しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:東海道を歩く

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【Summary】
Five years after the last visit, the user returned to Futagawa-juku on the old Tokaido road. The streets and atmosphere remained unchanged, but the narrow roads with heavy car traffic made walking unpleasant. They revisited the Futagawa Honjin Museum and had lunch there again. They wish to find a place free from car traffic for a more relaxing experience.

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 豊橋総合動植物園から二川駅まで戻ってきました。これから北東に歩いて行くと,旧東海道の二川宿に入ります。
 以前,二川宿を歩いたのは,今から5年ほど前のことでした。
 昔のブログを探してみると,日にちが書いていないので,よくわからなかったのですが,調べてみると,2020年1月17日金曜日,ハプスブルグ展を鑑賞してから上野動物園でパンダとハシビロコウを見て,夜はNHK交響楽団第1931回定期公演を聴いたあと小田原で1泊して,翌日1月18日に小田原から名古屋まで,蒲原駅と二川駅で途中下車をしながら帰ったようです。また,NHK交響楽団第1931回定期公演というのは,ツィモン・バルトという人がピアノを弾いたブラームスのピアノ協奏曲第2番という,今でも私がトラウマになっている演奏会でした。
 月日の流れは早いのか遅いのかよくわからねど,その後,コロナ禍が世界に猛威をふるいました。

 さて,再びやってきた二川宿ですが,5年前とほとんど何も変わっていませんでした。5年前にも
  ・・・・・・
 江戸時代宿場だったところはどこも車がすれ違いないくらいの幅で狭く,宿場を外れると道路が広くなって歩道ができます。そうした宿場町のなかには道路を拡張してしまい,そのために宿場にあった家々が無残に取り壊されてしまったところも少なくないのですが,二川宿は現在県道404号線となっている道路は宿場の中だけはそのままの幅で残っています。しかし,そうした道路にも現在生活道路としてけっこう車の行き交うところとそうでないところがあって,この二川宿は頻繁に車が行き交うので歩いていてとても不快になります。
  ・・・・・・
と書いたのですが,今回も全く同じで,ここは,街並みこそ旧東海道の名残があっても,あまりに車が多く通り,しかも道が狭いものだから,まったくもって,のんびりと街歩きをたのしむようなところではありませんでした。

 また,5年前に食事をした
  ・・・・・・
 江戸時代,二川宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒,旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭いながらもそのたびに再建されてきましたが,明治後も取り壊されずに残った本陣の一部が1988年に改修,復元が行われました。また,本陣のとなりには旅籠も当時のように再現されていて,その両者が「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されています。また,ここにはレストランがあって,手作りの昼食をとることができました。
  ・・・・・・
もそのままで,今回も,ここで昼食をとることができました。
 気候がいいときに,特に何をする,でもないところに出かけて,時間を費やすのは悪くありません。
 願わくば,車社会と無縁の場所を探したいと思ったことでした。

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【Summary】
On a rare warm and sunny March 14, 2025, the writer visited Toyohashi General Botanical and Zoological Park (Nonhoi Park) near Futagawa Station. The park, ranked 8th in size among Japanese zoos, was quiet on this weekday. They noted the comfortable enclosures, the limited number of Sumatran orangutans in Japan, and challenges like surplus males in breeding. After two hours, they left the park.

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 2024年の夏は異常に暑く,秋がなく,冬になったら今度は異常に寒く,2025年の3月になっても,依然として過ごしにくい気候が続いています。そんな中,2025年3月14日だけは,突然気温が高い晴れた日となったので,気候につられて外に出ました。
 旧東海道の二川宿を歩こうと,JR東海道線に乗って,二川駅に行きました。
 二川宿は,二川駅の北東に広がっています。と,その前に,二川駅の南,10分ほど歩いたところに豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)があるので,寄ってみることにしました。
 2024年10月5日,機関車トーマス号に乗車した帰りにも寄ってみたのですが,そのときはすごい人でした。この日は平日ということもあり,きっと人が少ないだろうな,と期待しました。開園は午前9時で,その時間に入りましたが,やはりほとんど人はいませんでした。

 日本の動物園の広さは,1位が東武動物公園で61ヘクタール,2位が名古屋市東山動植物園で60ヘクタールということです。豊橋総合動植物公園は40ヘクタールで第8位だそうです。なお,約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度です。
 私は,年間パスを持っていることもあり,名古屋市東山動植物園へはたびたび出かけるのですが,名古屋市東山動植物園の広さは植物園が貢献しているのであって,動物園は豊橋総合動植物公園のほうがずっと広いです。なんといっても,オリが広いというか,オリがない。ここで飼われている動物は居心地がいいだろうな,と思います。
 私が愛着をもっているのはオランウータンですが,動物園のオランウータンは激減していて,特に,スマトラオランウータンは,全国に7人しかいません。豊橋総合動植物公園にはペアでいたのですが,相性が悪いということで,子供が生まれず,現在,子作りのためにメスのウランは市川市動植物園に移ってしまい,雄のウータンくんしかいませんでした。

 動物は生き物であるゆえ,動物園にはさまざまな問題があります。
  ・・・・・・
 以前は,上野動物園にも多摩動物公園にもゴリラ,オランウータン,チンパンジーがいましたが,ゴリラは上野動物園に,他の2種は多摩動物公園に集約しました。そして,上野動物園はゴリラの運動場をふたつ造って群れづくりをはじめ, 多摩動物公園には国内随一の充実したオランウータン舎を造りました。他の動物も同様で,トラは上野がスマトラトラ,多摩がアムールトラと分担しました。
 このようにしてブリーディングローンを普及させているのです。
 それでも残る頭の痛い問題が「余剰個体」です。
 オスとメスが同数生まれるのに,野生では繁殖に参加できないオスが多い動物には必然的につきまといます。それは,オス1頭,メス2頭が自然の状態なのに,オス2頭,メス1頭だとオスどうしが大ゲンカして飼えないのです。このような問題が行き着く先はスペースとコストの問題です。
  ・・・・・・

 やがて,幼稚園や中学校の遠足で多くの若い人がやってきました。それでも,気候のいい季節の週末とは違って,閑散としていて,なかなかいい雰囲気でした。
 2時間程度滞在して,豊橋総合動植物公園を後にしました。

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【Summary】
After walking from Goyu-juku to Akasaka-juku and back, I visited historical sites, including Tōrin-ji Temple, where Tokugawa Ieyasu once rested, and saw the graves of "meshi-mori onna" (serving women). I then explored the Goyu Pine Avenue Museum, showcasing a detailed model of the pine-lined road. At noon, I had a sushi lunch at "Sushi Taka," run by a young chef trained in Ginza. Despite its cost, it was a satisfying end to the trip.

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 御油宿から御油の松並木を通って赤坂宿へ,そして,赤坂宿から再び御油の松並木を通って御油宿へ戻ってきました。御油宿から赤坂宿までは1.7キロメートルしかないので,往復しても,他の宿場間の距離もありません。
 イチビキの工場を通り過ぎて最初の西に入る交差点をまがり70メートルほど行くと,浄土宗寺院の東林寺がありました。東林寺は,永享年間(1429年から1441年)に龍月日蔵和尚によって創建された寺院で,当時は,寺領4町歩,末寺として4つの寺をもつ御油町の中心寺院でした。
 ちなみに, 面積を表す一番小さな単位は1歩(ぶ)。これは1坪と同じ大きさで畳2枚分です。1畝(せ)は30歩で,1アールにほぼ相当します。1反(たん)は300歩,1町(ちょう)は3,000歩tとなり,ほぼ1ヘクタールで,学校の校庭ぐらいの大きさとなります。
 東林寺は,江戸時代,三河の領主であった徳川家康が2回立ち寄って休息しています。
 東林寺には,墓地の中央,土塀寄りの所に飯盛女の5つの墓があります。このうちの4つは,1848年(嘉永元年)に御油宿内の用水溜で自殺を図った飯盛女の墓で,旅籠屋の抱え主がその菩提を弔い建てたものです。
  飯盛女とは,宿場にいた遊女で,それをめあてに宿泊客が集まり商売が繁盛するので,多くの旅籠では飯盛女をかかえていました。その多くは生計が苦しい家や年貢を納めることが固難な農家が金を借りるため年季奉公に出した娘たちでした。御油宿は遊興の宿場として知られ,多くの飯盛女がいましたが,彼女らは非常に不遇な立場に置かれていました。

 また,御油宿には,「御油の松並木資料館」がありました。朝来たときはまだ開館時間でなかったので,先に赤坂宿まで行ったのですが,帰りに寄ることができました。
 東三河地方には,二川宿,吉田宿,御油宿,赤坂宿の4つの宿場があります。御油宿と赤坂宿の間にある約600メートルの「御油の松並木」の様子を,展示室の中央にある1,000分の1の復元模型で再現してありました。また,御油宿に関する資料など,約130点が展示されていました。

 これで,今回の宿場歩きは終わりです。
 ちょうどお昼になったので,どこかいいお店はないか,と思って探してみたのですが,なかなかありません。国府駅近くの街中に「鮨たか」というお寿司屋さんがあったので,高そうでしたが,思い切って入ってみました。
 2019年末に開店した,というから,コロナ禍直前のことで,ずいぶんと苦労した,という話でした。
 お昼の食事は,にぎり9貫4,000円ということだったので,それを注文しました。最後に巻物もありました。若い大将は銀座の「鮨太一」で修行したということでした。
 少しぜいたくでしたが,こうした半日の旅も悪くないものでした。

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【Summary】
I visited Sugimori Hachiman Shrine in Akasaka-juku, known for its annual kabuki performances held on a reconstructed stage since 2000, with traditional roofed seating. After visiting, I returned to Shohoji Temple, which has many cultural properties and rare trees. Akasaka-juku had four honjin inns; one was the Matsudaira family, who, due to a family rift, changed their surname to Hiramatsu.

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 大橋屋を出て,さらに西に歩きました。そこには杉森八幡社(すぎもりはちまんしゃ)があります。私は10月15日に旧東海道の御油宿から赤坂宿を歩いたのですが,10月26日に,杉森八幡社で歌舞伎を行なうと聞いたのです。
 杉森八幡社の祭神は天照大神,応神天皇,仁徳天皇,神功皇后です。境内には何本もの巨樹が茂っていて,そのうちで,拝殿前に立つ2本の楠は,根元が一体化していて「夫婦楠」(めおとぐす)と通称されています。
 赤坂宿では,かつて,杉森八幡社に人形芝居や神楽を奉納していたのですが,明治に入ってからはこの風習は廃れ,代わって舞台公演が行われました。舞台公演の際には,小屋掛けという,竹を格子状に組んで作った屋根付きの観覧席が設置されて,5日間狂言が催されていましたが,太平洋戦争がはじまると行われなくなりました。2000年(平成12年)に舞台の復元工事が行われ,以来,年1回歌舞伎公演が行われるようになり,これに合わせて小屋掛けの伝統も復活しました。
 私が訪れたときは,ちょうど小屋掛けがはじまったときでした。

 この日は,杉森八幡社まで行って引き返しました。旧東海道をその先まで歩くと,次の宿場は藤川宿です。藤川宿は以前行ったことがあります。
 さて,大橋屋の手前まで戻ると,そこに浄土真宗寺院の正法寺があります。
 推古天皇の時代,聖徳太子がこの地を訪れ,堂を建て太子の像を安置したという寺伝がありますが,おそらく作り話でしょう。正法寺には,数多くの有形文化財がありますが,非公開です。庭には,ワビスケ,イヌマキといった天然記念物が植えられています。ワビスケはツバキ科の常緑樹で,冬に半開きの桃色の花をつけます。また,主に生垣として用いられることが多いイヌマキは,古木が2本あります。

 赤坂宿の本陣は,4軒ありました。そのうちの1軒が松平彦十郎家で,江戸時代初期から本陣を勤め,人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていました。現在,その場所には,松平ではなく平松という表札があります。大橋屋のボランティアガイドさんの話によると,その近所に松平さんが住んいて,お互い親戚で徳川家康の末裔とかいう話ですが,仲が悪く,片方の松平さんは,名字を反対にして平松に変えたとかいう話でした。

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【Summary】
I arrived at Akasaka-juku after walking through the Goyu pine-lined road. Akasaka-juku, the 36th post station on the Tokaido, retains much of its historical charm. I visited "Ohashiya," a former inn that operated in its original Edo-period building until 2015, now managed by Toyokawa City and open to the public. I enjoyed a private, immersive experience with a volunteer guide, exploring the tall, traditional structure, soot-covered walls, and Edo-period architectural details.

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 御油の松並木を歩き終えると,赤坂宿に着きました。御油宿と比べると,ずいぶんと宿場の雰囲気の残るところでした。
 赤坂宿は,東海道五十三次の36番目の宿場で,80軒以上の旅籠がありました。
 赤坂宿と御油宿との間隔は東海道の宿場の中で最も短く,16町,約1.74キロメートルしかありませんでした。現在,関川神社に残る「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という松尾芭蕉の句は,地理的に極めて近い両者の関係を詠んだものであるとされます。
 御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていた赤坂宿は「御油や赤坂,吉田がなけりゃ,なんのよしみで江戸通い」といわれた程,活気のある宿場町でした。要するに,江戸時代の風俗街でした。
 東海道線の経由地から外れたために,御油宿とともに繁栄から取り残されたことで,結果として,今も旧東海道の面影が残る地となりました。

 ここには「大橋屋」という旅籠が残ります。私は,以前より,ずっとそこに行ってみたかったのです。
  ・・・・・・
 旧東海道・赤坂宿の旅籠「大橋屋」は,元の屋号を「伊右ェ門鯉屋」といい,2015年(平成27年)まで営業を行い,東海道五十三次の宿場町のうちで,江戸時代の建物のまま営業する最後の旅籠でした。
 江戸時代の東海道赤坂宿の佇まいを今に伝える老舗で,歌川広重の東海道五十三次では,赤坂宿舎招婦図のモデルになっていました。また,松尾芭蕉が宿泊し,俳句を詠んだともいわれます。
 創業366年目にして,旅籠の歴史に幕を降ろし,豊川市に寄贈され,現在は,改修ののち,一般公開されています。
  ・・・・・・
 ちなみに歌川広重が描いた『東海道五十三次・赤坂』とは、この大橋屋の中庭を描いたものですが,画にあるソテツは,現在,近くの浄泉寺へ移植されています。

 平日でもあり,大橋屋を訪れていたのは私ひとりでした。ここは豊川市の施設ということもなり,内部の見学は無料で,ボランティアガイドさんもいました。
 いろいろと詳しい説明を聞き,時間をとって過ごすことができました。約8メートルの高さの吹き抜け,昔の囲炉裏の名残で真っ黒になった壁や太い梁,日本の伝統的な工法の和小屋組(わごやぐみ)など,江戸時代に戻ったようで楽しい時間となりました。

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【Summary】
After passing through Goyu-juku, I reached the Goyu Pine Avenue, my destination. Few such avenues remain. Here, 271 pine trees span about 600 meters. Though a path for both cars and pedestrians, safety features like rubber poles detract from its beauty. The adjacent Goyu Pine Avenue Park could have housed the road, leaving the historic path undisturbed, but such investments seem unlikely in Aichi Prefecture.

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 御油宿を過ぎて,さらに歩いていくと,私の今回の目的である御油の松並木が見えてきました。
 松並木は,かつて五街道の各所に存在しましたが,伐採されたり朽木となったりして,現存しているところはあまりありません。御油の松並木は,現存している数少ない松並木のひとつです。
 御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって,271本の松の木が立ち並んでいます。
 江戸時代の滑稽本「東海道中膝栗毛」のなかで,弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれています。

 上方見物のために東海道を旅する弥次郎兵衛と喜多八は御油の宿から次の宿場の赤坂へ向かう並木道を歩いています。日が暮れて提灯も持たずに遅れた弥次郎兵衛を持つ喜多八は,この辺りに人を化かす狐が出るという噂があるので心細くなっていました。喜多八のすぐ後ろで狐の鳴き声がし,狐の真似をした弥次郎兵衛が臆病な喜多八にこれまでの道中の恨み言を言い「馬の糞を食べろ」とからかって自分の荷物まで持たせてしまいます。やっと弥次郎兵衛と気づいた喜多八は気を取り直して先を急ぎます。
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はや夜に入りて,両がはより出くるとめ女,いづれもめんをかぶりたるごとく,ぬりたてたるが,そでをひいてうるさければ,弥次郎兵へやうやうと,ふりきり行すぐるとて
  その顔でとめだてなさば宿の名の御油るされいと逃て行ばや
弥次郎兵衛あまりに草臥(くたびれ)ければ,先此所はづれの茶店に腰をかけたるに
 あるじの婆々(ばば)「アイお茶まいりませ」
 弥次「モシ赤坂まではもふ少しだの」
 ばば「アイたんだ十六丁おざるが,おまへひとりなら,此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは,わるい狐が出おつて,旅人衆がよく化され申すは」
 弥次「そりやア気のねへはなしだ。しかし爰へ泊たくても,つれがさきへいつたからしかたがねへ,エエきついこたアねへ。やらかしてくれふ。アイおせは」
トちや代を置,此ところを立出行に,くらさはくらしうそきみわるく,まゆ毛につばをつけながら行。はるか向ふにて,きつねのなくこへ
 「ケン~ケン~」
 弥次「ソリヤなきやアがるは。おのれ出て見ろ。ぶち殺してくれふ」
トりきみかへつてたどり行に,北八もさきへかけぬけ,此所迄来りしが,これもここへきつねが出るといふはなしをききて,もしもばかされてはつまらぬと,弥次郎をまち合せ,つれ立ゆかんとおもひ,土手にこしをかけ,たばこのみいたりけるが,それと見るより
 北八「ヲイヲイ弥次さんか」
 弥次「ヲヤ手めへなぜここにゐる」
 北八「やどとりにさきへいかふとおもつたが,爰へはわりい狐が出るといふことだから,一所にいかふとおもつて待合せた」
トいふに弥次郎心つき,こいつきやつめが,きた八にばけたなとおもひければ わざとよはみをみせず
 弥次「くそをくらへ,そんなでいくのじやアねへは」
 北八「ヲヤおめへなにをいふ。そして腹がへつたろふ。餅を買て来たからくひなせへ」
 弥二「ばかアぬかせ。馬糞がくらはれるものか」
 北八「ハハハハハハハ,コレおれだはな」
 弥次「おれだもずさまじい。きた八にそのままだ。よく化やアがつたちくしやうめ」
   十返舎一九「東海道中膝栗毛」4編上-御油より赤坂へ-
  ・・・・・・

 私も,東海道中膝栗毛のように,松並木の手前にあった「弥次喜多茶屋」で一服することにしました。
 この茶店の店長さんは私ととても波長があって,お話をしながら,楽しい時間を過ごすことができました。また行ってみたいです。
 店長さんは,もう少し松並木が魅力的になればいいのに,と言っていました。
 松並木のある旧東海道は舗装され,今も車が通ることができるので,かつては,松並木を歩くのはずいぶん危険でした。2009年(平成21年)に車道部分を狭くして歩道が整備されたので,いくぶん安全に歩行者が通行できるようになったといいます。
 しかし,車と歩行者が安全に通行できるように,道路標識やラバーポールがあって,その景観が台なしとなっていて,私はがっかりしました。松並木沿いに「御油松並木公園」というだだっ広いだけの広場があるので,どうしてその土地に自動車の通る道路を移して,松並木のある旧東海道は車の侵入を禁止にし,道路の舗装も変えて,美観を整えなかったのかな,と思いました。
 愛知県というところは,こういう投資ができない県民性なのです。

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【Summary】
I arrived at Kō Station on the Meitetsu line, joining the old Tokaido route towards Goyu-shuku, passing the historic Hime Kaido fork. Goyu-shuku, once a bustling Edo-period post town, is known today for Ichibiki Co., a miso and soy sauce company. Originally a tavern, it shifted to brewing in 1772 after an incident involving its serving women.

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 午前8時過ぎに名鉄電車の国府駅に着きました。この日は平日なので,通学途中の高校生で一杯でした。近くに愛知県立国府高等学校があります。まず,国道1号線を南東に歩き,旧東海道が国道1号線と別れるところで,旧東海道に入りました。急に昔の街道の雰囲気になりました。
 ずっと歩いていくと,姫街道との追分がありました。
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 姫街道は浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道でした。道程約60キロメートル。もともとは,こちらが東海道の本道でした。
 中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになるとそちらが本道となりました。
 幕末頃から姫街道の呼称が定着しましたが,呼称の由来は,東海道の本道である新居(今切)の関所での取り調べ,舟での渡海,もしくは「今切」の語の縁起が悪いことを嫌って利用した女性が多かったことからです。
  ・・・・・・
 私は,静岡県浜名湖あたりの姫街道は行ったことがあって,姫街道を制覇してみようと思ったのですが,その距離が60キロメートルと聞いてあきらめました。その終点がこの御油宿なのでした。

 御油宿は,東海道五十三次の35番目の宿場で,本陣が最多時4軒,最少時2軒,人口約1,300人で家数316軒,旅籠62軒ありました。その昔,持統天皇が宮路山に来たときに油を献上したという伝説から御油の町名になったといいます。歌川広重の東海道五十三次は「留め女」とよばれる旅籠の女が旅人らを無理矢理引きずり込もうとしているさまを描いています。
 御油宿の宿並を進むと左手の味噌醤油醸造業のイチビキ工場があります。御油宿で特筆すべきは,実はこの味噌醤油醸造業のイチビキ株式会社です。
 イチビキ株式会社の前身は大津屋という旅籠でした。あるとき,旅籠のお抱え飯盛女5人が入水して果てました。飯盛女というのは,実質遊女です。当主の中村弥十郎はこのことで稼業に嫌気がさし,1772年(安政元年)に旅籠を廃業し,味噌醤油醸造業に転業したのでした。今も,そうした家風が残っていて,この企業は地元に根差す優良企業なのだそうです。

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【Summary】
During Japan's exceptionally hot summer in 2024, I stayed indoors through August and September, venturing out in October. I visited the Goyu Pine Grove along the old Tokaido, traveling from Nagoya by Meitetsu Railway. Despite Nagoya Station’s outdated and confusing layout, I booked a front panoramic seat on the 1200 series train, enjoying the unique view from the tunnel as we approached the station.

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 2024年の夏は異常な暑さでした。私は,2023年の夏の経験から,8月と9月はひたすら家に籠ることにして,10月になったら行動開始! と思っていました。9月に旅行をしたのは,立山黒部アルペンルートでここなら涼しいと思っていたのに,やはり,思ったほどではありませんでした。また,コンサートを聴くために,しかたなく東京へ2度行きました。
 10月の声を聞き,さあ,行動開始。天気がよければ,いつでもふらっと半日の道歩きをしようと思っていました。そして,10月15日。ついに,天気がよくさわやかな日になりそうだったので,かねてから歩いてみたかった旧東海道の御油の松並木に行ってみようと,早朝,家を出ました。
 久しぶりの旧東海道歩きとなりました。
 私は,これまで,旧東海道は多くの場所を歩きましたが,愛知県の一部が盲点になっていました。それは,愛知県は静岡県や三重県とは違い,旧東海道に対する思い入れが薄いというか,整備も行き届いていないから歩いていても楽しくないからです。
 とはいえ,けっこう有名な御油の松並木。御油の松並木は,御油宿と赤坂宿の間にあって,名鉄電車で国府駅まで行って,そこから歩くことになります。

 愛知県に君臨する天下の名鉄ですが,たびたび YouTube などに取り上げられるように,この私鉄はカオスです。特に,名古屋駅は未だ昭和時代のまま,知らない人には訳がわからない駅です。セントレア・中部国際空港から名鉄に乗って名古屋駅で降りた外国人が途方にくれている姿をよく見ます。
 愛知県人は堅実といわれますが,要するにケチです。どんな公共施設ももう少しお金を出せばその倍戻ってくるのですが,それができません。そこで,明治村,リトルワールド,犬山城,レゴランド,ジブリパークなど,多くの観光施設があっても,どれもいまいちなのです。
 また,公共交通も,もっと以前に抜本的な改革がされていればいいのに,いざ,計画をしようとなると,だれが金を出すのだ,出してくれたらやってもいい,というばかりで一向に進まず,その結果,未だに,名鉄の名古屋駅はホームが乗車用のふたつと,中央の下車用のひとつしかなく,こんな状態は,他県や海外からやってくる人には恥ずかしい限りです。
 というわけですが,私は,子供のころから,この魔訶不思議な名古屋駅はずっと利用しているので,珍しいというより,怖いものみたさの興味本位で,今も,その,まるでテーマパークのような乗り物をけっこう楽しんでいるのです。
 名古屋駅は地下にあって,南側の栄生駅を過ぎたところから地下に入ります。地下に入ってからがけっこう長く,子供のころはこれが恐怖でした。また,このトンネルは直線でないのです。よくもまあ,こんなトンネル,崩れることもなく何十年も使われているものだと感心するばかりです。事故がないのが不思議なくらいです。

 名鉄電車の特急は「ミューチケット」という有料の座席指定券が必要な座席指定車両と座席指定券の不要な自由席があります。また,特急車両は,2000系,2200系,1200系があります。
 2000系は,2004年(平成16年)にデビューしたもので,セントレア・中部国際空港行き専用の「ミュースカイ」と名づけられた全車指定席のものです。
 1200系は,1988年(昭和63年)にデビューした特急専用車で,「パノラマsuper」の愛称があります。「パノラマsuper」は古い車両ですが,2015年(平成27年)に特別車を中心にデッキおよび客室の内装と設備品を更新し,外観デザインが変更されました。また,1200系は,前面展望を満喫できるハイデッカー展望席があります。
 2200系は,2004年(平成16年)に2000系とともにデビューしたものですが,展望席がありません。
 この日私が指定席を予約した列車は,偶然,1200系の車両でした。展望席の先頭が空いていたので指定しました。この席に座って,国府駅まで,車窓からの風景を楽しもうといわけですが,特に,名古屋駅前後のトンネルが興味深いものでした。

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 では,今日は,目的のひとつであった「きよめ餅」と「宮きしめん」で,私のお腹と好奇心を満たしたいと思います。
 まずは,「きよめ餅」です。
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 「きよめ餅」は羽二重餅で漉し餡を包んだもので,表面に「きよめ」の焼き印が押されています。
 1785年(天明5年)ごろ,熱田神宮の西門の近くに「きよめ茶屋」という茶屋があって,参拝者がきよめ茶屋で旅の疲れを癒してから熱田神宮を参拝したそうです。
 第2次世界大戦前,新谷栄之助という人物が,名物のなかった熱田神宮周辺の地域に伊勢神宮における「赤福」のような名物を作ろうと考え,きよめ茶屋の話を基に「きよめ餅」と名づけた菓子を考案し,店舗を構えたのが発祥です。現在は3代目のようです。
  ・・・・・・

 熱田神宮のおみやげ「きよめ餅」は,1990年ごろ,テレビでコマーシャルをやっていたので知りましたが,これまで,食べたことがありませんでした。熱田神宮の東側,県道226号線を越えたところに「きよめ餅本舗」という老舗和菓子店があって,よく通るのですが,店は古く,改装もしていないようで,見てくれが悪いです。近くに,喫茶店もあるのですが,これもまた,塗装がはがれていて,さえません。そこで,一見,さびれているように感じていました。おそらく,何代目かの主人がやる気がないのだろう。もっとやり手だったら,伊勢の「赤福」のように,大きな店にできるのに,と私はずっと思ってきました。  
 この日,喫茶店が開いていたので,中に入って,「きよめ餅」を食してみました。ふかふかのお餅はなかなかおいしいものでした。店舗のほうもお客さんが入れ替わり入っていくし,熱田神宮の中にも「きよめ餅」の土産屋さんがあって,多くの人が買っていきます。要するに,さびれているわけでなく,これで十分店として成り立っていて,大きくする気もないようです。極めて名古屋的だなあと感じました。

 次は「宮きしめん」です。「宮きしめん」は,きしめんを売る数々の店のひとつです。
 そういえば,きしめんは名古屋の名物だと思い出しました。熱田神宮に中に,きしめんを食べることができる店が昔からありましたし,また,名古屋城の中にもありました。
  ・・・・・・
 きしめんは,幅が広く薄い麺が特徴です。平たいうどんは平打ちうどんといい,群馬県の「ひもかわ」や岡山県の「しのうどん」など日本の各所にありますが,名古屋の名物として「名古屋きしめん」と表示する場合は,幅が5ミリメートルから7.5ミリメートル,厚さ1.5ミリメートル未満という詳細な基準があるそうです。
 江戸時代の「東海道名所記」には,現在の刈谷市にあたる芋川(いもかわ)の名物だとされていて, 江戸時代後期「守貞謾稿」に,江戸で「ひもかわ」とよんでいるものは芋川の訛りであって,名古屋では「きしめん」とよぶという記述があるそうです。一方,現在の知立市で,雉の肉を入れたうどんが好評で,これが雉麺(きじめん)とよばれて名古屋にまで伝わったという説があるそうです。
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 しかし,私は,ここ何年もきしめんを食べたことがなく,また,食べたいと思ったこともありませんでした。「宮きしめん」の本社は熱田神宮から北に少し行ったところにあるのですが,これもまた,小さな店で,一見さえません。熱田神宮の中にあるのは,その,「宮きしめん」でした。これもまた,気になったので,ひさびさにきしめんを食べてみました。
 食べてみて,きしめんというのは,面が平らであるだけでなく,強いしょうゆ味と大量な花かつおとほうれんそうにかまぼこ,それに加えて,ちいさな油揚げが特徴の,それといった主張がない食べ物だったことを思い出しました。

 「宮きしめん」は,1923年(大正12年)創業の老舗です。直営のきしめん店を名古屋市内や岐阜県,三重県に計8店舗展開しています。ここもまた,お昼時,かなり混雑していました。「きしめん離れ」とかいっているようですが,それなりに需要はあるようです。
 ちなみに,名古屋城内にあるきしめん屋さんは「きしめん亭」という店だそうです。
 調べていくうちに,JR名古屋駅の各ホームには,数多くのきしめんの立ち食い店があって,これが結構有名だと知りました。中でも,もっとも人気なのが「住よし」とかいう名前の店で,それ以外にも,「憩」「グル麺」という名前の店があったり,「グル麺」には「住よし」が運営しているものとそうでないものがあったり,ホームのきしめんには2種類の別の味がある,というように,謎だらけで,興味が湧いてきました。一度調べてみよう。

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 養老律令が作られたのは,728年(養老2年)のことでした。その1,000年以上あとの1867年(慶応3年)に王政復古の大号令が発せられたとき,摂関政治の廃止を謳い律令時代に戻す宣言が行われ,明治政府ができた際には,養老律令で定められた規定が採用されました。つまり,この国の憲法は,大日本帝国憲法ができるまでは,ずっと養老律令だったわけです。
 そうした律令によると,令制国の国司が政務を執る施設である国庁が置かれたのが国府で,国府付近には,国庁のほかに国分寺,国分尼寺,総社が設置されました。総社とは,特定地域内の神社を合祀したものです。
 律令制では,国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することでしたが,平安時代になって,国府の近くに総社を設け,そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたものです。いかにも日本らしい話です。ちなみに,愛知県の西側半分であった尾張国の総社は,はだか祭りで有名な稲沢市の尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ),通称・国府宮神社です。

 このように,一般に神社といっても,その成り立ちは様々です。私の親は,寺社仏閣となれば,何でも拝んでいたのですが,それを見ていた私は,その由来もわからずに参詣するのもどうかとずっと思ったので,訪れるたびにそれを調べるようになりました。すると,まあ,おもしろいこと。日本でいう神というのは,キリスト教などの神とはまったく違うのです。何らかの作為で拝み奉る対象を作ってはみんな神にしちゃうのです。豊臣秀吉も徳川家康も亡くなった後は神になりました。
 では,熱田神宮です。
 熱田神宮は式内社です。式内社というのは延喜式によって官社に指定された神社の一覧(延喜式神名帳)に登載された神社のことで,いわば,公認の神社ということです。そして,一宮市の真清田神社が尾張国の一宮で,祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)という太陽を神格化した神様,犬山市の大縣神社が尾張国の二宮で,祭神は玉比売命(たまひめのみこと)といい古来より女性の守護神,そして,熱田神宮が尾張国の三宮です。
 熱田神宮の祭神は熱田大神といい,これは草薙剣(くさなぎのつるぎ)を意味します。つまり,熱田神宮の神様は剣なのです。そして,天照大神(あまてらす)と須佐之男(すさのお)の兄弟,12代景行天皇の子・日本武尊(やまとたける),日本武尊の配偶者・宮簀媛命(みやすひめ),景行天皇と次の成務天皇に仕え日本武尊が東征した際,副将軍として軍を従えた建稲種命(たけいなだね)を相殿として合祀しています。
 草薙剣については,さまざまなところで書かれていますから,ここでは書きません。

 私が今回,熱田神宮で見たかったのが信長塀でした。1560年(永禄3年)織田信長が桶狭間出陣の際に,熱田神宮に願文を奉し大勝したことで,その御礼として奉納したものです。豊臣秀吉が寄進した三十三間堂の太閤塀,日本最古の西宮神社の大練塀と並び,日本三大土塀のひとつといわれています。私は,東側の入口から入ったのですが,すぐに信長塀が目に飛び込んできて驚きました。もっと奥まったところにあると思っていたからです。こんなに簡単に見つかってはありがたみが薄れます。
 熱田神宮には,そのほかに,16世紀前半の亨禄古図にも描かれている八重の花が咲く梅の奇木があります。一度も実をつけたことがないので,そうよばれる「ならずの梅」,江戸時代,1685年(貞享3年)に5代将軍徳川綱吉が再建した神宮のなかで数少ない明治以前の建造物のひとつ桧皮葺(ひわだぶき)が美しいこの西楽所,名古屋で最古の石橋で,板石が25枚並んでいることからこの名前がついた「二十五丁橋」など,興味深いものが数多くありました。
  ・・・・・・
 ひんやれ
 宮の熱田のならずの梅は やれよいとやれよいと 花はさけども実はならん
 しょんがゑ…
    安永・天明ごろの俗謡
  ・・・・・・

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 東海道五十三次の41番目の宿場である宮宿は熱田宿ともいわれ,熱田神宮の門前町でした。
 人混みのきらいな私は初詣にも行かないから,地元に住んでいながら,近年,熱田神宮に行ったことがありませんでした。子供のころには,初詣に連れていかれたから,そのころは行ったこともあるのですが,ものすごい人混みに中を単に社殿と往復しただけで,何も見ていないのです。熱田神宮には,信長塀というものがあるそうなのですが,それすら,まったく記憶になく,一度見てみたいと思っていたのです。
 とはいえ,熱田神宮のまわりには,西に国道22号線が,東には県道226号線が走り,JRの熱田駅と名鉄の神宮前駅があるから,このあたりを通ることはまれではありません。しかし,車で通る限り,さびれ感満載で,見える風景は悲惨なものです。名鉄の神宮前駅のあたりはデパートも閉店し,駅前の商店街はほぼシャッター街だし,壊れかけの民家が並んでいます。また,熱田神宮には,「きよめ餅」という名物もあるのですが,その店舗も古いままで塗装も剥がれているし,「宮きしめん」という食事処も熱田神宮の中にあるようですが,そういえば,近年,私は,きしめんすら,食べたことがありません。何でも「きしめん離れ」が叫ばれている状況だそうで,近ごろは,名古屋メシとやらが全国的に有名なのですが,その中に,果たしてきしめんが候補にあるのやらないのやら…。

 ということで,車で通り過ぎるだけではよくわからないので,かねてから,一度,電車に乗って熱田神宮に行って,きちんと現在の姿を見てみようと思っていました。そこで,2024年2月17日に東海市芸術劇場で大西順子ソロピアノコンサートに行くついでに,思い立って行ってみたのです。
 名鉄の神宮前駅で降りました。神宮前駅は再開発の途上で,東口は新しくなったようですが,私がよく目にする西口は工事中でした。今から40年ほど前までは,そのとなりの金山駅もひどいものでした。名鉄の駅は坂の途中にあるし,JRに至っては,駅すらありませんでした。それがいつしかひとつにまとめられ,総合駅となりました。しかし,神宮前駅は,依然として不便なままなのです。神宮前駅は,JRの熱田駅と離れていて,しかも,JRの熱田駅は駅舎が西側にしかありません。そこで,名鉄の神宮前駅の東口をいくら整備しても限度があるのです。ここもまた,名鉄とホームを平行にして,総合駅にすればずいぶんと便利になるのになあ,と思いますが,名古屋人にはそんな投資をする意欲もありません。まあ,もしもしできても,私の寿命がありません。
 このごろ東京や大阪によく行く私には,それに比べて,大都市(だと思う)名古屋は,あまりにもド田舎です。鉄道インフラがひどすぎるのです。名鉄は名古屋駅も未だに乗換駅の体すら成していませんし,地下鉄のなごや駅はホームが狭すぎて,人がごった返しています。
 観光で名古屋に来る人は,鉄道インフラを利用してみれば,名古屋がどういう都会かということがたちどころにわかり,名古屋人気質が理解できることでしょう。

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 しばらく家っていなかった旧街道歩きですが,そろそろ復活しようと思うようになりました。天気のよい日,最寄りの駅まで列車で行って,2,3時間,10キロメートルくらい歩いて,地元のおそば屋さんでお昼を食べて,帰りにカフェに寄る,といった1日を過ごすのです。
 そんな旧街道歩きをすると,いろいろとわかってくることがあります。
 日本各地を旅行していると,歴史が可能な限り保存されている町もあれば,そのほとんどが残っていない町があったりします。同じように,旧道街道にある宿場は,概して,静岡県は,どこも整備されていて,また,案内もしっかりとしていますが,愛知県はだめです。これもまた,県民性,というのでしょうか。
 そんな愛知県ですが,有松宿だけは,昔の面影をずいぶんと残しています。となりの池鯉鮒宿や鳴海宿がほとんど何も残っていないのとは対照的です。しかし,私にはあまりに近すぎで,これまで行ったことがありませんでした。そこで,少し時間があったので,先日,歩いてみました。

  ・・・・・・
 そめくて あけも美とりも 有松の 里の栄は 色にても知れ
   磯丸
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 磯丸は無名ですが,案内板によると
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 伊良湖村の漁夫で通称新之丞。貧窮のため母を医者にも診せることができず,3年間伊良湖崎神社へ平癒祈願に日参し,献額の古歌に興味を持ち,40歳のころから文字を覚え,仮名文字や和歌を能くした。
 郡奉行湯元彦馬がこれを賞揚し磯丸の名を与える。
 1811年(文化8年)京都柴山持豊に入門,粕屋貞良と名を改める。一般庶民ながら天皇御出の新嘗祭に紫雲殿に参殿の栄に浴す。当時極めて稀なことである。
  ・・・・・・
とありましたが,史跡としては,これくらいのものでした。
 有松宿には,どの宿場にもある本陣跡を探してみてもないので調べてみると,有松宿という名前すら東海道五十三次にはなく,有松宿は,39番目の池鯉鮒宿と40番目の鳴海宿の間にある間宿(あいのじゅく)でした。
 間宿では宿泊することは許されないので,旅人相手の商売には限界がありました。そこで,武田庄九郎が九州豊後の絞染の技法をこの地にもたらし,近郊の手織り木綿の技術と結びついて「有松絞」が発展したということです。現在,有松宿が当時の姿を残しているのもまた,観光客に来てもらうために有松絞りをブランドにするためなのでしょう。
 ぶらぶらと歩いていたら「寿限無茶屋」という名前のおそば屋さんがあったので,昼食をとって,満足しました。
 なお,歌川広重の描いた浮世絵「東海道五十三次」で描いた40番目の宿場「鳴海宿」は,実際は有松宿の姿です。

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 午前中は葦毛湿原(いもうしつげん)へ行き,お昼に老舗「きく宗」で菜飯田楽を食べ,残るは旧東海道を歩いて,吉田城址に行くことでした。豊橋市は浜松市と同じような感じでしたが,やたらと観光客が多い浜松市とは違い,観光地でない豊橋市は観光客もおらず,天気のよい週末にふらりと出かけるには絶好の場所でした。
 豊橋市は,三河人の気質なのか,大きな文化施設もなく,これといった観光施設もなく,また,産業といっても,特に,というものもないから,イケイケな雰囲気でもなく,逆に言えば落ち着いた町でした。浜松市と似ているのは,交差点を渡るには,歩道橋しかないというような,一世代前の,弱者に対するいたわりのないことでした。人口も減少傾向だそうです。

 私は,「きく宗」から歩いて,吉田城址を目指しました。途中,吉田宿の本陣跡や西東惣門跡などがありましたが,都会の中心部でもあり,宿場の雰囲気はほとんど残っていませんでした。しかし,人通りも少なく,また,きれいな町でした。
 やがて,豊橋市役所に着きました。ここは,週末でも最上階の13階に展望台があって,昇れるということだったので,行ってみました。おそらく,ここが,豊橋市で最も高い場所なのでしょう。とても見晴らしがよいところでした。
 豊橋市役所の北側が吉田城址でした。
  ・・・・・・
 1505年(永正2年)今川義元の親である今川氏親は,三河の松平氏を抑えるため,牧野古白(こはく)に命じ今橋城を築かせました。戦国時代,今橋城は,激しい攻防が繰り返されるなか,名称を吉田城と改めました。1564年(永禄7年)徳川家康が吉田城を攻略し,城主に酒井忠次を置きました。
 1590年(天正18年)徳川家康の関東移封によって,池田輝政が入城し,城地の拡張や城下町の整備を行いました。その後は,財政的要因のため,完全に整備されないまま明治を迎えました。
 明治維新による版籍奉還で,敷地は兵部省の管轄となり,1873年(明治6年)に失火により多くの建物が焼失してしまいました。
 太平洋戦争後,三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され,本丸には1954年(昭和29年)に鉄櫓(くろがねやぐら)が再建され,中は資料館となっています。
  ・・・・・・
 吉田城の外周は東西1,400メートル,南北700メートルで,本丸の内側,門周辺,及び,豊川に面した側が石垣となって今も残っています。鉄櫓は無料で,小規模ながら,景色もよく,なかなかのものでした。
 
 これで,今回の目的は達成できたので,市電に乗って豊橋駅まで行って,そこから名鉄電車に乗り換えて帰ることにしました。
 市電の駅に向かう途中で目にしたのは,安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)の豊橋鬼祭でした。いつものとおり,何と奇遇なことか! 私はいつもこんな具合です。そこで,ちょっとだけ安久美神戸神明社に寄ってみることにしました。
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 939年(天慶2年)坂東で平将門の乱が起き,朝廷は,参議の大伴保平を勅使として東海の伊勢神宮へ派遣し関東平定を祈願しました。翌年,平将門の乱は平定されました。そのお礼として,朱雀天皇が豊川左岸の安久美荘を伊勢神宮へ寄進したことで,安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(=神戸)となり,その屋代(やしろ)として創建されたのが安久美神戸神明社です。
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 豊橋鬼祭は,毎年2月10日から11日にかけて行われる 安久美神戸神明社の春の例祭です。
 荒神である赤鬼を天狗が退散させ,天下を清める様子を具現化した「赤鬼と天狗のからかい」で知られ,赤鬼が浄罪として撒き散らすタンキリ飴の飴粉で見物客は全身を真っ白に染められることから「天下の奇祭」と称されるそうです。

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 私は菜飯田楽(なめしでんがく)が好物です。
 名古屋市内にも「鈴の屋」という菜飯田楽を提供するチェーン店があります。しかし,年配の人には人気でも,若い人にはそれほどでもないようで,店舗も減っており,若干,斜陽気味です。これもまた,名古屋メシとして売り出せばいいと思うのですが,実は,菜飯田楽は名古屋メシというよりも,豊橋付近の名物料理のようです。我が家の近くにも田楽を出す店はあるのですが,そこでは菜飯が食べられません。
 菜飯田楽を提供する店が少ないので,どこかおいしい店がないものかと調べていると
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 平安時代末期,中国から豆腐が伝来し,拍子木型に切った豆腐を串刺しにして焼いた料理が生まれました。やがて,味噌がすり潰されて調味料として使われるようになり,焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行しました。白い豆腐を串にさした形が田植えのときに田の神を祀り豊作を祈願する田楽の白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ているため「田楽」の名になったといいます。
 菜飯田楽は,米の飯に大根葉を乾燥させ炊き込んだものと田楽を合わせた料理です。
 東海地方では菜飯田楽を出す店が多く,特に,1820年ごろの文政年間創業の「きく宗」は,吉田宿の名物料理であった赤味噌の豆腐田楽と菜飯をセットにした菜飯田楽を地元の名物料理として提供しています。
  ・・・・・・
とあったので,これはぜひ一度は食べてみたいと,わざわざ行ってみました。

 店があったのは,旧東海道の吉田宿本陣の近くでした。
 1945年(昭和20年)の豊橋空襲で店舗が全焼しましたが,翌年には営業を再開したといいます。また,1968年(昭和43年)に,矢作ダムに沈む古民家を買い取り,当地に移築したのが,現在の店舗だそうです。
 午前11時30分からということで,その15分前に着いたのですが,すでに10人ほどが列を作っていました。間口が狭く,時間がかかるかな,と思ったのですが,奥行きがあって,すぐに中に入ることができました。メインメニューは菜飯田楽のみということで,それを注文しました。しかし,料理が出てくるのに30分ほど時間がかかりました。
 豆腐田楽はおいしかったのですが,他の店で食べたものより,菜飯が少しばかりべたべただと私は思いました。まあ,もともとそういうものなのかもしれませんが。

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 葦毛湿原(いもうしつげん)は,期待したのとは違って,やたらと立て札やロープが多くて,雄大なイメージがありませんでした。日本は,自然を破壊することにかけては天下一品です。花が盗まれたり,荒らされたり,ゴミが捨てられていたりと,アメリカと比べると,公園やキャンプ地を訪れる人に道徳心がないのです。日本人は,一見従順そうですが,それは人の目を気にしているだけのことで,人が見ていないと,突如,傍若無人に変身するのです。そんな国で,貴重な生物を守ることは並大抵なことではありません。私も,以前,秋,彼岸花が美しく咲く私の家の近くの公園で,隠れて彼岸花を切り取っている女性を見つけて,悲しくなったことがあります。
 葦毛湿原がどんなところかわかったので満足して,バスで,次の目的地である吉田城へ行くことにしました。バスは30分に1本ありました。

 バスに乗りながら,外を見ていると,大きな池が目に留まりました。そこは向山緑地でした。向山,といえば,私は思い出したことがあるのです。そこで,この場所で降りることにしました。
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 その昔,金子功という人がいました。私もお会いして話をしたことがあります。
 金子功さんは,若いころは軍に勤務していました。自由な気風を求める金子功さんは,戦争が終ると「ようやく自由にモノが言えるようになる」と晴れ晴れし,前日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人たちが「我こそは民主主義の先導者である」と 臆面もなく宗旨替えをするのを見て,自分はそんな恥ずかしいことはできない,「野武士の生活」をしながら社会を変革していくのだと,映画の巡回を行ったり文化講演会を開催したりするようになりました。
 やがて,天文教育を通じて社会貢献ができないかと考えるようになります。生活の糧を得るために天文教具を製作,販売することで蓄えができ,1952年(昭和27年)豊橋市の向山の地に200坪ほどの土地を入手し,口径15センチメートルの反射望遠鏡を備えたスライディングルーフ式の天文台を建設し, 天文台と集会室,プラネタリウムを備えた施設に豊橋向山天文台の看板を掲げました。
 私は,向山という地名だけは知っていました。しかし,それがどこなのか,私はまったく知らなかったのですが,その地がここだったのです。その後,向山は街の灯りで星の観測ができなくなり,北設楽郡東栄町の廃校になった小学校の場所に天文台を開設し,御園天文台としました。御園天文台のことは,以前,このブログに書きました。今は,豊橋向山天文台は存在せず何の痕跡もないのですが,場所は愛知県立豊橋東高等学校のすぐ近くで,学校の校門から左手に行ったところを左折して道路伝いに歩いて行ったところでした。

 私は,長年疑問に思っていた向山という場所をこうして知ることができたわけで,これでまたひとつ,子供のころからの「伏線回収」に成功しました。このごろ,こんなことばかりしています。
 いずれにしても,古きよき,ときめき多き時代でした。今や,画像のデジタル化とAIの進歩で,そんな天文台があったとしても,使い道がありません。夢のない時代になってしまいました。

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Snow Moon 2024.

昨日,月の南極近くのクレーター「Malapert A」にアメリカの月探査機「Nova-C」が着陸しました。
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 豊橋駅から北東に20分ほど歩くと,旧東海道の吉田宿本陣や吉田城があります。私が菜飯田楽を食べようと思っている老舗「きく宗」もそのあたりにあるようです。しかし,葦毛湿原(いもうしつげん)は豊橋駅からずっと東に行ったところなので,歩いていくには遠すぎます。
 そこで,まず,バスで葦毛湿原へ行って,帰りに再びバスに乗って,吉田城へ寄ることにしました。
 駅前にバスターミナルがありました。駅から出るとそこは2階で,バスターミナルは地上階でした。戸惑いながらバス停に着くと,その直前に,私の乗るべきバスが出発してしまいました。そして,次のバスまで30分ほどありました。まあ,急ぐ旅でもないので,次のバスが来るまで駅周辺を散策することにしました。そうこうしているうちに,出発時間のかなり前にバスが来たので乗り込み,出発時間までバスの中で待ちました。
 豊橋市の市内交通は,豊橋市営バスというものはなく,民営の豊鉄バスが路線バスを運行し,豊橋鉄道が田原市までの渥美線という鉄道と路面電車を走らせています。豊鉄バスは豊橋鉄道の小会社で,豊橋鉄道は名鉄グループです。
 不思議なことに,豊橋鉄道はICカードが使えるのですが,豊鉄バスは現金しか使えません。東京ならどこへ行こうと何に乗ろうと現金など全く不要ですが,地方都市に行くと,今なお現金社会で,急に昭和に戻ったような気になります。私は,普段はまず現金は使いませんが,こんな理由から,旅に出ると現金,特に小銭が欠かせないので,旅に出るとき専用の現金がたくさん入った財布を持ってきます。

 以前から葦毛湿原という名前だけは知っていましたが,行ったことはありませんでした。
 場所は,豊橋駅からバスで30分程度も行ったところでした。私の乗ったバスは,はじめのうちは10人程度の乗客がいましたが,途中から私以外にだれもいなくなりました。やがて,葦毛湿原のもよりのバス停に着きました。葦毛湿原はそこからさらに10分程度歩いたところに入口がありました。
 だれもいないのかな,と思ったのですが,土曜日ということで,数人のハイキング客がいました。この人たちの目的は,葦毛湿原ではなく,それに続く自然歩道の散策のようでした。市内から近いので,地元の人には絶好の散歩コースなのでしょう。
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 葦毛湿原は,チャートの岩盤の上を流れる湧水によってできた湿地で,東海地方では最も大きいものです。春のミカワバイケイソウ,秋のシラタマホシクサをはじめ,四季を通して多数の花が観察でき,「東海の尾瀬」として多くの人が訪れます。
 一帯は,標高75メートルから60メートルくらいの小高い山の緩やかな斜面にあって,広さは約5ヘクタールと,プロ野球のグランド程度です。木の遊歩道が作られていて,湿原を1周することができます。
  ・・・・・・
 葦毛湿原は,「東海の尾瀬」とよばれているようですが,尾瀬は植物が長年にわたり堆積してしっかりとした水量を蓄えた湿原ですが,葦毛湿原は渇水の季節には水枯れのようになることもあります。また,後背丘陵地の森林化や夏期の少雨によって,近年,乾燥化が進んでいて,保全のための努力が続けられているそうです。

 もっと暖かくなれば多くの花が見られるのでしょうが,この日見ることができたのは,シラタマホシクサだけでした。
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 シラタマホシクサ(Eriocaulon nudicuspe)は,日本の固有種で東海地方の一部地域の湿地などに生えるホシクサ科ホシクサ属の1年草。葦毛湿原が生息地のひとつです。環境省のレッドリストの絶滅危惧II類(VU)に指定されています。
 花茎の先端に直径1センチメートル程度の小さな花をつけ,白い玉のように見えます。
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 2024年2月10日土曜日。天気がよかったので,豊橋市へ行ってきました。というか,行ってみました。よくよく考えてみると,豊橋市はとても近く,豊橋駅は乗り換えでよく利用しているのですが,豊橋駅で降りたことはほとんどありません。といっても,降りて何をする? という感じでした。車で渥美半島や鳳来寺のあたりに行くときにも,通過地点とはなっても,豊橋市で何をした,という記憶はありません。そこで,一度くらいは,ということで,今回,わざわざ出かけてみました。

 私の好きな歌川広重の浮世絵東海道五十三次を子供のころ見たとき,豊橋宿というのはなくて吉田宿で,そこには城が描かれていました。へえ~,豊橋は昔,吉田といったのか,豊橋城というのは聞いたことがないけれど,吉田には城があったんだ,と思ったことがありました。そこで,豊橋市でお城を見たいなあ,とかねてから思っていました。
 豊橋という名前の由来は
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 1869年(明治2年),吉田藩は伊予に同名の吉田藩があるので,明治維新政府によって改名を命ぜられ,今橋,関屋,豊橋の試案を申し出,その結果,豊橋と藩名変更を命ぜられました。
 今橋は吉田の旧称で,関屋は吉田城西側の地名,豊橋は豊川に架けられた橋です。
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ということだそうです。
 なお,伊予の吉田藩は,仙台藩主・伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が入部した伊予の宇和島藩の五男・伊達宗純が立藩したもので,現在は宇和島市の一部です。

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 吉田宿は,東海道の江戸側から数えて34番目の宿場です。吉田宿のある吉田藩は,浜松藩同様,譜代大名が歴代藩主を務め,江戸での重職を担いました。
 吉田宿は,東海道が設定された当初からの宿場でした。東の二川宿は1里20町,約6キロメートル,西の御油宿は2里20町,約10キロメートルの距離があって,町並は23町30間,約2.6キロメートルの長さがありました。本陣が2軒,脇本陣が1軒,旅籠は65軒,戸数は約1,000軒で人口は5,000人程度でした。
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 このごろ,東北地方などに旅することが多いのですが,そういったところに比べて,東海道沿線は,江戸時代から,政治の中核を成す大名が統治していた藩が多く,また,自然に恵まれた温暖なところでもあり,堂々としているというか,おっとりしているというか,そんな雰囲気を感じます。

 さて,豊橋市に何があるか? ですが,調べてみたところ,吉田城の他には,葦毛湿原(いもうしつげん)と,名物料理として菜飯田楽があるということだったので,これを目的としました。
 豊橋市へは,名古屋駅からはJR東海道線と名鉄名古屋本線で行くことできるのですが,今回は名鉄名古屋本線にしました。名鉄名古屋本線の東の終着駅は豊橋駅なのですが,名鉄の豊橋駅はJR豊橋駅を間借りしているという不思議な構造をしています。線路もまた,豊橋駅と隣の伊奈駅までは,JRと名鉄が上りと下りの1本ずつを所有しているそうです。これは,歴史的な経緯からそうなっているということで,線路は乗っている人にはどうでもいいのですが,駅は,JRと名鉄の改札口が同じだったり,ホームでJRと名鉄を乗り換えるとき,ホームに設置された機械でICカードのタッチが必要だったりと,事情がわからない外国人や旅行者はとまどいます。

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 子供のころ,いつか江戸時代のように街道を歩いてみたいなあ,と思っていたのですが,そう考えていたのは私だけではなかったようで,私の世代には,街道歩きをしている人が少なからずいます。また,このところ,街道ルネッサンスとやらで,江戸時代の旧街道を見直して,宿場を整備しようということが各地で行われていて,さらに街道歩きを楽しいものにしています。
 何事にもいい加減な私は,街道をすべて歩こうなどという,そんな意欲はなく,単に,暇つぶしで気に入ったところを適当に,しかも下り坂専門で歩いているだけですが,それでも,これまで,ずいぶんといろんなところを歩きました。旧東海道では,歩いていて楽しいのは,よく整備された静岡県なのですが,県民性というかなんというか,愛知県はそうした歴史に対するリスペクトが薄いというか,金をかけたがらないというか,大して整備されたところがありません。また,私にはあまりに身近なのが災いして,わざわざ行こうと思ったこともありませんでした。

 そんな愛知県にある旧東海道の宿場は,東から,二川宿,吉田宿,御油宿,赤坂宿,間宿である本宿,藤川宿,岡崎宿,池鯉鮒宿,有松宿,鳴海宿,宮宿と,結構多くがあります。
 そこで,今回,岡崎城に行ったついでに,その帰りに藤川宿を歩いてみることにしました。
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 藤川宿は,東海道五十三次の37番目の宿場です。本陣跡には藤川宿資料館があり,国道1号沿いには道の駅が整備されています。また,1キロメートルほど松並木も残っています。
 藤川は中世から交通の要地でした。1601年(慶長6年)の伝馬制度により宿場が設置され,1648年(慶安元年)山中郷から住民を移し,加宿の市場村が東隣して成立しました。藤川宿は幕府領で,村高310石,町並家数43,馬役人18,歩行役人24,問屋1。宿内人1,213人,総家数302,本陣1,脇本陣1,旅籠屋36でした。
 宿の西端に一里塚や十王堂があって,吉良道の分岐点でもありました。
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 多く宿場と同じように,藤川宿もまた,国道1号線と並行して残っていて,道幅などは江戸時代のまま当時の町並みの雰囲気が保たれています。古い家もときどき見られますが,その多くは遠慮がちに新しい家に建て替えられていて調和がないのも,また,どの宿場跡で見られる姿と同様です。
 私は,いつも,こんな宿場町を歩きながら,気の利いたカフェがあればコーヒーを飲んだり,お昼に訪れたときは,おそば屋さんがあれば入って食事をしたりといった楽しみを期待するのですが,多くの場合,そんなお店は存在せず,単に生活空間です。また,道路は,車がすれ違うにはちょっと狭いのにもかかわらず,結構,地元の車が行き来するので,歩いていてもいつも車に気をつけなければならないから,それほど楽しくないのもまた同じです。

 藤川宿は,江戸時代には,むらさき麦の産地として栽培されていたところでしたが,それも廃れ,幻の麦となっていました。近年になってそれが再現されたということです。私が訪れたときは何もみられませんでしたが,5月中旬になると美しい紫の穂が見れれるそうなので,そのころに行くのがよいようです。むらさき麦はは本来の大麦の成分に加えブルーベリーなどに含まれる「アントシアニン」が入っている麦ということです。
 また,藤川宿の東の入口に東棒鼻,西の入口に西棒鼻棒鼻があります。私は棒鼻ということばをここではじめて知ったのですが,棒鼻というのは駕篭の棒先の意味です。大名行列が宿場へ入るときに仕切り直して恰好よく入場するために,この場所で先頭(=棒先)を整えたことからそうよぶようになったということで,宿場の門として入口に宿囲石垣がありました。
 歌川広重の東海道五十三次藤川宿は,この東棒鼻の様子を描いたものということです。

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 表面的には活気を呈していたようにみえた川崎市でしたが,歩き回っているうちにいろんな裏の面が見えてきました。結局,ここは,競馬場と競輪場と昔あった川崎球場と,そして,風俗街の町でした。
 まず,前回書いた川崎大師に行く途中に巨大にそびえていたのが競馬場でした。そして,川崎大師の帰り,さすがに歩くのは断念して京急に乗って川崎駅に戻り,次に目指したのが,かつて川崎球場のあったところでしたが,お隣には巨大な競輪場がありました。

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 川崎球場は,かつて,川崎市に存在した野球場でしたが,プロ野球が去ってからは,大規模な改修ののち,アメリカンフットボールや軟式野球等での利用が主となり,2014年に富士通スタジアム川崎となりました。
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 川崎球場は,1951年(昭和26年)に竣工し,1952年(昭和27年)にはプロ野球公式戦・東急フライヤーズ対大映スターズ戦が開催されました。
 昭和20年代の貧しきころの日本は,在京5球団がすべて現在の東京ドームの前身であった後楽園球場を本拠地としていたので,川崎球場ができたことで,首都圏でのプロ野球の日程の過密化の解消に役立ったのでしょう。
 1954年(昭和29年)に高橋ユニオンズが川崎球場をフランチャイズとし,1955年(昭和30年)からは大洋ホエールズも川崎球場をフランチャイズとしましたが,高橋ユニオンズは1956年(昭和31年)オフに消滅したので,それ以降1977年(昭和52年)まで大洋ホエールズのみの本拠地となりました。私の記憶に強く残るのはこのころのことです。
 しかし,大洋ホエールズは,老朽化が著しくなったことで川崎市に改修を要求しても一向にそれを実施しない川崎球場に嫌気がさして,1978年(昭和53年)に横浜スタジアムを専用球場として移転してしまいました。
 主のいなくなった川崎球場は,次に,本拠地がなくジプシー球団であったロッテオリオンズが専用球場として使用することとなり,それは1991年(平成3年)まで続きました。しかし,観客は入らず,最悪の本拠地といわれました。野茂英雄と村田兆次の対決,そして,落合博満がいて,観客が1,000人も入らなかったなんて異常です。

 川崎球場が最悪だった原因は,川崎市が川崎球場を改修しなかったことに尽きます。老朽化し,かつ,狭隘な球場では魅力がありません。その結果,試合をよそにスタンドで流しそうめんや麻雀などをしたりカップルがいちゃついていたりという姿だけが話題となりました。また,選手側にとれば,ロッカールームは通気性の悪さから湿気が多く,観客側にとれば,スタンドの座席は狭隘で座りにくく,トイレは男女共用の汲み取り式便所でしかも鍵が壊れているという有様でした。球団も「テレビじゃ見れない川崎劇場」といった自虐的なテレビコマーシャルを流したりしたのですが,こうなると悲劇を越して喜劇でした。
 当然の結果として,ロッテオリオンズも千葉マリンスタジアムに逃げていきました。
 私は,こうした場末感は嫌いでなく,ずっと気になっていて,さぞがし風紀の悪いところにあるのだろうと思っていたのですが,現在は,表面的には思ったほどひどい場所ではありませんでした。また,奇しくも,私が行ったときはロッテオリオンズの投手だった村田兆次さんが亡くなったばかりで,事務所には献花台がありました。これが場末感ただようこの地にふさわしいというか,何か象徴的な感じがしました。いずれにしても,アメリカなら二軍以下四軍1Aのスタジアムのようなものです。日本のプロ野球はアメリカのMLBと同類に考えてはいけません。

 そんな川崎球場を後に,駅に向かって歩きはじめたのですが,そこにあったのがつぶれかけた居酒屋やら古びた風俗街でした。帰宅してネットで検索してみたら,私が朝まず歩いた旧東海道を巻くようにして,駅の北側が堀之内という場所で,ここは昔の青線,今は,ソープ街となっているところでした。また,駅の南側は南町という場所で,ここは昔の赤線,今は,ここもまたソープ街でした。
 なぜここにそうした風俗街が川崎市に存在しているかといえば,かつて,この地には富士紡績の工場やら,現在の東芝である東京芝浦電機,現在の日本コロムビアである日米蓄音機製造,現在の味の素である鈴木商店などの工場が進出し,さらに,東京湾岸には京浜工業地帯として,現在のJFEスチールである日本鋼管があって,これらの工場の従業員がお客さんとなって栄えていったからだそうです。
 私が歩いていたのは午前11時前後のことで,9月に歩いた旧吉原遊郭跡のように,風俗店に出勤する途中の女性がタクシーから降りる姿を多く見かけましたが,思った以上に若いのに驚きました。
 それにしても,日本の旧街道沿いを歩いていると,日本各地どこも,江戸時代には遊郭があって,それが赤線になって,現在は,風俗店に変わっていたり,空き地となっていたりします。また,かつて,武士に必要な武具の類を生産するために必要だったさまざまな原材料を作っていた人たちが住んでいた被差別部落があったという跡も見かけます。日本は,その長い歴史の中で存在したそういう場所が今も深く根ざしている国なのだといつも思います。そしてまた,かつて景気がよかったころに作られ,今は潰れたパチンコ店やら廃業した旅館やら主のいなくなった古い店舗やらが多く存在し,それらの多くは,所有者が行方不明だったり,権利が複雑に絡まっていたりして,壊すに壊せず,売るに売れず,廃墟化しているところが多くあって,それらが原因で再開発も行えず,また,不法投棄の場所となってしまっていたりと,まるで,町全体がゴミだめのようです。

 11月の東京旅行は,予報では雨だったのですが,結局,今回も,私は雨には降られませんでした。
 東京にいるうちは天気がよく,東京から帰るときに雨が降りはじめたようですが,私にはまったく影響がなく,名古屋に帰ったときは,ずっと降り続いていたという名古屋の雨はすでに上がっていました。ということで,今回もまた,晴れ男パワー全開でした。
 さて来月は12月のNHK交響楽団の定期公演のほかに,その2日前にもうひとつ別のコンサートを聴くことになったので,2泊3日で東京に行くことになりました。中1日時間ができたので,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にちなんで,久しぶりに鎌倉へ足を延ばして,歴史散策をしてみようと思っています。

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 今から40年近く前,お正月の初詣バスツアーとかに参加したことがあります。大晦日に出発して,早朝,確か,川崎大師と浅草の浅草寺と神田明神だったかに行くというスケジュールでした。そのときのことはほとんど忘れてしまったのですが,なぜか,川崎大師の仲見世でトントコトントコと飴を切る音だけがずっと記憶に残っています。数件の店があって,それぞれの屋号に元祖だとか本家だとか老舗だとか書かれてあったのがとても滑稽でした。
 そんな川崎大師が今どうなっているのだろうとふと気になっていたので行ってみることにしました。

 JR川崎駅で降りて旧東海道を北に歩き,六郷の渡しまで行ったあとに,川崎大師まで歩きました。大した距離でもないだろうと思っていたのですが,さにあらず,かなりの距離でした。
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 川崎大師という通称で知られる平間寺は,真言宗智山派の大本山で,1128年(大治3年)の建立です。尊賢上人を開山とし,平間兼乗を開基とします。
 平間兼乗が海中へ網を投げ入れたところ弘法大師の木像を引き揚げたので,木像を洗い清め,花を捧げて供養し,近くに小堂を構えました。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人がこの話を聞き,1128年(大治3年)に平間寺を建立しました。
 1813年(文化10年)に,徳川幕府第11代将軍徳川家斉が訪れたことで有名となり,1899年京急が開通。初詣発祥の地として,プロモーションの影響で正月に鉄道で寺社仏閣に参拝することが全国的にブームとなりました。現在も,正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなります。
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とネットにあったのですが,私の想像以上に賑わっていました。
 私の地元名古屋だと熱田神宮の門前など,完全にシャッター街と化しさびれてしまっているのですが,ここはそうではありませんでした。
 私は,宗教にまったく信心がなく,お寺自体には興味も関心もないのですが,境内にあった第55代横綱北の湖敏満之像だけは興味をもちました。これは,平間寺を菩提所とする北の湖敏満の三回忌の折に建立された銅像ということでした。横綱北の湖といえば,理事長だったころ,大阪場所に見にいったときに,会場の大阪府立体育舘のレストランでお見受けし,一緒に写真を写したことがあります。それは亡くなるわずか少し前のことでした。

 川崎大師の門前に,私の記憶にあったトントコトントコの飴の音は今もありました。
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 情緒漂う寺社の門前町にリズミカルで小気味よい音が響き渡ります。毎年300万人もの初詣客が訪れることで有名な川崎大師の名物「とんとこ飴」。
 山門に続く約100メートルの仲見世通りには5軒の飴店があり,店先で飴を切る実演販売を行っています。
 トントコトントコという軽快なリズムは飴を切る際に包丁がまな板に当たる音です。
 老舗飴店「松屋総本店」のホームページによると,とんとこ飴の発祥は明治初期の東京・深川で,創業家の店主が昭和初期に川崎に店舗を構え一族がそれぞれの屋号を用いて広めていったということです。こういうアイデアを考えたのがすごいことです。
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 あまりに懐かしくなって,お店の人に話しかけると,うまいこと飴を買う羽目になってしまいました。そう,私は音だけを記憶していて,この飴をなめたことすらなかったのです。いい記念になりました。
 こうしたことを含めて,私は近ごろ,昔経験しておぼろげにしか残っていないさまざまな記憶をたどる旅ばかりしているようです。

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 川崎,といって思い浮かぶのは,かつて日本のプロ野球の球団で,現在の横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズといったころの本拠地だった川崎球場くらいのものでした。スタンドはボロボロ,グランドに背を向けて麻雀したり流しそうめんを楽しんだりと,退廃ムード満載でした。そんな川崎,私はこれまで行ったことがありませんでした。
 いや,たった一度,岡本太郎美術館というところには行ったことがあって,それもまた,川崎市内であったのですが,JRの川崎駅前とはずっとはなれていたように記憶しています。そういえば,川崎大師というところも行ったことがありますが,そのことはまた次回。
 そのころの貧しかった日本,というか,今またそんな日本に逆戻りしているような気もしますが,その,私が子供のころにその地名を知った川崎は,川崎球場を象徴として何か三流で暗く,みすぼらしい感じがして,私がもつ川崎という地のイメージはずっとそんなふうでした。
 そんなわけで,川崎というところの真実の姿をほどんど知らないので,先日,旧東海道の品川宿あたりを少し歩いたその勢いで,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行ったついでに,午前中,今回は川崎宿あたりを歩いてみることにしました。 
 東京駅に午前8時30分ごろに着いて急いで東海道線に乗り換えて逆戻り,午前9時過ぎに川崎駅に降りました。

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 川崎宿は東海道五十三次の2番目の宿場です。東海道成立時点では宿場でなかったのですが,品川宿と神奈川宿の間が往復十里,つまり40キロメートルと異常に長く,伝馬の負担が重かったために,1623年(元和9年)に設置されました。
 設置後,伝馬を務める農民の負担や問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥ったのですが,田中休愚が幕府に働きかけを行い,六郷の渡しの権益を川崎宿のものとするなど川崎宿再建のために大きな役割を果たしたそうです。
 川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっていて,旅籠72軒,うち、飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」、つまり遊郭が33軒,置いていない「平旅籠」が39軒でした。「飯売り旅籠」はのちに南町へ移されました。
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 川崎駅前は,表面的には,私がイメージしていたのとはまったく違い,東京のJRの駅前と変わらず,人と商店がいっぱいの華やかな街でした。そりゃそうでしょう。ここは神奈川県といっても,多摩川を隔てているだけで,おとなりは大田区,そして,羽田空港です。
 旧東海道は,そんなJRの川崎駅前から少しだけ東に行ったところを東海道線に並行して通っていて,品川宿同様に,きれいに整備されていました。あてもなく歩いていると,東海道かわさき宿交流館という建物がありました。ここは市の施設らしく,午前9時から開いていたので,中に入ってみました。旧東海道の宿場跡によくある公営の博物館を兼ねた施設で,館内には,ジオラマをはじめとして,川崎宿の歴史がわかるような展示がされていました。
 しかし,どうも役所的というか,変な人が居座らないためというか,係の人には商売気はなく,展示のある部屋も長居をしないことなどと書かれていて,やたらと警戒心が強く感じました。以前、ニューヨーク・ハーレムの図書館に行ったことがあるのですが,そこもまた,警戒心満載のところでしたが,同じ空気を感じました。要するに,川崎市というのは,そういうところなのだなあ,と私は感じました。

 見学を終えて,ともかく,川崎宿の北のはずれ,かつて多摩川にあった六郷の渡しの跡まで歩いて行ってみました。
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 1600年(慶長5年),当時六郷川といった現在の多摩川に六郷大橋を架けられ,以来修復やかけ直しが行われましたが,1688年(貞享5年/元禄元年)の大洪水で六郷大橋は流され,以降,幕府は架橋をやめ,明治に至るまで船渡しとなりました。
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 現在は,渡船跡の碑と明治天皇六郷渡御碑が建ち,欄干に渡船のモニュメントがあります。
 歌川広重の東海道五十三次の川崎宿に描かれているのが,この六郷の渡しです。対岸には川会所が見え。江戸最後の渡しとして厳しい詮議が行われていのでしょうが,平和が続く世につれて取り締まりも緩やかになり,ほとんど無い状態になったであろうといわれています。
 それにしても,まもなく江戸,というところなのに,わずか160年ほど前は橋もなく渡し船を使って人が行き来していたとは,何ともはや非生産的というか,のどかというか。しかも,明治維新後もその状況はさして変わらず,橋を架けては流され,を繰り返し,何とかまともな橋が架かったのが1925年(大正14年)というから,これもまた驚きです。

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 わずか2年前だというのに,自分が書いたこのブログの文章を読んでも,以前とはずいぶんと考えていることが違うことに気づきます。この2年で,旅をすることの捉え方がかなり変わりました。そして,気負いがなくなり自然体になったようです。
 これだけ円が安くなって,しかも,航空便も以前のようには就航していないとあっては,まだ,海外に出かけるのは当分先のことでしょうから,ここしばらくは日本国内を旅しようと思っているわけですが,それもまたいいものです。
 私が行きたいのは自然あふれる人の少ないところですが,その一方で,今回のように,コンサートや美術展などで東京や大阪に行くことも少なくありません。とはいえ,私は,若い人たちのように,多くの人が集まる繁華街にはもはや何の興味もないのですが,都会にも,これまで知らなかったおもしろいところが結構あるので,そうしたところを探しては,ゆったりとした時間を過ごすのも楽しいものです。

 YouTube を見ると,若い人が,なるべく安価に移動する方法とか,行くことが困難なところにこうして行ったというようなおもしろい番組が数多くあって,私も興味深く見るのですが,それとともに,若いなあア,という感想をもつのです。それは,そうしたことの多くはすでに私も以前にやったことがあるからです。
 しかし,若い人と同じことをする齢ではないので,今は,なるべくゆったりと優雅に移動をするというのが私の最優先となっています。混雑する公共交通機関や,やたらと時間がかかるものは,今の私には無理です。
 ここ数年,海外に行ったときは,少し余分にお金を出して,飛行機の座席をグレードアップしていたのですが,それと同じように,新幹線もまたグリーン車を利用するようになりました。そうしたちょっとの贅沢でかなり快適な旅ができるのです。
 また,旅先での食事は,中途半端にぜいたくをすることや,あるいは,定評があるレストランでも並んで入るなどというのは,私には少しも楽しくありません。ということで,もっとも楽しみなのは駅弁です。

 昔は,駅弁は,単に腹ごしらえをするためのものにすぎず,消極的な理由から利用することも少なくありませんでした。また,列車には食堂車が併設されていたことが多く,それを利用するのが旅の楽しみのひとつでした。しかし,今は,食堂車もほとんどなくなってしまいました。というか,ほぼ絶滅してしまい,時折,食堂車を連結した観光用の特別仕立ての列車が走っているだけで,通常の列車に食堂車が連結されているものはありません。それどころか,車内販売すらないことが多く,うっかり駅で買い忘れると,何も食べずに数時間を過ごさなければならないので要注意です。
 そんな現状ですが,乗車前に駅で買う駅弁は,それを補填してあまりあります。選ぶのに苦労するほど多くの種類があったり,魅力に富んでいます。今回の東京日帰り旅行もまた,品川から乗車した帰りの新幹線グリーン車の車内で窓から夜景を見ながら駅弁を味わうことができたのが,至福な時間となりました。

 この秋から,私は正常モードに戻ります。
 とはいえ,以前のように,ふた月に1度くらいの割合で海外旅行に出かけるわけにはいきませんが,ひと月に1度くらいのペースで,飛行機を利用して遠出をしたり,東京や大阪でコンサートや美術展を見る,ということを楽しみにしていきたいと,いろんな計画を立てているのです。
 とりあえずは,NHK交響楽団の定期会員に復活したので,それを機会に毎月東京へ行って,その折にさまざまなところに足をのばすことや,日本の離島や,東北,四国などのひなびた温泉を旅することなどからはじめようと思っていますが,それ以外にもやりたいことがいっぱい浮かんできます。
 旅はいいものです。


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 これまで書いてきたように,午前中は金美館通りを通って旧吉原遊郭跡を経由して浅草へ行き,午後はNHK交響楽団第1962回定期公演を聴き,あとは品川駅から新幹線に乗って帰宅するだけでした。 
 時間が少しあったので,旧東海道の品川宿のあったところを歩いてみることにしました。
 私は,ときどき,旧東海道をきままに歩いていて,そのことはこのブログに書いていますが,日本橋の始点から,品川宿,川崎宿,神奈川宿と続くあたりはまったく知りません。
 街道歩きを楽しみとする多くのブログがあるのですが,私はそんなストイックな性格ではないので,あくまでその時の気分で下調べもせず,単に,ああ,ここが旧東海道か,とその雰囲気に浸ってそれで満足しているだけです。

 何度東京に行っても,これまで東京都内の旧東海道を歩くということに想いがいかなかったのが不思議ですし,うかつでした。
 そこで,Google Maps で探してみると,旧東海道は,品川駅から少し海岸線に,つまり,JR京浜東北線の西側に続いていることがわかったので,品川駅から私の乗る新幹線の出発時間に間に合うように,旧東海道を南に向かって歩いてみることにしました。楽しかったら,今度来るときは,もう少し真剣に歩いてみようと思いました。
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 品川宿あったところはきれいに整備された商店街になっていました。この国の地方都市の多くは,巨大モールができたために,従来の商店街はどこもさびれてしまっていて,通称,シャッター街となっているところが多く,寂しくなるのですが,東京だけは,いまも,商店街が健在です。それは,土地がないので,巨大モールができないことや,公共交通機関が発達しているので,車に乗るより,列車などで移動する人が多く,商店街の需要があること,そして,そうした商店街がきれいで,歩いていて楽しいことなどが理由だと思います。

 今は海が埋め立てられてしまっているので,歌川広重が描いた品川宿の面影はなくなっていますが,それでも,本陣跡などの遺構が存在していて小さな公園になっていました。
 そういえば,以前「ブラタモリ」でこの品川宿がとりあげられていたのを思い出しました。
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 「品川冨士」ともよばれる品川神社の冨士塚からスタートして番組の前半は,かつて宿場町だった北品川エリアで,旧東海道沿いや「小泉長屋」とよばれる昔ながらの住宅地を散策し,後半は船に乗り,天王洲アイル,芝浦,レインボーブリッジなどの運河を散策した。
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というものでした。
 私はあまり時間がなかったことと,あまりに暑かったことで,今回は,品川宿本陣跡までしか行くことができなかったのですが,こりゃおもしろいと思いました。
 渋谷も新宿も池袋もまったく興味ないけれど,こんな東京,というか,江戸,といったほうがふさわしいところなら,ゆっくりと歩いてみたいものです。次回はぜひ川崎宿まで足をのばしてみようと思いました。

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 七里の渡しの跡の反対側に,道路を隔てて熱田荘という建物がありました。ここは,もともとは1896年(明治29年)に武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭でした。戦時中は三菱重工業の社員寮で,現在は高齢者福祉施設になっています。
 この建物は宮宿をしのばせる遺構で,近世の町屋の形式を継承している貴重な建物だそうです。
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 その右手,つまり東に3,4軒進んだところには,丹羽家住宅がありました。ここは,もと屋号を伊勢久といい,幕末期は脇本陣格の旅籠屋を営んでいました。建物は1808年(文化5年)の棟札があったとされ,木造2階建てで幕末の建物とみられています。
 中には,西国各藩の名のある提灯箱などが残されているといいます。

 七里の渡し跡は,現在,宮の渡し公園になっていますが,ここには,尾張藩主の御殿である東浜御殿がありました。それは,藩祖の徳川義直が造営し,石垣で囲った築出しの出島のような御殿で,海の避暑・休養地として選ばれ,第3代将軍徳川家光も宿泊するなど自慢の御殿だったようで,熱田宿を描いた浮世絵にも見られます。
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 七里の渡し跡とそのまわりの宮宿の面影はこのくらいのものでした。なにせ,名古屋市の市街地,今はほとんど何も残っていません。
 旧東海道は,ここから東に少し行って左に曲がります。続く2本目の筋を左に曲って少し進んだ消防団の詰所前には,西浜御殿跡の案内板があります。
 こちらの御殿は1654年(承応3年)に尾張藩第2代藩主徳川光友が造営し,尾張藩ゆかりの大名や公家などの招待用御殿でしたが,正殿は安政年間(1854年から1860年)に半田市の成岩にある常楽寺に移され,残る諸館も1873年(明治6年)に売却されてしまい,現在は跡形もありません。また,門は春日井市中央公民館に残されているといいます。

 ここから旧東海道沿いを江戸の方向に歩いてみます。
 先に左に曲ったところに戻り,そのまま宮の渡しから直進する方向に100メートルほど進んで左に曲がると,宝勝院があります。宝勝院は,1952年(昭和27年)に近くの高仙寺と合併しましたが,その際に移された木造阿弥陀如来立像の胎内から,木版刷りの摺り仏や写経が発見され「1232年(貞永元年)阿弥陀如来建立」の奥書が発見されました。
 この付近には,かつて,熱田の奉行所があって,宮宿の中心でした。
 宮宿には大名らの公用の宿泊施設である本陣が2軒あり,赤本陣と白本陣とよんでいました。旧東海道が現在の国道247号線に合流したところ,現在のひつまぶしの名店・あつた蓬莱軒本店の敷地内駐車場近くに赤本陣がありましたが,戦災によって遺構は全く残っておらず,説明板だけがあります。また,白本陣はさらに東に行ったところにあったのですが,石碑も説明板もありません。


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hiroshige054_mainDSC_0413DSC_0409DSC_0411IMGP0183 私の住む場所に近いので,これまで行ったこともほとんどなかった宮宿,というか,七里の渡し跡に行ってみました。
 昨年の今ごろ,桑名宿に行ったのですが,宮宿はその次の宿場です。
  ・・・・・・
 宮宿は旧東海道五十三次の41番目の宿場です。中山道の垂井宿にいたる脇街道である美濃路や佐屋街道との分岐点でもありました。現在の名古屋市熱田区にあたります。
 宮宿は東海道で最大の宿場で,本陣2軒,脇本陣1軒,旅籠屋248軒,家数2924軒,人口10,342人を数えたといいます。熱田神宮の門前町であり,港町でもありました。
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 子供のころ,歌川広重の浮世絵東海道五十三次の宮宿の絵を見て,がっかりした思い出があります。すばらしい宿場の絵を想像していたのに,そこにあったのは,鳥居と馬でした。宮宿とその次の桑名宿は海上を渡る七里の渡しで結ばれているので,港の近くにあるはずなのに,どうして熱田神宮が広重の絵に描かれてあるのかもわかりませんでした。
 七里の渡し跡に行ってみて,その場所が熱田神宮のすぐ近くであることを知って,ようやく合点がいきました。
 要するに,七里の渡しのあったところから熱田神宮のあたりが宮宿だったわけです。しかし,今は,宿場の面影はほとんどなく,広い道路ばかりでした。

 東海道がどうして名古屋城の近くを通らず,熱田区を通ってそのまま西の桑名までつながってしまうのかも,とても不思議でした。尾張徳川家の居城である名古屋城は宮宿から北に2里,8キロメートルほども行った離れた場所にあるからです。
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 調べてみると,それは,次の理由からとありました。
 江戸時代以前の東海道は,美濃から墨俣付近で木曽三川を越え,南下して熱田神宮の辺りで干潮時のみに現れる海岸線を対岸の鳴海まで歩くというルートでした。ちょど今のJRの東海道線のルートで,このルートなら名古屋城の近くを通ります。現在の名古屋市南部は,そのころはまだ海の中で,熱田神宮は半島に突き出た場所だったわけです。
 これを変えたのが徳川家康で,江戸から,熱田,桑名,鈴鹿峠という海上ルートを定めたのです。 その理由はふたつありました。
 そのひとつは,東海道は,旅行者の便宜を考えるまえに「軍事情報」の伝達ルートであったことです。確実にかつ速く情報が江戸と京都,大阪間を流れるためには,冬季に関ヶ原から米原辺りで雪に閉ざされる美濃路よりも鈴鹿の峠越えのほうが適していたわけです。
 もうひとつは,鈴鹿峠を越えたほうが距離が近いということでした。
 このように,江戸時代になって整備された東海道は,宮から桑名へと行くのが公式のルートだったのですが,実際は,江戸時代も美濃路を通るルートが使われていて,特に,大名行列や朝鮮通信使などは美濃路を経由しました。実際に歩いてみればわかりますが,宮から美濃路を通り中山道に出たほうが,険しい鈴鹿峠を越すより,平坦でずっと快適です。
 現在は,JR東海道線も名神高速度道路も美濃路に沿っています。しかし,距離としては鈴鹿経由のほうが近いので,高低差が克服できtた新名神高速道路はそちらを通っています。

 今回訪れた七里の渡し跡は,現在は宮の渡し公園となっています。小さな公園です。桑名宿の七里の渡し跡に比べて,見劣りするし,風情もありません。
 この公園は,桑名までの七里の渡しの船着き場だったところです。距離が七里,28キロメートルだったことから七里の渡しとよれました。公認の七里の渡し以外にも,黙認の四日市までの十里の渡しなどもあったといいます。
 宮の渡し公園には,熱田湊常夜灯が再現されています。1625年(寛永2年)に犬山城主成瀬正房がこの先の須賀浦に設けた常夜灯がはじまりで,その後,1654年(承応3年)に風害で現在地に移転し,1891年(明治24年)の濃尾地震まで神戸町の宝勝院に管理がゆだねられていました。現在のものは,1955年(昭和30年),地元の有志により再建されたものです。
 宮宿では,1826年(文政9年),ドイツ人医師シーボルトがオランダ使節に随行して訪れた際,本草学者水谷豊文とその門下生が教えを受けたとあります。その後,彼らは名古屋の医学や植物学の発展に大きな役割を果たしました。また,芭蕉がここからあゆち潟の舟遊びを楽しみ,熱田三歌仙という歌を残したこともありました。
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 この海に草鞋捨てん笠しぐれ
 海暮れて鴨の声ほのかに白し
 なんとはなしに何やらゆかしすみれ草
  芭蕉
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 桑名宿の街並みの雰囲気の残る旧東海道を四日市宿の方向へ向かって少し歩きました。今回は桑名宿から四日市宿まで歩く予定はありませんでしたが,以前,四日市宿から先は歩いたことがあります。
 左手に桑名城の石垣を見ながら旧東海道を歩いていくと,桑名宗社の鳥居があったので,寄ってみました。まだ桜の季節のは少し早かったのですが,社殿ではちらほらと咲いていました。
 桑名宗社は,もともとは桑名神社(三崎大明神)一社があったところに,中臣神社(春日大明神)が遷座して二社合社となったそうです。桑名神社は景行天皇40年から45年にかけて遷座し,天武天皇が壬申の乱で当地から尾張美濃に渡海するときに「此地の地主にして沙羯羅龍王の女妙吉祥」が現れ「本地は十一面観音,垂迹は三種の神宝」であることから「三崎明神」と称して虚空に飛び去ったという伝承があります。また,中臣神社は769年(神護景雲3年)」に創祀されたといいます。

 桑名は中世より商人の港町と交易の中心地として発展しました。戦国期,織田信長の支配下として滝川一益が入り長島城を居城とし,桑名城は家臣が守備しました。織田信長の死後,滝川一益は没落し,織田信長の次男・織田信雄の支配下に入りましたが,のち改易され,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封,その後,氏家行広と続きますが,関ヶ原の戦いで敗北し,1601年(慶長6年)に本多忠勝が入り,桑名藩として立藩します。本多忠勝は「慶長の町割り」とよばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って現在の桑名市街の基礎となり,東海道宿場の整備も行いました。九華公園(きゅうかこうえん)には大きな像があります。
 本多忠勝の隠居後,本多忠政が藩主となり,大坂の陣ののち,千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,姫路藩に加増移封され,家康の異父弟である松平定勝が入りました。それ以降は,譜代大名として松平家が後を継いでいきますがが,桑名は川に近い低地のためにたびたび水害に悩まされることになります。
 桑名藩の悲劇は幕末の激動期に訪れます。
 藩主・松平定敬は長州征討や天狗党の乱で京都の守備を務め,徳川慶喜と協調することで成立した会津藩との政治体制は、会桑政権とよばれたように,長州藩や薩摩藩から打倒目標とみなされるようになってしまいました。第二次長州征伐への対応をめぐり徳川慶喜と会津・桑名両藩が対立して京都政界での足掛かりを失い,さらに,桑名藩は朝敵となってしまうのです。
 家から近いところなのに,こうした歴史を私はまったく知りませんでした。

 桑名城は別名を扇城,旭城といいます。
 1186年(文治2年)に桑名行綱が築城したのがはじまりとされます。 1595年頃までに本丸の北東隅に伊勢・神戸城から4重6階の天守が移築されるなど,63の城門と95の櫓が整備されました。のち, 本多忠勝が本格的な近世城郭へと桑名城の大改修し,天守は隅櫓として残されますが,新たな天守は建造に時間がかかり,約30年かけて1635年(寛永12年)藩主松平定綱のときに完成しました。しかし,1701年(元禄14年)に焼失したあとは天守台のみが残されることになりました。
 幕末,新政府軍が迫ると桑名城は開城しましたが,桑名城は焼き払われてしまいました。
 現在,桑名城跡は九華公園となっています。

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 七里の渡し跡のあった神社からは,当時の道幅のまま旧東海道が続いていたので,歩いてみることにしました。
 まず出会ったのが,脇本陣駿河屋跡でした。現在は高級料理旅館の「山月」が建っています。そこから桑名宿の反対側その隣が大塚本陣船津屋跡でした。ここは現在もそのままの名で,高級料亭「船津屋」になっています。
 私はまったくグルメでなく,興味もないので知らなかったのですが,歴史ある町にはこうした老舗があるものです。
 奥が深いです。
 ちょうどお金持ちそうなカップルが食事に入っていきました。

 このあたりは,多くの旅籠屋が集まる桑名宿の中でも最も格式の高い場所でした。
 本陣の名をとった高級料亭「船津屋」ができたのは1875年(明治8年)のことでした。以降,皇族をはじめ,川端康成,志賀直哉,池波正太郎などの文人や要人たちの滞在先として,また,泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台や,将棋の王将戦の舞台として,地元はもとより日本中の賓客に愛されてきたといいます。
 川端康成や志賀直哉,池波正太郎というのは有名で親しみもあるのですが,私は,泉鏡花というのは学校の文学史で知ったくらいのもので,あまりよくわかりません。当然,読んだこともありません。ということで,調べてみました。

 私の手元にある資料には次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
 明治30年代は,浪漫主義の最盛期であった。小説の世界では,硯友社から出た泉鏡花が妖艶な浪漫主義の世界を描き出した。
 明治20年代後半に観念小説から出発した泉鏡花は30年代には「高野聖」などの神秘的・幻想的な作品を発表し,さらに唯美的な「婦系図」「歌行灯」へ進んでいく。
  ・・・・・・

 ???
 さっぱりわかりません。
 浪漫主義というのは西洋のロマ主義ということらしく,理性偏重,合理主義などに相対した感受性や主観に重きをおいた一連の運動で,恋愛賛美,民族意識の高揚,中世への憧憬といった特徴をもつということで,「ロマン」とは「ローマ帝国の支配階級や知識階級ではない庶民の文化に端を発する」という意味からきたものということです。
 ???
 何度読んでもわからないので,私が何とかわかるクラシック音楽のロマン主義のようなものだと思うことにします。
 泉鏡花は,1873年(明治6年)に生まれ1939年(昭和14年)に亡くなった小説家であり戯曲や俳句も手がけました。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られ,近代における幻想文学の先駆者としても評価されているということです。

 「歌行燈」は1910年(明治43年)に発表された小説で,
  ・・・・・・
 恩地喜多八は能のシテ方宗家の甥であったが,謡の師匠宗山と腕比べを行い自殺に追い込んだために勘当される。宗山には娘お三重がいたが,親の死によって芸者となっていた。肺を病み流浪する喜多八は偶々お三重と会い,二度と能をしないとの禁令を破ってお袖に舞と謡を教える。
  ・・・・・・
というあらすじだそうで,1943年と1960年に映画化されました。こんなあらすじで現在上映しても誰が見にいくのでしょうか。
 インターネットはもちろん,テレビすらなかった時代の人々の精神生活がどんなものだったのか想像もつきませんが,現代よりも言葉が重かった時代の小説家というのは,今よりずっと地位が高かったのでしょう。古きよき時代のことです。しかし,旧街道を歩いてこうした歴史に触れるだけで,なにかこころが満ち足りるし賢くなった気がするし,町をあるいていてもなにかしら身が引き締まるように感じるのが不思議なことです。だからやめられません。

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 宮宿から桑名宿までは海路で七里(約28キロメートル)でした。ここを渡るには3,4時間もかかったといいます。現在,宮宿跡にも七里の渡しのモニュメントがありますが,桑名宿のほうが立派でした。
  ・・
 宮宿のある尾張から海を渡るといよいよ桑名宿のある伊勢の国です。江戸からは96里(384キロメートル),京からは30里(120キロメートル)です。
 桑名宿の七里の渡しの船着き場跡には今も伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があります。この鳥居は江戸時代の天明年間(1780年代)に,伊勢の国のはじめの地にふさわしい鳥居をと願い,桑名の商人・矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたものがはじまりで,明治時代以降は,神宮式年遷宮のたびに宇治橋外側の鳥居を削って建て直されています。
 また,立派な常夜灯もあります。常夜灯はかつては1833年(天保4年)建立のものでしたが,1962年(昭和37年)の伊勢湾台風で倒壊し,現在は,上部だけを市内にある多度大社から移したといわれています。常夜灯には安政3年(1556年)の銘がついています。

 歌川広重の「東海道五十三次」の桑名宿の絵には,七里の渡しに面する蟠龍櫓が描かれていて,いかにも船旅を終えた旅人が安堵する様子がうかがえます。
 蟠龍櫓は,七里の渡しを旅する人のだれしもが目にした桑名のシンボルです。建築年代ははっきりしていないようですが、1650年ごろの正保年間の絵図にも描かれていました。1802年(享和2年)の「久波奈名所絵図」に「蟠龍」の名がはじめて文献に出ていて,単層,入母屋造りの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれているということです。「蟠龍」というのは龍が天にのぼる前にうずくまった状態をいいます。
 龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓も,航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
 現在あるのは当時のものではなくて,水門を管理している桑名市が水門の管理所を蟠龍櫓状に復元したものです。 建物の2階部分が展望台として無料で開放されていたので,入ってみました。なかからの展望はいまひとつでしたが,館内には桑名藩に関係する資料が展示されていました。

 航海の守護神といえば,私が車を停めた駐車場の近くに住吉神社がありました。住吉神社といえば海の神様だということを私は近ごろ知りました。
 住吉神社は住吉三神を祀る神社で,全国に約600社あります。桑名は古くから舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれていました。1715年(正徳5年),航海の安全を祈り大阪の住吉神社から勧請してここに住吉神社が建立されました。
 住吉神社は伊邪那岐命がケガレを清めるために海中で禊ぎ祓いをしたときに誕生したといういわれから,航海の守護神となっています。住吉神社には,海の底から誕生した「底筒男命(そこつつのおのみこと)」,海中から誕生した「中筒男命(なかつつのおのみこと)」,海の表面から誕生した「表筒男命(うわつつのおのみこと)」の三神と神功皇后が祀られています。

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 これまで,暇に任せてまた運動不足解消を兼ねて,旧東海道や旧中山道の様々な場所を歩いてきました。
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 江戸時代,東海道は,今の名古屋市熱田区である宮宿を過ぎると,七里の渡しといって船に揺られて伊勢湾を渡って次の宿場である桑名宿に向かいました。江戸から京に行くのには東海道と中山道があったのですが,中山道は,山岳地帯が続き険しい長野県を過ぎて,岐阜県に入ると平坦になり,歩きやすくなります。しかし逆に,東海道は,愛知県から先は,先に書いたように,七里の渡しで海を渡り,やっと桑名宿に着き,その次の四日市宿から先は,険しい鈴鹿峠を越えて滋賀県に行かなくてはなりませんでした。
 だから,愛知県から先は東海道よりも中山道のほうがずっと快適だったろうと,私はそのほとんどを歩いてみて実感しました。

 さて,私の住むのは愛知県なので,宮宿はあまりに身近なところです。七里の渡しのあったところは国道247号線から少し入ったところです。そこにはほとんど寄ったことはありませんが,熱田神宮に沿った247号線は車で頻繁に走っています。しかし,七里を渡った先の桑名宿はまったく知りませんでした。
 高速道路や国道を通って桑名市はよく通ったことがあるのですが,宿場のあった場所がどこかなど考えたこともありませんでした。桑名といえば焼きハマグリなのですが,桑名に出かけて焼きハマグリを食べたこともありませんでした。 
 この春,まだ新型コロナウィルスがさほど深刻ではなく,むしろ,人が少なくて外出するには例年よりもずっと快適だった3月中旬のことでした。
 近場で桜のきれいな場所がどこかないかと調べていると,桑名市の九華公園が紹介してありました。それを読んで,そういえばわざわざ桑名,それも,旧東海道が通っていた場所,そして,桑名宿跡には行ったことがないなあと思ったので,早速出かけてみることにしました。

 愛知県と三重県の県境には,木曽三川といって木曽川,長良川,揖斐川が流れています。
 愛知県から三重県に行くには,この三つの川にかかる長い橋を渡ることになるのですが,渡り終わった三重県のはじめの町が桑名市です。国道1号線は伊勢大橋でこれらの川を越えるのですが,調べてみると,橋を渡り終わったところを左折して川べりを海に向かって走るとすぐの場所に桑名宿があったということがわかり,驚きました。こんなに近い場所だとは知りませんでした。そして,桑名宿が川に面した場所が七里の渡しのあった場所で,今はそこに九華公園と桑名城跡がありました。
  ・・  
 車で行っても楽しくないので,本来ならば,JRの関西本線や近鉄で桑名駅まで行って,そこからが東に歩いて桑名宿まで行き,桑名宿から次の四日市宿まで歩くところなのですが,このご時世,その楽しみは後にとっておくことにして,車を使って,桑名宿跡と九華公園,そして,桑名城跡だけを見てくることにしました。

 国営木曽三川公園から先,長良川と揖斐川には道路幅ほどの狭い中州が海岸までずっと続いています。その中州には道路が走ってるのですが,その道は信号もなく国道1号線にたどり着く近道なのです。そこで,そこをずっと走り,国道1号線に出て揖斐川を渡り終えたところを左折して,堤防道路を走っていくと,すぐに,国営木曽三川公園に属する桑名七里の渡し公園の無料の広い駐車場が見えてきました。九華公園はそのずっと先でしたが,そこに車を停めました。車を降りてしばらく歩いて行くと,七里の渡し跡に到着しました。
 インターネットに,七里の渡し跡に行ってみたという口コミがありました。そこには,何にもない場所,行っても仕方がないと書かれてありました。ネットに書かれた口コミにはこの種のものがよくありますが,私は,この程度の感想しか書けない人を本当に気の毒に思います。何もない,と書く人は,観光地に何を期待しているのでしょう。
 私はこの場所に立って周りを見渡しました。この場所に立つと,江戸時代がよみがえってきました。そして,その時代に生きていた人々の想いが伝わってきました。空も川も広く,とてもすばらしいところでした。だたし,少し前,ずいぶんと話題になった長良川河口堰が不気味でした。
 家から近いのに,これまでこんな場所を知らなかったのかと思いました。
 江戸時代,七里の渡しを終えると再び東海道は陸路となり,はじめの宿場が桑名宿でした。桑名宿は,当時の町並みこそ残っていませんでしたが,道幅は当時のままでした。私は,その道をしばらく歩いてみることにしました。

 桑名宿は旧東海道五十三次の42番目の宿場でした。当時は,本陣2軒,脇本陣4軒,旅籠屋120軒,家数約2,500軒,人口約9,000人というから,東海道では宮宿に次ぐ2番目の規模を誇りました。明治になって関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられたことで桑名の市街地が西に移っていったので,幸いにも桑名宿のあったあたりは昔の面影が残りました。
 「桑名宿雑之部」には「一、此宿蛤・時雨蛤・白魚・干白魚名物なり、」との記載があり,桑名宿の主な名物は蛤と白魚でした。江戸時代,桑名宿から富田の立場にかけての東海道沿いには焼き蛤を食べさせる店が多数軒を連ねて繁盛していました。蛤は焼き蛤か煮蛤として食され,焼き蛤は即席で旅人に供され,煮蛤は土産物として売られていました。
 また,「妖刀村正」で知られる村正は桑名の刀匠でした。
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  桑名の殿さまヤンレーヤットコセーヨーイヤナ
  桑名の殿さん 時雨で茶々漬ヨーイトナーアーレワ
  アリャリャンリャンヨイトコ ヨイトコナー
  ・・・・・・
 というのは,民謡「桑名の殿様」ですが,「桑名の殿様」は桑名藩主のことではなく,明治から大正にかけて米相場で儲けた桑名の大旦那衆のことだそうです。

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 昨年の4月20日,現在の静岡県にあった新居宿から県境を越えて愛知県にあった二川宿まで歩きましたが,このときのことはすでにブログに書きました。夕方二川宿に着いたとき,予想に反して宿場の面影がずいぶんと残っていて驚きました。そして,今度は二川宿をゆっくりと訪ねてみようとずっと思ったので,今回,それが実現しました。
 二川宿は東海道五十三次の33番目の宿場でした。当時は幕府の天領であった場所で,現在の愛知県豊橋市の東部に相当します。JR東海道線は浜名湖を過ぎ,新居町の駅を越えると,豊橋に向かって北西に進路を変え,旧東海道と別れます。旧東海道は新居宿の次が白須賀宿ですが,海側を通っているので交通の便が悪く,現在では陸の孤島のようになっています。そこで街道歩きをすると,JRの新居町から二川駅までの長い距離を歩く必要があります。前回,この間を歩いてそうしてようやくたどり着いた二川宿だったというわけです。

 JR蒲原駅から電車に乗って静岡駅で豊橋行きに乗り換え,JR二川駅に着きました。
 蒲原では小雨でしたが,浜名湖を過ぎたら急に青空になって,すっかり雨が上がりました。
  ・・
 二川宿は,1601年(慶長6年)の東海道設定当初から西側の大岩村と東側の二川村のふたつの村で宿場として人馬継立業務を担当していたのですが,ともに小さな村でしかも1キロメートル以上離れていて負担が大きく,江戸幕府は1644年(正保元年)に大岩村を東に二川村を西に移動させてくっつけて加宿大岩町と二川宿として再構成しました。つまり,むりやり作った宿場というわけです。
 明治になって旧東海道沿いに鉄道が敷設されて,駅が作られることになったのですが,二川宿跡の中心あたりは住民の反対にあって駅は町の西のはずれに作られました。よくある話です。そこで,JR二川駅は西のはずれにあって不便なのですが,皮肉にもそのために町は発展から取り残され宿場町の雰囲気が現在まで残ったのです。
 江戸時代宿場だったところはどこも車がすれ違いないくらいの幅で狭く,宿場を外れると道路が広くなって歩道ができます。そうした宿場町のなかには道路を拡張してしまい,そのために宿場にあった家々が無残に取り壊されてしまったところも少なくないのですが,二川宿は現在県道404号線となっている道路は宿場の中だけはそのままの幅で残っています。しかし,そうした道路にも現在生活道路としてけっこう車の行き交うところとそうでないところがあって,この二川宿は頻繁に車が行き交うので歩いていてとても不快になります。こうした町を歩くときはあえて左側を歩くほうが楽で,右側を歩くと常に車と対面してしまいます。

 江戸時代,二川宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒,旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭いながらもそのたびに再建されてきましたが,明治後も取り壊されずに残った本陣の一部が1988年に改修,復元が行われました。また,本陣のとなりには旅籠も当時のように再現されていて,その両者が「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されています。また,ここにはレストランがあって,手作りの昼食をとることができました。
 食事を終えて,資料館と本陣を再現した建物の中を見学しました。作り直した感がありありなので,昔のままの建物を期待する人には残念でしょうが,江戸時代の様子がとてもよくかわって興味深いものでした。聞いてみると,江戸時代に旅をしていた庶民は意外にも女性が多く,行商などでお金を稼ぐことができたので,それで旅をしていたということです。また,旅籠といっても,1晩に宿泊していた客というのは4,5人程度ということだったので,想像していたよりも快適だったように思いました。
 もし,今,江戸時代にタイムトラベルしたら,いったいどんな感じなのかなあと思うのですが,私の子供のころを思い出すに,それはわずか50年ほど前のことなのに,そのころのお風呂とかトイレを考えると,それを知らない今の若い人は驚くほど旧時代のものでした。電化も自動化もされていなかったのは50年前も200年前もそれほどの違いはなさそうなので,江戸時代は私の子供のころと同じようなものだったのでしょう。ここ50年の変化がすごいのです。
 さらに,二川宿には宿場で有数の商人だった田村家の店舗兼住居の「駒屋」も復原され公開されていたので,見学することができました。

 旧東海道歩きをしていると,静岡県は宿場町を観光用に整備して情報も多いのですが,愛知県に入ると宿場町についての情報も少なくなってしまうのが残念です。そのためにこれまで知らなかった二川宿ですが,ここは,本陣と旅籠屋,そして商家の3か所を見学できる日本で唯一の宿場町となっているいいところでした。

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 ハプスブルグ展を鑑賞してから上野動物園でパンダとハシビロコウを見て,夜はNHK交響楽団の定期公演を聴いたあと小田原で1泊して,翌日は小田原から名古屋まで途中下車をしながら在来線で帰ることにしていました。
 今回途中下車するのは,蒲原駅と二川駅です。ともに,旧東海道の宿場町だったところで,一度は歩いてみたいと思っていたところです。

 蒲原宿は東海道五十三次の15番目の宿場です。現在の静岡市清水区にあって,東京から行くと,富士山の美しい吉原宿を過ぎ,富士川を越えたところにあります。その先は由比宿でさらに西に行くと以前越えたことのある薩埵峠になります。
 蒲原宿は歌川広重描いた浮世絵東海道五十三次の最高傑作「蒲原夜之雪」で有名です。深々と降る雪のなか,人家も遠山に埋もれ静かに眠っているかのよう…。 頭や背中に雪を積もらせた3人の人物が雪道を歩いているだけの絵画からは,雪を踏みしめる音だけが聞こえてきそうな静寂を感じるという旅情あふれるものです。
 しかし,雪の降らない静岡県なので,私は子供の頃から不思議な絵だなあと思っていたのですが,当然,そう感じる人が多く,それを謎としてさまざまに取り上げられています。もともと,歌川広重描いた一連の東海道は,実際の風景というよりも旅情をそそるためのイメージ画としてとらえたほうがよいので,雪景色は蒲原宿を描いたものでなくてもよかったということなのですが,それでも,この絵が鈴鹿峠のあたりなどならば,そうした疑義は生まれなかったのでしょう。しかし,そうした疑義を抜きにすれば,日本人のもつ琴線に触れる人里さびしい雪国の姿として,とても印象に残るものです。

 蒲原宿は現在のJR新蒲原駅から蒲原駅の間にあります。新蒲原駅を降りて,まずは朝食をと思って駅前にあったショッピングモールに行ったのですがまだ開店していませんでした。そこで少し東にもどり,旧東海道から少し外れた場所にある源義経硯水の碑まで行って,そこかでUターンして,蒲原一里塚跡から西に蒲原宿のはずれまで歩きました。
 前日から雨が降っていましたが,この日は雨が上がるという予報でした。しかし,予報に反して小雨混じりのあいにくの日。これでは,雪の蒲原ならぬ雨の蒲原でした。蒲原宿跡のほぼ中央に,この広重の浮世絵「蒲原夜之雪」記念碑があります。歌川広重が蒲原宿を描いたのは,1832年(天保3年),幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京に上った折に描いたものといわれていて,この絵が描かれたと思われる場所に近ごろ建てられた記念碑なのですが,この場所から浮世絵を想像するのは無理で,こころのなかに留めておきましょう。
 蒲原宿は比較的古くから開けた宿場で,富士川を控えていたことから交通の要衝としても重要な地点でした。 もともとは現在の場所よりもう少し海に近く,現在のJR東海道線の南側にあったのですが,1699年(元禄12年)の台風による津波で宿場が流されたために現在地に移転したものです。旧東海道の太平洋岸の宿場にはそうした場所がけっこうあって,日本はずっとこうした自然災害に悩まされていたことがわかります。蒲原宿は,本陣跡や旅籠の建物,大正時代の洋館は今も残り,情緒ある町並みを今も留めています。

 蒲原宿には,東本陣と西本陣のふたつもの本陣がありましたが,現在本陣跡として残っているのは西本陣だけです。西本陣のあった場所に建てられている建物は大正時代のものですが,庭には土蔵や大名が駕籠を置いた「御駕籠石」が残っています。また, 江戸時代に「和泉屋」の屋号で旅籠として使われていた国登録有形文化財には,天保年間当時のままの看板や手すりが残っていますし,旧五十嵐邸は,大正3年に改装された洋風建築で,ガラスと下見板をはめ込んだ独特なデザインで軒蛇腹や軒下の歯型飾りなど洋風の意匠が見られます。また, 志田邸は1855年頃の安政年間に再建されたしょう油・味噌・油などを扱っていた商家で,しとみ戸や店の間・中の間など面影がよく残されているということでしたが,まだ時間が早く,中に入ることはできませんでした。
 蒲原宿はここで鍵状にまがり,そこで江戸時代の町並みは終わります。その先は新しい町なので道路が広がって,単なる道路と歩道が続くので,何も心に訴えるものもなくなります。また,喫茶店の1軒もなく,私は朝食を食べ損ねました。さらに,その先蒲原宿から由比宿まで歩くつもりでしたが,天気が悪く,この先を歩いても特に何もなさそうだったので,私はJR蒲原駅から電車に乗って二川駅に向かうことにしました。

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