野辺地から南に進路をとります。はじめは八戸市へ行こうと思っていたのですが,時間的にムリそうだったので変更して,十和田市から奥入瀬渓谷を目指すことにしました。せっかく天気がよいので,奥入瀬渓谷と十和田湖で十分時間をとることにしたのです。
遠くに見えた雪の被った山々は八甲田でした。十和田市に行く途中で,妙な看板を見つけました。はじめは通り過ぎたのですが,気になったので引き返してみました。それは「日本中央の碑」でした。
広い公園になっていて,駐車場があり,その向こうに保存館があったので,中に入ってみました。誰もおらず,私が入ったら係の人が電気をつけてくれました。ここは日本中央の碑歴史公園で,長らく簡素な祠だけの雨晒しになっていたところ,1995年(平成7年)に発見地近くに公園施設を作ってそこに保存館を設けて保存しているというものでした。
いったいこれが何かと係の人に聞いても,明確な説明もなく,する気もなさそうでした。これだけでもかなりの眉唾ものだと私は感じましたが,帰ってから調べてみると
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日本古代史の中でも屈指の謎をもつ「日本中央の碑」。歌学者の藤原顕昭が出した「袖中抄」に〈陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり,蝦夷征討の際に坂上田村麻呂が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである〉という一説があって,それ以降,東北の歌枕として和歌の中に使われ,また幻の遺跡として考えられてきたのです。かつては宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と目されていたのですが,1949年(昭和24年)に青森県東北町石文という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土したのです。
刻まれた「日本中央」について,この伝承は「日本」という国号が使われていなかった時代のものであり,また,この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していないから,すべては謎。実際は,「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ,平安初期の文献では「東北地方一帯」を指す言葉として使われていたらしいとか。つまり,「日本中央」というのは,坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味ではないか,といわれています。
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なんとまあ,おもしろい話ではないですか。
なお,東北の歌枕とは,次のような和歌です。
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みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ
源頼朝「新古今集」
みちのくの 奥ゆかしくぞ おもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風
西行法師「山家集」
請いかば 遠からめやは 陸奥の 心つくしの つぼのいしぶみ
和泉式部「和泉式部日記」
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さて,その後,順調に走って,午前11時ころに奥入瀬渓谷の入口に着きました。そこにドライブインがあったので,車を停めて中に入り,昼食をとることにしました。
何が名物かと聞くと「バラ焼き定食」だと言われたので,それを注文しました。
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十和田市で昨今俄然脚光を浴びているソウルフード「十和田バラ焼き」は,牛のバラとたっぷりの玉葱を鉄板の上で焼いただけのもの。家でもすぐにできそうなこの食べ物は,十和田市で食べるとその味が大いなる魅力に溢れるのです。「十和田バラ焼き」は,戦後の青森県三沢市の屋台で生まれたといわれているものです。米軍基地のあった三沢士では,戦後まだまだ高価で一般の人々の手には入りにくかった牛肉がアメリカ軍の払い下げ品として比較的安く手に入ったので,それをいかにおいしく食べようかと工夫し生まれたものです。三沢市で生まれたバラ焼きが十和田市に伝わることで市民権を得ました。今や十和田市内でバラ焼きを提供する店は60軒以上あって,いつしか十和田市民のソウルフードとなったのです。
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くせになるおいしさでした。
昼食を終えて,さて,奥入瀬渓谷です。歩くと14キロメートル以上あるということで,川に沿って車道が続ているので,見どころで車を停めては観光することにしました。
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約20万年前から始まった火山活動が,約5万5千年前から1万5千年前ごろに大規模な噴火を繰り返したことで,大量の火砕流を噴出し,火山体の中心部の陥没が進み,約1万5千年前には十和田湖の原型となるカルデラが形成され,十和田湖ができたと考えられています。
カルデラから噴出した膨大な火砕流堆積物の軽石や火山灰などが堆積して圧縮・固結した溶結凝灰岩で構成された火砕流台地は,「子ノ口」部分が決壊し大洪水が発生して侵食されたことによって深い谷ができました。こうして形成されたのがU字型の奥入瀬渓谷です。
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渓流沿いに国道102号線が走っていて,また,それに沿って自然遊歩道も整備されているので,渓谷沿いを歩いて散策することができます。
●三乱の流れ
まず,車を停めたのが三乱の流れでした。
ここはおだやかな流れのなかにほどよく配置された岩の上にさまざまな植物が生えていて,すばらしい景観でした。最適の時期はムラサキヤシオが岩の上に咲き乱れるちょうど私が訪れた今でした。
●石ヶ戸の瀬
ここに広い駐車場があって,まず,売店でこの店限定のソフトクリームを食べて,そのあと,周りを散策しました。
激しい流れでもなくゆるすぎることもないという石ケ戸の瀬。このあたりはテレビのCMで見かける場所なのです。
「ケ戸」というのは方言で「小屋」の意なので,「石ケ戸」とは石でできた小屋(=岩屋)を意味します。大きな岩の一方がカツラの巨木によって支えられて岩小屋のように見えます。この自然の岩屋〈昔,鬼神のお松という美女の盗賊がここをすみかとし,旅人から金品を奪っていました。手口は,旅の男が現れると先回りして行き倒れを装い,介抱してくれた男の隙をみて短刀で刺し殺す,あるいは,男の背を借りて川を渡り流れの中ほどにさしかかるといきなり短刀で刺し殺したといわれています。
●阿修羅の流れ
「奥入瀬を代表する」阿修羅の流れです。うっそうと茂った木立のあいだを激しく流れる水がつくりだす景観は男性的です。
●雲井の滝
うっそうとした森林にかこまれた断崖から3段になって落下するこの雲井の滝は高さ20メートル。滝は岩を少しずつ浸食しながら上流に向かって後退していきます。雲井の滝は水量が豊富なことから岩が削りとられるのが速く,ほかの滝にくらべると、ずいぶん奥まったところまで後退しています。
ほとんどの人は道路際で滝をみていましたが,私は滝つぼの近くまで歩いて行きました。すごい迫力でした。
●銚子大滝
奥入瀬渓流本流にかかる随一の滝が銚子大滝です。高さ7メートル,幅20メートルある堂々たる滝です。流れ落ちる水は多量の水霧を生み,木漏れ日がそこに幾本もの光の筋を作っていました。滝の右手に伸びる断層や左から流れ込む寒沢の影響でできたこの滝は,十和田湖への魚の遡上を妨ぐので,魚止の滝ともよばれ,長い間,十和田湖には魚が住めないといわれてきました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは