しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:開田高原

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 午後5時,木曽駒高原のゲストハウスヒルトップに到着しました。さすがに気温が低いところだけあって,ちょうど,満開の桜が迎えてくれました。到着したときは快晴だったのですが,夕食のころには曇ってしまい,せっかく星見を楽しみにやってきたのにと,少しがっかりして,早々に寝ました。このごろは何事にも執着心がなくなってしまいました。しかし,すでに書いたように,深夜になって晴れ上がり,今回もまた,すばらしい星空を見ることができました。
 私は,このペンションでの晴天率が異常に高く,ほぼ毎回,星をみることができます。
 翌日も朝から晴れ上がったので,朝食後,早々にチェックアウトして,雲ひとつない御嶽山を見ようと,開田高原へ急ぎました。

 開田高原の木曽馬の里では,ちょうど,コブシの花が満開でした。
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 コブシ(Magnolia kobus)は,モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種で,早春に葉が展開する前に他の木々に先駆けて白い大きな花をつけます。花は3枚の萼片,6枚の花弁,らせん状についた多数の雄しべ・雌しべをもちます。
 コブシの名前の由来は,つぼみの形を握りこぶしに見立てたとする説や,つぼみが開花する様子を握りこぶしが開く様子に見立てたとする説,でこぼこした果実の形を握りこぶしに見立てたとする説などがあります。コブシがそのまま英名の基となっています。また,漢字では辛夷と書きますが,中国では辛夷(しんい)はモクレンのことなので,中国でコブシは日本辛夷と書きます。
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 私がコブシといって思い浮かぶのは千昌夫さんの歌った「北国の春」という歌です。
「コブシ咲くあの丘北国のああ北国の春」なんですが,私は,コブシという花をこれまで知りませんでした。

 さて,帰りもまた,国道19号線を下るのではなく,権兵衛トンネルを抜けて,国道153号線を南下して,奥三河を経由することにしました。とはいっても,あまり時間もなかったし,日曜日でどこも人がいっぱいそうだったので,地図で目についた四谷の千枚田というところにに行ってみることにしました。こんなところなら,ほどんど人もいないだろうなあと思いました。
 国道153号線から途中で国道257号線,そして,県道389号線,県道32号線と進みます。このあたりも行ったことがなかったので,どんなところかと好奇心もありました。
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 鞍掛山の斜面に広がる山間集落に,約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。
 標高220メートルから420メートルにかけて連なる石積みの棚田では,今でも20戸の農家が約420枚の田を耕作していて,先人たちが残した偉大な財産を風化させることなく,地域の人々が主体となって使命感をもって守り続けています。
 山の中腹からこんこんと湧き出る澄んだ水は,大雨が降っても濁ることがありません。水と緑にあふれた棚田は様々な動植物の住処にもなり,まるでおとぎ話のワンシーンのように人と自然が共生する日本の原風景が脈々と息づいています。
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 ということで,これまで多くの千枚田を訪れたのですが,ここが最も広く,きれいでした。こんなとところだれが来るのかと思っていたのですが,帰ってから知ったことに,「JAF MATE」の2023春号に載っていて,それが理由かどうかは知らないけれど,予想以上に人が来ていました。
 千枚田の下に数台車が停められるスペースががあって,そこに車を停めて見上げている人が多くいたのですが,それを過ぎて,さらに中腹まで行ったところにも駐車場と展望台があって,そこでは週末限定で地元の人が五平餅を売っていました。お昼を食べ損ねていたので,というか,お昼が食べられるところは道の駅くらいしかなく,そのどこも混雑していたので敬遠していたので,ここで,お昼代わりに五平餅を食べながら,おばちゃんたちとしばし雑談をしました。そして,さらに一番上まで登れる道を教えてもらうことができました。

 こうして,今回もまた,思いがけない情報を手に入れて,数多くの知らなかった場所に行くことができました。
 奥三河といっても,私は,これまで,足助とか茶臼山とか鳳来寺といった,だれもが知る場所しか行ったことがなかったので,愛知県内にもこんなおもしろいところがあるなら,一度,ゆっくり泊りがけで来てもいいなあ,と思ったことでした。
 四谷の棚田を見たあとは観光客だらけの足助を経由して,猿投グリーンロードという,勝手知ったる道を通って帰宅しました。

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 木曽駒高原の「ゲストハウスヒルトップ」で食事と星空を堪能した私でした。
 2日目の7月2日も猛暑でした。上田,小諸などに寄りながら帰ろうと思っていたのですが,気が変わりました。結果的に気が変わったのはよかったわけで,この日,小諸は日本最高気温を達成していました。
 気が変わった私は,開田高原から高山を経由して帰ることにしました。それは,天気がよくて,御嶽山がきれいに見えそうだったからです。
 開田高原は私の好きなところで,木曽駒高原に行ったときは毎回行くのですが,これまで,開田高原から西に高山に向かって走ったことはありませんでした。一度行って見ようと思ったことがあったのですが,その時は国道361号線が不通で通ることができませんでした。

 まず,開田高原まで行きました。
 ここにある木曽馬の里は,広々としていて,しかも,御嶽山が一望にできるすならしいところです。この日もまた,木曽馬の里に行ってみましたが,期待通り,御嶽山は,背後に雲がありましたが,山頂まで見ることができました。
 ここの観光案内所で聞いてみると,やはり国道361号は不通だということでしたが,迂回路があって,高山までいくことは可能でした。国道361号線の途中に御嶽山の展望台があって,そこまでは通行できるということだったので,とにかく行ってみることにしました。 
 たしかにその先は通行止めとなっていましたが,展望台からの御嶽山はすばらしいものでした。

 現在,信州割というものがあって,宿泊代の補助とともに金券がもらえます。そんなわけで,この旅はものすごく安価で,出費は,まさにガソリン代くらいのものでした。
 帰る途中で金券を使ってお昼をとることにしていました。しかし,まだ時間が早く,おそば屋さんはどこも開いておらず,しかし,このまま迂回路を走って高山に向かうと,長野県を越えてしまうので,金券が使えなくなってしまいます。そこで,展望台から一旦開田高原に戻りました。
 開田高原のおそば屋さんで昼食をとって,再び出発しました。
 帰りは,御嶽山を反時計回りにぐるりと周回することになるのですが,それがまあ,すばらしかったこと。想像以上でした。これは,オーストラリアの片田舎に匹敵するほどののどかさでした。
 日本にもこんなところがあるんだと思いました。
 おそらく,そんな好印象を持ったのは天気がよかったからでしょう。
 やがて,長野県と岐阜県の県境を越えて,岐阜県に入りました。
 しかし,どうしたことでしょう。岐阜県に入ると,視界がせまくなり,まわりは木々ばかりになりました。どうやら,御嶽山の北側は長野県の県境までが風光明媚であるようでした。

 それ以後は,国道41号線をひた走り,帰宅しました。
 国道41号線はさすがに車が多く,それまでのすばらしさはまったくなくなって,すっかり現実に戻されました。ちょっとしたいい夢を見ていたような感じでした。

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 今日の写真は開田高原です。高原という言葉に弱い私ですが,日本には私のイメージする空の広い高原はほとんどありません。しかし,開田高原は私のイメージする高原に近い場所です。
 たとえば,八ヶ岳山麓とか野辺山とか軽井沢もまた,イメージとしてはよいのですが,そうした有名な観光地でなく,ちょっと地味な,落ち着いた場所であることが,さらに魅力的で,私にはこころ休まります。
 本当にいい場所です。
 こうした場所で時間を忘れてボ~ッとしていたいと思ったりするのですが,おそらく私にはそれができません。ボ~ッとしていたいという気持ちとは裏腹に,いつも何かをしていないと気が休まらないという複雑な性格だからです。
 このような場所に住んで,お昼間は音楽を聴きながら読書に勤しみ,夜は満天の星を楽しむ… そんな生活をしてみたい,という願望があるのですが,それもまた,おそらく,そのような生活が実現したら,3日で逃げ出してしまうことでしょう。
 そんな自分に手を焼くのです。
 ところで,開田高原は標高が1,100メートルから1,300メートルと高く,真夏でも平均気温が18度という爽やかな高原で,雄大で美しい御嶽山を見ることができる場所です。こんな場所なら住んでみたいと思う数少ないところなのですが,実際住んでみると,この寒さが耐え難いのだそうです。

 それはさておき,開田高原は木曽馬のふるさとです。そこで,それにちなんで,ここには約50ヘクタールを誇る「木曽馬の里」があって,数少なくなった木曽馬を守り育てながら自然の中で木曽馬と人が触れあい,忘れかけていたふるさとの景色,風,文化を肌で感じることができるという場所になっています。日本にこんな場所があるのか! というすてきなところです。
 この木曽馬の里ですが,民間なのか公営なのか,私にはいまひとつよくわかりませんでした。だれでも自由に中に入れるし,特に入園料というモノもない不思議なところです。調べてみると,運営主体は財団法人の開田高原振興公社で,施設運営の予算については木曽町の一般財源と助成金からなっていて,木曽町から年間 1,700 万円の予算が計上され1,000 万円ほどの売り上げがあるそうです。

 この施設の中にある,おみやげとお食事センターの一本木亭は私の大好きな場所です。
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 信州にそば処数あれど「開田のそばは色は黒いが味は良い」とだれかがいったとかいわないとか…。開田高原は,朝晩と日中との寒暖の差が激しく,夏場はよく霧が出ます。この霧の下で育ったそばを霧下そばといい,それはおいしいそば蕎麦の条件のひとつです。また,開田の女性はそばが打てないと嫁にも行けないとか…。
 ということで,木曽馬の里では毎年約1ヘクタールの畑にそばを栽培しています。
 ここでは,そんなそばを味わうだけでなく,そば道楽体験道場で村の名人たちに直にそば打ちを教えてもらい,自分で打ったそばを味わうこともできます。
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 前回来たときは美しい御嶽山を見ることができたのですが,今回は残念ながら曇っていて,あいにく山頂を見ることはできませんでした。しかし,前回と変わらず,おいしいおそばを食することができました。

💛

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 奈良井宿を出て,木曽福島まで戻ることにしました。
 国道19号を走っていくと,宮ノ越に着きました。いつもそのまま通り過ぎるので,一度くらいはと思って,そこで国道を降りて,町に入りました。
 宮ノ越宿は旧中山道36番目の宿場だったところですが,旧街沿いの街並みには当時の面影はほとんどなく,道だけが街道のころの名残をとどめ,そこが舗装されて車道となり,周りの住居が建て直されたというどこにでもある町でした。ただ,当時の本陣跡には立派な建物が再現されていました。江戸時代,宮ノ越宿の宿内家数は137軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が21軒あって,宿内人口は約600人であったということです。

 宮ノ越宿は,宿場関連の史跡よりもむしろ木曽義仲関連の史跡が多いところです。義仲館という博物館があったので,訪ねてみました。義仲館というのは,木曽義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介したもので,入口に義仲・巴御前の銅像が建っていました。
 木曽義仲といわれる源義仲は平安時代末期の信濃源氏の武将です。河内源氏の一族である源義賢の次男で,源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。
 以仁王の令旨によって挙兵し,都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京しました。飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたのですが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などによって後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢によって粟津の戦いで討たれました。
 私たちの年代では,歴史の教科書というよりも,むしろ,古典の教科書のほうで習った「平家物語」で有名だったりします。

 宮ノ越宿は木曽義仲頼みで観光客を誘致しようとしているのはよくわかるのですが,奈良井宿などに比べたらまったく宿場の風情がないので,ほとんど観光客はいませんでした。義仲館もおそらくはずいぶんとお金をかけて維持しているのでしょうが,なかなかその苦労が実っていないのがしのばれました。
 日本にはこうした観光地が各地にみられますが,結局のところ,博物館頼みでは観光客は来ません。そこに必要なのは昔の風情とおいしい食べ物なのです。

 その後,紅葉がきれいだと聞いた開田高原に寄り道しました。確かに美しい紅葉が広がっていました。さらに,ススキ野原が心を癒しました。ただし,この日は御岳に雲がかかっていて,山頂付近が見えませんでした。
 前回来たときは,前夜は雨で星は見えなかったのに,翌日は晴れわたり,雲ひとつなくはっきりと御岳が見えました。本当に観光というのは天気次第だと痛感しました。
 それでも,こんなのどかな場所が私の住んでいる近くにあるというのがとても不思議な気がしました。

 これで宿泊先のペンションに帰ろうと思ったのですが,せっかくここまで来たので御岳ロープウェイの乗り場まで行ってみようと気が変わりました。私はこれまで御岳のロープウェイは乗ったことがありませんでした。
 乗り場は思ったよりも遠く,山道を延々と走っていくと午後4時少し前にやっとロープウェイの乗り場に到着しました。まだ乗れるかと聞くと,帰りの最終が4時15分とのこと,そして,山頂駅まで15分かかるので,着いたらすぐに降りる必要があるという話でしたが,せっかく来たので乗ることにしました。ロープウェイの車内からの景色がとてもよかったので,単に登っておりるだけだったけれど,それでも満足しました。私がこの日の最後の乗客でした。

 翌日帰宅しました。
 こうして,今回の木曽路の旅は,星も紅葉もすべて思った以上に素晴らしいものになりました。家からも近いので,これからも機会があれば何度でも足を運びたいものです。こんどはもっと時間をとって御岳ロープウェイにも乗ってみたいと思いました。

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 国内・海外問わずこれまでいろいろな場所を旅して,私が行きたい場所や旅先でやりたいことがわかってきました。それは,人の少ないところであって自然が残っているところ,そして過ごしやすい気候であること,そうした場所で時間を忘れて落ち着けるところなのです。
 海外にはそうした場所がたくさんあるのですが,日本国内となると,ほとんどありません。なにせ,国が狭く山ばかりなのに人が多く,どこに行っても昔から人が住んでいて,しかも過疎化のために不便なところは廃墟となっているし,現在観光地となっているところは人だらけだからです。
 このごろ,海外からの観光客が非常に多いのですが,それは何も日本だけのことではありません。そのなかで日本を選んで来るのは,日本の古さと混雑さが珍しいのだと私は思います。

 木曽谷は中津川を過ぎて中央自動車道が伊那谷に別れを告げたあたりからが魅力的です。そこに続く旧中山道の宿場は国道19号線が走っていて,車中からは眺めても,私はこれまで降りて歩いたことがありませんでした。当然,木曽福島の町も歩いたことがなかったので,とても楽しみでした。
 木曽福島の第一印象は郡上八幡と似ているなあ,ということでした。とても落ち着いたよい町並みです。
 江戸時代の福島宿はJRの木曽福島駅よりも北側で,関所から続く上の段と呼ばれているあたりには今も宿場町の風情が残っていてびっくりしました。この宿場にもまた,宿場のシンボルである高札場が復元されていました。
 観光客が少なかったのも私には魅力的でした。
 アメリカの町でいう,いわゆるダウンタウン,つまり現在の繁華街は国道19号前がバイパスとなっていて町と離れていることもあって,そのままの道幅で町屋が続いているのも好感がもてました。私はこうした町を夕暮れにのんびりと散策するのが好きなのです。

 町は木曽川の南東にあって,木曽川を越えた北西にあるのが山村代官屋敷と興福寺です。
 関所跡に行ったあと,私が行ったのはまずこの山村代官屋敷でした。山村氏は戦国大名木曽氏の旧臣で関ケ原の戦いでの功労によって木曽代官を命じられ福島関所を預かったのだそうです。当時の屋敷は壮大で,その一角が現存して公開されているのです。
 昔,代官家を守る「山村いなり」に「おまっしゃ」という木やりを歌うキツネが住んでいて,町の人はその歌で吉凶を占ったのだそうです。この屋敷を解体修理した折にこの屋敷からキツネのミイラがでてきて,現在それがお祭りされていて,お願いすると見ることができました。

 次に行ったのが萬松山・興禅寺でした。このお寺さんは先ほどの山村家の菩提寺です。宝物殿をはじめとして,多くの庭があるのです。
 極めつけは看雲庭という石庭でした。この石庭は一木一草をも用いない枯山水の庭として東洋一の広さを誇るものだそうです。この庭は外からはまったく見ることができないので,突然現れたこの壮大な庭に入ってびっくりしました。
 紅葉の時期になると素晴らしい景色が見られるということなので,ぜひまた来てみたいものだと思いました。

 何が素晴らしいかといえば,ほどんど人がいないということで,京都のお庭ではこういう経験は決してできません。
 このお寺には木曽義仲公の墓もあります。源義仲(みなもとのよしなか)は平安時代末期の信濃源氏の武将です。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。木曽義仲の名で知られていて,「平家物語」においては朝日将軍と呼ばれています。
 以仁王の令旨によって挙兵し都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。荒廃した都の治安回復を期待されましたが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により,粟津の戦いで討たれました。31歳でした。
 護衛わずか13騎,そのなかには巴御前の姿がありました。墓には、「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり。汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴に託した…という遺髪が収められています。
 さらに,寺の隣には御料館という旧帝室林野局木曽支局庁舎があって,公開されていたので見ることができました。
 最後に開田高原に足を延ばして御岳山を見てから帰宅しました。もっと歳をとって車に乗ることができなくなったとき,JRに乗ってこの地に行ってきままに観光するのもいいかな,と思ったことでした。

 木曽谷を走っていると「地酒・中乗りさん」の看板が目につきます。そういえば,子供のころよく聞いた木曽節で唄われる「木曽のナア~なかのりさん」って何だろうと思いました。御岳信仰のことを聞いてなんか薄気味悪い気がしたのがこの地方を知ったはじめでしたが,今回調べてみてその意味がやっとわかりました。
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 ひとつめの説は,その昔木材を木曽川で運搬した際に木材の真ん中に乗った人のことで,木材の先頭を「へ乗り」,後ろを「とも乗り」そして真ん中を「なか乗り」といったというものです。ふたつめの説は,馬の鞍の中央に乗った人を真ん中に乗るという意味で「中乗りさん」といったというものです。そして最後は,木曽御嶽山の信仰宗教である御嶽教の神様のお告げを神様に代わって信者に伝える人の事を「中のりさん」といったというものです。
 そのなかで有力なのが,ひとつめの,木材の真ん中に乗った「いかだ乗り」の説なのだそうです。
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