しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:青森市

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1か月ほど前に弘前市に来たときに見つけたのが,弘前城の近くにあった旧第五十九銀行本店本館でした。美しい木造2階建ての建築で興味をもったのですが,開館時間が午後4時30分だったので、入ることができませんでした。そこで、今回は行ってみようと思っていたので,弘前城の帰りに寄ってみました。
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旧第五十九銀行本店本館は,1904年(明治37年)現在の青森銀行の前身・第五十九国立銀行の本店として建設されたものです。
外観はルネサンス風の意匠を基本としていますが,外壁は板の上から瓦を張りその上は漆喰で塗りつぶされ,窓も外側は漆喰塗としており防火構造が取り入れられています。また,塔屋と屋根は和小屋組とトラスの折衷構造となっています。
1943年(昭和18年)に青森銀行が創立されてからは弘前支店として使用されていました。1965年(昭和40年)に建て替えのため,一度は取り壊されることとなりましたが,1967年(昭和42年)に青森銀行記念館として保存が決まり,現在は,弘前市が所有しています。
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こうした明治時代の建物は,現在,各地で公開されていますが,どれも威厳があり,堂々としていて,当時の人たちの矜持を感じます。

そのあと,昭和のようなノスタルジーあふれる弘前市内をのんびりと散策しながら,弘前駅に向かいました。
途中,「りんごを食べませんか?」と声がかかったので,りんごをいただくことにしました。声をかけたのは,りんご歴史研究所というものをやっている女性でした。
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今でこそ青森といえば「りんご」ですが,「りんご」がはじめて持ち込まれ栽培を開始した当初は苦難の連続だったと伝えられています。りんご歴史研究所はそんな先人たちの挑戦を後世に伝えると共に,青森で未来に向けて挑戦する方々を応援していくために設立されました。
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ということで,私は大のリンゴ好きであり,青森県のりんご栽培の歴史も興味があったので,りんごを食べながら,いろいろとお話をすることができて,楽しい時間になりました。

午後5時ころに弘前駅に着きました。
弘前駅午後5時41分発の快速があったのでその列車に乗ることにして,それまでの時間,弘前駅のビルにあったおそば屋さんに入って,夕食代わりのきつねそばを食べました。軽食のつもりだったのですが,おなかがいっぱいになりました。
やがて,目的の列車が来たので乗り込んで,午後6時23分に青森駅に着きました。
昨年来たときはまだ完成していなかった立派な青森駅がそびえていました。
今回青森駅前の東横インに宿泊したのは,弘前市内のホテルが見つからかなったこともありますが,青森市内に何かおもしろい見どころがあるのでは? という期待からでした。
東横インにチェックインを済ませ,再び外に出ました。

青森駅前はアーケード街となっていて,ねぶたが通るために電線がなく,極めてきれいな街でしたが,午後7時前だというのに閑散としていて,ほとんど人通りもなく,仙台駅前とは雲泥の差でした。
すでに夕食は済ませてあったので,少しお酒でも飲もうと思って歩いていたのですが,適当な店がまったくありませんでした。思っていた以上に,青森市は何もないところでした。
仕方なく,東横イン近くの居酒屋に入りましたが,外の静寂とは違って,店内は客でごった返していてものすごくうるさいし,注文してもなかなか料理は来ないし,やっと料理が来ても,高いだけで量はなく,また,会計を頼んでも何分もまったく反応がないしと,ゆったりと旅のお酒を味わおうという期待とははまったく違ったところで,印象最悪でした。こうしたちょっとしたことで,その街のイメージが台なしになります。
こんな店,入らなければよかったと後悔しました。これもまた,今回の旅の反省点でした。

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今回の旅の最後に訪れたのが青森市文化観光交流施設・ねぶたの家「ワ・ラッセ」でした。
「ワ・ラッセ」は,2011年(平成23年)に青森駅ホーム東側に広がる青森ウォーターフロントエリアに開業したもので,青森ねぶたの保存伝承のほかに,青森の観光の拠点となっています。
名称は公募により,最優秀作品である「ワ・ラッセ」と優秀作品である「ねぶたの家」を組み合わせたものだそうです。
ねぶたに関する観光施設は,以前は,民間の「青森自然公園ねぶたの里」というものがあったということです。「青森自然公園ねぶたの里」があった一帯は,古代,女王・阿弥須(おやす)とその弟・頓慶(とんけい)率いる蝦夷の集落であったとされ,坂上田村麻呂がこれを攻める際に巨大な人形を用いたというのがねぶたの起源であると伝えられていたそうですが,坂上田村麻呂は現在の盛岡市までしか達していないことが史実として青森市民に知られるようになったことで白けてしまったようです。それが原因かどうかは知りませんが,2013年(平成25年)に入場客の減少によって事業を停止してしまい,現在,ねぶたに関する施設はここだけ,ということです。
館内には巨大なねぶたが多く展示されていて,興味深いものではありましたが,「青森市=ねぶた」と思っていた私には,弘前市で見たねぷたの博物館に比べたら,所員の説明があるわけでもないし,これでねぶたの何がわかるか? という感じで,少し物足りな感がありました。

「ワ・ラッセ」を出て,これで,青森市の観光はおわりです。そしてまた,今回の旅の旅程もおわりです。
JR青森駅を通り抜けて,車を停めた場所に戻り,車で空港へ行くことにしました。
JR青森駅は現在リニューアル工事中でした。コンコースに,青森にあるリンゴジュースだけを置く自動販売機がありました。これは「青森の心意気を示した自販機」とネットで話題をよんだものだそうです。調べてみると
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この自動販売機は「JR東日本ウォータービジネス」が青森駅と新青森駅に設置している「acure」(アキュア)で,販売している商品はオリジナル飲料ブランド「acure made」(アキュアメイド)の「青森りんごシリーズ」です。
2017年(平成29年)から設置されていて,ツイッターアカウント「ぐるぐる@guruguruuzumaki」さんが「リンゴジュースしか売らないという青森の心意気を示した自販機」とSNSに投稿したところ,多くの反響があったということです。
「青森りんごシリーズ」は「ふじ」「つがる」「王林」「トキ」「ジョナゴールド」「きおう」があり,また,「ふじ」を主体に「王林」などをブレンドした「青森りんご」もあります。
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とありましたが,現在,この自動販売機は東京にもあって,私も目撃しました。そんなことをしたら,レア感がなくなるのに…。

さて,青森空港は空港の建物のとなりにレンタカーオフィスがあります。青森空港へ車でアクセスるるには有料道路を通る以外に選択肢がなく,したがって,レンタカーオフィスに入るには,必ずこの有料道路を通る必要がある,というだけで,青森県に対するイメージがかなりダウンします。
とはいえ,考えてみれば,これは,セントレア・中部国際空港も同じです。
午後6時過ぎレンタカーを返却して,空港ビルに入りました。飛行機の出発は午後7時35分だったので,それまで,まず,空港内のレストランで夕食をとることにしました。青森空港にはレストランが数軒あったのですが,せっかく来たのだから青森グルメ,ということで,探し出したのが「かわら」という名前のお店の「味噌カレー牛乳ラーメン」なるものでした。
「味噌カレー牛乳ラーメン」が誕生したのは1970年代中頃だそうです。
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札幌市のラーメン横丁でラーメン店を経営していた佐藤清さんが,東北地方にも札幌ラーメンを広めたいと,1968年(昭和43年)に青森市に「味の札幌」を開店しました。
1970年代,青森市の松竹会館の映画館に支店を出した「味の札幌」で,ラーメンにケチャップやマヨネーズ,コーラなどさまざまなものを入れて食する遊びが中高生の間で流行しました。「味噌ラーメンにカレーとミルクを入れて食べるとなぜかおいしい」といううわさが流れはじめて,その要望によって,1978年(昭和53年)に正式なメニューとして「味噌カレー牛乳ラーメン」を発売したのです。それは知る人ぞ知るソウルフードという存在でしたが,世に台頭したのはカップラーメンとして発売された2008年頃のことでした。
現在は,店主の弟子達が「味噌カレー牛乳ラーメン」を受け継いでいます。
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とありました。「味噌カレー牛乳ラーメン」は,味噌ラーメンのスープにカレー粉と牛乳を入れたもので,具はチャーシュー,モヤシ,バター,ワカメとメンマを使用します。なかなかの味でした。昔,
お味噌汁にバターを入れて食べていたことを思い出しました。
「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べてから,青森空港のラウンジで一休みして,空路,帰宅しました。帰りの飛行機にはなぜか松本アルプちゃんの絵が描かれてありました。
青森県の奥深さを知ったいい旅になりました。また,ぜひ,リピートします。

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今回の青森旅行の最終地は青森市です。
三内丸山遺跡から北に走って,青森市街地に着きました。まず,ひときわ高く目につくのがJR青森駅近くの青森県観光物産館「アスパム」という三角形の建物でした。「アスパム」は青森港の再開発事業に基づいて1986年(昭和61年)に建設されたもので,外観の三角形は青森の頭文字である「A」をかたどったもの,名前は,青森県(Aomori)観光(Sightseeing)物産(Products)館(Mansion)の頭文字だそうです。車を近くの駐車場に停めて,まず,そこに行きました。
青森市街地はJR青森駅近くでも駐車料金が安いことにまず驚きました。次に驚いたのは,ものすごい強風でした。
「アスパム」には展望室があるということだったので,登ってみました。展望台からは青森市の街並みが一望できました。この日は霧っていたので無理だったのですが,条件がよければ北海道の陸地も見えるということでした。

私が青森市で行きたかったのは,かつて青函連絡船として運用され,現在は博物館となっている八甲田丸とねぶたの展示館でした。
そこで,「アスパム」を降りて,まず,八甲田丸に行くことにしました。
以前書いたように,私は今から40年以上前に,一度青函連絡船に乗りました。私が乗ったのは,北海道でスキーを楽しんだ帰り,つまり,真冬のことだったのですが,そんな時期に津軽海峡を海路渡るものではありませんでした。
函館港から乗り込んだときは,さあ,3時間以上の船旅を楽しむぞ! と食べ物,飲み物を買い込んで,意気揚々と座席に着いたまではよかったのですが,出航してまもなく,船酔いになりました。こうなるといけません。当然,降りることもできないから,どうにもならないのです。
今も変わらず,というか,当時の私は今以上によほどのバカで,酔い止め薬を飲むことも知らず,それは,船もバスも車もそれまで酔ったことなどなかったからですが,そこで,ない知恵を絞って考え出したのが,とにかく寝る,ということでした。
そんなこんなで,せっかくの青函連絡船の旅は,まさに悪夢と化して,酔ったこと以外に何も記憶がありません。それ以来,私には,「船旅=船酔い」というトラウマができ上りました。
しかし,いい経験をしました。今は青函連絡船もなくなりましたが,私には,青函連絡船に乗ったことが懐かしい記憶としてきざみこまれたからです。

青函連絡船は,私が利用したのち,10年も経たずして,1988年(昭和63年)に通常運航が終了しました。八甲田丸はその後,さまざまな経緯をたどり,今は,青森港で余生を送っているのです。私が当時乗ったのが八甲田丸だったのかどうかはわかりませんんが,当時を懐かしむには十分でした。
船内はもっと往年のままなのかと期待したのですが,残念ながら,そうではありませんでした。
今は,北海道は飛行機であっという間ですが,もし,今,青函連絡船が運行されていたら載ってみたいものだと思ったことでした。
当時の私は,やっとの思いで到着した青森駅から上野駅まで,これもまた,念願だった寝台特急「ゆうづる」に乗ったのですが,この日,青森駅には,寝台特急「カシオペア」が停まっていました。

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私が小学校のころに習った歴史では,縄文時代は,稲作が普及する以前の狩りをしていた時代で,定住することなく,生活は不安定。やがて,静岡県の登呂遺跡に代表される弥生時代になると,稲作が普及して,人は定住するようになった,というものでした。しかし,その後,多くの遺跡が見つかることで,そうした定説は覆ることとなりました。
学校の教科ではその時代に正しいとされていることを学ぶのですが,今から考えると,正しいとされていたことの多くは正しくなかったし,わからないことはわからないと教えるべきだと今では思うようになりました。
やがて,弥生時代の遺跡として,佐賀県の吉野ケ里遺跡が見つかり,私もそこに行ったことがあります。また,縄文時代の遺跡も,全国各地に見つかるようになりました。その代表的な存在が,三内丸山遺跡ということだけは知っていたのですが,まさか,行くことができるとは思いませんでしたが,今回,青森県を旅することになって,ぜひ,行ってみたいと期待しました。

実際行ってみると,三内丸山遺跡が青森市街にとても近いことに私は驚きました。また,思った以上に多くの人が訪れていました。
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三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉,今から約5,900年前から4,200年前の大規模集落跡です。
この地に遺跡が存在することは江戸時代から知られていて,1623年(元和9年)に多量の土偶が出土したこと,1796年(寛政8年),瓦や甕,土偶のような破片が見つかったことが記録されていました。 新しい県営野球場を建設するために,1992年(平成4年)から事前調査が行われると,この遺跡が大規模な集落跡とみられることがわかり,1994年(平成6年)には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり,大型建物の跡とも考えられたので,県は野球場建設を中止し,遺跡の保存を決定しました。
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ということです。
吉野ケ里遺跡は国の施設です。以前行ったときに,県の施設から国の施設になってずいぶんと予算がついたと聞いたので,三内丸山遺跡についても聞いてみると,ここは県の施設,ということだったのですが,それにしては豪華なことに私は驚きました。
縄文時代は,私が学校で習ったころに覚えたよりもずっと昔の1万年前までさかのぼり,そんなころから人がこうした営みを紀元後以上の長い間続けていたことを知りました。また,エジプト文明よりもずっと昔の話です。
縄文時代は身分の差もなく,争いもなく,おそらく,人類が幸せだったのはこの時代だったのかな,と思いました。

三内丸山遺跡にはレストランや土産物屋さんもありました。遺跡を見学したあと,私はレストランで「五千年の星」なるデザートを食べました。時刻はお昼だったので,ここでお昼を食べてもよかったのですが,朝,民宿でもらったおにぎりがことのほか大きくて,これを遺跡に入る前に駐車場に停めた車の中で食べて,それがおいしくて,お腹が一杯だったのです。

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