しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:鶴ヶ城

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 ボランティアガイドさんの説明を聞いてから,鶴ヶ城の天守に入りました。5層まで上ると,遠くの磐梯山を美しく見ることができました。
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 磐梯山は約5万年前と1888年(明治21年)に大規模な山体崩壊・岩なだれを起こしました。5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起きて猪苗代湖ができました。また,1888年の山体崩壊は裏磐梯側で起き,水蒸気爆発によって小磐梯を崩壊,消滅させ,桧原湖などの多くの湖沼群を作りました。
 磐梯山は,南側が表磐梯,北側が裏磐梯とよばれ,表磐梯から見る山体は整った形をしていますが、裏磐梯から見ると一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せます。
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 復元天守で鉄筋コンクリート造りの鶴ヶ城の中は博物館となっていて,会津若松市の歴史を知ることができます。
 私が興味をもったのは,大河ドラマ「八重の桜」でも出てきた「会津藩家訓15ヶ条」でした。家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎と共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。
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第1条
  大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
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 9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが後に戊辰戦争の悲劇へとつながったといわれています。

 天守を出て,次に向かったのが茶室「麟閣」でした。
 1591年(天正19年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ,死を命じられました。千利休の茶道が絶えるのを惜しんだ会津城主・蒲生氏郷は,千利休の子・千少庵(しょうあん)を会津にかくまい,徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願いでました。このとき建てたのが「麟閣」と伝えられています。
 1594年(文禄3年),千少庵は許され京都へ帰って千家を再興しました。 その子・千宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれ,そののち,千宗左(そうさ),千宗室(そうしつ),千宗守(そうしゅ)の3人の孫によって表,裏,武者小路の3千家が興され,今日の茶道隆盛の基が築かれ,それ以降,3千家はそれぞれ名跡を受け継ぎました。
 戊辰戦争で会津藩が敗れ,明治のはじめに城内の建物が取り壊される際,茶人・森川善兵衛は,貴重な茶室の失われるのを惜しみ,1872年(明治5年)に自宅へ移築しました。平成2年に市制90年を記念して,鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
 「麟閣」には,3千家の家元による扁額が掲げられています。茶室南側にあるのが表千家14代千宗左のもので,表門上にあるのが裏千家15代千宗室のもの,そして,脇門上にあるのが武者小路千家14代千宗守のものです。

 鶴ヶ城には大きな「赤べコ」がありました。「赤べコ」は会津若松市の郷土玩具です。赤に下塗りした牛の型に黒の斑点と白の縁取りを絵付けした張り子人形です。古くは厄除けのお守りや縁起物として,今日では人気の土産物としても親しまれています。
 「赤べこ」は,会津地方でつくられてきた会津張り子のひとつで,他に「会津天神」「起き上がり小法師」「会津だるま」などがあります。会津張り子の発祥は江戸時代の歌舞伎から着想を得てつくられた福島県三春町の三春張り子の模倣という説と,領主・蒲生氏郷が京都から職人を招いて藩士たちに張り子づくりを学ばせたのがはじまりとする説があります。
 「赤べこ」ができた当初はとくに形の決まりはなく,職人ごとに個性が溢れていたのが今日ようになったのは明治初期のころで,大正末期には,赤塗りに黒の斑点,白の縁取りに統一されたといいます。
 また,400年ほど前に会津地方を襲った大地震により倒壊した,柳津町にある圓藏寺の本堂の再建を手伝った赤牛の伝説をもとに誕生したともいわれていて,柳津町は,赤ペコ発祥の地として町起こしをしています。

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 JR会津若松駅に着きました。念願の,一度は来たかった会津若松市です。思ったよりも大きな都市で,しかも,とてもきれいな町でした。まず,今晩の宿泊先である駅前の東横インに行ってカバンを預けました。さすがにこの町の東横イン付近には風俗街はありませんでした。そして,駅に戻って,歓呼案内所に入りました。「1日観光をしたいのですが」と言うと,とても親切に説明をしてもらえて,地図やパンフレットをくれました。
 会津若松観光は,「まちなか周遊バス」という1時間ごとに観光スポットを循環運行している右回りの「あかべぇ」と左回りの「ハイカラさん」があるので,これを利用するといい,ということでした。
また,主な見どころは,七日町,鶴ケ城,御薬園(おやくえん),会津武家屋敷,飯盛山だといわれました。 
 ちょうど10時発の「ハイカラさん」が3分後にあるというので,早速,1日乗り放題のチケットを購入してこれに乗りましたが,バスを利用しなくとも,レンタル自転車もあるとあとで知りました。会津若松市は平地なので,このほうがよかったかもしれませんが,今回,利用しなかったことが吉と出ました。その理由はあとでわかります。
 ちなみに,会津若松で「あかべぇ」はわかりますが,「ハイカラさん」は何? と思いました。1982年のNHK朝の連続テレビ小説に「ハイカラさん」がありましたが,このドラマの舞台は静岡県でした。また,「はいからさんが通る」というアニメもあるのですが,会津若松市とは無関係のようです。調べてみると,会津には「「はいからさん語り部」育成プロジェクト実行委員会」というのがあって「はいからさんに逢えるまち」というイベントを秋に行っているということです。主催するアネッサクラブでは「はいからさんというのは常に時代をリードし改革していく人と捉え」ているそうです。
 「ハイカラさん」は,七日町という歴史的建造物が並ぶ繁華街を通って,鶴ヶ城に向かいました。いい町だなあ,というのが第一印象でした。七日町は駅に近いので,最後に観光をすることにして,まず,有名な鶴ヶ城に行くことにして,最寄りのバス停で降りました。

 現在の福島県は江戸時代,会津藩の他に多くの藩がありました。そのうち,会津藩は,陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩で,居城が,現在,鶴ヶ城とよばれる若松城でした。
 蒲生氏郷が入るまでは「黒川」とよばれていましたが,蒲生氏郷が故郷の近江にあった「若松の杜」にちなんで町名を「若松」と改め,会津にあることから会津若松ともよばれるようになりました。
 鶴ヶ城の天守に入る前,ボランティアガイドさんの説明が聞けるというので,参加しました。ガイドさんの説明を聞いたのは,私と,説明がはじまったころに参加した横浜から来たという女性のふたりでした。
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 1934年(昭和9年)国の史跡に「若松城跡」として指定されたので,正式には若松城ですが,約400年前,藩主蒲生氏郷が幼名・鶴千代であったことと蒲生家の家紋に鶴が入っていたことで鶴ヶ城と名づけ,一般にはこの名前で知られています。
 豊臣秀吉が天下統一を達成すると,東北の地に信頼が厚く,かつ武勇に優れた武将を置く必要があったことで,旗下の武将・蒲生氏郷に異動を命じました。蒲生氏郷は,1592年(文禄元年),室町時代に蘆名氏が築いた黒川城を改修し,鶴ヶ城と名づけました。その翌年には,金箔を貼った鬼瓦を使用した七重の天守を築きました。
 1598年(慶長3年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮に移封となり,上杉景勝が入封しましたが,関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため出羽30万石に移封され,1601年(慶長6年)に再び蒲生秀行が入封し,初代藩主となります。2代藩主は蒲生秀行の子・蒲生忠郷(たださと)には,嫡子がなかったため,本来なら蒲生氏は断絶するところでしたが,母が家康の娘であるということで,出羽の上山藩を領していた弟の蒲生忠知を後嗣として伊予の松山藩が与えられ,存続を許されました。そして,1627年(寛永4年)会津には加藤嘉明が40万石で入封します。しかし,重臣とのいさかいが原因で会津を去ると,1643年(寛永20年)徳川秀忠の子・保科正之が出羽から入部しました。
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 このように,私は,会津藩と先日行ったばかりの松山藩,そして,2022年に行った上山藩に藩主のつながりがあるのが,奇遇というか不思議な気がしました。日本は狭いです。

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 こうして,会津藩は,結局・保科家となりました。
 1696年(元禄9年)3代藩主・保科正容(まさかた)の時代に松平姓と葵紋が許され,御三家に続く御家門の地位を確立し,以降,保科は松平と改め,松平家が藩主となりました。

 1868年(慶応4年)松平容保(かたもり)が9代藩主となったあとに戊申戦争が勃発します。会津藩は、徳川家に忠誠を誓い鶴ヶ城に籠城し,新政府軍に徹底抗戦します。新政府軍の猛攻を耐え抜きますが,ついに開城します。ここで起きたのが会津の悲劇です。
 戊辰戦争後,鶴ヶ城は取り壊されましたが,1965年(昭和40年)に天守が復元されました。
 現在では,赤瓦が葺かれた五重五階の天守閣,干飯櫓,走長屋,鉄門が再建,郭を構成する高石垣などが残されています。
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 鉄門は本丸東側の入口の門で,名前通り門扉や柱が全て鉄で覆われています。
 鶴ヶ城で目につくのは石垣です。石垣の加工は時代の流れとともに進化しました。鎌倉後期の自然石をそのまま積み上げる野面積みはじまりました。関ケ原の合戦以降盛んに用いられたのは表面に出る石の角や面をたたき平たくする打込み接ぎ,江戸時代初期から多用された方形に整形した切込み接ぎです。鶴ヶ城は,それぞれの時代の石垣の変遷をみることができます。
 太鼓門近くの石垣に直径2メートル、奥行3メートルにもおよぶ大きな石があります。 大きな石を魔除けとしてあえて入れたのだそうですが, あまりの重さに石の運搬に遊女が石の上で踊って人足を励ましたとの言い伝えから「遊女石」とよばれているそうです。
 また,石垣の中に,ハート形をした石がふたつあります。大きなハートと小さなハート,2個見つけると願い事が倍かなうそうです。
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Wolf Moon 2024.

明け方西空の満月です。
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