2024年7月7日,「東北温泉」で1泊して,この日は旅の4日目,最終日です。
午後7時35分の飛行機で帰宅するので,1日たっぷり時間がありました。まさかこんなに時間ができるとは思っていなかったので,どこへ行くかというプランがなく,青森空港に向って,どこかおもしろそうなところを見つけながら行くことにしました。こういうのも悪くないものですが,帰宅してから考えるともったいないことをしました。また,昨晩は雨が降っていましたが,早朝に上がり,この日はいい天気になりそうでした。
まず,昨年「酸ヶ湯温泉」に行ったときは運休で行くことができなかった八甲田山ロープ-ウェイに乗ることにしました。山の中を延々と走っていって,やっとロープ-ウェイ乗り場に着いたのですが,この日も運休でした。まったくツイていません。八甲田山ロープ-ウェイはずっと運行しているのではないかと思ったのですが,私に縁がないだけのようでした。また来いよ,と言っているのでしょう。
こうなったら,八甲田山ロープ-ウェイに乗ることができるまで,何度でも青森に行ってみよう! と決心するのでした。
気を取り直して,次に行ったのが黒石市でした。八甲田山から城ケ倉大橋を渡ると,道なりに黒石市に着きます。
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黒石市は,青森県の中央部にある人口約3万人の町です。
黒石市の前身である黒石藩は,弘前藩4代藩主・津軽信政が藩主就任時幼少だったため,幕府の指示により3代藩主・津軽信義の弟である津軽信英を後見人とすべく,1656年(明暦2年)に弘前藩より5,000石を分知され立藩したのにはじまります。8代藩主・津軽親足の代に至り,弘前藩よりさらに6,000石の分与があり,1万石となりました。居城は黒石陣屋でした。
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とはいえ,黒石市のどこに行けばいいのかわからないので,とりあえず黒石市の駅前にあった観光案内所で聞いてみることにしました。黒石駅は弘南鉄道弘南線の終着駅で,ここから弘前駅まで直接行くことができます。
観光案内所で知ったのは,黒石市の見どころは,町の中心部にある中町こみせ通り,そして,ご当地グルメは黒石つゆやきそば・黒石やきそばということでした。
さっそく中町こみせ通りへ行ってみました。観光客用の駐車場もありました。中町こみせ通りは,何となく,昨年の秋に行った四国の小京都である大洲の町に似ていましたが,それよりはずっと小さな町でした。
この日,名古屋は摂氏35度あったそうですが,青森は25度くらいでした。のんびりと歩いていると,アイスコーヒーが飲みたくなったので,松の湯交流館の裏手にあったコーヒーショップに入りました。若い女性がひとりでやっていたので,雑談をしながらコーヒーを飲んでいるとお昼になりました。
中町こみせ通りの真ん中にあったのが津軽こみせ駅というみやげ物店で,店内の奥に食事ができるようになっていたので,黒石つゆやきそばを注文しました。できるのを待っていると,その奥にあったステージで津軽三味線の生演奏がはじまりました。津軽三味はいいものです。三味線の生演奏は週末に行われるということですが,この日はちょうど日曜日でした。
三味線の演奏はスピーカーを通して外まで聞こえているそうですが,店内で聞いていたのは私ひとりでした。
ここで余談です。
黒石市の市街地から走っていると,津軽こけし館という案内標示がありました。興味がなく行かなかったのですが,どうして黒石にこけし? と思ったので,帰ってから調べてみました。
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津軽こけし館は1988年にオープンした施設で,日本一の大きさを誇る197センチメートルのこけし,棟方志功が絵付けをしたこけしをはじめ,全国のこけしが展示されています。また, 隣接して,津軽伝承工芸館があります。
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この施設が有名にったのは,純金・純銀製のこけしの展示だったそうです。黒石市民が応募したアイデアに基づき,「ふるさと創生事業」の資金により1億円で製作され,直接触ることができましたが,2007年10月21日,黒石市の財政難のため入札によって1億9000万円相当で落札され,実物の展示が終了されました。それによって,観光客が激減したそうです。
ここでもまた,おいらせ町の自由の女神同様,「ふるさと創生事業」が後を引いていますよ,竹下さん。
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弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は,関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し,慶長八年,徳川家康将軍宣下と共に,徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり,ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて,二代藩主津軽信牧の時に到り,やうやく完成を見たのが,この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り,四代信政の時,一族の信英を黒石に分家させて,弘前,黒石の二藩にわかれて津軽を支配し,元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども,七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ,藩の財政もまた窮乏の極度に達し,前途暗澹たるうちにも,八代信明,九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり,十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し,つづいて十二代承昭の時代に,めでたく藩籍を奉還し,ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は,弘前城の歴史であると共にまた,津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては,また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが,いまは,弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて,この津軽の序編を結ぶ事にする。
太宰治「津軽」
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
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