しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:親不知子不知

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 東海北陸自動車道で終点の富山まで行って,北陸自動車道に入りました。
 私はこれまで富山県というところに行ったことがありませんでした。おそらく,石川県に行ったときに県境は越えたことがあるかもしれませんし,あるいは,若いころスキーをするために北アルプスには行っているので,そのときも県境は越えたかもしれませんが,わざわざ富山県を目的地として旅行をしたことはありません。
 私の思う富山県の印象は,冬寒く夏暑いというところです。しかし,大学を卒業して就職をするときに,結局は行きませんでしたが富山県のある会社に内定をもらっていたので,世が世なら富山県に住んでいたかもしれないのです。
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 富山県というのは有数の観光地で,黒部渓谷や立山,そして,蜃気楼,ホタルイカなどが有名なのですが,私は,それを目的にわざわざ行くこともこれまでありませんでした。どうしてなのでしょう? しかし,近い将来,富山県に夢中になる可能性もあるかもしれません。というのも,今回行ってみて,いいところだと思ったからです。

 北陸自動車道を目的地の親不知まで走っていってもおもしろくないので,早々に一般道に降りて,日本海に沿って走ろうと,魚津インターチェンジで降りました。こここから海岸線に沿って,目的地である親不知子不知に向かうのです。
 おそらく,この日の天気が悪かったらまったく別の印象をもったかもしれませんが,私は晴れているからこそ今日来たので,日本海がそれはそれは美しく眺められました。
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 蜃気楼の見えるところという看板が至る所にありました。
 蜃気楼というのは上暖下冷の空気層の間で光が屈折して観察者の目に届き風景が伸びたり反転した虚像が見える現象だそうです。これまでは,富山湾に流れ込む冷たい雪解け水が大気の下部を冷やして上暖下冷の空気層を作ると考えられてきましたが,最近の調査では,下層が冷やされるのではなく,蜃気楼発生時にはむしろ上層に陸地から暖気が流れ込んでくる現象ということです。
 富山湾で蜃気楼が見られるということは知っていたのですが,どのくらいの確率で見られるのかは全く知りませんでした。これを機会に調べてみると,蜃気楼が見られるのは春から初夏の3月下旬から6月上旬にかけてで,2,3日晴天が続き気温が高く海岸で穏やかな北北東の風が吹く日に発生しやすいとされていて,短いもので数分,長ければ数時間にもわたって幻想的な姿を見せるのだそうです。
 オーロラ同様,蜃気楼予報などというものがあるので,これを頼りに出かければひょっとして見ることができるかもしれません。富山など車ではしればすぐそこです。いやいや,また,余分な? ものに興味をもってしまいそうなのでこれ以上興味を深めるのはやめておきましょう。オーロラ,皆既日食などと同様,こういうものは見ようと思って見れらないとトラウマになってしまいます。
 海岸線を走っていると,確かにいかにも蜃気楼が見られそうな海岸でした。

 さらに進むと,今度はヒスイ海岸というところにたどり着きました。
 ヒスイ海岸という通称は,このあたりの海岸線でヒスイの原石を拾うことができることに由来します。ヒスイ海岸ではヒスイ以外にもルビーやサファイアなども見つかるらしいです。ヒスイは,山から姫川や青海川などの流れによって海まで運ばれてきたという説やフォッサマグナでのヒスイを含んだ蛇紋岩層が糸魚川市から富山県朝日町にかけての海底にも分布していて波の撹拌作用によってヒスイが海岸に打ち上げられるという説が存在するそうですが,実際のところはよくわかっていません。昔はたくさんみつかったそうですが,今は,河川の上流から流れ下ってくるヒスイは川に設置されたたくさんの砂防堰堤に遮られて海岸に到達しにくくなり,海岸に置かれた無数のテトラポッドがヒスイ探しの障害となっていて,海岸で1日かけて探しても数個のヒスイを拾うことができるくらいのものだそうです。
 それにしても,美しい海岸でした。私は,オーストラリアのゴールドコーストを思い出しました。

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 新型コロナウィルス騒動でもなければ,私は,ここにもJRで行こうと考えていました。考えていたルートは次のものでした。
 まず,名古屋から中央本で塩尻まで行きます。そこで大糸線に乗り替えて糸魚川まで行くのです。この行程だと6時間くらいで行ける感じでした。そして,糸魚川の確か2,3駅手前に,ひなびた温泉宿を見つけました。そこは雪を見ながら温泉に入れるという触れ込みでした。ならば,雪の深い季節のほうよさそうだなあ,いつ行こうかなあと考えていました。そこで1泊して,翌日,糸魚川からは日本海に沿って「あいの風とやま鉄道」とかいう第3セクターの列車で親不知駅で降り,親不知海岸を散策して,再び親不知駅から列車に乗って富山まで行き,富山からは高速バスで帰ってくるのです。
 今年の冬まで待って,このコースを実現してもよかったのですが,去る3月6日に車で片道4時間以上かけて日帰りで余部鉄橋を見にいった結果,親不知子不知のほうが余部よりずっと近いではないかと思うようになり,ならばついでに行っちゃえということで,すぐに行動に移したのです。
 今回のドライブコースは,東海北陸自動車道を一直線北に終点の富山まで行って,富山からは北陸自動車道でどこから適当なところまで行ってそこで一般道に降りて,日本海沿いを走るというものでした。これまで東海北陸自動車道は郡上八幡のあたりまでは使ったことがあるのですが,その先を走ったことがなかったので,一度利用してみたかったということもありました。そしてまた,富山という町にも行ったこともなかったので,けっこうこの計画は魅力的に思えました。

 ところで,今,この文章を書いていて気づいたのですが,東海北陸自動車道と北陸自動車道って,名前のつけ方がかなり紛らわしいです。知らない人にはわかりません。混乱します。道路に限らず,日本では名前のつけ方に全体を見渡す配慮がなさすぎます。
 話は脱線しますが,政党の名前も同類です。自由民主党と国民民主党,立憲民主党,さらには,前にあった民主党っていう名前も,考えてみれば意味不明です。みんな民主党のあたまに2文字つけただけではないですか。なのに,どうして自由民主党だけ略称が自民党となるのでしょう? ならば,国民民主党は国民党だし,立憲民主党は立民党です。選挙で民主党と書いたら票数は3等分するのでしょうか? 自由民主党だって,そもそも,もともとは自由党と民主党が合併してできた政党です。
 同じように,東海北陸自動車道だって,北陸自動車道と名前が被っています。
 少し話はずれますが,これまで何度も書いたことがあるように,京都に行って名古屋や東京方面のJRに乗ろうとしても,東海道線というものがありません。京都の人は東海道線を「琵琶湖線」とよぶのですが,こんなもの,名古屋や東京の人にはわかりません。それなのに,東海道新幹線はそのままです。京都の人でも琵琶湖新幹線とはいいません。

 話を戻します。
 早朝自宅を出て,東海北陸自動車道に乗りました。あとはずっと北上するだけでした。ずっと以前に走ったときはほとんどの範囲が片側1車線でしたが,今回走ってみて,おおよそすべての区間が2車線に拡張されていたのにおどろきました。
 このごろ日本国内を車で走ってみたら,私が知らないうちにやたらと道路ができていたのに驚きました。確かに早くて便利です。どこへもすぐに行くことができます。こうして車で走ってみると,私はここ10年以上だだっ広いアメリカばかりをドライブしていたので,それに比べて日本の狭さが身に染みます。車を使えばすぐに日本横断なんてできてしまいそうです。
 これまで,列車を使ってちんたらちんたら旅をしていたのでけっこう広い国だと思っていたのですが,列車で旅をすることがすごく非効率なことだと感じます。これでは,私のような,時間つぶしで旅をする人以外にはローカル線もローカルバスも乗らなくなるはずです。
 しかし,こんなにたくさん道路を作ってしまって,そうした道路の維持がこれからもできるのでしょうか? 日本はこの先急激に人口が減ります。そして,しばらくは年寄りだらけになります。福祉の予算もかかるし,労働者が激減します。現状を保つことすら困難になってくるのです。しかし,依然として,国土を壊し,高速道路を作り需要もなさそうな新幹線を建設しています。そんなことをして,この先維持できるわけないじゃないかと心配になってしまいます。

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 今日からは「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続編で,3月9日に日帰りで日本海の「親不知子不知」に行ったときのお話です。
 行ってからすでにひと月あまりの時間が過ぎました。その間,世界の情勢はさらに悪化し,いつ終わるともわからない不安が増幅してしまいました。わずか数か月前の人が行き交っていた世界が夢のようです。
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 3月6日の金曜日に余部鉄橋の行ったことはすでに書きました。人混みがきらいで週末はあまり出歩きたくないので自宅で過ごし,週明けの3月9日の月曜日,今度は新潟県の「親不知子不知」海岸に車で行くことにしました。雪が心配だったのですが,ぽかぽか陽気で,その心配もなさそうでした。

 私は,長年,ずっと「親不知子不知」海岸に行ってみたいと思っていました。
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 誰もいない(中略)聞えるものは波音だけ。泌み入るようなさみしさである」
  深田久弥「親不知・子不知」より
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というように,北アルプスが日本海に鋭く落ち込み作り出した断崖絶壁に面したわずかな渚である高尾の場所は,明治のはじめまで,そこは越後と越中を結ぶ最短路であり,かつ,旅人が命がけで歩いた道でした。

 また,この場所は,参勤交代をする加賀藩にとっても,最大の難所でした。
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 金沢から江戸に参勤交代するコースは,金沢から北陸道の越後高田を通り,北国街道の信濃追分から中山道を通り江戸へというコースでした。 このコースでは,江戸までの距離は百十九里(約480キロメートル),所要日数は12泊13日なので,1日あたり十里(40キロメートル)を歩いたわけです。旧街道歩きを楽しむ私には実感がわきます。加賀藩の参勤交代行列の人数は最大で4,000人程度,通常は2,500人から3,500人で,日本一大規模なものでした。かかった費用は現在のお金に換算すると5億円とも7億円ともいわれます。
  日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は参勤交代道中の中で最大の難所でした。500人から700人の「波除け人足」が麻縄を持ち,人垣を造って藩主を護り,馬は荷物を付けたまま通ることができないので人間が馬に代わって荷を担ぎ,馬は空荷で通しました。そして, 渡り終えると江戸と加賀に注進の特使を飛ばし,難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
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 私が「親不知子不知」海岸のことを知ったのは,こうしたものからですが,古より,これだけの困難を強いた場所があれば,そこがどんなところかと一度は見ておきたいと思っていたのでした。

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