しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:思えば私の原風景

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 「食わず嫌い」ではないけれど,私は,ほとんどのドラマを第1回から見はじめないのです。それは,番組の宣伝だけでつまらなそうだ,といった先入観をもってしまって,見るのを避けてしまうからです。今回の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」もそうでした。何を今さら英会話? と思いました。 しかし,一度,ふと何かの機会で見たときに,そのすばらしさにすっかりはまってしまいました。
 これはおもしろい。
 ということで,2020年にはまっていた「エール」以来何作目かで,また,朝が楽しみになりました。
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 「カムカムエヴリバディ」は,2021年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」第105作として,11月1日から放送されている日本のテレビドラマ。京都,岡山,大阪を舞台に,昭和から令和の3つの時代をラジオ英語講座と共に生きた祖母,母,娘の3世代のヒロインの一世紀(100年)におよぶ家族の物語をハートフルコメディーとして描く。
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ということですが,ドラマの感想は,いろんな人がいろいろと書いているので,ここではやめて,その代わりに,ラジオ英語会話番組の草分け「カムカムエヴリバディ」にちなんで,NHKのラジオ語学講座の思い出について書きます。

 私は,中学校1年生ではじめて英語を学んだとき,すすめられたのがNHKラジオ第2放送の「基礎英語」という番組でした。私は,毎日かかさずこうした講座を聴く,といった継続が得意なのです。現在に至るまで,多くのラジオ語学講座にお世話になりました。もともと能力が不足しているので身についたとはいえませんが,それでも,ほとんどお金をかけず,いろんなことを学びました。
 さて,私が12歳ではじめて聴いた「基礎英語」の講師は,調べてみると北村宗彬という慶応義塾大学の先生でした。と知ると,名前に憶えがあります。さらに調べてみると,北村宗彬先生に大学で習ったという人のブログがあって
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 (北村宗彬先生が言うには)英会話のためには文法なんて中2程度+(would like to などを含む)仮定法で十分だ(ということだった)。これは本当にそうだ。今,大学でこういう話を学生にすると大いに反発するのだが実際これで十分だ。そして,だからこれから「話す方法を学ぼう!」。
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と書かれてありました。この北村宗彬先生の「基礎英語」で聴いた中で今でも覚えているのは発音です。それは,英語には[オ]という短母音はなく,[ア]と[オー]のどちらかだと習ったことです。たとえば,longという単語は,[ロング]ではなく[ラング]だというわけです。
 ところで,私は,これもまたいつものように背伸びして,はやくそのあとに放送されていた「英語会話」という番組が聞けるようになりたいものだと思っていたのですが,その「英語会話」の前身が「カムカムエヴリバディ」だったのです。
 「カムカムエヴリバディ」は第2次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)2月から1951年(昭和26年)2月までは平川唯一さんが担当し,「カムカム英語」として親しまれたということは,私は,ずいぶん以前から知っていましたが,こうした番組がはじまると,そのときやっと脚光を浴び,マスコミが騒ぎ立て,終わるとともに忘れさられるというのがこの国のミーハー的社会の姿です。だから,いつも私はまたか,何やっとるの… と思ってしまうわけです。

 さて,中学校の2年生になった私は「基礎英語」を卒業して「続・基礎英語」に挑戦しました。「続・基礎英語」の講師は安田一郎という有名な人で,「基礎英語」とはうって変わって,文法重視,言い換え練習を繰り返す,リズミカル,かつ,ハードな番組でした。でも,ためになりました。初学者にはこうした練習が大切だったのでしょう。
 そんな「お勉強」中心だった「続・基礎英語」もそこそこに,中学校3年生で,待望の「英語会話」を背伸びして聞きはじめました。この番組はその後,ずっと聞き続けました。そのときの「英語会話」は松本亨という人が講師だったのですが,松本亨先生は 1951年(昭和26年)4月から1972年(昭和47年)3月までという21年間も「英語会話」を担当した英語教育のカリスマのような人でした。松本亨先生の次が東後勝明先生で,すごく発音がよかったのが印象に残っています。
 一般の人を対象としたこのころの「英語会話」という番組は,学校の英語とはまったく違った非常におおらかでのんびりしたものでした。私は英語の専門家になるわけでなく,語学というのはコミュニケーションが取れればいいというのが目標だったから,いわゆる受験英語とはまったく違ったこうした番組を楽しむことができたことがとてもよかったと,今にして確信します。

  ・・
 資格試験も入学試験も順位争いも無縁で語学の才能のまるでない私が「お前の英語は一般の日本人の話す(学校で習ったような)英語と違う」とネイティブに言われるブロークンな英語でもちゃんと意思の疎通ができて,海外に出かけては多くの友人と国籍も言葉の違いも関係なくお話をしたり食事を楽しんだりできるようになったのは,語学ならぬ語楽だったからこそであり,また,これぞ,こころがあれば通じるという「カムカムエヴリバディ」の流れをくむ初期のラジオ「英語会話」で知らず知らず身につけたコミュニケーション能力のたまものなのでした。
 思えば,これが私の原風景でした。
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 英語は勉強ということではじめるクセがついている
 それではダメです
 英語は口真似遊びという遊びで覚えないと大成しない
  平川唯一
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 今日の写真は,私が長年夢だったサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジとニューヨークのブルックリンブリッジを歩いたときのものです。

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 私が中学1年生のとき,つまり,今から50年前,はじめて学校で英語を学びました。ちょうどそのころ,アポロ11号が月に着陸したり,大阪で万国博覧会が開催されたりと,アメリカからいろんなものがやってきて,すごくあこがれました。
 大阪の万国博覧会にオズモンドブラザーズ(Osmonds Brothers)という人気グループが日本にやってきました。
  ・・
 オズモンド家は8男1女で,三男から六男までの4人でコーラスグループを結成,その後,七男のダニーが加わったのがオズモンドブラザーズでした。当時大スターだったアンディ・ウィリアムス(Howard Andrew Williams)のTVショーにレギュラー出演してアメリカのスターとなっていました。 来日したとき,長女マリー(Marie Osmond)と幼稚園児だった八男ジミー(Jimmy Osmond)が加わったカルピスのCMが放送され,ジミーは日本で日本語の歌のレコードも出しました。
 1970年11月,「オズモンズ」(The Osmonds)と改名して,ついに「ワン・バッド・アップル」(One Bad Apple)が全米で大ヒットしました。
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 One bad apple don't
 Spoil the whole bunch girl
 Oh, give it one more try
 Before you give up on love
  ・・
 ひとりの悪いコにだまされたとしても,みんなが悪いコじゃないよ。
 もう一度トライしたら…
  ・・・・・・
という歌詞です。
 この曲のヒットで,このグループはアメリカのショービジネスで生き残れたのですね。 私は当時大ファンだったで,「ワン・バッド・アップル」のレコードを買いました。この歌,今も歌えます。
 1970年の大阪万博を中学校の遠足で見にいったときに,偶然,彼らが万国博覧会のホールでやっていたアンディ・ウィルアムスのコンサートに出演していて,ショーの合間の時間に会場を歩いていたのを目撃したことがあります!
  ・・
 その後,七男と長女のダニー&マリー(Donny & Marie Osmond)という兄妹のTVショーが放送されてアメリカで人気を博したという噂を聞きましたが,来日はしませんでした。
 それ以来,日本ではまったく噂を聞かなくなって(実際はラスベガスで活躍していたらしいのですが),気になっていたのですが,なんと,2000年に私がアメリカに行ってロサンゼルスでベースボールを見たときに,始球式でダニー・オズモンドが出てきて驚きました。

 アンディ・ウィリアムスは日本でいえば加山雄三のような歌手で,映画「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)のテーマ曲「ムーンリバー」(Moon River)がヒットし,そのころ日本にもたびたび来日しました。紅白歌合戦にも出たことがあります。
 アメリカでは,そうした大スターが晩年,ミズーリ州のブランソンという町で常設の自分のシアターを作って,そこでショーを開いています。ブランソンにはそうしたシアターが一杯あります。アンディ・ウィリアムスもまた,晩年,ブランソンの「ムーンバーシアター」で連日ショーをやっていて,オズモンズも出演していたようです。
  ・・
 私は,何と偶然,2015年にブランソンに行ったのですが,その3年前にアンディ・ウィリアムスは亡くなっていて,ショーを見ることができませんでした。オズモンズはショーを続けていましたが,残念ながら,私の行ったときに限って,ショーがなく,見ることがかないませんでした。
 あとで知ったことには,2009年に歳をとったオズモンズは解散して,それ以降は若い3人だけで続けていたということです。だから,もし私が行ったときショーをやっていたとしても3人だけのオズモンズだったのでしょう。

 オズモンド家はモルモン教徒だったので,2009年のファイナルコンサートはユタ州のソルトレイクシティで行われました。そのときに歌った「ワン・バッド・アップル」の動画と若いときの動画を見比べると私は泣けてきます。これがアメリカンドリームを成し遂げた人生50年のすべてです。同じ年代だし,人生って短いんだよ。何かとても悲しい。
 ファイナルコンサートが行われたというソルトレイクシティの劇場もまた,私は偶然,2016年に行ったことがあるので,これもまた驚きでした。
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 こうして,私とは,もつれあい,しかし,微妙にすれちがった彼らのグループを思い出すと,切なくも懐かしくもなる,というお話でした。


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 アメリカではすごい野球をやっているというのを知ったのは「巨人の星」というアニメだと思うのですが,私がはじめてアメリカへ,というより,はじめて海外旅行をしたのは24歳のときだから,今から40年以上も前のことでした。皆目見当がつかなかったで,ツアー旅行でした。当時のお金で約30万円もしました。今の貨幣価値では60万円ほどになるでしょうか。
 行った先はロサンゼルスとサンフランシスコでした。
 行ってみたかったのは,はじめてアメリカに行くだれしもが同じように,ディズニーランドとドジャースタジアム。
 まだ,東京にディズニーランドがなかったころの話です。
 ベースボールの観戦も,当然,ツアーのオプションでした。チケットの何倍,いや,10倍もする料金をとられましたが,そうでもしなければ行く方法もないので,かなり足元を見られました。そのころの,というか,今もそうなのかもしれませんが,自分で行動する手段がない,そして,言葉がわからないということが原因で,ツアーで海外旅行に行くと,かなりぼったくられます。私がひとりで自由に海外に出かけるようになった今では考えられない初々しさでした。
 そのころの写真が手元にはないので,今日の写真は2018年に行ったときのものです。

 そして,そのときの旅が私の原風景となっているのですが,今でも強い印象として覚えていることがいくつかあります。
 そのひとつはドジャースタジアムのバカに広い駐車場でした。その駐車場も,当時は無料でしたが,現在はかなり高い駐車料金が必要です。車社会のアメリカでは,チケットよりも駐車料金のほうが高いくらいになってしまいました。
 二番目はスタンドの美しさでした。これもまた,今では広告だらけになってしまいましたが,当時はまったく広告もなく,日本の美的感覚のまるでない広告だらけの球場しか知らなかった私にはとても新鮮でした。
 そして三番目はピーナッツ売りのおじさんでした。お客さんがあえて遠くで声をかけると,ピーナッツ売りのおじさんがコントロールよろしく商品を投げてくれます。そして,お金はバケツリレーのごとく,お客さんが次々にピーナッツ売りのおじさんまで手渡しするのです。犯罪社会だと思っていたアメリカの意外な一面を知った気持ちがしました。実際のアメリカは大人も子供のまま,欲望のままに生きているまるで小学校のような国なのです。
 四番目はオルガンでした。いまはほとんどのボールパークではコンピュータミュージックに代わってしまいましたが,ドジャースタジアムでは今も時折やっているようです。
 そして,最後が,セブンスイニングストレッチでした。7回の表が終わると「Take Me Out to the Ballgame.」をみんなで歌うのですが,これは,今もやっています。私も今ではこの歌は歌えます。
 番外として,当時私が知っていたほぼ唯一のプレーヤーであったシンシナチレッズのピートローズ選手(Peter Edward "Pete" Rose Sr.)を見たことでした。ドジャースの対戦相手チームだったのです。

 あれからずいぶんして,2018年に再び,というか,それ以前にも確か2000年ごろにも一度行ったことはあったのですが,アメリカはそのときからずいぶんと様変わりをしてしまい,私はいろんな面で衝撃を受けています。
 思い出は美しすぎて,なのか,40年前のほうがずっとよかったように思うのは,単に私が歳をとったからなのでしょうか。

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 今日の1番目から4番目の写真は,すべてアメリカで写したものです。
 たびたび書いているように,毎日,日が暮れたころに散歩をするのが私の今の楽しみのひとつです。それはそれで気持ちがいいのですが,人のいない田んぼのあぜ道を歩いているときは別として,街中をあるいていると,ストレスもたまってきます。
 それは,この国の狭さと汚さがよりいやになってくるというのが理由です。
 新しく建てた家もたくさんあって,よく見るとそれぞれの家は凝った作りになっているのですが,日本の家のほとんどは,その家がまわりの景観にまったく溶け込んでいないのです。それぞれが勝手に作られていて,調和も何もない。そして,そうした家が建ちならでいる住宅街もまた,道路が途中でなくなっていたり,狭くなったり突然広くなったり,ガードレールがはげかけていたり,電柱が景観を阻害したり,さらには,道路は,はげかけたラインやら,でこぼこの舗装やらだし,突然歩道がなくなったり,交差点ごとに信号のシステムが違ったりとか,めっちゃくちゃなのです。汚いのです。都市計画もなにもあったものじゃない。
 こうした風景を見るにつけ,私がアメリカの郊外で見てきた清楚で美しい街並みを,アメリカで走った道路を思い出すと懐かしくなってくるのです。
 なんだこの違いは,という感じです。
 こうしたことを言うと,きまって「日本は狭いから」と言う人がいます。しかし,旧街道を歩けば,江戸時代の美しい街並みに出会えます。便利か不便かは別として,狭いなりに日本らしい美しい街を作ることはできるのです。

 日本で今,こんな住宅を巨額のローンを組んで建てる人は,海外の清楚で美しい住宅街を見たことがないのでしょう。また,こんな道路しかない国で,これもまた,高価な車を購入して,信号待ちだらけ,渋滞だらけのなかをのろのろと走っている人もまた,アメリカやオーストラリアでドライブした経験のない人なのでしょう。
 などと,私は,この国で家や車に散財する人を気の毒に思ってしまいます。そして,そんなことを思う私は,ますますこの国が嫌いになって,身の置き所に困るのです。
  ・・
 思えば,私は,ずっと,こんな美しい風景にあこがれて旅をしてきたように思います。いわば,私の原風景なのです。その結果,残念ながら,この国には私があこがれてきたこの風景を望むことは,根本的に無理だというあきらめしかなくなりました。で,旅に出るのです。
 しかし,今はそんな旅ができません。それが私がストレスから解放できない理由なのです。ああ。

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 以前,ブログに
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「宇宙大作戦」で最も印象に残っているのは,どの回だったのかは忘れましたが,ある惑星では,そこに生存する生物が進化しつくして肉体を超越してしまい,生命がエネルギーだけになったというものです。それは,当時,私が進化について思っていたことと同じだったので驚いたことがあります。「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)でも同じようなことを「モノリス」(Monoliths) として描いているらしいのですが,私はその映画を見たことがありません。
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と書きました。

 それがCSのスーパー!ドラマTVで5月15日に放送された第26話「クリンゴン帝国の侵略」(Errand of Mercy)だということがわかりました。
 物語の内容は
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 地球が属する惑星連邦とクリンゴン帝国の平和交渉が決裂し,ついに全面戦争に入った。カークたちは宇宙艦隊総司令部の命令で惑星オルガニアに急行する。このオルガニアは戦略上双方にとって重要な位置にあるため,クリンゴンの基地にされるのを阻止せよという命令だった。
 クリンゴン機からの奇襲攻撃をうけるが,これを退けたエンタープライズはオルガニアにやってくる。カークとスポックが上陸しオルガニアの議会との交渉に当たるが,議員たちにはまったく危機感がなかった。オルガニアの議会は惑星連邦に協力する気はないという。
 軌道上にクリンゴンの大艦隊が現れ,エンタープライズは撤退。惑星オルガニアにクリンゴン占領軍が押しよせる。カークとスポックは市民になりすまして抵抗活動をはじめるが,クリンゴンに対してゲリラ活動をするカークたちにオルガニアの議会は賛同しなかった。
 議会の会話は盗聴されており,カークの正体もばれてしまう。カーク達は捕らえられたが,オルガニアの議会に救出される。怒ったクリンゴンのコール司令官はオルガニア人の虐殺をはじめるが,だがそれでもオルガニアの議会は全く抵抗しようとはしなかった。
 カークとスポックは虐殺を止めるためクリンゴン司令部へ潜入し,コール司令官と対決するが,突然あらゆる武器が高温になり使用不可能になる。そこに現れたオルガニアの議長によると,軌道上の艦隊も同じ状態にあるという。
 オルガニア人は実ははるかに進化したエネルギー生命体だった。人の姿をしているのは仮の姿だったのだ。惑星連邦とクリンゴンの軍事力をどちらも使用不能にした彼らは,双方に撤退を要求する。圧倒的な力を持つ彼らの前には,惑星連邦のカークもクリンゴンのコールも引き下がるしかなかった。
  ・・・・・・
というものでした。

 このあと,「宇宙大作戦」はクリンゴン帝国との関りが強くなってので,この回では,クリンゴン人はじめてのお目見えという面で語られることが多く,私が印象に残っているという,オルガニア人が進化したエネルギー体だという面があまり語られていないのが残念です。
 しかし,私は,宇宙に進出しても人類は相変わらず戦いを繰り返してるだけという愚かな生き物であることに対して,オルガニア人がそれを超越した存在として描かれていることに興味を覚えます。
 「宇宙大作戦」は米ソ冷戦時代に作られたので,それをアイロニーとした内容が多く描かれているのですが,つくづく人間は争いが好きな生き物なのだなと感じてしまいます。
 この回の最後に
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 カーク:私達のような生物とはどういう意味だ。
 オルガニアの議長:実は何億年も昔,私達もやはり人類だった。だが身体を必要としない段階にまで進化した。いま諸君が見ているのは便宜上の姿。仮の姿だ。
 -オルガニア人の身体が光りはじめ,白い光球となった。そして消滅した。
 スポック:すばらしい。純エネルギーとは。純知能だ。実体がまったくない。理解を超越した生命です。
 カーク:この惑星はどうなんだ。あの町や建物やこの部屋は。
 スポック:やはり便宜的な姿でしょう。彼らには必要ありません。進化論から判断すると,我々人類は彼らオルガニア人から見れば恐らくアメーバ程度でしょうね。
 カーク:アメーバ同士が戦っても、虚しい限りだ。
 -カークに近づくスポック。
 スポック:あれからずっと何を考え込んでるんですか?
 カーク:反省してるんだ。戦いを止めようとしたオルガニア人をあんなに軽蔑して。人間は宇宙で最も優れた生物だと誰でも思っているんだろうがね? 見事に覆されたよ。
 スポック:船長。彼らは何億年の歳月をかけてやっとあそこまでになったんですよ。何も恥ずかしがることはないでしょう。我々は結局任務を果たしたんですからね。
 カーク:いやあとんでもない。我々にはそんな力などなかった。偉大なオルガニア人のおかげだ。
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というシーンがあるのですが,私には,つくづく,人類が非常になさけない生命に思えてなりませんでした。


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第30期将棋名人戦img_04EPSON001 (2)q1q2

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 確か小学校の3年生か4年生に将棋を覚えた私は,そのころ勉強などまったくしないで,将棋ばかりをやっていました。才能がなかったのが幸いで,将棋で身を亡ぼすことはありませんでしたが,今でも「観る将」として楽しめるのはそのころに凝ったおかげなのでしょう。
 当時,将棋のタイトル戦でもっとも権威のあった名人戦は朝日新聞の独占で,ABEMAもSNSもない時代,朝日新聞をとっていないと情報はほとんど手に入りませんでした。
 また,東京の有楽町の朝日新聞社前には,名人戦がはじまると大きな将棋盤が特設されて大盤解説をやっていたようですが,名古屋という田舎に住んでいた私には,東京なんてニューヨークより遠いところで,有楽町なんてまさに夢の世界でした。

 将棋欄の名人戦を見たいだけが本当の動機なのに,いろいろと屁理屈をつけて親を説得し,やっと我が家に朝日新聞が配達されるようになったのは1971年(昭和46年)4月のことでした。それは今からちょうど50年まえのことです。
 幸いにも,この年の第30期将棋名人戦は,最後の名人戦挑戦となった升田幸三・当時九段対時の絶対王者・大山康晴名人でした。
 第1局がはじまったのは,1971年(昭和46年)4月7日で,場所は東京・赤坂の「福田家」でした。確か,前日は雨の日でした。毎年,こうして,桜が咲き,春雨の降るころに将棋名人戦がはじまり,セミの鳴くころに終わるのですが,それは今も変わりません。
 「福田家」とか書いてあっても,それがどういうところなのか,想像もつきませんでした。料理旅館とは何ものぞ? 何か,すごいおとなの世界を垣間見たような気がして,ときめきました。

 第30期将棋名人戦は升田式石田流がさく裂して,奇しくも3勝4敗で敗れはしたものの,升田幸三九段が大山名人を一時は3勝2敗まで追いこんだ有名なタイトル戦なので,今でも,多くの書物などで語られています。そこで,第2局から第7局までの棋譜はいくらでも目にすることができます。特に,第3局は升田将棋の最高傑作といわれていて,△3五銀のただ捨ては「天来の妙手」となっています。
 しかし,どういうわけか,どこを探しても第1局がどこにも収録されていないのです。私もスクラップしてあったはずなのですが,いつの間にかどこかに失くしてしまいました。そこで,私は,この第1局を図書館に出かけて朝日新聞の縮尺版から探し出しました。その幻の第30期将棋名人戦第1局が今日の話題です。

 この将棋が歴史的に抹消されてしまっているような感じになっているのは,おそらく,第7局までもつれこんだことで,書物などにはあえて第1局を収めるスペースがないことと,第1局を削除するのは,この将棋だけがこの期の名人では凡局であり,特筆すべきものがなかったからでしょう。しかし,私には,初体験の将棋名人戦。いたるところに定跡とははなれた戦いがあって,へ~,名人戦というのは本にかかれてあるのとは違うこういう将棋を指すものだ,と感動した記憶があります。
 新聞の観戦記を読むと,66手目の△8六歩,そして,それに続く68手目の△7五歩という封じ手前の2手が指しすぎで,この先はもう後手の升田幸三九段は勝てない,とあります。当時の観戦記には最終譜に木村義男十四世名人の講評というがあって,そこにもそう書いてあったし,のち発売された将棋雑誌にも,そのように升田幸三九段が局後に語ったとあります。
 その将棋をAIで調べてみました。
 すると意外なことに,66手目や68手目は当時書かれていたような悪い手ではなく,さらに,その後の83手目まで升田幸三九段が優勢となって評価されるのです。AIによると,84手目の正解手は△3四桂ですが,実際の指し手は△7八銀成で,これで差が縮まりました。しかし,それでもまだ後手有利でしたが,問題は101手目の▲5七同銀に対する応手でした。ここで後手が△6五桂と指せばまだ有望だったのですが,△8八角成が大悪手で勝敗が決定したというのです。これがAIの結論でした。
 意外な結果でした。そんなこと,当時はどこにも書いていなかったし,だれも指摘しませんでした。
 大山・升田,そして,木村という大豪がいう話に口をはさむことができる人なんていないし,観戦記者はいわれたまま書いているだけだったのでしょう。

 先日,第79期将棋名人戦のA級順位戦,羽生善治九段と豊島将之九段戦で,128手目,豊島将之九段の指した△6五歩で,AIは先手の羽生善治九段が勝勢と判断している局面なのに,羽生善治九段が投了したということがありました。それだって,AIがなければわからなかったことです。
 また,それ以外の多くの対局をABAMAで見ていると,終盤戦になると,対局者も解説者も正解手がわからず指せず,1手指すごとに評価値がおそろしく揺れ動くという場面が多々みられます。AIの示す正解手どおりにほぼ指し手が選べるのは藤井聡太二冠だけです。つまり,AIと藤井聡太二冠だけが正解を知っている世界なのです。
 これが,人間の戦いのおもしろさというか,たかだか人間の能力はこの程度と考えるべきなのか,私には,さっぱりわかりません。いずれにしても,これまで,棋士が解説していたことが本当に正しかったのだろうか,という疑いだけが残ります。
 そこで,従来のように手の是非の解説をしていても言っていることに信憑性がないのだからそれを知ったところでむなしいだけなので,そうしたことはAIに譲り,人間は,経験に基づいて,対局者はこの局面ではどう考えているのか,感情的にどんな状況なのか,どんな心理状態なのか,といったような,人のこころの動きやら弱さやらに重点を置いて解説をしたほうが,より魅力的であるように私には思われます。

 新たにNHK杯の将棋トーナメントにもついにAIが導入されました。しかし,残念なことに,新聞の将棋欄を第30期将棋名人戦の将棋欄と比較すると,今の将棋欄は当時よりも文字が大きくなりその分文字数が減っただけで,50年前と何も変わらずです。これでは読む価値がありません。
  ・・
 話は飛躍しますが…。
 コロナ禍はさっさとワクチンを接種すればそれで解決するのにもかかわらず,ワクチンひとつ作れず認可もおそく輸入も後手にまわっているのに,それを棚に上げて,感染者が何人増えたとか減ったとかいう意味のない数字だけをあげつらい,自粛やら気のゆるみやらとグタグタと精神論を並べておいて,そのくせ,自分たちは懲りもせずに宴会やったり聖火リレーやったり,金鯱を降臨させて疫病退散を祈願しています。あげくの果てには策がなくなって,ついに「マンボウ」とかいうおさかなさんまで登場です。それは,大学合格者の数字で学校のレベルを測ることを未だに教育と勘違いしていたり,第2次世界大戦で竹やりで敵の飛行機を落とそうとかバケツリレーで火を消そうとかやがてはカミカゼが吹くとか,そういうのと同じ発想です。マスコミも同類です。そもそもこんな時期にオリンピックをやろうなんて,究極的な気のゆるみです。精神論で解決できるのなら科学技術は必要ありません。昔と何も変わらない懲りない国です。
 新聞の将棋欄の保守性もそれと同じなのでしょうか。

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 私が子供のころ,「宇宙大作戦」というドラマが放送されていました。「宇宙大作戦」とはまたダサい名前で,原題は「Star Trek」でしたが,当時はそんなことまったく知りませんでした。この時代,「スパイ大作戦」という人気のあるドラマがあって,これにあやかってつけたのだと思うのですが,そのころの日本の大人の垢抜けない趣向がわかります。
 蛇足ですが,「スパイ大作戦」もまた,原題は「Mission Impossible」です。「実行不可能な指令」という感じ。なお,「Star Trek」の「Trek」とは「困難な旅」という意味なので「星への困難な旅」ですが,「トレッキング」という言葉は日本語としても定着しています。
 「宇宙大作戦」はアメリカのSFテレビドラマで,NBC系列において1966年から1969年まで全3シーズンが放送されました。
 その後,劇場版やテレビ版の続編などが制作されましたが,私は劇場版や続編にはあまり興味がなかったので,ほとんど知りません。それは映画化された「Mission Imposible」もまた同様で,はじめにテレビで放映されたころの素朴さこそが場末の劇場で大衆演劇を見ているようで,しかも,想像力が掻き立てられるのでよかったのです。 
 コンピュータグラフィックなどを駆使することで,もともと現実にはありえないことにリアリティさを求めてしまうと,私はついていけなくなります。それに,宇宙人がキモかったし。

 そのオリジナル版の「宇宙大作戦」が今「スーパー!ドラマTV」 で土曜日の朝放映されているので,興味深く見ています。子供のころの記憶というのはすごいもので,今でも覚えていることがたくさんあります。
 まず,冒頭のナレーション
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 宇宙,それは人類に残された最後の開拓地である。そこには人類の想像を絶する新しい文明,新しい生命が待ち受けているに違いない。これは人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立った,宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の驚異に満ちた物語である。
  ・・・・・・
です。当時は二か国語放送がなかったので,元のセリフがわかりません。調べてみると,実際は
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 Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its five-year mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before.
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でした。
 話が脱線しますが,「スパイ大作戦」でも同様に
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 例によって,君,もしくは君のメンバーが捕えられ,あるいは殺されても,当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、このテープは自動的に消滅する。成功を祈る。
  ・・・・・・
という有名なセリフがありますが,これもまた調べてみると
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 As always, should you or any of your IM force be caught or killed, the Secretary will disavow any knowledge of your actions. This tape will self-destruct in five seconds. Good luck, Jim.
  ・・・・・・
でした。これは,以前ブログに書いたことがありますが,再掲しました。
 思えば,宇宙好きでアメリカ好きの私の原風景がこれでした。

 「宇宙大作戦」や「スパイ大作戦」を子供ころに見ていて,どうしても理解ができなかったのは,どうしてアメリカのドラマはこんなに暴力シーンが多いのかということと,やたらと偉い人が威張っているのかということ,そして,これほど冒険心が強いのか,ということでした。それからいろいろと経験して,これこそがアメリカなのだということがとてもよく理解できるようになりました。  
 そしてまた,「宇宙大作戦」で最も印象に残っているのは,どの回だったのかは忘れましたが,ある惑星では,そこに生存する生物が進化しつくして肉体を超越してしまい,生命がエネルギーだけになったというものです。それは,当時,私が進化について思っていたことと同じだったので驚いたことがあります。「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)でも同じようなことを「モノリス」(Monoliths) として描いているらしいのですが,私はその映画を見たことがありません。
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 私の世代はだれしも「宇宙大作戦」に夢中になったようです。
 1976年アメリカでスペースシャトルが開発されたとき,その1号機OV-101に, 1976年のアメリカ合衆国憲法発布200年を記念して「コンスティテューション」(Constitution=憲法)と名づけられる予定だったのが,「宇宙大作戦」に出てくる宇宙船「エンタープライズ」(Enterprise)の名前をつけてほしいという手紙が多数届けられたために,当時のジェラルド・R・フォード(Gerald Rudolph Ford Jr.)大統領によってこの名に替えられたということです。
 現在,スペースシャトル「エンタープライズ」はニューヨークの「イントレピッド海上航空宇宙博物館」(Intrepid Sea, Air & Space Museum)に展示されています。私も,2013年ニューヨークに行ったとき,この機体を見ることができました。

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 杉田敏さんが担当する「実践ビジネス英語」がこの3月をもって終了するそうです。
 この番組の前身は「やさしいビジネス英語」でした。1987年4月にはじまったのですが,私は,この番組をそのはじめから聴きました。今とは違って,月曜日から土曜日まで毎日20分間の放送で,毎日異なる内容でした。テキストも分厚く活字もとても小さなものでした。
 「やさしい」とは名ばかりでまったくやさしくなかったし,内容はとても濃いもので,今から思うと,よくもまあ,毎日聴いていたものだと思います。それも,録音して,速度を早くして,何度も何度も聴き返しました。テキストには真っ黒になるほど書き込みをしました。当時は知らない単語ばかりで,英語というのは,こんなに勉強しなければならないものなのかと思いました。たとえば,今は当たり前となった client など,そのころ日本ではまったくなじみがない単語だったのですが,そういった言葉をたくさん覚えました。
 思えば,この講座が私の英語の原風景だったのです。

 やがて,1996年以降は,10月から翌年の3月までは4月から9月までの再放送となり,実質,内容が半分に削減されました。そして,2002年4月からは,番組名が「ビジネス英会話」となり,放送時間も15分間に短縮されました。
 2003年3月,杉田敏さんはこの番組の講師を辞め,2003年4月からは、田中宏昌さんに代わり,放送の内容も,月と火,水と木,金と土は同内容といった現在のスタイルに変わりました。つまり,またその半分に削減されたわけです。そして,その翌年には講師が日向清人さんに代わりました。
 杉田敏さんの時事英語の要素満載のころとは内容も変わり,大学教養課程などの「ビジネス英語」,つまり,How to ものになり,それは私にはまったく興味のないものだったので,聴くのをやめました。実際,リスナーにも賛否両論があったようで,おそらく杉田敏さん待望論が高まったのでしょう。2004年10月から,再び杉田敏さんに講師が戻りました。その結果,日向清人さんは辞めさせられたのでしょう。その後,NHKの語学番組批判を繰り返すことになります。
 ともあれ,視聴者には杉田敏さんのカムバックが受け入れられて,それ以来,この3月まで長く続いたわけです。ただし,2008年4月からは名前が「実践ビジネス英語」となり,水,木,金の3日で放送されていました。そして,別の講師が担当する「入門ビジネス英語」がはじまりました。
 私は,このごろは,テキストもなく,単にインターネットから気が向いたときに聞き流すだけになりました。それでも十分にわかるようになったのは,私の英語力が伸びたというより,内容が簡単になったのだろうと理解しています。つまり,私には物足りなくなってしまっていたのです。

 アマゾンのこの講座のテキスト購入サイトに,次のようなコメントがありました。
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 今月で番組が終了と知り寂しい気持ちです。「やさしいビジネス英語」のころから,途中,中断は何度かありましたが,長い間本当にお世話になりました。「やさしいビジネス英語」ってタイトルなのに,私にとっては全然やさしくないレベルで何度も何度も繰り返し聞いてやっと理解できるものでしたが,このごろやっと、あれ? いつの間にかさらっと聞き流せるようになってる! と気がつきました。
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 やっと終わるか,いささか遅すぎたという感じ。
 「ビジネス英語」というわりには経済,先端テクノロジー,産業全般,国際情勢にまるで弱い内容で,正直,これを読んでる人ってどういう立場の人だろうといつも不思議に思っていた。
 現代の生の英語がバンバン飛び込んでくる環境で,お爺ちゃんどうしの茶飲み話のようなこの講座は存在価値がなくなっていた。
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 このふたつのコメントはともにまさに的を得て(「的を得る」は「的を射る」の誤用ではありません!)います。つまり,講座に対する要望が異なるのです。
 実は,番組名の「ビジネス英語」というのは,看板に偽りありで,時事英語を題材としたビニエット(Vignette)を聴いて,学校ではあまりなじみのないような単語を覚えるという番組なのです。だから,ビジネスの現場で英語を使いたいからという目的で聴いても役には立ちません。そういった,日本流のカルチャーセンターや資格試験のための講座ではなかったからです。むしろ,私のような,英語は,まったく仕事とは無関係で,単に暇つぶしの教養として,また,ときに海外旅行をするために必要なだけの人間には,とても頭の体操となるものでした。おそらく,今の聴視者の多くは,杉田敏さんとともに齢をとり,今となっては,私のような年寄りが暇つぶしに聴いているファンが多かったのだと思います。コメントで「これを読んでいる人ってどういう立場の人だろう」と不思議に思った人,こういう立場の人たちなのだよ。あなたもいつかは歳をとる,そのときわかる。老人は暇なのです。そして知識に飢えているのです。ただし,このごろは,杉田敏さんも,お若いころの新鮮さや内容の斬新さがないなあ,時代についていっていないなあとは感じていましたが…。

 いずれにしても,日本の,他人と比べ点数を争うような,あるいは,英語検定に合格することを英語力とみなすような,悪しき教育に毒された人たちからみれば,後者のコメントのような意見になるわけです。「ラジオ英会話」という番組もまた同様に,現在の「ラジオ英会話」は松本亨さんがやっていた流れをくんだおおらかな内容から,すっかり学校のお勉強講座と変わりました。その代わり,従来の「ラジオ英会話」は「英会話楽習」と名を変え,存続しているのが、わずかばかりのNHKの良心というものか。
 そもそも,語学に限らず,すべての能力は,基本は紙の上で学べても,その先は実践を積み,失敗し恥をかかなけれらば身につかないものです。点数で測れるものではないのです。しかし,そうした根本的なことがこの国ではわかっていないから,教育に金を出さない代わりに口を出し,入試改革ばかりに時間を割いて塾を繁盛させるといった,「お勉強」と称した点取り合戦となるわけです。その要望に応えるために,こうした講座もまた「お勉強」と化するのです。
 しかし,そうした日本の教育で「優秀」とされ「一流」の大学を出た人たちが作っているこの国の今日の劣化を見ても,それが正しくないということは容易にわかることと思います。おそらく,有事が起きても,紙の上の知識があるだけで,何もできないことでしょう。今のコロナ禍がそれを実証しています。それは,車がパンクしたとき,修理をする方法を本で学んで知っていても,実際に手を汚して直せないようなものと同じだからです。
 何はともあれ,受験もなく資格もいらない,しかし,金はなく時間ばかりが有り余る私のような現役を引退した不良老人にとって,「人生暇つぶし」の格好の番組がまたひとつなくなることが,寂しい限りです。

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 5月4日,突然
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Ichiro transitioning from field to front office. Iconic outfielder 'not retiring'; return next season possible.
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というニュースが駆け巡りました。
 2012年夏,イチロー選手が電撃的なトレードでニューヨークに去ってからも,シアトルのセイフコフィ-ルドにはイチロー選手の写真がそのまま残っていたし,お寿司の「イチロール」も販売されていたので,私は最終的にはシアトルに戻ってくると確信していたのですが,本人が50歳を過ぎても現役をやるといっているので,その処遇が心配でした。
 今シーズン,シアトルに戻ってきたとき,私はちょっと戻ってくるのが早かったかな? と思いました。「この次」のチームがないからです。
 そこで,この日の突然のニュースに驚くとともに私は安心もしました。これならばイチロー選手の矜持は保たれるし,彼の夢も続きます。

 私はメジャーリーグは大好きですが,日本の野球には全く興味がありません。あのけたたましい応援が大嫌いだからです。しかも何を勘違いしたのか,このごろはチェアリーダーさえ登場しているようです。メジャーで活躍できなくなって再び日本で現役を続けている選手たちにも全く興味がありません。私は,メジャーリーガーとしての選手に興味があるし,メジャーリーガーとしてのプライドを忘れてほしくないからです。
 そうした意味からも,イチロー選手には,絶対に何があっても日本に帰ってまでもプレーを続けてほしくありませんでしたが,その気持ちは,むしろイチロー選手のほうがずっと強かったと確信しています。それこそが彼の矜持だからです。

 イチロー選手がアメリカに渡ったのが2001年でした。早くも,というべきか,まだというべきか,それは今から17年前のことでした。今でこそ,私にはシアトルは隣町のようなところですが,17年前には,ものすごく遠いところでした。
 念願かなってイチロー選手を見ようとアメリカへ出かけることができたのは2004年のことでした。しかし,このときは,アメリカ上陸2日目にして交通事故に遭い,その願いがかなわず緊急帰国。ケガも癒えたその2年後に,ようやくシアトルで私はイチロー選手を見ることができました。

 それから月日が経ち,2012年の夏,私がちょうどアメリカを旅していたとき,ホテルのテレビで,ニューヨークへトレードという衝撃的なニュースが流れました。私は,ヤンキースが契約を更新してその翌年もイチロー選手がニューヨークにいるのなら見にいくと周囲に宣言して,実際,ニューヨークへ行きました。そうして私がヤンキースタジアムでイチロー選手を見たのは,偶然にもヤンキースでプレーした松井秀喜選手の引退試合で,この試合でイチロー選手は4打数4安打を打ち,私はそれを目撃しました。

 その3年後の2016年,今度はアメリカ50州制覇の夢を実現しようと,フロリダから東海岸をフィラデルフィアまで北上する旅に出かけたとき,これもまた偶然にも3,000本安打狂騒曲最中のマイアミで,マーリンズにトレードされたイチロー選手を見ることができました。残念ながら,3,000本安打をこの目で見ることはできなかったけれど,2,998本目の安打も「レーザービーム」も見ることができました。
 こうして,奇しくも,私はイチロー選手の属したすべてのチームで,しかも,すべてホームゲームでイチロー選手を見ることができたのです。

 思えば,私のアメリカ50州制覇はイチロー選手なくしてはなしえかなったようにも思えます。そしてまた,旅を通じて,多くの思い出や友人ができました。そうしたことからも,イチロー選手は私のアメリカ旅行の恩人といっても過言ではないのです。
 ニューヨークに行った2013年には,クーパーズタウンの野球殿堂にも寄りました。そこで,イチロー選手の数々の記録やユニフォーム,そしてバットが展示されているを見ました。ちょうどそこにいた子供に,私はこの選手の出身地から来たんだと誇らしげに自慢したのを思い出します。
 
 本人は引退でないと言っていますが,ひとつの時代が終わったのは事実でしょう。野茂投手が切り開き,イチロー選手の大活躍で日本人プレーヤーの存在が認知されたメジャーリーグには,今年,新たに大谷翔平選手が加わりました。「よき後継者を得た」という感じでしょうか。
 このニュースを知って,私も,新しい夢を求めて再びアメリカを旅したいと,そんな気持ちが沸き起こったことでした。

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2013アメリカ旅行記-野球殿堂へ①
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び①
特別編・2015夏アメリカ旅行LIVE PART2⑩
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日①

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