しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:稲葉宿

DSC_5336sIMG_1004IMG_1001IMG_1023 気が向いたとき,美濃路を順に歩いています。今日は現在の稲沢市である稲葉宿から南に進みます。
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 愛知県稲沢市から清須市へは,現在,家並みが続いているので,どこが街道だったのかわかりにくいのですが,探して見ると,現在の自動車道から少し入りこんだ形で,街道の雰囲気が残る狭い道路が続いています。
 清須はもともと織田家の居城があったところで,織田信長はこの地で生まれました。
 現在,立派な天守があるのですが,これは1989年(平成元年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して清州城跡に隣接する場所に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守にすぎません。もともとの城跡の大部分は消失し,東海道本線と東海道新幹線に分断されていて,本丸の土塁の一部が残っているだけですが,城跡の一部は清洲公園となっていて,織田信長の銅像があります。
 なお,以前は清州町でしたが,合併によって,清須市となりました。また,昔から,清州,清須のどちらも使われていて,ともに正しいとされています。

 江戸時代まで,尾張の中心は清洲城とその城下町でした。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い以降,大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢にあり,徳川家康は清洲城を豊臣家対抗の拠点と考えていたのですが,清洲は庄内川水系の下流域にあたり水害が多発することと,水攻めされると兵糧に欠くこと,さらに,清洲城が天正地震で液状化したこと,城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないなどの弱点があったために,1609年(慶長14年),現在の名古屋城のある地に新たに城を築き,新しい都市を開発することとなりました。
 そこで,1612年(慶長17年)ごろから1616年(元和2年)にかけて「清洲越し」が行われ,名古屋城の築城に伴って清洲から名古屋へ都市の移転が行われ,これによって名古屋が誕生しました。清洲越しにより,清洲城下の町屋,神社仏閣などのほとんどが移転しました。さらに,清須城の小天守も名古屋に移されました。

 清須宿は、美濃路の宿場でした。もともと清洲城の城下町であった地が「清洲越し」によって町ごと名古屋城下に移転したために,一旦はさびれたのですが,美濃路の宿駅となって町は宿場町として再生しました。
 旧・美濃路を歩いていると,清洲宿本陣跡の正門があります。清須宿には本陣,脇本陣,旅籠屋が置かれていましたが,1891年(明治24年)の濃尾地震で焼失し,唯一残った本陣正門のみが現存しています。また,近くには洪福山清凉寺が構えています。曹洞宗のお寺でこの辺りが清須宿の中心地であり,山門上層の鐘つき堂から清須宿に時を告げていたということです。
 また,少し離れたところには清洲山王宮日吉神社があります。ここは清洲三社のひとつで,771年(宝亀2年)疫病を鎮めるために建立されたという古い神社です。ここには豊臣秀吉の生母(大政所)が子授けを祈願し秀吉を授かったといわれる子産石があります。
 あまりに身近な場所なので,逆に,今までこんなふうにして歩いたことがありませんでしたが,実際にたどってみると,子供のころに織田信長や豊臣秀吉の伝記を読んでいたときに頭の中に想像したような風景がよみがえってきて,童心に帰ることができる,といった不思議な気持ちになります。


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 稲沢市は中央を南北に名鉄が走り,そのはるか東2キロメートルほどのところを南北にJR東海道線が走っているので,名鉄の国府宮駅とJR東海道線の稲沢駅間の乗り換えは不便です。また,名鉄もJR東海道線も高架でないので,踏切で絶えず道路が混み合います。
 一方,美濃路は稲葉宿を過ぎると南西に進み,まず,現在の名鉄を越え,さらに,JR東海道線をも越えたところでJR東海道線に沿って名古屋に向かいます。稲葉宿の次が清須宿になります。

 JR東海道線の踏切を越えてすぐに旧街道があるのですが,その西側に平行に現在の県道が走っているので,わざわざ通らない限り,旧街道は見過ごされるので,稲沢市に住んでいる人にも,このあたりの住民でなければ縁の浅いところです。
 どこも同じですが,旧街道が現在の自動車道にならず,その近くに今も存在している限り,それに気づくことは少なく,わざわざ徒歩で行ってみて,こんな道があったのかと驚くことが多いものです。
 その反対に,自働車道がないか,あっても旧街道の方が最短距離である場合,狭い道路が朝のラッシュ時には車で大渋滞を起こしているところもすくなくありません。しかし,ラッシュ時以外の時間なら,そこに代々住んでいる人以外はほとんど人が通らないことが多いので,旧街道歩きを楽しむことは可能です。こうした旧街道に気の利いたおそば屋さんとか喫茶店でもあればさらによいのですが,そもそも人が通らないので,そうした店があることのほうがまれなのが残念です。

 先に書いたように,稲沢市に住んでいる人の多くも,ここに旧街道があるという認識をもつ人は少なく,いくつか由緒ある寺があることも,当然知りません。
 亀翁寺は鎌倉時代に創建された古刹です。国の重要文化財に指定されている亀翁寺の木造虚空蔵菩薩坐像は南北朝時代の寄木造で,25年に一度だけ開帳されるそうです。
 亀翁寺から450メートルほど北に行くと左手に長光寺の山門が現れます。門前の街道沿いには 「左京都道大垣道,右ぎふ並浅井道」と刻まれた四ッ家追分の道標が立っていて,ここが岐阜街道(旧鎌倉街道)と美濃路との追分となります。長光寺の入口には仁王門があります。長光寺は平忠盛の五男であり平清盛の弟であった平頼盛の寄進で創建され,足利尊氏が祈願所とし,織田,徳川の保護を受けた古刹なのです。長光寺の境内の地蔵堂は室町時代の1510年(永正7年)建立の六角円堂形です。六角堂に祀られる本尊鉄造地蔵菩薩は文暦2年(1235年)の銘を持ち,足利尊氏は勝軍地蔵と崇め,また,国家に変事があると全身に汗をかくというので、汗かき地蔵ともいわれるそうです。また,堂の正面にかかる大鰐口には永和2年(1376年)の銘があります。寺の奥にある臥松水は織田信長のお気に入りの井戸だったといわれています。
  美濃路と岐阜街道の分岐点の四ッ家追分には「下津,一宮,黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道。 後の岐阜街道と稲葉・萩原・起を過ぎて垂井へ向かう美濃街道との分岐点である」と書かれていますが, かつて,ここには茶屋が数軒あり,うどんが名物であったということです。

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十三夜の月

十三夜の月は後の月,栗名月ともいいます。隣には大接近中の火星が見えました。
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 コロナ禍で遠出をすることがままならなくなったころから,私は街道歩きを兼ねて,地元に残る史跡を求めて散策しました。
 そこで,これからしばらく,私の住む町を通る美濃路について書いていくことにします。
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 私は近年まで旧美濃路が稲沢市のどこを通っていたのか知りませんでした。それは,稲沢市は旧美濃路の稲葉宿だったという基本的な知識に欠けていたからです。
 この歴史ある町は,もっと地元の歴史的史跡を大切に保存していたら,ずいぶんと魅力のある町であることができたと思うのですが,愛知県人というのはそうしたことにお金をかける精神的な豊かさがありません。

 旧美濃路から少し離れたところですが,そこに,大江匡衡,赤染衛門の歌碑があります。その歌碑は,稲沢市にゆかりが深く,百人一首の
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 やすらはで寝なましものを
 小夜更けて
 傾くまでの月を見しかな
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で有名な平安の女流歌人「赤染衛門」とその夫で大江川の開削に力を注いだ 「大江匡衡」のふたりを顕彰するために,市制三十年を記念し,建てられたものだそうですが,単に碑があるだけなので,市民もほとんど関心がありません。
 大江匡衡は,1001年(長保3年)と1009年(寛弘6年)に尾張守に任命されて赴任しました。この歌碑に刻まれた二首
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 はつ雪とおもほえぬかな
 このたびは
 猶ふる里をおもひでつつ
   大江匡衡
 めずらしきことはふりすそ
 思ほゆる
 行きかへりみるところなれども
   赤染衛門
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は,大江匡衡が尾張国に再び赴任した住み慣れたこの地を思い出し詠んだものと,その「返し」に赤染衛門が詠んだものです。

 稲葉宿を出たところには,小沢一里塚跡の標識が道端に立っています。
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 稲葉宿は,稲葉・小沢両村で宿駅業務を行う合宿でした。町並みは8町21間,約900メートルあって,本陣1軒,脇本陣1軒,問屋場3軒,旅籠8軒,家数336軒,人口は約1,500人でした。本陣は小沢村の原所次右衛門が代々世襲していました。
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 宿場跡は,鍵型に左手に曲がる角の正面に本陣の碑が立っていただけでしたが,近年,というか今年,本陣跡地が整備されて,休憩所ができました。また,本陣から西に100メートルほど 行った場所に脇本陣がありました。
 さらに150メートル余り行った北側には西町の 問屋場跡の碑が民家の軒先に立っていて,すぐ先の宝光寺の門前には「右つしま道三里」と刻まれた津島道の道標があります。
 宝光寺の北の西寄りにある禅源寺は大きな寺ですが,そこは,1869年(明治2年)西尾張地域一帯で 起こった大規模な農民一揆「稲葉騒動発端」の地だったということです。禅源寺の鐘を合図に農民の不満が爆発し暴動へと発展した一揆は4日間に及び,30,000人を越える人々が加わったと伝えられているそうですが,今,そのことを知る人がどのくらいいることでしょうか。

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