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【Summary】
Near Shirakawa-no-Seki, celebrated in Oku no Hosomichi by Matsuo Basho, this ancient barrier marked the frontier to Mutsu. Once a strategic military checkpoint against the Emishi, it later became a poetic symbol. Its site was identified by Matsudaira Sadanobu and confirmed archaeologically in the 20th century.

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白河市といえば,白河小峰城,南湖,そして,白河の関。ということで,最後に白河の関に行ってみました。
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心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに,白川(しらかは)の關(せき)にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へと便(たより)求しも斷(ことわり)也。中にも此關(このせき)は三關の一にして,風騒(ふうさう)の人心をとゞむ。秋風を耳に殘し,紅葉を俤(おもかげ)にして,青葉の梢猶(なほ)あはれ也。卯の花の白妙(しろたへ)に,茨(いばら)の花の咲そひて,雪にもこゆる心地ぞする。古人(こじん)冠を正し衣裝を改し事など,清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに關の晴着かな  曾良
  「奥の細道」
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東北地方を旅すると,どこに行っても松尾芭蕉の遺構に出会います。ここまで私を追っかけてくるの! とある意味わずらわしさを感じるのですが,それは反対で,私が松尾芭蕉さんを追っかけているようなものです。

白河の関は,設置された時期は不明ですが,古代の日本における関所のひとつで,奈良時代から平安時代にかけて都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門でした。こういうことは,実際に行ってみると実感できます。おそらくは,奈良時代,この地方には,別の人々(蝦夷)が支配していて,それを奥州征伐,蝦夷征討として,東北地方の支配権を確立するために軍事行動を起こしたその衝突地点だったのでしょう。724年(神亀元年)には現在の宮城県多賀城市に多賀城が築かれ,これを奥州支配の最前線拠点として大軍を派遣,蝦夷側も団結して抵抗し一進一退の攻防ののち,坂上田村麻呂が蝦夷征討を最終的な終焉に向かわせることになりました。
白河の関より北に位置するのが東北地方とされ,山形県鶴岡市の鼠ヶ関(ねずがせき),福島県いわき市の勿来関(なこそのせき)とともに奥州3関のひとつに数えられます。

平安時代以降は,律令制度の衰退とともに軍事的要衝としての白河関の機能は解消し,「みちのくの象徴」として和歌の歌枕に起用され文学的感傷をもたらす存在となりました。
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 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと
  「拾遺和歌集」平兼盛
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白河の関は,下野国と陸奥国(現在の栃木県と福島県)の国境で,長く,場所が特定されていませんでしたが,1800年(寛政12年),白河藩主・松平定信は文献による考証を行い,白河神社の建つ場所をもって白河の関跡であると論じました。さらに,1960年代の発掘調査の結果,土塁や空堀を設け,それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出し,1966年(昭和41年)に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定されました。
なお,藤井旭さんとその仲間の人たちが建設した白河天文台は,白河の関ほど近くの西側の山の中にあったようです。

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