると,この場所は県内有数の景勝地で,城ヶ倉渓流の美しい景色をを見下ろすことができ,特に紅葉の時期になると真っ赤に染まり非常にきれいな場所なのだそうです。

このごろ,四国地方や紀伊半島などを走るようになって,日本にいかに山が多く,そこに道路を通すためにこうしたとんでもない橋やトンネルが無数にあることを知りました。また,今でも車がやっとすれちがえるようないわゆる「酷道」が山のようにあり,走っていると何とかならないものかと思ってしまうのですが,それを解消するためにこんな難工事ばかりを行っていれば,技術は進むことでしょうが,いくらお金があっても足らないだろうとも思います。また,今後の日本を考えたとき,維持できるかしら,と心配にもなります。
こうした絶景があると,オカルト好きのお人たちは,心霊スポットと騒ぎ立てます。この場所も, 飛び降りの名所で,青森県ではじめて新型コロナウィルスに感染した人が飛び降りただとか,そういう噂があるらしいです。私はまったく興味がないのですが,いやはや,という感じです。
私が通ったときはせっかくの絶景も霧っていたのが少し残念ではありました。

黒石市に入ると道路が広くなりました。このあたりは田んぼアートで有名なのだそうですが,今は時期でないので,何もありませんでした。さらに進むと,弘前市に到着しました。
弘前市は長年ずっと行きたかったところだったのですが,なかかな機会がありませんでした。
2020年の春に有名な弘前城の桜を見ようと名古屋・青森間の航空券を買ってあったのですが,直前になってコロナ禍が襲い,私はむしろ空いているから行く気満々だったのですが,飛行機が飛ばず,行くことができませんでした。今は桜の季節ではないのですが,ともかく,その3年後に弘前市に行くという念願はかないました。
弘前城のあたりは官庁街でした。どこかに車を停めて,半日観光をしようと思った矢先,西に美しく見えたのが岩木山でした。そこで,天気が崩れて見えなくなる前に岩木山の写真を写そうという気になって市街地を越えて岩木山が一望できる場所を探しに行くことにしました。そしてなんと見つけた場所で幻想的な写真を撮ることができました。

市街地に戻り,車を駐車場に停めて,まずは観光案内所に行きました。
事前に何も調べない私は,ともかく,その場所の観光案内所に行って情報を聞き,地図をもらうのです。観光案内所には弘前ねぷたが飾ってありました。
弘前の桜,例年はゴールデンウィーク直前のころが満開ということでしたが,今年は異常に早く,開花が4月8日だったそうです。
いろいろな情報を聞いて,そのあとは,徒歩で弘前市内を歩き回ることにしました。まずは弘前城。思った以上に広いお城の敷地でした。

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