しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 それにしても不思議なのは,2017年というから,今からわずか4年前まで,私は,ヨーロッパに興味がなかったことです。若いころに,歳をとってアメリカをドライブするのがたいへんになったら,ヨーロッパを鉄道で旅しようとおぼろげに夢見ていただけでした。
 私が今のように,オーストリアやフィンランドを身近に感じられるようになったのは,わずかここ3年のことでした。この間にずいぶんとヨーロッパを旅行したのです。しかも,2020年以降は海外旅行もできなくなってしまったから,本当に,たくさん旅をしておいてよかったものです。
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 ヨーロッパに興味を向けたそのきっかけはアラスカへ行ったことでした。
 2017年8月21日アメリカ横断皆既日食がありました。私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰路に立ち寄ったのがアラスカでした。幸運にもアラスカで思いもよらずオーロラを見ることができてすっかりはまってしまい,ならば,ということで,翌年2018年2月に冬のオーロラを見にフィンランドへ行きました。これでヨーロッパに行くことを覚えました。
 さらに,NHKEテレの「旅するドイツ語」という番組でオーストリアを取り上げていたのを見て,かなり感化されてオーストリアへも行き,そしてまた,なぜかアイスランドにも行き,さらに,フィンランドのヘルシンキへ行き,そのついでにエストニアのタリンに足をのばした,という流れなのでした。
 そもそも,私がアイスランドやエストニアに行くとは自分でも思いませんでした。エストニアに行った動機ののひとつには,NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがエストニアの出身ということもありました。しかし,私がエストニアに行ったといっても,単なる日帰り旅行であり,しかも,行った先は,首都タリンの歴史地区だけですから,これでは,本当のエストニアの姿を知っているとは到底いえません。

 2021年は「日・エストニア友好100周年」ということで,これを記念して,NHK交響楽団の6月公演でパーヴォ・ヤルヴィさんが久しぶりに指揮をしました。そこで,これを機会に,エストニアについて調べてみることにしました。
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 エストニアは1918年にロシアからの独立を宣言し,日本は1921年にエストニアを国家として承認しました。しかし,エストニアは1940年に再びソ連に併合されます。1990年にやっとソ連からの独立回復を宣言し,日本は1991年にエストニアを改めて国家承認しました。
 エストニアには,こうした悲しい歴史があるのです。
 日本は植民地にこそなりませんでしたが大国ロシアのとなりである条件は似たようなものです。フィンランドもまた同様です。しかし,それにしては,日本人は,こうした諸国のことをあまりに知りません。

 今,多くの日本人がエストニアに関して知っていることといえば「電子国家」だそうです。私は民放をまったく見ないので知らなかったのですが,民放の番組か何かで取り上げていたそうです。
 私は,半日ほどタリンの観光地を巡っただけなのでクレジットカードしか使わなかったのですが,エストニアを歩き回ろうとすれば,まずは,空港に着いたときに,真っ先にコンビニ「R-kiosk」に行って,Suicaのようなものを買ってチャージしないと不便なのだそうです。タリンの市民はIDカードを持っていて,このIDカードだけで公共交通機関に乗ることができて,電車だと改札もなく,乗っていると車掌さんが来て,ひとりひとりIDカードをピッとして回るそうです。
 観光客は当然IDカードがないので,こうしたカードを購入する必要があるわけです。しかし,チャージするためには「R-kiosk」の店舗に行かないとダメで,自動券売機はないし,「R-kiosk」の店員さんは冷たく英語もしゃべらないとか。カードを自分でガシャッと入れて暗証番号を打つというのは,ほかの国でも同じですが,旅行者にとれば思ったほど「電子国家」という感じはしません。とはいえ,エストニアの国民には「電子国家」は身近な存在です。

 日本にも「マイナンバーカード」が導入されましたが,税金をとりっぱぐれないのが本音で,セキュリティにも疑念のある腹黒い日本のシステムではうまくいくわけがありません。
 一方,エストニアの「電子国家」の特徴は,「安全で信頼できる個人情報管理」ということだそうです。まあ,いろいろな国に行った私が思うに,日本だけがITに関していろんな面で諸外国と違うというか遅れている感じがします。日本では,個人情報やその認証を安全に電子化できていないことが問題なわけです。
 「安全で信頼できる個人情報管理」というのは,エストニアの国のもつ歴史から来るものということです。エストニアの個人情報銀行を支える技術は「X-Road」です。これは分散したデータベース間の情報共有を安全に行う技術で,エストニア科学学会(Academy of Science of Estonia)が設立した Cybernetics 研究所を前身とするエストニアの企業 Cybernetica が導入したものです。
 エストニアが独立を回復したときに,大きなデータベースを作るお金がなかったので,分散したデータベースを結合する方法をとったのがそのはじめということですが,作りがぞんざいだったために,独立した後もロシアからのハッキングに悩まされたそうです。これを教訓として,この「安全で信頼できる個人情報管理」が国としての安全性を高めているのです。

 1918年にロシア帝国から独立した2月24日はエストニアの独立記念日です。
 しかし,エストニアにはもうひとつの独立記念日があります。それは,再びソ連に占領され,1991年8月20日にソ連から独立を回復した日です。エストニア民族の歴史は凄惨なのです。この8月20日に毎年ラウルピドゥ(Laulupidu)というイベントが行われ,コイト(Koit=夜明け)という歌が歌われます。これは,自由を獲得したエストニア人のこころの叫びで
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 It's dawn, a royal blaze light's victory wakes the earth.
 The horizon is free, the first ray is falling to the ground.
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 それは夜明け,王の言霊。
 大地を呼び起こす勝利の光。
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と歌います。ロシアの圧政から逃れたフィンランドの「フィンランディア」のようなものでしょう。そしてまた,「電子国家」はエストニアが独立を守り抜くための知恵なのです。
 それにしても,大国ロシアの陰で,エストニアやフィンランドなど周辺の多くの国が,そしてまた,多くの人たちがその苦悩の中で生きてきたという歴史の重みは,私のこころを苦しめます。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 私はかつて1度だけ「イギリス」に行ったことがありますが,それは「イギリス」に特に興味があったわけではありませんでした。むしろ,若いころ英語を習っていたときにイギリス人の教師に失礼なことをされて以来,私はイギリスが大嫌いです。やたらとプライドが高い(と私が思う)イギリス人は好きではありませんし,行きたいとも思いません。
 しかし,アメリカ以外の国,特にヨーロッパを旅するようになって,やはり,「イギリス」についても知らなければならないなあと思うようになりました。そこで思い出したのが,私はこの国の英語でのよび方がわからないということでした。それは,以前,友人のアメリカ人の友人のイギリス人と一緒に飲んだときに「English people」と言ったら,おれは「Scottish」だと言い返されてわけがわからなくなったことが理由です。
 日本では「イギリス」「イギリス人」と簡単によびます。しかし,英語でどういうかと考えると困ってしまいます。おそらく,ふつうは「イギリス=England」だと思っているのではないではないでしょうか。だから,「イギリス人=English people」だと私は思っていたのですが,これは間違いでした。そこで,今日は,私のために,きちんとしたよび方を調べてみることにしました。こんなことは常識ではないかといわれるかもしれませんが,私はそんなことさえ知らずに歳をとりました。

 日本人が「イギリス」とよんでいる国の正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)です。私はこれは子供のころから知っていました。いわゆる日本人のいう「イギリス」というのは,イングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドの4つの「国」から構成されているということですが,このことすら,私はほどんど認識がありませんでした。それぞれの「国」は首都を持ち,それらは,イングランドではロンドン,スコットランドではエディンバラ,ウェールズではカーディフ,北アイルランドではベルファストです。そして,イングランドの首都であるロンドンはイギリス連合王国の首都としての機能もあります。
 いわゆる「イギリス」の英訳は「England」ではなく「Britain」です。だから,「イギリス人」の英訳は,「the British」なのです。
 「England」というのはイングランドを指します。しかし,広義では連合王国全体を指す場合もある,というのが混乱を起こす原因です。「the English」「Englishman」「Englishwoman」は,広義で一般には連合王国の国民を指すそうですが,「Scottish」「Welsh」「Irish」と区別して「イングランド人」(だけ)の意味ともなります。

 では,なぜ日本で「イギリス」というのでしょうか?
 「イギリス」というのは,ポルトガル語でイングランドを指す「Inglez」(イングレス)が語源なので,「イギリス=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」ではなく,「イギリス=イングランド」なのです。しかし,それが日本では元の意味にかかわらず「イギリス=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」全体を指して使われているというわけです。
 先に書いたように,英語では「Britain=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」として用いられますが,厳密にいえば,「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)だから,「Great Britain」というとそのうちのイングランド,スコットランドおよびウェールズの3つの国を指すもので,北アイルランドが除外されてしまいます。しかし,それでは 「Great Britain and Northern Ireland」といつもいわなければならない必要がでてきます。そこで,まあ,北アイルランドにはごめんなさいとそこは大目にみて,イギリスのオリンピックチームは北アイルランドも含めて「Great Britain」の名称を用いているということになります。
 イギリスの国民は,自らをイギリス人とみなしているか,または,イングランド人,スコットランド人,ウェールズ人,(北)アイルランド人のどれでかあるとみなしています。あるいは,またはその両方であるとみなしています。自分を何人なのかと思う階層が人によって違うわけです。それは, 日本で自分を「日本人」と思っているのと「江戸っ子」と思っている違いのようなものです。
 ややこしくなりましたが,そういったもろもろのことを含めて,結論として,「イギリス」=「Britain」「イギリス人」=「the British」といえば誤解されないでしょうし,皮肉も言われないことでしょう。

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話は違いますが,静岡県の浜松市出身の人に,「静岡ですね?」と聞くと「いえ,浜松です」と言い返されると聞いたことがあります。それは,聞く方は「静岡【県】の出身ですか?」と聞いているのに,浜松の人にとっては,「静岡=静岡【市】」と考え,「静岡市と浜松市は違うぞ」という意識からきているのでしょう。そしてまた,浜松市の人は静岡市に対抗意識を知らず知らずにもっているのでしょう。
それとは逆に,愛知県では,一宮市や津島市など名古屋市近郊に住んでいる人も「名古屋です」と言います。実は私もそのひとりです。しかし,豊橋市出身の人がどうなのかは知りません。

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 私はアイスランドに思い入れがあったわけでもなく,行きたかったわけでもなく,行ってきたあとでもまだ,どうしてアイスランドに行ったのかさえよくわからない,という状況なのですが,昨年の夏,ふとアイスランドに行ってきました。それからまだ1年も経っていないのに,ものすごく昔のような気がします。
 アイスランドという国は北海道と四国を合わせたくらいの国土で,しかも内陸のほとんどは人も住めない不毛の地,そしてわずか人口は33万人。なのにそんな少ない人口で国として成り立っているというのが,今もって私には不思議なことです。
 私がアイスランドといって思い出すのは通貨危機です。
 リーマンショック以前,アイスランドの通貨であるアイスランドクローナは10%以上と,非常にというか異常に金利が高かったので,それに目をつけてFXで絶好の投資対象だと注目されたことが一瞬だけありました。私も魅力的に感じました。そして,そのわずかのちにリーマンショックが起きてあえなく経済が破たんし,マクドナルドがこの国から撤退しました。当時,アイスランドの人たちは,逆に金利が低い日本円を借りて家を買ったりしていたそうで,そこで悲劇が起きたらしいです。
 そんなたいへんな状況だったのに,なんとか回復して,現在,この国はけっこうなお金持ちだそうです。しかし,鉱物資源もほどんどなく,植物が育つような土地もないような国が観光資源だけでやっていけるとも思えないし,で,私には本当によくわからない国です。実際行ってきたのに,それでも腑に落ちません。

 実際行ってみて,景色は世界一だということはわかりました。あの雄大さは他の追随を許しません。非常に魅力的です。なにしろ,人が少ないのがいいです。
 行くこと自体は意外と簡単です。日本の各都市から直行便のあるヘルシンキから乗り換えるだけなので,ニュージーランドに行くのとさほど違いはありません,というよりもニュージーランドに行くよりはるかに便利です。しかし,私が行ってみて驚いたのは,とにかく,アイスランドの異常なまでの物価高でした。ハンバーガー2,000円,コーヒー800円,……,とくれば,滞在費が果てなくかかります。そしてまた,宿泊施設の少なさと,人々の愛想の悪さから,正直いって再びこの国に行きたいとは,帰国したころは思いませんでした。おそらく私のこの印象は,宿泊したゲストハウスがたまたまひどかったことに大きな要因があるのでしょうけれど。
 ところが,そうした記憶も薄れてきた今となると,あの雄大な自然をもういちど見てみたいと懐かしくなってきたのもまた不思議な話です。物価が高いことをはじめっから織り込み済みで行けば,失望感を抱くこともないでしょうし。ただし,空が暗くオーロラが見られるというのは幻想です。アイスランドの天気は予想以上に悪いです。晴れればかなりラッキーです。帰国してからときどき放送されるアイスランドのの番組や雑誌の写真を見ても,雲ひとつない夜空にオーロラ,という写真は見たことがありません。

 それにしても,あれだけ日本のこととなれば,北方領土や竹島,尖閣諸島が日本の地図にないと非常に敏感な反応を示すのに,世界史などの教科書や地図帳におけるアイスランドの扱いは,アイスランド人が見たら失礼極まりない状況です。この国はヨーロッパの部分図からもカットされているし,世界史の教科書にはこの国の歴史などまったく取り上げられていないのです。
 そこで,ほとんどの日本人はこの国のことをほとんど知りません。
 それにしても,ときどき地図を眺めてみたとき,未だに私は,本当にアイスランドに行ってきたのかなあ,どうしていく気になったのかなあと自分のことながら今でも不思議に思うです。

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知らなかった国①-隣国に翻弄されてきたフィンランド
知らなかった国②-住んでみたいニュージーランド

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 いろんな場所を旅してみた結果,私は日本で「ランド」と呼ばれる3つの国,つまり,フィンランド,ニュージーランド,アイスランドに興味をもちました。日本語で「ランド」と呼ばれる国はこの3つの国のほかにアイルランドとスワジランドがあります(した)が,アイルランドには今のところは興味がなく,スワジランド(Swaziland)は2018年に国名を「エスワティニ」(eSwatini)」と改めることを宣言しました。スワジランドが国名を変えた理由は,英語ではさらにスイスもスイスランド(Switzerland=Swiss Confederation)といって,これと間違えるというのが理由だそうです。英語ではさらにタイもタイランド(Thailand)といいます。

 さて,この私が興味をもった3つの「ランド」ですが,恥ずかしながら,これらの国のことをほとんど何も知りませんでした。オーロラを見るためという理由だけで行ってみたフィンランドは,以前書いたように,調べれば調べるほど興味が増す国でした。特に,フィンランドの教育行政はすばらしく,それを見習おうと日本から多くの研究者が出かけているのですが,その結果として,フィンランドとは真逆の政策をはじめるという皮肉的な悪夢になっています。
 アイスランドは,フィンランドに行ったときに,オーロラを一番よく見ることができる国としてこの国のことを聞いて興味をもちました。それまではまったく私の意識にもない国でした。そこで,この夏にアイスランドに行ってみることにしたので,アイスランドのことは行ってみてからまた書きたいと思います。そこで,今回は,私が興味をもった3つ目の国であって,私の愛するニュージーランドです。

 ニュージーランドはこれまでに一度だけ行きました。この秋に2度目の旅行を計画しています。
 私のニュージーランドの印象は,なんと美しい国だろうか,ということです。日本ではオーストラリアとニュージーランドは一緒にして語られることも多いのですが,このふたつの国はずいぶんと違います。そしてまた,とても似ているところもあります。しかも,隣同士だというのに,このふたつの国はきわめて仲がよいといいううらやましい特徴があります。
 ニュージーランドは地震が多いということだけが憂いですが,その憂いを除けば,私がもっとも住んでみたい国です。
 ニュージーランドの面積は約27万平方キロメートル,ちなみにフィランドンが33万平方キロメートル,日本は38万平方キロメートルなので,ニュージーランドの面積は日本の約4分の3です。しかし,人口はわずか約430万人で,なんと日本の約3%なのです。つまり,日本と同じような島国で地震が多く,緯度も日本が北緯35度あたりでニュージーランドが南緯35度あたりと同じですが,人口だけが決定的に違うということなのです。

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カレリア――。
それはフィンランド民族の魂の土地,民族詩カレワラが歌われた伝説の地。
シベリウスの音楽はカレリアへの愛からうまれた。
霧と沼,白樺と岩肌,冷たく暗い北の国。でも,そこが本当の私たちの故郷。
私たちは二千年も前からカレリアに生きてきた。
第二次世界大戦の時フィンランドはドイツと組んでソ連と戦いそして敗けた。
沢山の若者が死に,敗戦の後に残ったのは三億ドルの賠償金の支払いと,国土の割譲だった。
フィンランド人は戦後八年かかって必死でそれを払った。
国民は歯を食いしばってそれに耐え,最後の賠償船がヘルシンキ港からソ連へ出ていった時――
それを見送って或る人は泣いた。
でも,それだけじゃなかった。
ソ連とフィンランドの国境地帯,カレリアという土地は戦争に敗けたために,ソ連側に割譲された。
カレリア地方には沢山のフィンランド人が住んでいた。
彼らは,自分の国を選ぶことと迫られ,カレリアの人々は一人残らず祖国を選んだ。
彼らは全てを捨て,裸でフィンランドへ引揚げてきた。
 (五木寛之「霧のカレリア」より)
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 私はこれまで「フィンランド」という国について興味もなかったし,ほとんど何も知りませんでした。知っていたことといえば,サウナに入ってそのあとに極寒の湖に飛び込む人たち…くらいのイメージでした。
 いやそれだけではなくて,子供のころに読んだ本で,この国は隣国ロシア(当時のソビエト連邦)とうまく関係を気づかないとつぶれてしまうと書かれていたことが強く印象に残っていました。その時代の大統領は「ウルホ・カレヴァ・ケッコネン」(Urho Kaleva Kekkonen)で,この大統領がそれをきわめてうまくやっているとも書かれてありました。それ以外には作曲家シベリウスの音楽でした。シベリウスの音楽は暗く,精神的に深く,欧米ではあまり人気がなく,日本に愛好家が多いそうです。このシベリウスの音楽については,また別の機会に書きたいと思います。
 私は2018年2月,フィンランドにはじめて出かけて,この国のすばらしさに魅了されてしまいました。そこで,再び訪れる日のために,これまでほとんど知らなかったこの国について調べてみました。

 フィンランド共和国(Suomen tasavalta=Republiken Finland)は北欧諸国のひとつであり,西はスウェーデン,北はノルウェー,東はロシアと隣接し,南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置しています。首都のヘルシンキはロシアの主要都市・サンクトペテルブルクへ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となっています。このように,フィンランドは,ロシアとヨーロッパ諸国の両方からの地政学的重要性から,歴史上何度も勢力争いの舞台や戦場になってきました。
 現在は,豊かで自由な民主主義国として知られていて,「世界で最も競争的であり,かつ市民は人生に満足している国のひとつである」とされています。フィンランドは,収入,雇用,所得,住居,保健,教育,技能などすべての面でOECD加盟国の平均を上回っています。

 では,このフィランドの歴史についてまとめておきましょう。
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 フィンランドの歴史は,先史時代(〜1155年),スウェーデン時代(1155年〜1809年),ロシアによる大公国時代(1809年〜1917年),独立後の時代(1917年〜)の四つの区分に分かれます。
 *先史時代*
 フィンランドには旧石器時代から,南には農業や航海を生業とするフィン人が,北にはトナカイの放牧をするサーミ人が居住していました。400年代になると,ノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し,次第に居住域を拡大していきました。
 *スウェーデン時代* 
 1155年,スウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し,キリスト教(カトリック)を広めました。1323年までにスウェーデンによる支配が完了しスウェーデン領になりました。1581年,フィンランドの独立が模索された結果,ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」となり,フィンランド公国建国が宣言されましたが,フィンランドに植民したスウェーデン人が中心の国家で,長くは続きませんでした。
 1700年からはじまった大北方戦争の結果,1721年のニスタット条約でフィンランドの一部であるカレリアがロシア帝国に割譲され,ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると,1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国しました。その後スウェーデンは戦勝国となったのですが,フィンランドはスウェーデンには戻らずロシアに留め置かれました。
 *ロシアによる大公国時代*
 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し,ロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まりました。1899年,ニコライ2世が署名した二月詔書に,高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言が含まれていることがフィンランド人に発覚したため,フィンランドで暴動が発生。1904年にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンによるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり,ついに1905年には「自治権廃止」は撤回されました。
 *独立後の時代*
 1917年,ロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言,1918年に共産化し,オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立しました。その後,ドイツ軍など外国の介入もあり,フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され,1919年,フィンランド共和国憲法が制定されました。しかし,独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で,1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争い,さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1を失いました。
 第二次世界大戦(継続戦争)では,ソ連と対抗するために枢軸国側について戦い,一時は冬戦争前の領土を回復しましたが,ソ連軍の反攻によって押し戻され,1944年にソ連と休戦,休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦うこととなりました。
 敗戦国になったものの,フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ,ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けたので,フィンランドはソ連へ併合されたり,ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることがなく現在に至っています。
 戦後はソ連の影響下に置かれ,ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず,北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しませんでした。このように,自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわらで,外交・国防の面では共産圏に近かったのですが,ワルシャワ条約機構には加盟しませんでした。これらをフィンランド化といいます。この微妙な舵取りのもと,現在に至るまで独立と平和を維持することができました。
 ソ連崩壊後は西側陣営に接近し,1994年にはEUに加盟,2000年には欧州共通通貨ユーロを導入し,現在の繁栄に至っています。
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