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弘前城から南西の場所に,多くの寺が集まった場所,禅林街がありました。
ここは寺町。2代藩主津軽信枚が弘前城の南西,風水でいう裏鬼門の方角の砦として,1610年に津軽一円の曹洞宗三十三か寺を集めたものです。
私は,弘前城から歩いて行ってのですが,けっこうな距離がありました。
寺町の入口には黒門と称する門がありました。
行ってみて驚いたのは,江戸時代に植えられたという杉並木が奥までずっと続いていた不思議な光景でした。観光案内所で,長勝寺だけは公開されているといわれたので,そこまで行ってみようと思いましたが,長勝寺は杉並木の一番奥にありました。
行ってみてはじめて知ったのですが,長勝寺は曹洞宗で津軽家の菩提寺で,1528年(大永8年)に鰺ヶ沢町に建立されたものを,1610年(慶長15年)に弘前城築城とともに現在地に移したのです。三門が境内を見守り,境内には鎌倉時代の梵鐘,歴代藩主や奥方の霊廟,本堂,庫裡などが並んでいました。
しかし,何か寂しげ。しかも,寂れた感がありました。ここでもまた,津軽家は尊敬されていないような感じがしました。

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南部家家臣の大浦為信(おおうらためのぶ)が戦国時代後期に南部家の内紛に乗じて津軽地方を統一し, 豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,本領安堵のお墨つきを貰って独立して津軽為信と改名し弘前藩の初代藩主となりました。
津軽為信はしたたかで,関ヶ原の戦いでは,自身は東軍につき,息子は西軍に属させて,どちらか一方が生き残って家名を絶やさないということをしました。
その一方で,家臣に裏切られた南部氏は津軽氏のことを快くは思っていませんでした。
津軽氏の独立から200年以上が過ぎた1821年(文政4年),南部盛岡藩士の下斗米秀之進(しもどまいひでのしん=相馬大作)らが,江戸から帰国途中の9代藩主津軽寧親(やすちか)を狙撃する事件を起こしたのです(相馬大作事件)。
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現在でも,青森県の南部地方と津軽地方の人間はソリが合わないのは,このような歴史の因縁が原因です。
津軽藩の石高は4万6千石。4代藩主津軽信政(のぶまさ)による新田開発で実質の石高は30万石近くあったといわれていますが,凶作が続き,藩士1,000人の大リストラを断行するなど,弘前藩は江戸時代を通してたびたび冷害・地震・津波・洪水といった天災に見舞われ、経済的に追いつめられることも多かったのです。
北辺の地は,ひとたび飢饉に見舞われると,藩の財政は奈落の底に突き落とされます。
コメは上方で現金化されていたから,いわば「コメ=現金」であり,コメが採れないとお金だけを借りることになるから,借金だけが増えて,財政が破綻してしまうのです。
そのようなわけで,天明の大飢饉では,飢饉にもかかわらず領民に米を回すことができず,領内で8万人の死者を出しました。津軽家の殿様は,石高を優先した政治を行ったために,相次ぐ飢饉によって,領民が不幸になっていったのです。
また,江戸時代末期には,異国船の来航などで蝦夷地の警備を任され,さらなる経済負担を生みました。
このような状況で,津軽藩は幕末を迎えましたが,戊辰戦争では,一度は奥羽越列藩同盟に属したもののすぐに脱退し,新政府軍側につきました。その結果,戦後に1万石が加増されたのですが,庄内藩や盛岡藩を敵にしたので,遺恨を残すことになりました。

司馬遼太郎さんが「街道をゆく」で次のように書いています。
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コメが,この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず ―西方の諸藩でさえ江戸中期以後,換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに― コメに偏執し,相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高30万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。
格式が高くなったぶんだけ江戸での経費がかさみ,農民の負担も重くなる。
コメ一辺倒政策の悲劇といっていい。
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