しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:斎藤茂吉

米沢市から山形市に戻る途中で,私は,上山市にあった斎藤茂吉記念館に寄ることにしました。
私は,斎藤茂吉の次男である作家・北杜夫に若いころから興味があって,ずいぶん多くの作品を読みました。そして,斎藤茂吉を知りました。
しかし,どうして山形県の上山に? ということがわかりませんでした。
私は昔,斎藤茂吉は山形出身だとこのブログに書いたことがあるのです。それをすっかり忘れていたのは,その当時,山形というところにまったく想い入れがなかったことにあるのでしょう。
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斎藤茂吉は1882年(明治15年)に,守谷伝右衛門熊次郎の三男として,山形県南村山郡金瓶村,現在の上山市金瓶に生まれ,1953年(昭和28年)に亡くなった歌人であり精神科医でした。
守谷家は経済面の余裕がなく,守谷茂吉は,東京・浅草で跡継ぎのなかった同郷の精神科医・斎藤紀一の家に養子にいき,斎藤茂吉となったわけです。
斎藤茂吉が精神科医として青山脳病院の院長を務めたことは,北杜夫の小説「楡家の人々」に描かれています。
長男は精神科医の斎藤茂太さんです。
妻の斎藤輝子さんの晩年は,オペラで世界中を駆け回った人として数々のエッセイを残したので有名でした。私も強く記憶に残っています。
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ということで,斎藤茂吉が生まれたのが上山市だったのです。

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上山市にある斎藤茂吉記念館は,開館当時は大久保傳藏元山形市長の個人コレクションを中心に茂吉の遺族らから寄贈品も受け展示を行いました。その後,収蔵資料の充実が図られ,現在は斎藤茂吉が残した業績に関連する資料や斎藤茂吉の生活を伝える書画などを展示しています。
2003年に斎藤茂吉没後50周年記念として展示設備を新たにし,2018年には開館50周年を記念してリニューアルオープンしました。
斎藤茂吉記念館は,明治天皇が東北巡幸に際に小休止したことに因む「みゆき公園」に位置し,公園内には斎藤茂吉が箱根山荘勉強部屋とよんだ箱根の別荘の離れが移築されているほか,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭が復元されています。
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このような博物館や美術館は各地にありますが,できたときはすばらしくとも,維持に困っている様がうかがわれるところも少なくありません。これもまた,日本らしいというか…。
しかし,斎藤家はかなりのお金持ちらしく,この記念館が今も美しく維持されているのは,おそらく,斎藤家のバックアップがあるからでしょう。

国道13号線を南から北に走っていくと,上山市街を越えたあたりの交差点で斎藤茂吉記念館の道路標示がありました。標示にしたがって左折してしばらく走ると,広い駐車場に着きました。
車を停めてさて行こうと思ったら,あいにく水曜日は休館でした。
いろいろツキにめぐまれることが多い私ですが,たまにはこういうことがあります。しかし,おそらく,私は,近いうちにまたここに来ることになりそうです。いつもそんな塩梅で,結局は行くことになるのです。
休館ではありましたが,建物の外観や建物のある「みゆき公園」にあった箱根の別荘の離れや,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭は見ることができました。
また,「みゆき公園」は高台にあるので,遠くの景色を眺めることができました。
斎藤茂吉記念館はすばらしい環境の場所にありました。
斎藤茂吉記念館はJR奥羽本線の「茂吉記念館前駅」の近くで,鉄道でも簡単にアクセスできます。

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 最上川逆白波のたつまでに
  ふぶくゆふべとなりにけるかも
   「白き山」斎藤茂吉
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 山形生まれの歌人斎藤茂吉の最後の歌集「白き山」に収録されたこの歌は、終戦当時に疎開していた大石田の知人宅で,病中の孤独の中でつくられた晩年の代表作だといわれています。
 大石田あたりのゆったりと流れる最上川にさえ白波のたつ吹雪の冬。この歌は,老歌人の心がそんな厳しい情景をくっきりと描かせているといいます。
 今日の東北の寒さを感じさせるようです。東北の人たちに,どうか,幸せが訪れますように。

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 青春とは,明るい。華やかな,生気に満ちたものであろうか。
 それとも,もっとうちぶれて陰鬱な,抑圧されたものであろうか。
   「どくとるマンボウ青春記」北杜夫
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 歌人斎藤茂吉の子北杜夫は,旧制の松本高校を卒業し,医師でありながら作家として大成しました。「どくとるマンボウ青春記」で,北杜夫は,独特のユーモアを交え,自分の青春を振り返るのです。
 松本で,日本アルプスの雪景色を眺めると,北杜夫の思いとともに,いつも,この本の冒頭を思い出します。

 この本の最後は,次のように締めくくられています。
 医師国家試験を前にしても相変わらず恥じ多き怠惰な日を送っていた杜夫は,父茂吉の死の報知を受けたのでした。そして,東京へ戻る夜汽車の中で茂吉の歌集「赤光」をあてもなく開いて過ごしながら,こういう歌を作った茂吉という男は,もうこの世にいないのだな,もうどこにもいないのだなと幾遍も繰返し考えたのです。そのとき,杜夫のカバンの中には,自分の最初の長編「幽霊」のかなり分厚い原稿が入っていたのでした。
 母の死をうたった歌によって誕生した茂吉の「赤光」,その茂吉の死が語られる「どくとるマンボウ青春記」。
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 「どくとるマンボウ青春記」を書いたその北杜夫もすでに亡く,青春という言葉さえも不似合いな時代となってしまいました。今,私の手元には,「人はなぜ追憶を語るのだろうか」からはじまる「幽霊」の,歴史を重ねて黄色くなってしまった古い文庫本があります。小さな一冊の本は,そうした,歌人と作家の人生の重さを今も無言で語りかけているのです。
 旅と読書は,人生を豊かにします。季節の移り変わりが,日々の生活に彩りを与えてくれます。
 そして,いつの日か,人は追憶を語るのです。

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