このごろ何かと話題の財務省の官僚というのは,ものすごく頭がいい人たちなのだそうです。
しかし,私がふと思ったのは,頭がいいというのは,本当に幸せなのか? ということです。
昔,美人は,それを(美人を長所として)生かす仕事はタレント(と風俗?)くらいしかない,ということを聞いたことがあります。むしろ,それがデメリットとなる場合すらあります。おそらく,頭がいいというのもそれと同じようなことなのでしょう。超一流の〇〇大学卒業というのもまた,それがデメリットとなる場合も少なくないものです。
私は「幸せとは?」という問いには答えがあります。その答えというのは,生まれたときにもってきた自分の才能が生かせる生き方ができることが最高の幸せであるということです。たとえば,組織のなかで仕事をしていても,ジグソーパズルのピースのように,きちんと自分に当てはまる居場所があるということが最高の幸せだということです。
であるのに,自分の点数と順位ばかりを気にして,人と比べることだけを目的とするこの国の教育は,それとは真逆の目的を追い求めているようです。新聞の広告や雑誌の記事にも,〇〇大学に入学するための〇〇,だとか,偏差値〇〇で〇〇大学に入った,とか,そういう題名の本やら雑誌の特集やらが並んでいます。そうしたものがあるのは,それが売れるからなのでしょう。つまり,この国の人はそんなことしか興味がないのでしょう。
将棋の棋士で一流になれる頭脳があるなら物理学を極めたほうが社会にとって有益だと言う人がいます。私も,若いころは,同じ頭脳を使うのなら,将棋の神秘を追求するよりも物理学を極めたほうが価値があるのになあ,と思ったことがあります。しかし,それは間違っているということに気づきました。
つまり,どちらにせよ,結局は人間の頭脳の遊びなのです。
こういうことを言うと,今度は,物理学は人類を幸せにするが,将棋は娯楽に過ぎない,という人が現れるのです。しかし,物理学は人類を幸せにもすれば,人類を滅亡もさせるわけです。将棋は人類を滅亡させません。さらに言えば,人は精神性で生きているので,人のこころをやすらかにすることができるというのは最高の才能であるわけです。東北で大地震があったとき,ミュージシャンが何の力にもなれないと嘆いた,という話がありますが,彼らの音楽こそが,被害に遭った人たちを勇気づけるのに最も大きな力があったのです。
このように,頭がいいというのは,背が高く生まれたとか,足が速く生まれた,と同じような,単なる個性に過ぎないわけです。そして,そう生まれた人がそれをどう生かすかどうかというのは,まさにその人次第なわけです。人と比べたときにその人のほうがすぐれているということとはまったく違うのです。
最大の不幸は,そうであることを勘違いして,自分の得た地位を利用して人を不幸にすることなのです。
私は,これまで生きてきて,そんな勘違いをした輩をたくさん見てきました。
