●一言も発しないバスの運転手●
昨晩まで宿泊したホテルの最寄りの地下鉄の駅には,地下鉄だけでなく,空港へ行く電車の駅もあった。ちょうど,東京の地下鉄の駅と私鉄の駅があるようなものだ。
私は,このときはじめて空港へ行く電車に乗ることになったが,駅の窓口に空港へ行く電車のチケット売り場があったのでそこでチケットを購入してホームに降りた。日本とは違って改札口というものはなく,車内で検札がくる。
やがて,ホームに電車が滑り込んできた。乗ってしまえば空港までは遠くない。しかし,治安が悪いというのではないが,どうも車内の雰囲気がよくなかった。これは客のせいなのであろうか? それとも,この電車の走っている場所柄のせいであろうか?
実際,ダウンタウンの西側はあまり風紀のよさそうなところでなかった。
私が今晩のホテルを空港の近くにしたのは,明日のフライトの時間がとても早かったからだが,ダウンタウンから空港までがこれほど便利だったのならダウンタウンにもう1泊すればよかった。
この日の晩予約したホテルは空港からは近かったが,それでも空港から歩いて行けるような距離ではなかった。そこで空港から路線バスに乗るのだが,その場所にはダウンタウンからもバスで行くことができて,しかもそのほうがずっと運賃が安かったから,私はよほどバスで行こうと思っていたが,もしそうしていたら,そのバスの通るところは,あまり風紀のよいところでなかったわけだ。
30分もかからず,電車は空港に近づいてきた。窓から右手に広い空港が見られるようになった。アメリカの空港はどこもあまりに広すぎて,ターミナルから歩いて外にでるなんて不可能である。だから,たとえ空港に隣接したホテルであっても,車がなくそこに行くのは不可能である。
やがて,電車は駅に到着した。
私はまず空港に行って,明日のフライトのチェックインを済ませて,カバンを預けて身軽になるつもりであった。しかし,フライトのチェックインはできたものの,カバンは前日では預けられないと言われたので,仕方なくカバンを転がして,事前に調べておいたように,この日宿泊の予約をしたホテルまで行くバスが停まるバス停に行くことになった。
ハワイ・ホノルルの空港も同じであるが,空港では,路線バスのバス停のある場所がなかなかわからなかった。アメリカでは路線バスなんて30分に1本来ればいいほうで,しかも時刻表すらないし,行き先も定かでなかった。
それでもまだ,フィラデルフィアよりもホノルルのほうがましだった。
どうにかバス停を見つけたが,わたしの乗るバスの番号には右まわりと左まわりの同じ行き先のものがあって,それだけでも混乱したのに,やはり,バスはなかなか来ない。バス停には2~3人バスを待っていた客がいたが,先に来た別方向のバスに乗っていってしまい,ついに私ひとりになった。
ようやく私の乗るべきバスがきた… と思った瞬間,バスは私を無視して,停車もしないで通りすぎていってしまった。
これを逃したら,さらに30分も待つわけだ。私は茫然とした。バスの進行方向には,ずっと向こうに,空港内の次のバス停があった。私はバスを追っかけて次のバス停まで行って,どうにかそこに停車していたバスに乗り込んだ。
しかし,このバスの運転手,バス停を出発しても,ひと言も発しない。しかも,バス停の案内放送すらない。これではどこで降りればよいのか,どこで降りるためのひもを引けばいいのかさえ,さっぱりわからない。信号すらないから,バスは停まりもしない。これではらちがあかないので,私は,運転中のこわもての運転手に降りたいバス停を告げた。しかし,なんの返事ももらえなかった。
不安でパニックになりそうになったころ,バスが突然停車して,運転手が私に,ここだ,と言ったのだった。
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2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑥
●フィラデルフィアの公共交通「セプタ」●
結論を先に書くと,私は数千円をケチったために,とんでもない状況に遭うこととなった。フィラデルフィアはダウンタウンから何の問題もなく公共交通機関で空港まで行くことができるのだった。つまり,私は、東京駅の近くのホテルに泊まって成田空港に行けばよかったのに,宿泊代が高いからと成田市のよくわならない場所に泊まったようなものであった。
このように,私はなんど同じ目にあっても懲りないのであろう。
アメリカでは「空港近くのホテル」というのがもっとも曲者なのである。たとえ近くであろうと,それは歩いて行けるような距離ではないのである。近いからといってタクシーを利用すれば数千円は吹っ飛んでしまうし,空港から送迎があると書いてあっても,送迎のバンを呼ぶ方法がホテルによって,また,空港によってまちまちだし,それを待っていると30分もかかってしまったりするからだ。
アメリカ到着後は,ともかくレンタカーを借りてしまうか,あるいは空港からは公共交通機関(これは鉄道に限る)の接続が便利ならば,それに乗って最寄りも駅から徒歩圏内にホテルを確保するに限るのだ。今回の私の泊まったような空港の近くのホテルの場合,ホテルから空港にはシャトルサービスがあるが,ホテルにはレンタカーで行くことができるか,あるいは,公共交通機関(鉄道に限る)で行くことができる場所に確保することが大切なのである。
いずれにしても,アメリカに到着した日と帰国する前日のホテル選びは慎重に行う必要がある。
そんなことは十分に知っていながら,私はこの旅で,到着した日のオーランドでホテル選びを失敗し,帰国前日のフィラデルフィアで2度目のミスをした。どちらもきちんと計画を立てていたのにも関わらず,である。
すでに書いたことだが,初日のオーランドは,空港のターミナルビルにホテルがあるからそこに泊まればよかったものを,数千円をけちったためにバカをみた。それでも,予定通り飛行機がオーランドに到着していれば,私の予約したホテルにバスで行くことができる見込みであったのに,飛行機の到着が遅れたために,すでに調べておいたバスはなく,タクシーに乗ったら望外な料金が取られた。そんなことなら,レンタカーを借りたほうがずっとまだマシだったのだ。
そして,帰国前日のこの日である。
こちらもまた,数千円をケチって,なにもわざわざ空港の近くのホテルに変わらずとも、フィラデルフィアのダウンタウンのホテルに連泊して,早朝空港に向かえばよかったのだ。
フィラデルフィアのダウンタウンから空港までは電車で1本,乗り換える必要もなく短時間で行くことができるのだった。
フィラデルフィアの公共交通機関はすべて「セプタ」というが,「セプタ」にはバスとトロリーと地下鉄がある。このうち,トロリーというのが日本人にはなにかピンとこないが,要するにに,これは1両編成の市電のようなものなのだ。
そしてまた,「セプタ」ではなく,郊外に走る電車もあって,これは日本の私鉄のようなものである。
・・
来てみれば簡単なことだが,ガイドブックを見ているだけではそれがよくわからない。おそらく,それは外国人が日本に来たときにも同じようにわからないものであろう。こうした「案配」というのが,旅をする前にいくら本を読んでもわからないことで,実際に旅をしなくては納得ができないのである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑤
●レディングターミナルマーケット●
私はこうして,ついに,念願の「自由の鐘」に会うことができた。その後,独立記念館,国会議事堂のツアーにも参加して,インディペンデンス国立歴史公園の見学を終えた。
今回の私の旅はフロリダからはじまって,ずいぶん長い距離であった。フィラデルフィアにはやっと行くことができたが,これで,ずっと行きたかったところへはすべて行くことができた。
ホテルに戻る前に,インディペンデンス観光案内所に寄り,そこで売っていたサンドイッチをお昼ご飯として食べた。しかし,結果的にこれはちと早まった。
この日の予定はこれで終わりだった。この後はホテルに戻ってクロークに預けてあった荷物を引き取り,今日の宿泊先である空港の近くのホテルまで行ってチェックインをするだけであった。
それで,この旅は終了である。
しかし,ホテルに戻るにはまだ時間が早かったので,その途中にあって,ずっと気になっていたレディングターミナルマーケット(Reading Terminal Market)へ寄ることにした。
行ってみてわかったことだが,このレディングターミナルマーケットこそが,実にフィラデルフィアらしい,というか,この街でもっとも魅力的な場所であった。もし,私がここに行かずに帰国していたら,フィラデルフィアに関する印象はずいぶんと違ったものであったことだろう。
このマーケットは,これまで私が行ったアメリカの他の都会にはなかったものだった。ここはまるで日本にいるような,築地の場外というか上野のアメ横というか,そんな感じの場所であったのだ。
レディングターミナルマーケットというのは120年以上の歴史をもつ地元民のための市場である。
近くの農家から直送された野菜や果物,魚介類,肉,パン,スイーツ,チーズ,ワインに生花と,ありとあらゆるものがこのマーケットでは販売されていた。さらに,マーケットだけでなく,ここには非常に多くのフードコートがあって,ありとあらゆる食べ物を安価に食べることができる場所であった。
つまり,フィラデルフィアで昼食をとるには,ここに来ればよいのである。
このとき,私はすでにインディペンデンス観光案内所で手っ取り早い昼食を済ませてしまっていたことをずいぶんと後悔した。ここなら,もっと種類が豊富でしかも安価な昼食をとることができたのだった。
もし日本人がフィラデルフィアに住むのなら,このマーケットの存在さえ知っていれば,何の心配もないことであろう。そうしたことから,ここに住む日本の人が書いたこのマーケットでおすすめの食べ物などの情報がネットにあふれているから,探してみると面白いと思う。
昔,ニューオリンズに行ったとき,ニューオリンズを知らずしてアメリカは語れないなあ,つまり,ニューオリンズがアメリカの他の都市とはあまりに違うことに驚いたのだが,このマーケットもまた,アメリカの他の都市にはないものであった。
今日では,日本はもちろんのこと,アメリカでもどの都会に行っても,同じようなチェーン店ばかりになってしまって,わざわざその町に行く意味がなくなってしまったが,こうしたローカル色あふれる場所に行ってこそ,旅で出かける価値があるといいうものであろう。
私はこのマーケットをしばらく散策してから,市庁舎まで歩いて行った。
市庁舎の広場では不思議なものを見た。それは,子供のおもちゃ自動車に乗って奇声を発している男であった。彼の服装から見て,ガードマンなのであろうか,あるいは警官なのであろうか?
馬鹿げていたのは,彼は自分のやっていることを録画していたことであった。そして,その横で同じ制服を着た男が冷たい視線を投げかけていた。もし,日本でこれと同じことをやれば,彼は即座に懲戒免職になったことであろう。
いったいあれは何をしようとしていたのであろうか?
それはそれとして,この日もまた,ものすごく暑い日であった。市庁舎前の広場は地面から水が出ていて,ミニプールのようになっていた。そこで,子供を遊ばせている母親がずいぶんといた。
私は,今やもう,アメリカだけでなく,日本もまた,観光地といわれる都会に行くことにはまったく魅力を感じなくなっていて,それよりも,そこに住んでいる人たちの暮らしぶりのほうにずっと興味がある。それとともに,私がもし,こういうところに生まれて,ここにいる母親だったら…… などと考えるようになってきた。
フィラデルフィアという都会がどういうところかを語るほど私はここに滞在していないが,アメリカのメガロポリスとよばれる東海岸の都会の中では,最も日本人の暮らしやすいところのように思えた。
さて,私の長い旅もこれで終わるのだが,この後もまだ大変なことが起きるのでであった。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア④
●独立記念館と国会議事堂●
世界遺産でもあるアメリカの独立記念(Independence Hall)は,アメリカの独立宣言が行われた場所である。もとはペンシルヴァニア州の議事堂として使用されていたが,1776年7月4日,この場所で13の植民地の代表が集まってトーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言書にサインすることでイギリスからの独立宣言が行われた。さらに,1987年にはアメリカの合衆国憲法が制定された。
1979年,独立記念館はそのことの歴史的な重要な証となるという理由から世界遺産に登録された。
独立記念館は赤煉瓦造りの美しい2階建ての建物で,記念館前の銅像は初代大統領のジョージ・ワシントンである。
内部を見学するにはガイドツアーに参加する必要があって,私は当日の朝,この整理券を手に入れ,ツアーの開始前に,まず,リバティセンターで自由の鐘を見学したことは前回書いた。
いよいよツアーの開始時間が近づいたので,集合場所である敷地内のイーストウイング(East Wing)に行って並んだ。周りの人と雑談をしているうちに時間になったので誘導されて館内に入り,最初に大きな部屋でガイドから独立記念館についての説明を聞いた。
次に向かった部屋が,ツアーのハイライトである独立宣言が採択されアメリカ植民地13州の代表が独立宣言に署名した「署名の間」,緑色で統一された室内であった。ここにはデスクの上に紙や本などが置かれ,当時の様子が再現されていた。ガイドがパネル等を用いていろいろと説明した。
ガイドが,13州がそれぞれどのイスに座ったかという話をしているなかで,ここはカリフォルニア州の席,といういうジョークが飛びだしたりする面白い説明であった。無論,独立13州にカルフォルニア州はない。
廊下や階段部分は青色が使われていた。
ツアーを終えて外に出て,次に向かったのが国会議事堂であった。
フィラデルフィアは1790年から1800年のわずか10年間であったがアメリカ合衆国の首都だった。このときに国の議事堂としても使用されたのがこの建物で,議員数が少なかった当時「元老院」が2階を議場として使用し,議員数の多かった代議院が1階を議場として使用したことが現在の「上院」と「下院」という呼び名の語源である。
この国会議事堂(Congress Hall)は,1789年に「フィラデルフィア郡裁判所」として建設された。ここはイングランド植民地時代の典型的な建築物であるジョージア王朝様式の重厚な外観である。
国会議事堂は,初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の2期目と,第2代大統領ジョン・アダムス(John Adams)の就任式が開かれた場所としても知られている。
私は,日本の国会議事堂のなかにはいったこともなければ,県議会議事堂すら見たこともない。
しかし,これまでに,外国からの旅行者であるのに,こうしてここフィラデルフィアの旧議事堂も,そして,ワシントンの現在の国会議事堂も,そして,多くの州の州議会議事堂もなかにはいることができた。こうした議事堂の内部を見学する度に,日本の民主主義が見せかけだけの借り物であると強く感じて,それをとてもはずかしく思うのである。それは,日本の議員の問題ではなく,古来より国民に根付く根本的な考え方自体が「権力=お上」という江戸時代の殿様国家と変わらないものだからである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア③
●アメリカ独立の偶像「自由の鐘」●
インディペンデンス国立歴史公園(Independence National Historical Park)には,大統領の家跡,リバティベルセンター(Liberty Bell Center),独立記念館,国会議事堂があって,無料ツアーの整理券はインディペンデンス観光案内所で8時30分から配布されるが,観光シーズンはとても混んでいるということなので,私は8時30分以前に並んで整理券を受け取ることにした。
歴史公園に行ってみると,さほど広くはなかったが,アメリカの他の国立公園同様に手入れの行き届いたとても美しいところであった。さすがに時間が早かったのですぐに整理券を受けとることができた。
次に,私はリバティベルセンターに行った。リバティベルセンターの開館は9時で,まだだれも並んでいなかった。
アメリカの観光地は非常に混雑はしているが,開館前から並ぶというようなせっかちな人は日本とは違い多くない。私は,この旅でやりたいことのほとんどを成し遂げて,最後に残ったのが,この建物のなかにある「自由の鐘」であったから気が急いていた。
やがて,開館時間になって私は館内に入ったが,目的の「自由の鐘」は建物の一番奥にあった。その間には自由の鐘に関するさまざまな展示があったが,私はそれを素通りして,どんどん進んで,ともかく,自由の鐘の前までたどり着いた。
「自由の鐘」(Liberty Bell)はアメリカの独立と並び,アメリカ独立戦争を連想する上で最も突出したシンボルのひとつであるといわれる。また,独立,奴隷制の廃止,合衆国内の国民性と自由において最も親しみのある象徴のひとつでもあり,国際的な自由の偶像としても用いられてきた。
1774年に行われた大陸会議の開催,1775年に勃発したレキシントン・コンコードの戦いの始まりを知らせるために鳴らされてたこの鐘は,1776年7月8日,フィラデルフィアの市民をアメリカ独立宣言の朗読へと招集させるために鳴り響いた。
「自由の鐘」には
・・・・・・
PROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE INHABITANTS THEREOF LEV. XXV X.
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全地上と住む者全てに自由を宣言せよ
レビ記25:10
・・・・・・
その下には
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BY ORDER OF THE ASSEMBLY OF THE PROVINCE OF PENNSYLVANIA FOR THE STATE HOUSE IN PHILADA
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ペンシルベニア州議会の命令によりフィラデルフィア議会議事堂へ
・・・・・・
更にその下には
・・・・・・
PASS AND STOW
PHILADA
MDCCLIII
・・
パスとストウ(鐘の製作者名)
フィラデルフィア
1753年
・・・・・・
という銘文が刻まれている。刻印の原典は旧約聖書におけるレビ記の25章第10節によるものである。
この「自由の鐘」は,1751年に,ペンシルベニア州議事堂での使用を目的としてロンドンにある鐘メーカーのホワイトチャペル社により製作された。1753年「自由の鐘」は議事堂外側の中庭広場に吊り下げられたのだが,はじめて鳴らされた際にひびが入ってしまった。
この鐘を撤去する間,「自由の鐘」はフィラデルフィアに住んでいたジョン・パスとジョン・ストウによって再び鋳造されたが,完成した新しい鐘の音は満足のゆかないものであった。そこで再び鐘の製造に取り掛かり,3番目となる鐘が1753年に議事堂の尖塔に掛けられた。
アメリカ独立の初期,「自由の鐘」はペンシルベニア議事堂の尖塔に依然として吊り下げられたままであったが,1777年,アメリカ独立戦争が激しさを増し,鐘はペンシルベニア州の村ノーザンプトンタウンへと移された。19世紀,「自由の鐘」は1804年にアレクサンダー・ハミルトンの死を,1824年にフィラデルフィアへのラファイエットの帰還を,1826年にジョン・アダムズとトマス・ジェファーソンの死を,1832年にジョージ・ワシントンの生誕100周年記念を,そして1834年にラファイエットの死を,さらに1835年にジョン・マーシャルの死を,1841年にウィリアム・ハリソンの死を告げるために鳴らされた。
2回目にひびが入ったのがいつであるか確かではないが,鐘は1846年2月に修理された記録が残っている。それは,1846年2月22日のことである。「自由の鐘」はジョージ・ワシントンの誕生日を祝って独立記念館の尖塔で数時間に渡って鳴らされたが,鐘が鳴らされた際に割れ目部分の上部から鐘の冠の部分まで亀裂が広がってしまい,使用不能になってしまったのだった。
現在もその表面に痛々しく残るその亀裂は修復が施された痕跡であって,当時できた割れ目そのものではない。1852年,鐘はそれまで吊り下げられていた尖塔から移動され,独立記念館内の「独立宣言室」に展示されることとなった。1885年から1915年まで「自由の鐘」は数多くの都市を訪れ,国際博覧会でも展示されたが,1930年代になると,鐘をあちこちへ移動させるにはあまりにも危険であるとの結論が下され,この慣行は終わりを告げた。
1976年,アメリカ独立200周年記念期間のことである。増加すると思われる観光客を予期して「自由の鐘」は再び独立記念館からガラスパビリオンに移された。しかし,このパビリオンはあまり人気がなかったので,2003年に開場となるより大きなパビリオン創設の計画が立てられた。そして「自由の鐘」は南西側近隣に新しく建設されたパビリオンであるこのリバティベルセンターへ移動されて現在に至るのである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア②
●ここはアメリカの「美観地区」●
朝食を終えても独立記念館のツアーの整理券を配布する時間にはまだ余裕があったので,オールドシティ地区を散策することにした。
ここはヨーロッパでいうところの旧市街であり,京都の祇園や高山の歴史地区,あるいは,倉敷の美観地区のような感じの場所であった。
ここにはアメリカ建国初期の史跡が数多くあり,すべて徒歩圏内で,こじんまりとした美しい場所であった。アメリカのこうしたところは概して治安が悪かったりするが,ここはそうしたこともないとても素晴らしいところであった。
近年,外国人観光客だらけで情緒を失った -日本はすべて金儲けが目的だから,そういうところにはやたらと店ができたりして,ますます落ち着いた雰囲気がなくなるが- 京都や高山よりも,ずっと落ち着いたところであった。赤煉瓦が美しい古い街並みで,建国時のアメリカにタイムスリップしたかのような気持ちになれた。
この一角はデラウエア川(Delaware River)が真近に迫っている狭い場所だが,そのなかでももっと東側,つまり,川に近い場所がエルフレス小径(Elfeth's Alley)である。石畳のエルフレス小径は1720年から1830年に造られたとされる現存するアメリカ最古の住宅街である。
道の両脇には赤煉瓦で統一された可愛らしい家々が30軒ほど並んでいる。現在でも普通の住居として一般人が居住している。
エルフレス小路から歴史公園の方向に少し歩いていくと,ベッツィ・ロスの家(Betsy Ross House)がある。
ベッツィ・ロスは初めて星条旗を縫った女性として有名で,現在は彼女の家が史跡になっている。家の外には昔のアメリカの星条旗が掲げられていて,その星のデザインは今より数が少なく独立当時の13個である。
アメリカは13の州から独立したわけだが,国旗のcanton(右上の小区画)に描かれた星が州の数を表していて,それが次第に増えていくというアイデアははじめからそのように考えられたものなのだろうか? と私は疑問に思った。
この史跡は博物館になっていて,有料で見学することができる。当時の裁縫道具やキッチン用具が展示されているということだったが,時間が早かったので,私は入ることができなかった。
星条旗は独立戦争時にフィラデルフィアでベッツィ・ロスが裁縫したものが始まりだといわれているが,ベッツィ・ロスが最初のアメリカの国旗を作ったということは歴史上資料では証明されていない。それは,ベッツィ・ロスの孫のウイリアム・キャンビー(William Canby)が11歳の時に,ベッツィ・ロスから「自分の夫の兄ジョージ・ロスがアメリカの国旗を作る必要性を痛感していたジョージ・ワシントンの意を受けてロバート・モリスと一緒にアメリカの国旗を作るよう頼みにやってきた。そしてcantonに13個の五芒星を円形にあしらった国旗を作った」というのを聞いたと証言したことによる。
独立戦争当時,アメリカでは国旗が国作りに必要とは考えられていなかったようである。独立戦争が拡大し植民地共通の旗の必要性が叫ばれるようになってできあがったのが,cantonの部分にイギリスの国旗が組み込まれ,残りの部分に13本のストライプが組み込まれた「大陸旗」とよばれるものであった。
その後,大陸会議が1777年6月14日に「合衆国国旗は赤白交互の13本のストライプからなりcantonには青地に白色の星座をつくるべし」という決議を行った。この決議をした議員たちにはcantonの部分の白色の星の円形の置き方について共通理解があったといわれ,また,cantonの部分に13の白色の星を円形に並べたのはフランシス・ホプキンソン(Francis Hopkinson)という人物のデザインであったことはわかっている。
その2か月後に国旗制定の記事がアメリカ各地の新聞に掲載されアメリカ国旗は人々に認知された。そのころの国旗は「条星旗」(Stripes and Stars)と呼ばれ,現在とは異なって星よりもストライプの方が重要とみなされていた。
国旗が有名になったのはフランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)が1814年に「星条旗」(The Star-Spangled Banner)という愛国歌を作詞してからである。そして,南北戦争で国旗は「市民宗教」の最高位に登りつめ,国旗崇拝の運動が高まり,1880年代から20世紀初頭にかけて国旗はアメリカのすべての公立学校に置かれ「忠誠の誓い」(Pledge of Allegiance)で称えられた。
・・・・・・
Pledge of Allegiance
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
忠誠の誓い
私はアメリカ合衆国国旗とそれが象徴する万民のための自由と正義を備えた神の下の分割すべからざる国家である共和国に忠誠を誓う
・・・・・・
1924年の全国国旗会議で国旗の礼式に関する民用規定が決まり,そこで星条旗のデザインが確定しアメリカ国民の愛国心の中枢に位置するようになった。
さらに歴史公園に向かっていくと,ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)の墓があった。
ベンジャミン・フランクリンはアメリカ建国の父のひとりであり,現在の100ドル札にも描かれている。
ここもまた,墓地に入るのには入場料が必要なのだが,墓は墓地の柵の隣にあるので柵越しに外から見学することができる。並んだ隣には夫人が眠っているということである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア①
●食べることに関しては…●
☆15日目 8月10日(水)
今日の夕方にフィラデルフィアの空港近くのホテルに移って,明日の朝には帰国の途に着くので,今日が実質最終日であった。
この旅の35年前に,生まれてはじめてのひとり旅でアメリカ東海岸に来たとき,グレイハウンドバスでボストン,ニューヨーク,ワシントンDCと移動したが,ワシントンDCとニューヨークの間にあるフィラデルフィアへ行かなかったことをずっと後悔していた。
今回,フィラデルフィアで見たかったのは,先に書いた映画「ロッキー」の銅像と「自由の鐘」であったが,35年前にはロッキーの銅像はなかったから,今回行くことができて,逆によかった。
旅をするには順序というものがあるようで,私はそうした運に恵まれているようなのだ。
たとえば,南十字が見たいために,私はまず,ハワイ島のマウナケアを目指した。その次にニュージーランドのテカポ湖に行き,そして,ハワイ・マウイ島へ行き,その後でオーストラリアへ行った。何も深く考えてなかったが,もし,はじめにオーストラリアへ行ってしまっていたら,きっとニュージーランドへ行くことはなかったであろう。また,ハワイ島より先にマウイ島へ行っていたらハワイ島で南十字を見ることもなかったであろうし,マウナケア山にも登っていなかったであろう。
それよりもなによりも,アメリカ50州制覇の前にニュージーランドへ行ってたらアメリカ50州の制覇などしなかったに違いない。
話を戻して…。
混雑するという「自由の鐘」を見るには,開館前に行くべきだと思ったので,早朝,ホテルを出ることにした。アメリカの大都市の観光地は,どこも混んでいるから,なるべく早く開館前に到着するに限るのである。
私はホテルをチェックアウトしてカバンをクロークに預けた。車を使わない旅というのは,カバンの処遇が一番の問題なのだ。
日本の観光地でも,大きなボストンバッグをもって旅をしている外国人を見かけるが,一時預かりやコインロッカーを知らないのに違いない。アメリカでも35年前に旅をしたときは確かにコインロッカーが存在したが,考えてみれば,これほどセキュリティ上危険なものはないから,今は存在しないのではないか?
さて,私は,地下鉄に乗って数ブロック,この自由の鐘がある歴史地区に到着した。フィラデルフィアは非常に狭いところにこうした歴史地区があるので,歩いて観光するのが楽であった。
少し到着するのが早すぎたが,幸い,地下鉄の駅を出たところに,非常に安価に朝食をとることのできるレストランがたくさんあったから,私は,その1軒でかつてないデラックスな朝食をとることができた。
フィラデルフィアは食べることに関してはアメリカ有数の都会なのであった。