●旅ができなくなったとき…●
この日の予定は,ボーイング社の工場見学に続いて,スペースニードルの見学,そして,シアトル・マリナーズのベースボール観戦であった。ベースボールはすでにチケットが購入してあった。
自分ひとりならもっといいかげんだが,今回は人を案内するので,予定もきめ細かく,かつ,豪華であった。
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私はこの旅の前,すでに,2000年,2004年,2006年と3回シアトルの地を踏んだことがある。私がボーイング社の工場見学とスペースニードル,そして,ベースボール観戦と,この旅で選んだ場所と同じ行程で旅をしたのは2006年のことであった。10年ひと昔というが,2006年はこの2015年の旅の9年前,そして,今から数えたら14年も前のことになるわけだ。
このごろはいろんな場所を旅しても,旅をしたことすら忘れてしまっていることも多いのだが,不思議なことに,2006年の旅についてはよほど印象が深くかつ楽しかったようで,ずいぶんいろんなことを今も鮮明に覚えている。
私は,歳をとって体が不自由になって,今のように旅ができなくなったときに後悔したくないという一念で,ここ数年,1年に6度も7度も,行きたいと思っていた場所にどんどん出かけて,そして,ついに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行くことができた。これで後悔はないなあ,この先はどこに行こうか? と思っていたときに,コロナ禍が訪れた。ほぼすべての場所に行った後に起きたことで,ある意味,幸運であった。
しかし,行きたかったところに行ってしまえば,旅をすることがままならなくなったとき,思い出だけで生きていかれると思っていたのは間違いであった。行くことすらままならなくなった今になって,また行きたいなあ,行くことができればいいなあという想いが日に日にどんどん募ってくる。おそらく逆に,行っていなければ,行った場所を懐かしいとも思わないから,そうした辛さは感じないことだろう。
これが現実なのである。人はいつまでも強欲なのだ。困ったものだ。
さて,前回シアトルに行った2006年の感覚で2015年の旅をしていた私は,それがまったく役立たないことに気づく。アメリカは1年もあれば何もかもが変わってしまう国なのである。
2006年当時は,スペースニードルのあたりは広い空き地があって,そこに大きな駐車場があった。私はこの駐車場に車を停めて,そこから公共交通機関を利用してシアトル観光をしたのだった。ところが,2015年のこのとき,スペースニードルのあたりはすっかり様変わりををしていて,あのときの空き地はすでになく,豪華な遊園地ができていた。車を停めようにも駐車場は少なく,また,ほとんど満車の状態であった。なんとか並んで車を停めることができた。が,今度はスペースニードルに行こうとしたら,ものすごい行列になっていて,昇るのに2時間もの待ちが必要だった。要するに,ここもまたオーバーツーリズムなのだった。
コロナ禍の今はどうなのか知らないが,コロナ禍以前は,世界中の観光地はどこもそんな状況であった。行きたいといういう気持ちより,こんなに混雑していては行きたくないという気持ちが勝ちかけているほどのありさまだった。このオーバーツーリズムのバブルはコロナ禍によってはじけたと思っているが,果たして,この先はどうであろうか。今出かけられない反動で,よりオーバーツーリズムが激化するのだろうか?
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さて,この日はそんな状況だったので,2時間並んでスペースニードルに上っていてはベースボールに間に合わないということになってしまった。そこで,スペースニードルはあきらめて,ベースボールを見にいくことにした。しかし,おまけに,インターステイツ5の南向きは大渋滞をしていた。シアトルのインターステイツ5の南向きの渋滞は実際はダウンタウンの手前で解消されるのだが,このときの私はそんなことは知らないから,これでは間に合わないと焦って,インターステイツ5を降りて,一般道を走ることにした。ところが,それがさらに裏目に出て,一般道はインターステイツ5以上に渋滞していた。果たして,ベースボールには間に合うのだろうか?
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シアトルを観光する。⑤-2015夏アメリカ旅行記3
●ボーイング社の工場見学●
予定より遅れたが,何とか会うことができて,ほっとした。
この日の予定はボーイング社の工場見学だった。事前に見学時間を予約してあったが,待ち合わせが遅れたので,予約した時間に間にあうかどうか微妙なところであった。
シアトルは南北に長い都市である。西は海,そして,東には山が迫っている。空港のあるタコマは南側,そしてボーイング社の工場は北側にあるのだが,その間のインターステイツ5は慢性的に渋滞している。車線を増やそうにも土地がない。
私自身は,前回来たときにすでにボーイング社の工場見学はしたのだが,はじめて来た人が観光する場所としてふさわしいと思って案内したのだった。
さまざまなところに行ってみると,はじめて行ったときの感動は忘れがたく,もう一度行きたいと思うところも少なくないが,その多くは2回行くと,まあ,これでいいかと満足する。要するに,納得するには2回必要ということだろう。それは勉強も音楽を聴くのもすべて同じことだ。しかし,はじめて行ったときの感動は2度目では味わえないものだ。
また,より魅力的な場所であれば,何度でも聴きたい好きな音楽のように,そこに何度も行くことになる。これが常連というものである。
渋滞による遅れを心配していたが,この日,道路は北向きはそれほど混雑していなかったので,幸い,時間に間に合って到着することができた。
それにしても,生まれてはじめてアメリカに来て,いきなり車に乗って,日本にはない片側4車線も5車線もある広いアメリカのインターステイツを車の洪水の中,時速117キロメートルで走る体験は,きっと驚きに満ちていたことだろう。
とにかく,何事もこの国は日本とはスケールが違いすぎる。そしてまた,アメリカ人のアグレッシブさをどう表現すればいいのだろう…。
残念ながら,ボーイング社の工場見学は内部の写真撮影ができないので,今日の2番目から4番目の写真は,駐車場からの外観と豪華な受付だけである。
この時期,つまり今から5年前の2015年のころは,航空産業は絶好調で,工場の中では多くの航空機が組み立てられていた。1機200億円以上もする航空機だが,買いませんか,というジョークが案内放送されていたのには驚いた。ボーイング747,777,787などの旅客機がそれぞれの機種によって別のセクションで組み建てられていたが,その工場のバカでかさは圧巻であった。
その後,ボーイングの航空機はトラブル続きでただでさえ大変だったのに,そこにコロナ禍が加わって航空機需要は減り,逆風が吹き荒れている。今,この工場の見学がこのときのように行われているのかどうか私は知らない。
シアトルを観光する。④-2015夏アメリカ旅行記3
●入国するのも楽じゃない。●
☆9日目 2015年8月7日(金)
宿泊したホテルは空港に近いので,早朝のフライトに間に合うようにはやくチェックアウトをする人が多いから,朝食は午前4時からとることができた。アメリカの大都市はダウンタウンよりも空港近くのホテルのほうが安くサービスがよいが,シアトルもまた同様であった。いずれにしても,アメリカのホテルは,日本円にして1泊10,000円を境としてえらく差がある。
今日の朝,友人の息子さんが日本から来る。朝9時に空港に迎えに空港に行くので,それまでゆっくりと過ごしてホテルを出た。
シアトルタコマ国際空港はパーキングが広く,停める場所がなく困るというほどのことはないので,わかりやすい場所に車を停めて,空港の建物に入った。
待ち合わせは空港のバゲジクレイムに降りるエスカレータのところにした。
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アメリカの空港はそれぞれシステムが異なるのではじめて行くとけっこう迷うことが多い。広いシアトルタコマ国際空港は,ターミナル間の移動には地下鉄が走っている。移動の間,カバンを持たなくてよいように,入国手続きを過ぎたら再びカバンを預けると,出口にあるバゲジクレイムまで運んでくれるようになっている。はじめて来たころは私もそのようにして再びカバンを預けていたが,旅慣れてカバンが小さくなったので,今ではそのままカバンを持って地下鉄で移動するようになった。そうすれば,バゲジクレイムからカバンが出てくるのを待たなくてもいいからである。
いずれにしても,このバゲジクレイムは,空港の出口にあって,そこに降りるエスカレータも1基なので,集合場所としてはもっともわかりやすく便利な場所である。
バゲジクレイムは再会を喜びあい抱き合う姿が繰り広げられていて,ああアメリカだ,と思う場所であったが,今はどうであろう。
この旅のころはいつもフライトが遅れていたが,このときもまた,予想通り? フライトの到着が遅れているらしく,なかなか姿がみえなかったが,予定の時間よりだいぶ遅れて会うことができた。フライトの到着が遅れたことに加えて,入国審査で戸惑っていたということだった。
実は,近年,アメリカは,私のように何度も入国している無害なひとり旅のおじさんはすぐに入国できるのだが,はじめての入国,しかも若者となると,入国が簡単なものではない。聞くところでは,アメリカの市民権目当てで中国から若い女性が偽装結婚による不正入国を試みることが多発しているかららしい。そこで,中国人に限らず,日本人でも,若い人,特に女性が個人旅行でアメリカへ入国するのは非常にたいへんということだ。
シアトルを観光する。③-2015夏アメリカ旅行記3
●スターバックス1号店●
シアトルを訪れる人の多くはスターバックスの1号店に行きたいらしい。この旅の数年後に再びシアトルに行ったときに知り合ったシアトルに住むEさんは,日本から友達が来るとだれもがまずスターバックスの1号店に連れていってくれと言うと迷惑がっていた。
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世界規模で展開するコーヒーのチェーン店スターバックス(Starbucks Corporation)は,1971年にシアトルで開業した。現在はおよそ90の国と地域で営業を展開し,店舗数は23,000店もあるという。
スターバックスは,ジェリー・ボールドウィン(Jerry Baldwin),ゴードン・バウカー(Gordon Bowker),ゼブ・シーグル(Zev Siegl),アルフレッド・ピート(Alfred Peet)によって開業された当時はコーヒー焙煎の会社にすぎなかった。1982年,のちに会長兼CEOとなったハワード・シュルツ(Howard Schultz)が入社すると,コーヒー豆のみならずエスプレッソを主体としたドリンク類の販売を社に提案したが受け入れられなかった。
1985年にスターバックスを退社したハワード・シュルツは,翌年,イル・ジョルナーレ(Il Giornale)社を設立し,エスプレッソを主体としたテイクアウトメニューの店頭販売を開始,これがシアトルの学生やキャリアウーマンの間で大人気となった。そこでハワード・シュルツは,1987年,スターバックスの店舗と商標を購入し,イル・ジョルナーレ社をスターバックス・コーポレーションに改称し,スターバックスのブランドでコーヒー店チェーンを拡大したのだった。
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店名の由来は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の小説「白鯨」(The Whale)に登場する捕鯨船ピークォド号(Pequod)の副長スターバック(Starbuck)1等航海士とシアトル近くのマウント・レーニアにあったスターボ(Starbo)採掘場から採られたので,企業ロゴに船乗りとの縁が深いギリシヤ神話のセイレーン (Seirēn)が用いられている。
シアトルの1号店は開店当時の色調とデザインを採用しているので,ほかのチェーン店とは異なるロゴとなっている。
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私はスターバックスの1号店に入ってみたいということは特に思わなかったが,どこにあるのだろうという興味だけでその地に行ってみた。店の前は店内に入ろうとたくさんの人であふれかえっていた。人混みが嫌いな私は当然並ぶわけもなく,外からそれを眺めただけだった。
私の性分で,どういうところかわかって納得すればそれで事足りる。オリジナルグッズを土産として買うような趣味もない。スターバックスの1号店があったのは海岸近くの高台,シアトルでも下町の雰囲気満載の場所であった。ここにはファーマーズマーケットなども立ち並んでいた。今は移転してしまったが,東京に行って,以前の築地市場に出かけて,吉野家の1号店を見にいくようなものだろう。そういえば,私の家の近くには,カレーハウスCoCo壱番屋の1号店というものもある。
スターバックスの1号店はともかく,このあたりの町の雰囲気がおもしろかったので,その付近をしばらく散策してから,ホテルに引き上げた。
一旦ホテルに戻ってから,夕食をとるために再び外に出た。
私の泊まるような安ホテルにはレストランが併設されていることはまずないので,いつも夕食には結構苦労する。たまには豪勢に夕食をとることもあるが,通常は,食欲が満たされて野菜が取れればそれでいいと思っているしアルコールも飲まないから,近くにモールでもあればそこのフードコートで済ませるか,そうでなくても,ちょっとしたファミリーレストランがあればそこで済ます。しかし,何もないと,マクドナルドなどのハンバーガーチェーンということになってしまう。これは,日本国内を旅行するときも同じである。
この日は幸い,ホテルの隣にIHOPがあったので,ここで夕食をとることにした。
アイホップ(IHOP)は,朝食メニューがユニークなアメリカのレストランチェーンである。メニューにはハンバーガーやフライドポテト,スープ,サラダのような品目も当然用意されているが,ここのウリはパンケーキ,ワッフル,フレンチトースト,オムレツ、ブリンツのような朝食向きの食べ物である。しかし,私はアイホップは夕食でしか利用したことがない。
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アイホップは,1958年,ジェリー・ラピン(Jerry Lapin),アル・ラピン(Al Lapin)とアルバート・カリス(Albert Kallis)がシャーウッド・ローゼンバーグ (Sherwood Rosenberg)の援助を受け,ロサンゼルスのトルカレーク地区に「The International House of Pancakes」(だからIHOP)を創業したのがはじまりである。アメリカ全土に店舗を展開し「アメリカのアイコン」を自称している。店舗数は1,300店あまりである。一時,ハンバーガーの提供開始時にブランド名を「IHOB」に改名したがすぐに元に戻したという。日本にも進出したことがあったが,現在は撤退した。
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食べ物にうるさい日本に進出して外食産業を続けるのはむずかしい。
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藤井聡太新王位誕生
最年少二冠達成,おめでとうございます。
デスバレーの暑~い思い出-2015夏アメリカ旅行記3
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「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめたが,8月18日の朝日新聞に,「デスバレーで最高気温54.4度の新記録」という次のような記事があったので,今日は「2015夏アメリカ旅行記3」を中断して,代わりにデスバレーの思い出を。
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89年ぶりの世界記録か?
カリフォルニア州の国立公園デスバレーで16日午後,気温54.4度(華氏130度)を記録した。世界気象機関(World Meteorological Organization=WMO)によると,専門家の検証を経て,公式記録として認証されれば,1931年以来の記録的な気温となる。
アメリカ米西海岸では熱波の影響で記録的な暑さが続いている。
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私がデスバレーに行ったのは2018年6月27日のことだった。
デスバレーは私がアメリカ旅行をはじめたころから行ってみたかった場所だった。
今考えるに,私には,ぜひ行きたかったという場所と行ってみたかった場所というのがあったようだ。ぜひ行きたかった場所というは,ニューヨークだったり,ボストンだったりだが,何としてでも行きたいと願い,そして,実際にまず行った場所であった。そして,行ってみたかった場所というのは,興味はあるが,行けるとは思えないからあきらめよう,という場所であった。
幸い,私は,どちらの場所もそのほとんどすべてに行くことができた。これは奇跡で,自分の幸運に感謝する。もし,今のようなコロナ禍の状況になって海外旅行に行くことが不可能になったのがあと数年早かったら,私はそうした場所の多くに今も行くことできずにいて,後悔だらけであっただろう。
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すでに「2018夏アメリカ旅行記」に書いたように,デスバレーに行った2018年,私はアメリカ国内の天文台を見てみよう計画の一環としてウィルソン山天文台とパロマ天文台をめざして,ほんとうに久しぶりにロサンゼルス国際空港に降り立った。そして,その旅の「ついで」に,ロサンゼルスからならなんとか行くことができるデスバレー国立公園とセコイア国立公園に寄り道をしようと思ったのだった。
このふたつの国立公園では,セコイア国立公園のほうが,デスバレー国立公園よりも,より行ってみたかった場所であったが,いずれの国立公園も,ロサンゼルスから決して近くはなく,この旅に出るまでは,できれば行ってみたい,という程度であった。
このブログには,旅の話題と星見の話題が多いので,私が始終そういう行動をしているように思われるだろうが,実際は,そのどちらも,家を出るまでは,結構気が重いのである。面倒だなあ,と思うのである。特に,星見のほうは,曇ってほしい,そうすれば行かなくて済むからあきらめもつく,などと祈ってしまうのだから,かなりの重症である。これを果たして本当の楽しみといえるのだろうか?
それに対して,旅のほうは,実際に出かけるときには,やはり,気が重く面倒だなあといった気持ちになっても,旅行に行く計画を立てチケットやホテルの予約をする段階が嫌いでないので,ついつい軽率に予約をしてしまうのだ。そこで,出かけざるをえない状況になっているから,なんとか重い腰をあげることができる。しかし,旅で出かけた先で具体的に何をするのか,ということを事前に調べる気にならないので,到着してから,やっと,何をしよう? と考えるといった無謀なことになる。
この旅もまた,同様であった。
ロサンゼルス到着後,ともかく,セコイア国立公園とデスバレー国立公園のある北西の方向に走っていった。今でも覚えているのは,その途中で,行けるかな,でも,遠いしなあ… と思いながら,6月にもかかわらずものすごく暑かったロサンゼルス郊外の田舎町のモーテルで散々迷っていたことである。このときの記憶は鮮明によみがえる。なにせ,ロサンゼルスから400キロメートル以上,5時間もかかるのだ。その間,ほとんどの場所は見渡す限りの荒れ地の中を道路だけが続いているのである。
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それでも,セコイア国立公園は到着さえすればいいのだが,デスバレー国立公園に行くのに心配だったのは,その遠さ以上に,気温であった。それも,自分の身体が持つか,ではなく,車が持つか,ということであった。私はメカに興味がないので,実際,車がどのくらいの気温まで異常なく動くのか,どういった設計になっているのか全く知らない。気温が摂氏60度を越すような炎天下でも問題なく動くように車は設計されているのだろうか? 調べてみても,室内の温度がどれだけ高くなるかというようなことは書かれているが,車自体の耐熱性がわからない。
しかし,ラジエーターがオーバービートするだの,炎天下でパンクしただのといった恐ろしい話はたくさん書いてある。いずれにしても,気温が摂氏50度になるような場所で車が動かなくなったり,パンクでもしたら,命が危険である。結局,私は,水を一杯買って詰め込んで,しかも,早朝に出発して,気温が50度にはならない午前10時までに観光を終えるという条件を決めて,デスバレー国立公園に出かけた。
幸い,私が行ったときの気温は午前10時で華氏109度であった。華氏109度ということは,摂氏42.7度。これが私が経験した最高気温であった。車も身体も特に何ということもなかった。
軟弱な私はこれで引き揚げたが,そのあとも,デスバレー国立公園を目指してぞくぞくと車がやって来たのには驚いた。アメリカ人はタフだ。この日の最高気温は,確か,華氏120度,摂氏48.9度程度であったらしい。それでも何の事故も起きていないから,華氏120度は問題ないらしい。
そんなわけで,私は華氏109度について語ることはできるが,この記事にあったおそるべき華氏130度という温度について語る資格はない。
私の住む近くにある名古屋市科学館に極寒ラボというのがあって,そこではマイナス30度が経験できる。寒いほうは,実際私はフィンランドのロヴァニエミでマイナス30度程度は経験したが,着こめば大したことはないのでなんとかなる。これは断言する。しかし,極暑ラボというのはない。それは,こちらのほうが身の危険があるのからだろうか?
ともかく,デスバレーは湿度が低いので,日本の夏の猛暑とは暑さの質が違う。私が経験した,たかが華氏109度の経験からいえば,この温度はフライパンの上の目玉焼き状態のようなものであった。しかし,寒さは服を着こめばなんとかなるが,暑さは服を脱いだところで直接体が暑くなるだけだから,どうしようもない。
いずれにしても,たとえ気温が華氏109度止まりだったとしても,この暑さを味わうことができたのはいい体験であった。一度の人生,暑さも寒さも経験するに限る。
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なお,私がデスバレー国立公園に出かけたときの顛末はこのブログの「2018夏アメリカ旅行記」をお読みください。
シアトルを観光する。②-2015夏アメリカ旅行記3
●コロナ禍で絶滅したもの●
2015年のこの旅まで,シアトルは3回通った行ったことがあるが,滞在して観光をしたのは前回がはじめてであった。そのときには,ボーイング社の工場やスペースニードル,航空博物館を見学した。また,旧市街のアンダーグラウンドツアーにも参加したし,シアトル・マリナーズのゲームではイチローや城島健司捕手も見た。
およその見どころには行ったことになるが,美しい海に面しているのに海からの景色をまだ見たことがないし,まだ行っていないところもあったので,機会があればまた行ってみたいと思っていた。
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シアトルのほかにも,そんな思いでリピートした場所も数々あるが,どこも,はじめて行ったときの思い出に勝るもはないのが常である。それは決して2度目が劣るというわけではないが,はじめてのときの思い出が強すぎるからなのだろう。はたしてシアトルはどうであろうか?
今回のシアトルは,念願のハーバークルーズからはじめることにした。
太平洋岸に面したシアトルは海が美しい都市である,夏を除いては天気が悪く,決して過ごしやすいところでもないという話だが,私は気候のよい過ごしやすい季節しか行ったことがないから,これまでも,シアトルは過ごしやすい都会だと思っていた。ハーバークルーズで海に出ると,風がすずしく,とりわけ気持ちがよかった。
シアトルのウォーターフロントは波静かなエリオット湾に面していて,ピアとよぶいくつもの埠場は南のピア48から北のピア70まであって,それぞれが独特の風情をもっている。
私は適当な駐車場に車を停めて,ピア57番桟橋から出航する1時間のシアトル湾クルーズを楽しむことにした。
アメリカでは,あるところでは海,また,あるところでは湖や川で,このようなクルーズを楽しむことができる。私がこれまで経験したものでは,シカゴのミシガン湖クルーズもすばらしかったし,ハワイ島のサンセットクルーズも最高であった。また,バーモント州バーリントンのシャンプレイン湖のクルーズも思い出に残るものだった。また,ミネアポリスで乗船したミシシッピ川クルーズも楽しかった。
ディナークルーズもあるし,天気さえ恵まれれば,これ以上の旅の楽しみはない。この日もまた,絶好の天気に恵まれた。
以前なら,国内も国外も旅はどこもとても楽しかった。しかし,2015年を過ぎたあたりから,そうした楽しみをまったく台なしにする傍若無人な「色の黒いサングラスをかけ声がやたらとでかく自撮り棒をもった」某国のグループが世界中に蔓延するようになった。
こうしたクルーズもまた同様で,彼らが団体で乗船するようになって以来,状況が一変した。特に彼らのうちで生意気なのが子供と女性だが,彼らは人の席は勝手に奪うし,人のカバンに腰かけるなどというのは珍しくもない。そうした輩がクルーズ船の狭い乾板を占拠するものだからたまったものではない。
現在はコロナ禍で彼らの姿は消えてしまったが,コロナ禍が収まれば,ウィルスに代わって,また彼らが世界中に蔓延するに違いない。そして,その蔓延はマスクをしようとワクチンを投与しようと防ぎようがない。入国禁止以外に方法はない。海外はともかく,せめてその姿が再び現れる前に,日本国内を精力的に旅しようと私は考えている。
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さて,このクルーズもまた,乗船すると,そうした状況が繰り広げられた。我先に甲板に昇って,眺めのよい席を集団で占拠する。私が席に座っていると,隣に,たとえば4人がけだと,さらに詰め詰めで4人座ってきて押し出される。そして,席を確保してしまうと,そこに荷物やらなにやらを置いて,席を立って,大声で歩きまわるわけだ。腹立たしいが,私は我慢してクルーズを楽しむことにした。
甲板の状況とは裏腹に,海上から見たシアトルのダウンタウンはまことに美しい景色であった。遠くにはMLBシアトル・マリナーズのボールパークと,そのとなりには,NFLシアトル・シーホークスのスタジアムが見えた。私はこの数年後に,シアトルでフットボールを見ることになるのだが,そんなことができるとは,このときは夢にも思っていなかった。
また,遠くにはマウントレイニーの姿が見られた。この数日後,私はこの山に登ることになる。
☆ミミミ
連日快晴という天気予報だったので,金星と月の動きを楽しむために写しています。
8月18日の早朝4時20分の東の空の月と金星です。前日より月の出がさらに遅くなりました。この日の月齢は28.1。あすは新月直前の月ですが,はたして晴れるか? 月は見られるか?
なつかしきメドラミュージカル-2015夏アメリカ旅行記3
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「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめる前の復習の続きである。が,今日の話題は,2015年の旅行のときのことではない。前々回,ブランソンについて書いたときに思い出したことがあって,それがとてもなつかしくなったので,そのことを取り上げる。
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なつかしくなったのは,メドラミュージカルである。
アメリカといっても,ノースダコタ州を訪れた日本人はきわめて少ないであろう。いや,アメリカ人でも,行ったことがない人が多いらしい。ノースダコタ州は,北はカナダに国境を接するアメリカの中央部の最も北の州である。アメリカを東西に横断するインターステイツは,南からインターステイツ10,インターステイツ20,……,とある。1番北を走るインターステイツ90は,西はワシントン州のシアトルからはじまり,東に向かって,アイダホ州,モンタナ州と通っていくが,ノースダコタ州の手前で,まるでノースダコタ州を避けるかのように進路を南東に変え迂回して,サウスダコタ州を通りイリノイ州のシカゴをめざすのである。これを見ただけでも,辺境の地であると想像できる。
私がノースダコタ州を訪れたのは2012年の夏であった。そのころは,まだ,アメリカ合衆国50州制覇は頭になかったが,ノースダコタ州に行こうと思ったのは,ある本に,アメリカ合衆国のすべての州に行くのが目標だというカメラマンの記事があって,その記事の中に「最後に残ったのがノースダコタ州であった」というのを読んだのがきっかけであった。
何にもない州だと覚悟して行ったのだが,当時,ノースダコタ州はリーマンショックの真っただ中にも関わらずシェールオイルの発掘で好景気に沸いていて,労働者が殺到し,泊まる場所を探すのがたいへんであった。
私がそこで見たのは,テオドア・ルーズベルト国立公園であり,そのふもとの街メドラで夏の間開催されているミュージカルであった。特にミュージカルは,夏の夜,テオドア・ルーズベルト国立公園を借景にした屋外劇場で行っているものであった。ニューヨーク・ブロードウェイのミュージカルやヨーロッパの野外劇場には詳しくても,そんなものがあることを知っている日本人はほとんどいないであろう。私だって,現地に行くまでまったく知らなかった。
これは,私がアメリカで見た数々のショービジネスのなかでも,ブランソンとならんで印象に残るものであった。
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ミュージカルは今も行われている。コロナ禍の2020年も元気に開催されているらしい。
私は,ニューヨークでもロンドンでも本場のミュージカルを見たし,サンフランシスコやウィーンでもオペラを見たが,なぜか,このメドラのミュージカルが忘れられない。
できることならば,もう一度見てみたいものだと,このころ,とてもなつかしく思い出す。
最後に,当時の旅行記から抜粋しておこう。
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劇場は,メドラの町の西はずれにあった。チケットを購入したみやげ物店を過ぎたところを南に曲がると,町に沿って南側に鉄道が走っているので,その踏み切りをわたり,小高い山を登っていくと,広い駐車場に出た。その先がスキー場のゲレンデのように坂になっていてそこに客席があり,谷を見下ろすような形に野外劇場があった。
その向こうには国立公園で見たものと同じ景色が広がっているという,すばらしいロケーションであった。
午後7時半になって,ステージツアーがはじまった。
ステージツアーの参加者は20人くらいだっただろうか。
ミュージカルがはじまる前の客席に集まって,まず,このミュージカルがはじまった歴史やら演目やらといったことの説明を受けた。そしていよいよステージツアーが開始された。
ステージに案内されて,様々な舞台層装置やらを見ることができた。
楽屋にも入ることができた。
楽屋裏には,大道具とともに,当日登場する馬が数頭,おいしそうにえさを食べていた。ステージのはるか向こうの山の頂には,このミュージカルで重要な役割をする生きたムースが1頭いた。
やがてツアーが終わり自分の席に着いた。平日にもかかわらず,9割くらいの座席が埋まっていた。
開始時間まで飽きないようにとさまざまな趣向があり,やがて時間になったので,国歌の演奏がありそれをみんなで歌って,いよいよミュージカルがはじまった。
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ミュージカルの内容は,この地の歴史を劇にしたもので,難しい内容でなく,きっと,英語がまったくわからない人にも十分に楽しめたであろうというものだった。
本物の馬やらムースも出てきた。日が沈み,だんだんと空が暗くなって,舞台はさらに感動を深めていく。途中に休憩があって,後半のはじめには,有名(であろうとおもわれる)コメディアン,ジョージ・ケーシーの漫談もあった。
出演した歌手は12人,それと,主役の女性と年配の男性だった。
ステージの右手には6人のメンバーからなるバンドがいて,特に,バイオリンを弾くアンベリー・ローゼンという名の女性がきわめてすてきだった。ずっと踊りながらバイオリンを弾き続けていた。
最後に花火も上がり,ミュージカルは午後10時30分に終わった。
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☆ミミミ
8月16日の早朝4時の東の空に,月と金星がならんで輝いていて,それは美しいものでした。夜空を見ていると地上のいやなできごとはすべて夢のような気がします。
思い出すのはなぜかブランソン-2015夏アメリカ旅行記3
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「2015夏アメリカ旅行記その3」をはじめるにあたって,まずは復習から。
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2015年5月,この年1度目のアメリカ旅行として中南部をドライブした。
このころの私はアメリカ合衆国全50州制覇を目指していて,何かにとりつかれたかのように頻繁にアメリカを行き来していた。以前,ピッツバーグ,シンシナチ,クリーブランドなどをドライブしたときにセントルイスだけは行ったことがあったが,それよりもさらに「深い」アメリカの中南部は行ったことがなく,私には縁遠いところだった。
当時,MLBに夢中だった私は,カンザスシティ・ロイヤルズという,いわば地の果てにあるようなチームの本拠地をぜひ見たかったし,ルート66も走ってみたかった。そこで,なんとかカンザスシティに行ってみようと思ったのだが,フライトの接続が悪くどうやって行こうか,考えあぐねていた。
なぜかそのころは,何度飛行機を利用しても,いつもなにがしかの小さなトラブルが起きた。この2015年春の旅でも,苦労してフライトスケジュールを組んで旅に出たものの,カンザスシティからの帰り,デトロイトまでのフライトが離陸後にトラブを起こし引き返してしまったので,デトロイトで日本への帰国便に乗り遅れてしまった。
苦労をした旅であったが,そんなハプニングでもあったほうが,後で記憶に残っているものだ。
カンザスシティ・ロイヤルズのゲームも見たし,ルート66も走ったが,その中でもとりわけ深い印象を残したのがブランソンという町であった。そこで今日は,ブランソンについて書くことにする。
ブランソンという町は2015年春の旅に出かける少し前に知った。
ブランソンには多くの劇場があって,そこでは毎日さまざまなショーが行われていた。ブランソンには,日本では無名でもアメリカでは有名なタレントが多くいるが,そのなかでも,ショージ・タブチさんのことはすでにこのブログにも書いたように,実際に会ってお話することもできた。アンディ・ウィリアムスさんの劇場もあったが,残念ながらその数年前に亡くなってしまい,見ることがかなわなかった。
ここで見たダットンズ(Duttons)のショーもまた,すばらしかった。メンバーの人と話をすることもできた。ダットンズは,今もアメリカ各地でショーを行っているということだが,私がブランソンで懐かしく思い出すのがこのダットンズのショーである。日本の演歌歌手のショーみたいなものなのだが,これぞ古きよきアメリカ,という感じがした。
ダットンズは,の公式ホームページには次のように紹介されている。
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ダットンズ(Duttons)はブルーグラス音楽を演奏するダットン一族のアーティスト集団です。これまで,アメリカのフィドリングコンテスト,クラシックバイオリンコンクール,および,スタジオミュージシャンとしての賞と評価を獲得して,そのショーはバイオリン,ギター,ベース,ビオラ,バンジョー,マンドリン,キーボード,ハーモニカ,ドラムなどさまざまな楽器で行われます。また,器楽の妙技に加えて,歌手やダンサーとしても熟練しています。
今日,ダットンズは,ブランソンに独自の劇場を所有しており,年間300以上のショーを行っています。また,劇場に関連するホテル,レストラン,ギフトショップを所有しています。さらに,アリゾナ州のメサにも別の劇場を所有していて,ここでは,12月から4月にかけて上演をしています。
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できることなら,いつか再びブランソンに行ってみたい。そしてこんなショーをまた楽しみたい。なぜか,このごろそう思うのである。
アメリカに3度行った年のこと-2015夏アメリカ旅行記3
●当時の自分がまぶしい。●
2015年というから,早いもので今から5年前のことになるのが夢のようだ。
この年,私は5月から8月にかけて3度もアメリカ旅行をした。当時,このブログに,
・・・・・・
旅行の様子は「2015春アメリカ旅行記」「2015夏アメリカ旅行記」として,後日詳しくお伝えする予定です。
・・・・・・
と書いた。しかし,「2015春アメリカ旅行記」は書き終えたが,「2015夏アメリカ旅行記」は途中で中断している。それは,そのころ頻繁にアメリカを旅していた私は,それ以外の旅の旅行記で書くことがあまりに多く,続きを書く時期を逸してしまっていたからである。
コロナ禍でしばらく海外旅行もできそうにないで,この機会を利用して「2015夏アメリカ旅行記」の続きを書きたいと思う。
2015年に旅をしたあとも,私はずいぶん多くの旅をし,いろんな経験をした。その間には思わぬ出会いもたくさんあった。2015年の時点では,私はその後に夢中になったハワイも,オーストリアやフィンランドといったヨーロッパの文化も,オーストラリアやニュージーランドで見た南天の星も,2017年の皆既日食も,そしてまた,ロヴァニエミやアラスカでのオーロラも知らない。
今,2015年の旅を思い出すと,ずいぶんと自分が未熟であることに気づく。今なら,もっとスマートに旅ができるはずである。しかし,当時の感動やときめきは,今では決して味わうことができないとも感じる。あのころの自分がまぶしく,そして寂しくもある。
・・
ということなので,この旅行記の続編は,単に旅行の足取りを追うのではなく,現在の自分からみた5年前の姿を書いていくことにしたい。
アメリカでキャンプをしよう⑤-2015夏アメリカ旅行記2
●決してジャガイモだけの州ではない。●
キャンプからマウンテンホームに戻る途中,「Shoshone Indian Ice Caves」というところに寄ったので,今日はそのことを書いておこう。ここは,クレイター・オブ・ザ・ムーンと,私が春に行ったケンタッキー州のマンモスケイブ国立公園を足して「10で割った」ようなところであった。
「10で割った」というのは,規模が小さいという意味である。
アイダホ州の全体は一面に広がる大地で,「ちっとそこまで」といった隣町の距離は半端でない。だから,このアイスケイブも規模が小さいと書いたが,それでも山口県の秋吉台を100倍くらいに拡大したものと想像すればよいかもしれない。
ここは国立公園ではなく,この土地の持ち主が小さな博物館兼洞窟ツアーを実施している感じだがそれでもすごいスケールであった。この洞窟ツアーは45分ほどで,中に入ると,自然の驚異を実感することができるのだった。
入口にあった博物館兼土産物屋には安っぽい土産が並び,いかにもアメリカの民間の観光地であった。また,ネイティブアメリカンが作ったであろう,木彫りの彫刻などが洞窟の入口に脈絡なく並んでいて,ある種のいかがわしさを醸し出していた。そのまったく垢抜けしていない様子は,国立公園の整然とした規律のある状況とは対比をなすものであった。
ここで話は変わるが,私が数年前に九州の吉野ケ里遺跡に行ったときに,その豪華さに驚いたものだが,その理由は,吉野ケ里遺跡が国の施設になったから,というものであった。私は,国が管理するかそうでないかというのは,予算の面でそれほど大きな差ができるものなのか,と驚いたのであったが,ここもまたそれと同様であった。
さらにもうひとつ余談を書く。それは,アメリカでは,どうして観光地の土産物はどこもこうもしょ~もないものばかりが並んでいるのだろうか,ということである。これもまた昔話になるが,以前ヒューストンにあるNASAを見学したとき,土産物売り場をさんざんまわってみたのだが,欲しいものが何ひとつ見つからななかった。
それdも,近年はかなり「マシな」ものが売られるようになってきた。私がこのときの旅でこの後で行くことになるシアトルにあるボーイング社の工場見学ツアーでは,予想に反して売店にはかなりいいものがたくさん売られていた。しかし,今度は,その値段というものが半端じゃなかった。MLBのボールパークのオフィシャルグッズにしても,ユニフォーム型のシャツなんて10,000円以上ももするのだ。
話を戻そう。
ここアイスケイブは「世界自然不思議」のひとつなのだそうで,地下の水が凍っているのだ。そして,そのことが,この洞窟の名前の由来となっている。このように,アイダホ州は,確かにとなりのモンタナ州やユタ州にくらべれば「観光地」と言えるほどの見どころはないのだが,それでもこうした不思議な場所が結構ある。決してジャガイモだけの州ではないのである。
アメリカでキャンプをしよう④-2015夏アメリカ旅行記2
●「誰がために鐘は鳴る」を完成させた地●
私が連れていってもらったキャンプ場はリゾート地であるサンバレーから,さらに北にいったSawtoothというところであったが,今日の1番目の写真は,そのキャンプ場の入口にあったビジターセンターである。このキャンプ場は,入口から進んでいくと給水所があって,キャンピングカーは,そこで水を補給できるが,その先は,電気も水道もなく,トイレがあるのみ。しかも,めちゃくちゃ広い。
日本のオートキャンプ場は,それに比べたら,単に,キャンプと名の付いたパック旅行のようなものである。
サンバレー(Sun Valley)は,アイダホ州の中央部に位置するリゾートで,ウッドリバーバレーに位置している。人口は約1,400人。標高1,800メートルにあって,観光客はスキー,ハイキング,アイススケート,乗馬,テニス,サイクリングなどを楽しむことができる。
リゾート地なので年間を通して住んでる人は少なく,オレゴン州ポートランド,ワシントン州シアトル,カリフォルニア州ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸の大都市や,イリノイ州シカゴ,ニューヨーク州ニューヨークなど遠方の大都市から,短期間来る者が多い。
1930年代にアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)がこの地を大衆に紹介してから,金持ちや著名人が季節によって滞在する場所となってきた。
アメリカの冬のリゾート地は,ユニオン・パシフィック鉄道会長のW・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman)が西部の鉄道利用客を増加させるために開発した。1932年にニューヨーク州レイクプラシッドで冬季オリンピックが成功したことでウィンタースポーツを楽しむ人が増えた。そこで,スイス・アルプスで楽しむことができるのと似たような山岳リゾートをアメリカでも作ろうと判断したのであった。そこで,オーストリアの伯爵フェリックス・シャフゴッシュの協力を得て,冬のリゾート地に最適な場所を求めて,レーニア山,フッド山,ヨセミテ国立公園,サンバーナディーノ山脈,ザイオン国立公園,ロッキーマウンテン国立公園,ワサッチ山脈,ポカテッロ,ジャクソンホール,グランドターヒーを旅したが,なかなか最適な地がなかった。
そうして,その旅の終わりにみつけたのが,ここサンバレーであった。フロリダ州のマイアミビーチを宣伝して成功していた広告業界のパイオニア,スティーブ・ハニガン(Steve Hanigan)が雇われ,そのリゾート地は「サンバレー」と名付けられたのだった。
サンバレー・インは1937年にオープンした。作家アーネスト・ヘミングウェイが,1939年秋にロッジの206号室に滞在し,「誰がために鐘は鳴る」(For Whom the Bell Tolls)を完成させた。また,ゲイリー・クーパー(Gary Cooper)が何度も訪れて狩猟や釣りを楽しみ,クラーク・ゲーブル(Clark Gable),エロール・フリン(Errol Flynn),ルシル・ボール(Lucille Désirée Ball),マリリン・モンロー(Marilyn Monroe),ケネディ家の数人などが客になった。
サンバレーは1941年の映画「サンバレー・セレナード」に登場し宣伝された。この映画にはソニア・ヘニー(Sonja Henie),ジョン・ペイン(John Payne),ミルトン・バール(Milton Berle)およびバンドリーダーのグレン・ミラー(Alton Glenn Miller)が出演した。また,1971年,アポロ15号の宇宙飛行士ジェームズ・アーウィン(James Benson Irwin)が月面のハドリー・アペニン(Mons Hadley)に降り立ったとき,熱心なスキーファンである彼は「サンバレーのようだ」と叫んだという。そのほか,サンバレーと関わりがある著名人は,先に書いたアーノルド・シュワルツェネッガーをはじめとして,トム・ハンクス(Thomas Jeffrey "Tom" Hanks),クリント・イーストウッド(Eastwood Jr.),ビル・ゲイツ(William Henry "Bill" Gates III)などがいる。
私がこのサンバレーを通ったときは夏のハイシーズンで,多くのリゾートを楽しむ観光客で一杯だった。
アメリカでキャンプをしよう③-2015夏アメリカ旅行記2
●野生のムースが突然現れた。●
お昼間は特にすることもないので,キャンプをしている場所からのんびりと歩いていって,魚が釣れるという池に着いた。
この池のあたりは,写真にあるように,人ひとりいないような大自然であった。この池は来るたびに水かさが違っていて,だから,池の大きさも違っていて,魚がどれだけ釣れるかもまた違うということだった。この日は水の量も少なく,どこに魚が住めるかと疑問になるほどであった。
きっと,人間というのは,古代から,こういう自然環境のなかで暮らしていたのに違いないんだなあ,と私は思った。
それでも,我々は遊び気分だからいいようなものの,魚がつれるかどうかが生活の大問題であるのなら,池の水かさは重大なことに違いないだろう。
ここで少し話が変わるが,日本のBS放送では旅番組が盛んで,日本各地のさまざまな様子が家にいながらわかる。私もそうした番組が好きでよく見ているが,その中で,以前,「グレイトトラバース」という日本の山に登る番組を放送していた。
確かに山登りというのは大変に違いがないのだが,私はその番組を見て最も感じたのは,日本は北の果てから南の果てまで,どこへ行っても,結局,人が大自然を無残に切り開いた醜い場所しか残っていないのだなあ,ということであった。そしてまた,険しそうなどの山に登っても,山頂は人で溢れ,その人混みは都会と変わるものではなかった。
こうした旅番組の影響もあってか,あるいは,それまでは仕事仕事で旅もできなかったからか,日本では定年退職後の健康な人たちが,東に西に北に南にと自然を求めて右往左往しているように思われる。しかし,自然の美しさを求めてどこにでかけても,そんな自然など,日本にはどこにもないのだ。アメリカのこうした大自然を知ってしまった私には,それがとても痛々しく思われる。
話を釣りにもどそう。
私の趣味に魚釣りはない。だから,釣りの経験はほとんどない。一度釣り堀で試みたことがあったが,釣り針にかかった魚を見て,私は痛々しくかつかわいそうになった。これでは釣りはできないわけだ。
今回,私は釣竿を借りて,見よう見まねで糸を垂れた。しかし,そんな私に釣られてしまうような魚はよほど修行が足りないのに違いがない。
そんな私の影響のわけでもなかろうが,釣りはまったくの不作で,全員でたった3匹しか収穫がなかった。そのたった3匹の魚を持って帰って夕食のときについでに料理して食べたのだが,釣りたての魚というのは,非常に美味であった。
そんなことをしながら,大自然の中で,暗くなれば寝て,明るくなれば起きて,お昼間は釣りくらいしかすることもなく,今考えると何をして時間を潰したのかも思い出せないが,3日間を過ごした。私はほとんど何の手伝いもせず,お昼間は与えられたものを食べ,夜は寝ていただけであった。
朝晩は寒かったので寝袋にしがみついて寝たが昼間は快適であった。残念だったのは天気があまりよくなくて,星がまったく見えなかったことであった。
今これを書いていて思うのだが,わずか2年前のこととはいえ,このときの私は,夜テントで寝るのも苦痛だったし,星が見えないこともまた,とてもとても残念であった。この2年という月日の経験はそんな私を劇的に変身させたのだが,このことはまた後日書くことにする。
ところで,こうしたキャンプ生活が日常と大きく異なるのは,シャワーとトレイであろう。アウトドア生活の障害というのはこのふたつに尽きる。山登りも同様である。
シャワーはないから,清潔感を求めるのなら2泊くらいが限度になってしまうであろう。トイレのほうは,日本のアウトドアでのそれに比べて,こちらのトイレは清潔できれいである。そうしようと,みんなが気をくばっているのである。
日本では,デパートのトイレなどは必要以上にきれいでかつ自動化されているが,駅のトイレなどは無残な状態である。両極端なのである。しかし,アメリカではどこも同じ程度に清潔である。
おそらく,日本人にとって海外旅行をする上での障害は言葉と移動手段に加えて,トレイであろう。これはウォッシュレットの存在が大きな要因なのである。あんなものが日本だけで普及したから,日本人はそれなくしては生きていかれなくなってしまったのだ。
さて3日目。帰る日の朝のことである。
私がコーヒーを飲んでいると,突然,木の陰から巨大な獲物が現れて,私の5~6メートル前をのそのそと歩いて消えていった。それは,驚くことに野生のムースであった。
聞いてみると,現地に住む人もムースなど見たことがないということであった。
アメリカでキャンプをしよう②-2015夏アメリカ旅行記2
●今日の食事にする魚を捕りに●
聞くところによると,アイダホ州は税金が安いので有名人が別荘を構えるのだそうだ。今回,我々の目指すキャンプ場はサンバレーという場所の奥にあるが,サンバレーにはアーノルド・シュワルツネッカー(Arnold Alois Schwarzenegger)の別荘がある。彼は元ボディビルダー,映画俳優,元政治家,実業家であり,2003年から2011年にかけてカリフォルニア州知事を務めた。
我々は,Mファミリーの自宅のあるマウンテンホームを出発して,国道20を東に走っていった。峠に登ると非常に見晴らしがよくなったが,そこには広い場所があって,この日,ジャスフェスティバルをやっていた。
その場所の写真がなくて残念だが,想像をはるかに超えた広い大地に,キャンピングカーやらピックアップトラックやらに乗って多くの人がやってきて,特設された野外ステージを取り囲んで,ジャズを楽しむのだという。フェステバルの準備も参加者が各自で行い,日本でも夏になると行われる星まつりやらジャズフェスティバルを数十倍に巨大化したようなものであった。そのためにほどんど車の走らないこの国道20を行き交う車も数多く見られたが,なにせ,広すぎるから渋滞するでもない。しかし,私は,これだけ土地があるのに,町からいい加減離れたこんなところまで行ってでジャズフェスティバルをするとは…… と半ばあきれた。
どうやら,遊びに関して,この国の人は日本人とは本質的にスケールが違いすぎるようだ。こういう姿を知ってしまうと,日本でアウトドアなんて,まったくおままごとのような気がしてまったく興味がなくなってしまう。
我々は国道20をそのままさらに進み,途中で州道75に左折して北に向けて進んでいった。冬になると,このあたりは一面雪に覆われるのだそうだ。
道を1本外れれば舗装道路はなくなって,雄大な牧草地帯となり,広大な敷地をもった農家があるのだが,こんなところで暮らすには,ピックアップトラックと銃がなければ,危険で生きていけない。
さらに進んでいくと,やがて,リゾート地サンバレーに到着した。ここは,スキーリゾートで,日本でいえば軽井沢のようなところである。
我々はされに北上して「saw tooth」という山の中のキャンプ場に到着した。入り口にはビジターセンターがあって,そこで水を供給することができるようになっていて,キャンピングカーで来る場合はそこで車に水を補給するわけだ。
ビジターセンターを過ぎ,延々とキャンプ場の中を進んでいくと,ひと区画が300坪くらいの土地がたくさんあって,そのひとつひとつで自由にキャンプができるようになっていた。
空いている場所を確保したらその場所を登録して使用料を払うわけだ。すべて無人である。そして,帰るときにはゴミなどすべてを始末して帰るということであった。
日本にもオートキャンプ場「もどき」があるが,水も電気も自動販売機もそろっているし,中にはシャワー室があったり,レストランさえあったりするから,あんなところは,アウトドアというよりも,単に,ホテルのないリゾートに過ぎないわけだ。
我々がキャンプをはじめたのは日曜日であったら,週末にかけてキャンプを楽しんでこれから帰るというファミリーが多く,これからキャンプをはじめるというファミリーは少ないので,場所を探すのに苦労はなかった。
それぞれのファミリーは,我々のようにピックアップトラックにテント一式を持ってきたり,あるいは,キャンピングカーだったり,まあ,それはいろいろで,これひとつを見ても,人まねでないアメリカ人というものがとてもよくわかるのであった。
我々も,まずテントを設置して,火をおこした。そして次に,今日の食事にする魚を捕りに行くことになった。
アメリカでキャンプをしよう①-2015夏アメリカ旅行記2
このブログの「2015年夏アメリカ旅行記2」はアイダホ州を出発してモンタナ州へ行き,モンタナ州からアイダホ州に帰って来たところで中断をしています。この後はいよいよ2泊3日でキャンプに出かけることになるのですが,2017年の夏,皆既日食を見るために,私は再び2泊3日でキャンプをしました。そこで,今回からは,この2回のキャンプの様子を順に書いていくことにします。
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●はじめてのアメリカでのキャンプ●
☆4日目~6日目
2015年8月2日(日)~8月4日(火)
今日から2泊3日で,キャンプに行くことになった。はじめて日本に来た外国人が,友人に今日から2泊3日で上高地へキャンプに行くぞ,と誘われてついていったようなもので,私にはただただ初体験のことばかりで,どこへ行くのか,何をするのか,さっぱりわからなかった。
ともかく,日本でさえ,キャンプなどしたことがないアウトドアとは無縁の生活を送っているのに,本場アメリカでこうした経験ができるというのも貴重なことであった。そんなわけで,ともかく,私は,2泊3日,ピックアプトラックの補助席に乗って,アイダホ州の山の中のキャンプ場に行って,食事を作ってもらい,テントに寝て,帰ってきたのである。こういう経験を夢てみていてもできない日本人も少なくないことであろうが,それができてしまった私の人生の幸運と奇蹟に感謝せさるを得ない。
日本にもオートキャンプ場があるし小さなおもちゃのようなキャンピングカーで旅行をしている人たちもいるが,日本の場合は,都会の混雑そのままがキャンプ場に引っ越してしまっただけのようで,私はまったく魅力を感じない。日本でこういうアウトドアを試みることにはかなりの無理がある。それに比べれば,まさに,こういう真実のアウトドアこそがアメリカの文化なのだから,私は,そういう経験をすることができたことが,とてもうれしかった。
ということで,私はただ連れていってもらっただけなので,どこに行ったのかさえ正確に把握していないが,覚えているだけのことを書くことにしよう。
早朝,Mファミリーと私の総勢6人+犬1匹は,巨大なピックアップトラックに乗り込んで,マウンテンホームの自宅を出発した。
大都会に住む家族は別として,アメリカの「ふつうの家族」が持っている車は,日常に使用するセダンかSUV車とピックアップトラックである。さらには,キャンピングカー,あるいは,ヨットまである。
日本でも,何か勘違い? して,ピックアップトラックやキャンピングカーに乗っている人もたまに見かけるが,そりゃ,やめたほうがいい,と私は思う。走る場所がないし使う場所がないからである。
私は,アメリカを旅行しはじめたころに驚いたのは,道路を走るキャンピングカーの多さとピックアップトラックであった。
ピックアップトラックなど何に使うのかな? と思ったが,あれは要するに,日本の田舎で走る必殺「軽トラ」だと思えばよいのだ。ピックアップトラックの荷台には,ものすごくたくさんの荷物が乗るから,アメリカの家族の週末の代表的な「娯楽」であるキャンプに行くには必需品なのである。
我々も,ピックアプトラックの荷台にキャンプ用具一式を載せて出発したのだった。アメリカのキャンプ場は日本のオートキャンプ場と違って,すべてを自分たちでやらなければならない。さすがに,火を起こすのは火打ち石でないにしても……。
キャンプ場には,その一区画ごとに火を起こすスペースだけが用意してあって,その一区画に,それぞれの家族は,テントを立てたりキャンピングカーを停めたりと,自由に利用するのである。
私がいつも思うのは,こうしたことすべてが日本とは全く違っていて,非常にマナーがしっかりしている,ということなのだ。近頃,日本では,キャンピングカーが迷惑がられていて,それを停めることや野宿することを禁止する動きがあるという話を聞くが,日本では,ゴミは平気で捨てるわ,ルールは守らないわ,などといった傍若無人な行いが目に余るから仕方がない。そんなことは,家々のポストをゴミ捨て場と勘違いしたかのようにチラシをいれたり,道路の中央分離帯をゴミ捨て場と勘違いしていたり,山の中に平気で粗大ゴミを捨てに行く,この日本という国の「良識の程度」を考えてみれば明白なのである。大自然に敬意を払わず自分勝手に自然を破壊するこの国では,そのうちに,すべての里山は太陽電池パネルでうめつくされてしまうことであろう。
◇◇◇
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ボーズマン⑤
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州ボーズマン⑤
●クレイター・オブ・ザ・ムーンを再訪●
アメリカ大陸の大自然は,そういう風景を見たことのない日本人は無論のこと,観光でアメリカを訪れる多くの日本人にとっても無縁のものである。
アメリカを観光で訪れる日本人の多くは,ニューヨークやサンフランシスコやホノルルをアメリカだと思っている。あるいは,ラスベガスでカジノに興じるためにアメリカに来るのだが,ラスベガスまでの行程にある広大な砂漠の景色はバスの中で寝てすごすからである。そうした入門者がそれを卒業して中級者になると,はじめて大自然に触れて,グランドキャニオンに沈む夕日に涙するが,実際は,アメリカにはグランドキャニオンのような雄大な大自然はごろごろころがっている。
自分で車を運転して,自由にアメリカを走り,住んでいる人と交流するようになると,やっと,本当のアメリカがわかってくるのだが,そこまで行くためにのハードルは高い。
しかし,旅とはおいしいものを食べ,ショッピングをし,観光バスで名所を巡るものだと思っている人や,こうした風景に感動する感性のない人にとっては,アメリカの広大な大地は退屈なだけであろう。それはブルックナーやマーラーのような冗長なクラシックの名曲に何も感じないのと同じである。
価値観はひとそれぞれなのである。だが,こうした名曲や大自然に感動できるかどうかというのは,価値観が違うとか感性がないというよりも,それを味わうことができるまでのステップが遠すぎることがその理由であろう。
私は,これまで,幸い,数多くのアメリカの大自然を見たり,体験することができたことでそうした遠いステップを越えてきたが,それでもいつも不思議に思うのは,あたり一面がすべて真っ白な砂で覆われた大地のホワイトサンズがあるかと思えば,あたり一面が真っ黒の溶岩で覆われたクレイター・オブ・ザ・ムーンがあったりする,人間の力の及ばない大自然の姿である。
自然はかくも不思議なものである。
ウエストイエローストーンの町から右折して国道20をアイダホ州に戻ってきた私は,途中にある,クレイター・オブ・ザ・ムーンに,今回も立ち寄ることにした。すでに,昨年も来たところだったが,そのときは時間が十分になかったので短時間滞在しただけであった。そこで,改めてどういうところか,しっかり確かめてみたかったのだった。
昨年,初めてこの場所のことをを知ったとき,この地の名前が何を意味するのかすらわからなかった。「月のクレイター」という名前から,いったいどうしてアイダホ州に月のクレーターが? という感じであった。隕石抗でもあるのだろうか,と思った。
ここで余談。
日本語には,ひらがなやカタカナ,漢字と,多くの文字があるが,そのことが日本らしい複雑さを呈するのだ。
漢字は単なる文字を越えて,その背後に様々な意味を含んでいるから,便利な反面,煩わしいことが数多く存在する。
たとえば「障がい」という言葉である。そもそも「障碍」だったものが「碍」の字が当用漢字でないことから「害」があてがわれてしまった。そして,「害」という文字の持つ意味がよくないので,現在はひらがなで表記されるようになった。人権を全く考えない発言を繰り返す政治家や男女別姓を認めない最高裁,いじめを「仕込み」と称するこの国なのに,こういう形だけはこだわる(ふりをする)のだ。
「制服」は,英語の「uniform」と同一のものではなく,「制」という漢字のもつ「きちんとする,そうさせる」という意味が重くのしかかるから,学校では単に統一した服装をしていればそれでいいのではなく,服装指導ということを行うようになる。そして,それが行き過ぎる。
そもそも,差別というものは日本人が根にもつ本質なのだから,漢字や熟語の創成期からそうした差別が数多く存在する。「姑」は古い女だし,「嫁」は家に嫁ぐ女となる。「うちの嫁」という言葉をなんの疑問も持たず使う男どもは,その言葉の裏に,すでに差別意識が潜んでいることさえ認識していない。
単語ひとつひとつの意味を考えていけば,日本語という言葉自体が成り立たなくなってしまうほどだ。私は,そういう表面的な言葉以前に,日本人に根ざすそうした意識が変わらないことには意味がないと思うが,それもまた難しい話である。
さて,クレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園(Craters of the Moon National Monument and Preserve)は一面が火山性の玄武岩で覆われた約1,000平方キロメートルの地域である。
ここは単に完新世(最終氷期が終わる約1万年前)のころの古い玄武岩の溶岩原なのであるが,19世紀にこの地を見た数少ない白人たちは月の表面のように見えるという伝説を作りあげた。それは,この地域の保護を国立公園局に推薦するために,地質学者ハロルド・T・スターンズ(Harold T. Stearns)が1923年に「クレーター・オブ・ザ・ムーン」という名前を造り出したということである。
現在は,他の国立公園や国定公園同様に入園料を払って中に入ると,他の国立公園と同様に,ビジターセンターや博物館などがあり,公園内にはトレイルやキャンプ地が整備されている。
人間を月に送る1970年代のアポロ計画の訓練でもこの地が使われたが,本物の月に到達してみたら,この国定公園は月のクレイターとは似ていないということがわかった。しかし,それにもかかわらず,月に行ってみたらこの地は月とそっくりだったと宇宙飛行士が証言したというようなことが展示室に紹介されたりしているのが,また,アメリカらしいことであった。
私はクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園を2時間程度,車で周ったり,途中で車を降りてトレイルを散策したりした。そうして,再び,延々と道路だけが続くアイダホ州の大平原を数時間ひたすら走って,マウンテンホームに戻ってきたのだった。
この旅の3日目が終わった。
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私は,こうしてモンタナ州からアイダホ州に帰って来ました。いよいよ4日目からは2泊3日でキャンプに出かけることになります。キャンプの様子も引き続きこの「2015夏アメリカ旅行記2」に書いていきますが,それは少し先に延ばして,この「2015夏アメリカ旅行記2」はしばらく中断します。
そして,明日からは,記憶も新しい,この春に行ったハワイの旅行記を「2016春アメリカ旅行記」として先に割り込んで書くことにします。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州ボーズマン④
●遠いところでもなくなった。●
私は,帰国後しばらくしてこのブログを書いているのだが,当時の写真を見たり,写真を見ながらそのときに起きたことや見たことを思い出したりするだけで,今でも胸が熱くなる。
モンタナ州というこの愛すべき地に,私がそうした想いを抱くことができることに,深く感謝する。
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やがて,私は,ウエストイエローストーンに到着した。
ウエストイエローストーンは,イエローストーン国立公園に隣接した町で,人口は約1,200人である。オレゴンショートライン鉄道(Oregon Short Line Railroad)が完成した1908年に作られた町で,現在はイエローストーン国立公園を観光する人たちの宿泊先となっている。
北から南に進んできた国道191はこの町で行きどまりとなり,道は左右に分かれる。
このT字路を左折してそのまま東に進んでいくのが国道191でその道はイエローストーン国立公園のゲートに到着する。右折して西に進んでいくのが国道20で,この道はやがて私の帰路となるアイダホ州に達するのだ。
聞くところによると,この年のこの時期,イエローストーン国立公園は,まれにみる混雑ということだった。そして,その原因が現地に住む人にもわからない,ということであった。その南に位置するグランドテイトン国立公演が山火事で,そちらへ行く予定だった観光客がイエローストーン国立公園に流れたともいわれていた。
実は,アメリカの観光地は,確かにどこも雄大ではあるが,そのハイシーズンは,日本人が考える以上に世界中から多くの人が訪れて混雑する。私が前回,このイエローストーン国立公園を観光したのは9月だったからよかったが,この地を訪れたい人は,できれば7月~8月は避けたほうがよいように思われる。
しかし,9月も中旬を過ぎると急に冬が訪れてしまうのである。
確かに,ウエストイエローストーンに私が着いたときも噂通り観光客でごった返していて,イエローストーン国立公園方面に進む道路の左折帯は車の洪水であった。
私は,さして広くないこの町の中央にあった巨大なクマのモニュメントに覚えがあった。
あのとき宿泊したホテルは,そのクマのモニュメントの近くだったし,夕方,このあたりを散策して,公衆電話から日本に国際電話をしたのもこのあたりだった。もう,あれから10年以上の月日が過ぎて公衆電話も必要がなくなったし,この月日は,私にとって,この場所を決して遠いところでないものにした。ここからアイダホ州のマウンテンホームは目と鼻の先なのである。
私は,今回,イエローストーン国立公園へ行く予定はなかったので,そのまま混雑していない国道20のほうへ右折するのだが,その前に,この町で昼食をとることにした。
クマのモニュメントのあるロータリーの南にマクドナルドがあったので,車を停めて中に入った。
観光客で一杯の店内には,例によって中国人御一行様が店の中央に陣取っていた。一般的に彼らの特徴は,黒いレンズのサングラスをかけ,ブランド品のカバンを持ち,団体で行動し,声が大きく子供の態度が横柄であることだ。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ボーズマン③
●あのときの思い出は現実だったのか?●
あまり現実を知らなかったときの瞬間の淡い記憶ほど懐かしいものはない。若い頃の断片的な記憶はいつまでも心に残っているものだ。
たとえば,少年の頃に読んだ天文雑誌に載っていた天体望遠鏡。星を見た帰りの夜明けの景色。…。
しかし,懐かしがってそれを手に入れたり,お昼間にその景色を見ようと出かけると,ほとんど場合,それは幻想にすぎなかたっと実感する。若いころの片思いも,まさにそれと同じなのかもしれない。
私にとって,ボーズマンという町は,まさに,そういったところだった。
2004年9月13日,モンタナ州ビュートで交通事故にあって1週間入院したその帰国の日。私はリムジンタクシーの窓から,帰国便の出発するボーズマンの空港に至る町の風景を車窓から見た。今考えると,そこにあったのは,広い玄関とガレージには3台の車が停められているというだけのどうってことのないアメリカの住宅街だったのだろうが,私はそのとき,アメリカという国のそのすごさと豪華さに,「なんだこれは! これがアメリカなのか!」と思った。
そして,その2年後,2年前には行くことができなかったイエローストーン国立公園に行ってみようとボーズマンからイエローストーン国立公園の玄関口ウェストイエローストーンまで送迎をしてもらったときに深夜の車中から見た川沿いの道路の風景。その道路に数多くの十字架の墓標が並んでいるのに別の戦慄を覚えたが,あれは幻想だったのだろうか?
私は,今回,その両方の姿が真実だったのか,改めて自分の目でしっかり見てみようと思ったのだった。
あれから10年以上の歳月は,私にとって,アメリカを夢の世界から現実にした。だからきっと,今それを見ても,あのときのような感動や戦慄は全く抱かないだろうと思った。しかし,抱いていた記憶が,本当はどういった現実の姿をもっているのか,私はそれを知りたかった。
自然史博物館を出た。駐車場からは,遠くに雄大なロッキー山脈を見ることができた。この博物館に来たときは,ボーズマンの市街地を走らず郊外を周ってきたので,帰りはボーズマンのダウンタウンを通ることにした。
ボーズマン(Bozeman)は人口約3万人,モンタナ州6番目の町である。この都市の名は「ボーズマン・トレイル」をつくったジョン・ボーズマン(John Bozeman)にちなんでつけられた。モンタナ州で最も発展がめざましく,私がこれから走ることになるギャラティン渓谷は景勝地としても知られている。
ボーズマンは,また,モンタナ州立大学の本拠地であリ,ギャラティンフィールド空港が町の北西にあってここがイエローストーン国立公園の北からのアクセスの玄関口となっている。
ボーズマンからは,2006年のときと同じように,空港からウェストイエローストーンまでギャラティン渓谷沿いの道路を走って行くことにした。その道路は国道191である。
2004年。私がビュートで事故にあって,途中でイエローストン国立公園へ行くのを断念したとき,事故に遭わなければ,ボーズマンからイーストイエローストーン国立公園まで,この道路を走るはずであった。そして,2006年,今度は送迎の車の窓からみたこの道路は,思った以上に狭く,いたるところに,交通事故の爪痕として,犠牲者の十字架が墓標として設置されていた奇妙な道路だったのだ。そのときの私は,こんな危険な道路は,たとえ事故に会わなかったとしても走れなかったな,と思ったものだった。
今回,地図で確認してその道路を走って行くと,あのときに走った道路は確かにこれだった,と思った。しかし,昼間であることと天気がとてもよかったこともあって,あの時とは全くイメージが違っていた。
そこにあったのは,ロッキー山脈から流れる美しい川沿いの,静かで走りやすい道路であった。
ボーズマンからウエストイエローストーンまでは,当時走ったときに感じた以上に距離があった。そして,あのときに車窓から見たと思った十字架は,決して夢ではなく,確かに存在していた。
私は,このようにして,2004年と2006年のときの記憶と幻想を思い起こしながら国道を走って,イエローストーン国立公園のゲートに再びたどり着いたのだった。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ボーズマン②
●日本の自然保護は空論に過ぎない。●
ボーズマンに到着した。私は,ボーズマンにも様々な思い入れがあって,「気になる町」のひとつであった。中でも,ぜひ行ってみたかったのが,ロッキーズ博物館であった。
ロッキーズ博物館(Museum of the Rockies)は,ロッキー山系をテーマにした自然史博物館である。このエリアの自然を40億年前(地球の歴史は48億年である)から時代を追って展示してある。この博物館の最大の目玉は8,000万年前のジュラ紀,モンタナ州に生息していた世最大の恐竜の化石のコレクションで,映画「ジェラシックパーク」のスタッフが監修している。
私の高校生のころは「地学」が必修科目だった。地学は地質学と天文学がその内容だったが,私が習った教師は地質学の専門家? だったので,カリキュラムなど無視して,地質学しか教えなかった。そのころの高等学校なんて,そういういい加減なところで,それがよかった。学校など,学問の興味付けができればいいのであって,そもそも勉強など自分でするべきものだ。しかし,私は天文学には興味があったが,地質学には全く興味がなかった。実際,もったいないことをした。
アメリカを旅行するようになってから,アメリカの様々な町には必ずといっていいほど美術館とならんで自然史博物館があるのだが,はじめのうちはその理由がよくわからなかった。
日本には「科学館」というものがあるにはあるが,その展示は,どちらかというと物理・化学系のものが多く,自然に関するものが少ないから,アメリカで自然史というものがどうして重視されているのかが理解ができなかったのだ。
しかし,今はわかる。そして,天文学とならんで地質学も面白いと感じる。それとともに,日本人がどうして自然を軽視しているのかもよくわかる。
本来,人間は自然の上に生存していて,自然という巨大な海原に浮かんだはかなき葉っぱにすぎないのだ。しかし,日本人にはそうした認識が全くない。日本にあるのは「土壌」だけなのだ。だから,「自然保護」といいながら,それは人との共存をはかろうとするための里山の保護であり,天災の発生を防止するための護岸工事などをおこなう土台に過ぎないわけだ。そもそも発想が異なるのだ。そして,その本音は,自然保護とは程遠く,いかに道路工事をするか,でしかない。
考えてみれば,日本には大自然などどこにもないではないか。だから,学校で「理科」という教科があっても,そこでは本当の自然教育など習ったことがない。高校で「地学」という教科が軽視されていった理由も,きっとそこにある。
そもそも,そういった根本的な認識がないのだから,そりゃあ,自然保護といっても所詮は空論に過ぎないわけだ。
この博物館は,広大なモンタナ州立大学の構内にあった。
モンタナ州立大学はボーズマンの南にあったが,私は,まず,この大学の途方もない広さに驚いた。構内をどんどん進んでいくと,やっとのことで博物館の駐車場に到着した。
第一印象は小さい博物館だ,ということであった。それは実際は誤解で,周りが広すぎるだけであった。
まだ,開館時間よりも少しだけ早かったが,すでに,一組の家族連れが来ていて,博物館に入っていくのが見えたから,私も彼らについて入っていった。チケットを購入して,展示についての説明をスタッフに尋ね,やがて開館時間になったので展示コーナーに入った。
恐竜の化石が,まあ,あるわあるわ…。その一角には化石から恐竜を復元する研究室があって,外からその様子を見ることができた。奈良の橿原考古学研究所みたいなものだが,奈良の考古学は2,000年前の人間の作ったものの発掘であって,ここは3,000万年前の生命そのものの発掘である。
博物館の外には,開拓時代のアメリカの住居の展示もあったが,本館よりも開館時間が遅くてまだ開館されていなかったから,残念ながら,家の中には入ることはできなかった。ただし,家の庭を見ることはできたから,その美しく手入れされた庭を散歩した。庭には,麦畑やニワトリ小屋といったものもあって、当時の生活ぶりをうかがい知ることができた。庭から家の中を覗き見していると,中にいた職員の人と目があって、もう少し中に入るには待っていてね,と言われてしまったのだった。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ボーズマン①
●キチンと見ておきたいボーズマン●
☆3日目 8月1日(土)
ヘレナから,私は,ビュートへ引き返した。本当は,モンタナ州の北の果てにあるグレイシャー国立公園へ行きたかったのだが,今回は時間がなかったので,次回のお楽しみということにした。
今日はインターステイツの写真ばかりである。しかも,車のフロントガラスが汚れていて,しかも逆光なので,汚い写真しかない。
アメリカの旅ではその半分以上は車での移動,だから,車なしではアメリカはどこへも行くことができないといっても過言でない。ツアーでアメリカへ行くと,人数が多ければ大型バス,少なければバンに乗っての移動となるが,こうした長距離のドライブ中はきっと寝ているだろうから,本当のアメリカの姿を実感することはできないだろう。まして,私がいつも書いているように,道路の左側には必ずイエローラインが引かれていて,これを信じて走ればいいとか,こうしたインターステイツの路肩は段差が設けられていて,非常に安全だとか,そういったアメリカの「知恵」を認識している日本人はまれである。
このようなシステムの道路は,長時間ドライブしても全く疲れないし,極めて快適なのである。
前回ビュートからヘレナに行ったときは,全く人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走って行ったら忽然とヘレナの町並みが見えてきたという印象であったが,今回行ってみて,全く異なるイメージだったことがおかしかった。
こうした印象は,自分の持つ経験やスケールに照らし合わせて判断し,頭の中にイメージを作り上げているということを改めて認識したのだった。つまり,ここ数年で,ずいぶんとたくさんインターステイツを走って,私のスケールのレートが変わっていたということだ。
インターステイツ15は,今日の写真のような,美しい景色が広がる道路であった。そして,周りには,のどかな牧場が広がっていた。それは,荒れ果てた大地が広がるテキサスや,2億年前の赤茶けた大地の広がるユタ州などの雄大さとは全く異なる風景であった。
やがて,私はヘレナからビュートまで戻ってきた。 今日中にマウンテンホームに戻ればいいから,この日はどう遠回りをしてもよかったので,私は,ビュートで左折して,インターステイツ90をボーズマンまで行くことにした。
このインターステイツは,私にとって特別な意味を持つ道路であるが,このことはすでに幾度も書いたのでそれをお読みいただくとして,これからは,私がどうしても気になっていてキチンと見ておきたかった町・ボーズマンについて紹介していきたい。
◇◇◇
愛しのアメリカ-我が「9・13」 11th Anniversary
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ⑨
●商業主義の観光地でない。●
ツアーバスは,再びダウンタウンに戻ってきた。
すでに書いたように,ヘレナ歴史的地区(HHD)は,1927年アメリカ合衆国の連邦によって指定されたダウンタウンエリアとウェストレジデンスのふたつの地域からなるが,今日はそのうちのダウンタウンを紹介する。
ダウンタウンの中心は,南西から北東に走るラストチャンスストリート(Last chance Gulch St.)で,通りとモールに沿って多くのバーやレストラン,専門店が並んでる。
ヘレナのダウンタウンの特色は,時代ごとに無計画に町が形成されたので,観光客が歩きまわることが非常に難しいということである。ゴールドラッシュ時代に道路は採掘権利の境界をたどって作られたので,道が曲がりくねり直線の大通りがこの地域にはない。まるで江戸時代の日本のようである。
ヘレナはダウンタウンから発展した。1864年というから日本の幕末と同じ時代「4人のジョージア人」が 今日のヘレナのダウンタウンの大通りであるこのラストチャンスストリートで金を発見した。それが発端となって,その後30年続いた文化と建築ブームを誘発し,ヘレナは州都になった。
都市はラストチャンスストリートに沿って南から北に拡大していった。しかし,1869年,1872年,1874年に起きた火事がこの地域の多くを破壊した。その後に建設された建物の多くは見事なレンガと単純な線をもつ西洋の商業スタイルであったが,なかには古典的装飾様式で作らてたコールウェル・ビルやペンブロック・ブリストル・ホテルもあった。
また,デンバー・ブロックとサンズ兄弟の生誕地は,1880年代中ごろまでのロマネスク様式の復興であった。
ヘレナの建築のうちアトラス・ビル,証券ビル,そして裁判所には,シカゴ派といわれる建築様式の影響がみられる。
このように,ダウンタウンの建築には様々な様式をたどることができるから,建築の専門家にとれば興味深い対象であると思われる,
2番目の写真は,ダウンタウンで目につく「Power Block」といわれる建物である。
当時の大物トーマス・C・パワーによって1889年に造られたこの建物は、へレナ中心部にその存在感を示している。この建物は「Power Block」という名で知られているが、6番ストリートに面した入口の上のかなめ石には「Power Building」と刻まれている。
そして,4番目の写真は「Fire Tower」である。
火事はヘレナを悩ましたものの最大のものであった。木造の建物は火事とともに燃え尽きたが,一旦火災が起きると,ヘレナの水不足は火事を止めることができなかった。とりわけ1870年代のいくつかの大きな火災はすさまじく,町の中心商業地区と多くの家の多くを破壊した。
この「Fire Tower」,つまり火災の監視塔は1870年代前半にカトリック・ヒルの西部に建設されたものである。1878年5月には,この塔に電話が取り付けられて,警備員がすぐに消防士に警報を知らせることを可能にした。このシステムは1956年まで使われたが,その時点ではアメリカで最も古いもののひとつとなっていた。
この塔は修繕を繰り返しながら長年にわたって使用されたが,1935年の地震は塔に損害を与え,1950年には稲妻を受けてしまった。
私がツアーバスで巡ったヘレナはこのようなところであった。
何分,日本語のパンフレットもガイドブックも存在しないので,発音がわからず,原語のままになっている箇所はお許しいただきたい。
ビュートで乗ったことのある市内観光トロリーバスもそうであったが,日本人には無縁の,しかし,浅いとはいえさまざまな歴史の詰まったこうしたアメリカの町は,今でもきちんと保存され,こうしてツアーバスで観光ができるのが,また,素敵なことである。日本では,こうした観光地は歴史の保存というよりも商業主義の観光地となってしまっているが,どうも,アメリカでは根本的にそうではないようだ。
アメリカに行っていつも思うのは,日本は歴史こそ長く,多くの文化遺産があるにもかかわらず,そして,やたらと細かな歴史教育を受けているにもかかわらず,国民はほとんどその文化的な価値や保存には興味がなく,本音は「金儲け」の手段としての対象でしかないということだ。世界遺産にしてもそうだ。それは,世界遺産という名を利用した観光客の集客と金儲け以外の何物でもない。本当になさけない国だとしみじみ思う。
ヘレナという町を観光して感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さである。私がもしこの時代に生きていたら,彼らの成し得たことのひとつでもできたであろうか。
学校で学ぶ官製の歴史は,政治家の醜い権力争いだけは学ぶことができるが,そこに生きている庶民の苦労については何も教えてくれない。「歴史から学べ」といわれるし,それは正しいが,そうした「学べる歴史」というは,学校では教えてもらえない。
ヘレナの観光を終えて,私は,今日宿泊するホテル・スーパー8に着いた。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ⑧
●アメリカで成功した才覚のある人●
現在,ヘレナでは1992年に創設されたヘレナ歴史的地区「Helena Historic District=HHD」によって,ダウンタウンエリアとウェストレジデンスの2か所が登録され保存されている。
きょうは,その中でウェストレジデンスを紹介しよう。
1800年代後期のゴールドラッシュに湧いたころ,西部ヘレナにはアメリカ合衆国の他のどの都市よりも多くの大富豪がいた。彼らは贅沢な大邸宅を建設する熾烈な競争を行っていて,Last Change Gulchとよばれる現在のダウンタウンの西のヘレナ山の傾斜に多くの邸宅を建設した。
それが現在残る歴史的大邸宅地区である。
かつては240以上の邸宅のあったこのヘレナの歴史的大邸宅地区も,他の地区と同様に都市の再開発とともに破壊されようとしていた。
1970年代に破壊されてしまった南東の地域は保存対象リストから除かれたが,最初のダウンタウンの地区のおよそ5ブロック地域から北は1990年に保存地域として指定され,聖ピーター大聖堂とFirst Unitarian Church(現在Grandstreet劇場)も,保存地区に含まれた。さらに,1993年には保存地域が拡大され,現在に至るのである。
・・
このように,どの都会も保存と開発の中で葛藤を続けているのだが,それでも,日本のような無計画な破壊,あるいは,極端な保存と観光地化のようなこともなく,調和のある発展をしていると私が思うのはひいき目であろうか。
私は,テキサス州のフォートワースに行った時も,同じようなことを感じたのだった。
では,私の写した写真から,この地域に残る邸宅をいくつか紹介することにしよう。
1番目の邸宅は1881年に建てられたAshby-Power Homeである。
この頑強な住居は,農機具を扱うビジネスをしていたShirley Carter Ashby という人が当時のお金で28,000ドルの総工費で建て,のちに,モンタナの初めの議員であったThomas H. Carter が住んだ。素晴らしい内装ということだが,邸宅の内部は公開されていない。
2番目の邸宅は,1891年に建てられたT. C. Power Homeである。
ロマネスク建築でとてもよく目立つこの建物は,裕福な商人であったThomas C. Power がBenton砦から運んだものである。その後,ヘレナのカトリック管区に寄付されたりしたが,現在は,個人が所有している。
そして,3番目の邸宅は,1885年に建てられたSamuel T. Hauser Mansionである。
この29部屋もある邸宅は,起業家であったSaymuel T. Hauser が建てたもので,1913年から1935年にかけて4人のカトリック司教の邸宅になっていた。1969年になると,前の知事Tim Babcock と妻Betty がこの邸宅を修復した。
・・
日本の人は,アメリカで大邸宅といえばビバリーヒルズの大スターの大きな豪邸を思い浮かべるかもしれないが,アメリカの地方都市の豪邸というのは,町の清楚な高台の1ブロック四方に構えられたこじんまりとした邸宅なのである。
日本は狭く土地がないから,自分の家を精一杯頑張ってつくっても,周りの景観と調和していないからどうしようもない。それに比べて,町全てがそうした景観を保ちながら住宅地を形作っているのがアメリカの大邸宅地区だと思えばいい。
それにしても,すでに1800年代に,家柄とかではなく,この新大陸アメリカに渡って自分の才覚で成功を収めることができた人間のすござというものに,私は慄きを覚える。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ⑦
●アルジェリア神社の本部●
このツアーバスは「the Last Chance Tour Trains and Trolley」という,いかにもアメリカらしい大仰な名前のものであった。
パンフレットによると,
・・・・・・
モンタナ州ヘレナの「ラストチャンス・ツアー」電車とトロリーの故郷にようこそ。
我々は電車形状のトロリーで皆さんをヘレナの歴史的なツアーに招待します。贅沢な大邸宅地区を見て,聖ヘレナ大聖堂に驚嘆し,我々の知事の邸宅をバスの中からご覧ください。ユニークな建築物を楽しんだら,Old Fireタワーを一目ご覧ください。これこそが,美しい歴史的な都市ヘレナを楽しむ一番の方法です! そしてまた,素晴らしいガイドとともにあなたに素晴らしい時間をお約束します。Tシャツなど土産も提供しています。
このツアーで使用するトロリーは,最高55人を収容することができます。トロリーは2台用意されています。
・・・・・・
と書かれてあった。
このツアーの「ラスト」というのは,これぞ究極的な,極めつけのといった意味であろうか。
今日の1番目の写真はYWCAである。ヘレナのYWCAは1911年に設立された。YWCAは,ホームレスの女性とその子供たちに安全で手頃な価格の一時的な住宅や支援を提供する非営利団体である。
そして,2番目の写真は聖ピーター大聖堂(St. Peter's Cathedral)である。この教会は「The Episcopal Church」と入口に書かれている。
米国聖公会(Episcopal Church)とは,キリスト教の一派のアングリカン・コミュニオンのひとつで,アメリカ合衆国,バージン諸島,ハイチ,台湾,コロンビア,ドミニカ国,エクアドル,ホンジュラスに主教区を持つほか,プエルトリコおよびベネズエラの主教区と地域を越えた関係にある。18世紀にアメリカ合衆国がイギリスから独立するときに創設された。
アメリカにおける教会員はおよそ300万人。富裕層や社会上層部に信者が多く,歴代のアメリカ合衆国大統領の4分の1,アメリカ合衆国最高裁判所長官の4分の1は米国聖公会の信者である。またアメリカ合衆国議会と合衆国最高裁判所判事の約半分が信者である。
ツアーバスはダンタウンを北上していった。
一番北にあったのが,シビックセンターであった。ヘレナ・シビック・センター(Helena Civic Center) は1920年にアルジェリア神社の本部として建てられた。このムーア風のリバイバルスタイルの建物は、そのそびえ立つ姿が特徴的で、長くヘレナの象徴的な人気ポイントであった。
建物は1935年の地震で相当な損害を被ったので,ヘレナ市は,その後まもなくそれを神社から購入し,1976年まで市庁として機能させた。警察署は何十年前にシビック・センターから移転したが、消防署は今なおそこに存在する。
現在,シビックセンターはヘレナ市によって所有・運営されていて,晩餐会,航空機ショー,ダンス,結婚式,試写会,会議,コンサートなどに利用されている。いわば,市民会館といったものである。
ツアーバスは,シビックセンターからさらに西に向かって進んでいった。
ダウンタウンから西は歴史的保存地域で,豪華な邸宅が立ち並んでいる場所であった。しかし,私は,その位置関係がよくわからなくなって,先ほど通った住宅街に戻って,同じところを何度もぐるぐる回っている様に混乱してしまった。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ⑥
●ヘレナは思ったよりも奥の深い町●
このモンタナ州の州都ヘレナは思った以上に奥の深い町であった。
官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあった。また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていた。当然,ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいるのだ。治安もよければ,町も美しい。この小さな美しい町に観光客がくるというのは,そうとは知らない私には不思議なことであったが,当然のことなのであった。
近頃は,日本ではやたらと世界遺産がブームになっている。観光客を増やすのが目的であろう。しかし,アメリカの世界遺産のニューメキシコ州カールズバッド洞窟群ひとつと比べても,そのスケールは日本とは段違いなのである。
ヘレナという町は世界遺産ではないが,その素晴らしさは,日本の世界遺産の比ではない。
そんな町なのに「地球の歩き方」には全く情報がないのだ。
ツアーバスは,まず,州議会議事堂からブロードウェイストリート(Broadway St.)まで1ブロック南下して左折した。
そこにあったのは,現在の州知事の住む邸宅(Montana Governor's Mansion)=1番目の写真 であった。ちなみに,現在のモンタナ州知事は民主党のSteve Bullockである。
このツアーでは,このあと,歴代の州知事が住んだという「オリジナル州知事邸宅」へ行くのだが,ツアーのガイドさんは,どちらの邸宅が立派でしょうね,といったユーモアあふれる説明をしていた。
州知事邸宅を過ぎて,このツアーバスはさらに左折して3ブロックばかり北上して,再び左折,6番ストリートを西に向かって走り出した。
大きなディーゼル音をたててゆっくりと公道を進んでいくのだから,他の交通手段にとれば迷惑極まりないと思のだが,アメリカのいい意味でけだるい雰囲気はそんなことはみじんもなく,運転手は他の車のドライバーと大声で雑談をかわしながらのんびりと進んでいくのだった。
州議会議事堂を通り過ぎたところに派手な色彩の家があった。それが2番目の写真である。
私は,このツアーに参加したときにはヘレナのことなど全く知らなかった。なにせ,日本では全く情報などないのだから。だから,どこをどう走っているのかもさっぱりわからなかった。
しかし,アメリカ人の合理主義というのは本当に偉大なもので,家々に必ず大きく番地を表示することが義務付けられている。そして,その番地の付け方というのが,規則正しく,道路の向こう側は偶数,手前は奇数と決められている。だから,写真に写った家々に表示された番地を調べるだけで,ツアーバスがどこを走ったのかが今判明できるので,私はこうしてこのブログを書くことができるのだ。
ツアーバスは西に向かってずっと6番ストリートを進んでいった。
デービスストリート(Davis St.)という名の通りが北東から南西に横切っていて,そこで東西を平行に走っていた道路はすべて45度斜めに変わる。
要するに,この先がヨーロッパでいうヘレナの「旧市街」なのである。
「ブラタモリ」という番組で,日本の町並みがどのようにできたかを話題にしているが,アメリカの町並みも同様で,時代によって町の作りや構成が異なっていて,現在ではそれらがごったに融合している。これこそ街歩きの面白さである。
旧市街はダウンタウンであり,官庁街とは打って変わって,多くの商業施設や教会などが立ち並ぶようになった。博多から中洲へ向かって行くようなものだ。ダウンタウンとはいえ,アメリカの都会は広いから緑が多く,散策コースも完備されていて,観光客が散策を楽しんでいた。私は,ヘレナにはこんな場所があるんだなあ,と思った。
それにしても,味のある町であった。
3番目の写真は,オリジナルモンタナ州知事邸宅(Original Governor's Mansion)である。
そして,4番目の写真がセントヘレナ大聖堂(Cathedral of St.Helena),5番目の写真がツアーバスの中から見たダウンタウンである。
オリジナルモンタナ州知事邸宅は1913年から1958年まで歴代9人の州知事が家族とともに暮らした家である。このヘレナの大邸宅のシンボル的存在は,1888年に当時の富豪ウィリアム・チェスマン(William A. Chessman)によって作られた。1900年以後は,鉄道建設家ピーター・ラーソン(Peter Larson)が暮らし,その後,知事が移り住んだ。
現在は,ヘレナ市によって保存され,内部の見学ツアーが行われている。
セントヘレナ大聖堂は,ローマ・カトリック教会の司教区の大聖堂である。設計を依頼されたO. VonHerbulisは2つのスタイル,ロマネスク様式とゴシック様式の2つのスタイルを提案した。委員会はその中からゴシック形を選び,デザインは満場一致で決定,1908年に大聖堂の建設が開始され1924年6月に完成した。
1935年の秋におそった地震でこの大聖堂は損害をうけ南の塔はほとんど完全に破壊されてしまったが,1938年に再建が完了した。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ⑤
●子供の話す英語なんてわからない。●
インターステイツ15のヘレナのジャンクションを降りるとそのまま東西に走るプロスぺクトアベニュー(Prospect Ave.)に出るが,この道路は西向きの一方通行である。その1ブロック南に平行に11番アベニューが走っていて,その道路が東向きの一方通行である。
プロスぺクトアベニューを走って行くと,左手南側の高台に州議会議事堂が見えた。
このように,ヘレナの官庁街は,一方通行のメインストリートが東向きと西向きに1本ずつあるだけの町であった。道路も混雑するでもなく,アメリカによくある田舎町と同じで,私は,美しい小さな町なんだなあと思った。
何度でも書くが,本当にモンタナ州は素晴らしい。
春に訪れたカンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州などなどに私が全く思い入れがなかったことはこのブログを読まれてお分かりになったことであろう。それに比べて,このモンタナ州の素晴らしさは,どう表現すればいいのだろう。
日本からいかに多くアメリカに行く人がいても,さすがにこのヘレナへ行ったという人はほとんどいない。だから,この町を旅行したブログを探してもほとんど見つからない。だがしかし,こんな素敵な町も知らずしてアメリカに行ったなどということは許されないと私は思う。それに比べて,ロスアンゼルスだのニューヨークだのと,さもアメリカを知ったかのように語る人たちは,お子ちゃまである。そうしたところに行っただけでアメリカを語る日本人には,あなたはヘレナに行ったことがありますか,と問うてみたいものだ。
この地に行かないで一生を終わるのなら,私にはどんなに学歴や名誉やお金があろうと意味がない。
州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで周るガイド付きツアーバスの乗り場があって,トレイラ―ハウスでチケットと土産物を売っていた。このツアートレインは,一日に何度か出発するので,私は,その次のツアーのチケットを買い求めた。ツアーまでは十分に時間があったので,私は,その出発の時間まで州議会議事堂を見学したのだった。
ヘレナは州都なのである。州都のガイドツアーが,日本の遊園地にあるような機関車を模したバスだというのもなかなか乙な話ではないか。
やがて時間になったので,ツアーバスに乗り込んだ。
一緒に乗り合わせたのは,確かテキサスだったかフロリダだったか忘れたが,そこから観光で来た家族連れであった。その中に小学生くらいの男の子がいた。彼が私に好奇心をもって,いや,私のカメラに好奇心をもって,しきりに話しかけてくるのだが,どうも私には子どもの話す英語というのがよくわからない。
彼らは,全世界の人類がみな英語を話すと思っているらしい。日本語だって子供の話す言葉がよくわからないのだから,当然英語なんてさっぱり理解できないのだ。
こういうことひとつ考えても,日本の小学生に,今のようなやり方で英語を教えてもしょ~もないということが実感できるであろう。子供には子供の世界があるのだ。子供には国境などというめんどくさいものはなく,人種の偏見もないから,夏休みの1か月間でもいろんな国の子供をごっちゃ混ぜにしてキャンプでもさせたほうがずっといい。そのうち心で会話をするであろう。言葉の基本は文法ではなく心なのだ。
英語など,動機づけさえあればそのうち自分で勉強するようになる。
しかし,この国は,そういう動機をなくさせ,英語は難しい嫌いだというトラウマを生むために「英語」という名をつけた忍耐教育,いや順位競争をするという隠れた国策があるのだ。第一,指導者が英語を心で話せないのだから何をかいわんや,である。
・・
このヘレナに関しては日本語で書かれたガイドブックもないことだし,次回からは,私が写してきた写真と英語で書かれたパンフレットをもとにこの町の紹介をしていきたい。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ④
●私の愛してやまないモンタナ州●
このブログのURLは「I love Montana」。私はアメリカ50州の中でモンタナ州が一番好きである。
モンタナ州(State of Montana)は,アメリカ合衆国41番目の州で, 東西の長さが約1,000キロ,南北が約400の台形で,北側はカナダと国境を接している。
西側3分の1には高い山脈が走っていて,中央3分の1は小型の孤立型山脈が見られるという,この地形的特徴から,スペイン語のmontaña,つまり英語のmountainに由来して,州の名前が付けられた。また,モンタナ州には大きな「空の国」(Big Sky Country)「宝の州」(The Treasure State)「輝く山の土地」(Land of the Shining Mountains)といった様々なニックネームがある。さらに最近では「最後の最良の地」(The Last Best Place)ともよばれている。そう,この州はまさに「最良の地」なのである。
陸地面積は全米第4位であるが,人口は少ない方から7番目で人口密度は小さい方から3番目である。
比較的平坦な東部では牧畜業,小麦農業,石油と石炭の採掘,山の険しい西部では林業,観光業および岩石採掘業が盛んである。
また,グレイシャー国立公園,リトルビッグホーン戦場跡国定保護区,およびイエローストーン国立公園があって,多くの観光客が訪れている。ワイオミング州にもかかるイエローストーン国立公園にはモンタナ州に3か所の入り口がある。
モンタナ州は昔から二大政党が競合するところで,選挙で選ばれる役職者も両党から選ばれている。
20世紀半ばまで「ワシントンにはリベラル派を,ヘレナには保守派を送る」伝統があった。しかし,1980年代からは連邦政府に保守派を選ぶ傾向に変わり,それとともに党の支配状況も変わってきた。
1970年代は民主党が支配しており,州知事は20年間,連邦議会に送る代表も民主党が多数,州議会の多くの会議も民主党が多数派となっていた。それが1988年の選挙から変化し始め,州知事に共和党員が就任,連邦議会上院議員2人のうち1人は1940年代以来となる共和党員を送った。
この動きは1994年州議会選挙区の改定でも継続し,この年は共和党が州議会の両院で多数党になり2004年まで続いた。
大統領選挙でも近年は共和党寄りとなっており,1996年以降は共和党候補が勝利し続けている。
州都ヘレナに上下両院の議場が置かれるモンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設された。そして,1909年から1912年にかけてウイングが増築された。また,議事堂は国家歴史登録財に指定されている。
庁舎はギリシア建築様式の要素を取り入れた新古典主義建築様式で,建材には地元モンタナ州産の御影石と砂岩が用いられている。庁舎のドームは銅版で覆われ,上には自由の淑女(Lady Liberty)とよばれる女性の像が立てられている。
庁舎内部中央のロタンダは金色で塗られ,1902年にチャールズ・A・ペドレッティによって描かれた4枚の絵画で囲まれている。これらの絵画にはモンタナ州史の初期において重要な役割を演じた,ネイティブ・アメリカン,探検家,金鉱夫,カウボーイがそれぞれ描かれている。
ロタンダの西側のアーチにはアメディー・ジョーリンの手による,連邦下院初の女性議員ジャネット・ランキンの像を描いた半楕円形の絵画が飾られている。また,州下院本会議場の議長席の上には,モンタナ州が生んだウェスタン・アートの画家チャールズ・M・ラッセルの手による,「Lewis and Clark Meeting Indians at Ross' Hole」というタイトルの付された,幅762センチ,高さ365.8センチの絵画が飾られている。この絵画には,ルイス・クラーク探検隊が,山を越えて太平洋に抜けるための最も安全なルートをモンタナのネイティブ・アメリカンのサリッシュ族に尋ねる場面が描かれている。
・・
この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができた。これはアイダホ州も同様であった。要するに,「田舎」なのだ。
中に入ると,観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいた。
私が日本から来たというと,「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをした。
モンタナ州は,本当に,美しく素晴らしい。期待どおり私が愛してやまない州であった。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ③
●「4人のジョージア人」●
ヘレナ (Helena) は,モンタナ州の州都である。人口は約25,000人。19世紀後半のゴールドラッシュによって人が集まってできた町で, 別名をQueen City という。
とても小さな州都であった。
州都で小さな町といえばノースダコタ州のビスマルクやバーモント州のモントピリアを思い出す。
私はこういう町が大好きだが,おそらくほとんどの日本の人は,アメリカのこうした町は知らないに違いない。私は,これぞアメリカ! と思うのだが…。
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ビスマルク(Bismarck)はアメリカ合衆国ノースダコタ州中央部に位置する同州の州都で,人口は約55,000人。以前書いたルイス・クラーク探検隊の北西部開拓ルートの中間点にあたるため同探検隊にまつわる史跡や博物館が多い。市内に公園が多く,周辺には小麦畑や原野が広がる落ち着いた都市である。
また,モントビリア(Montpelier)は人口8,000人。50州の州都の中で最も人口が少ない。モントピリアは時の流れを止めたような都市で,州都の中で唯一マクドナルドの店舗がない都市である一方,全米にただ1社だけ残る洗濯ばさみメーカーが本社を置いている都市でもある。ただし,サンドイッチのサブウェイの店舗は存在する。
ところで,ヘレナは,1864年に「4人のジョージア人」と呼ばれる4人組によってラスト・チャンス・クリーク(Last Chance Creek)で砂金が発見され,町が創設された。
「4人のジョージア人」と呼ばれる,ジョン・コーワン,D.J. ミラー,ジョン・クラブ,ロバート・スタンレーの4人組は,実際はコーワンのみがジョージア州出身であり,ミラーはアラバマ州,クラブはアイオワ州,スタンレーはイギリスと出身地が異なる。しかし砂金採掘において「ジョージア・スタイル」を取っていたため,このように呼ばれていたものと考えられている。
町ははじめ「4人のジョージア人」のひとりジョン・クラブの名を取ってクラブタウンと名付けられた。しかし,砂金目当てに次々と人がやってくると,町名変更の機運が高まり,ジョン・サマービルが自分の生まれ故郷であるミネソタ州セント・ヘレナ (St. Helena) の名をつけることを提案した。しかし多くの砂金採掘夫たちには hel-E-na のアクセントが気に入らず,これを「地獄」を意味する hell にかけて HEL-e-naと発音していた。「ヘル(地獄)」は「セント(聖)」とは相容れないために,そのうちに「セント」が落ちて「ヘレナ」のみが残って町の名前となった。
1888年までにはおよそ50人の億万長者がヘレナの町に住んでいたという。この頃人口当たりの億万長者の数は世界一であった。
町の高台にモンタナ州会議事堂とモンタナ歴史社会博物館があった。
駐車場は無料で,美しく広々としていた。
モンタナ歴史社会博物館(Montana Historical Society Museum)とはいっても,小さな博物館であった。 中に入ると,中央にロビーがあって,それぞれのコーナーにはモンタナ州の地質や自然,開拓の歴史などのコーナーがあって,ゆっくりと見学することができた。
ここは古き良きアメリカそのものであった。
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2012アメリカ旅行記―さらに,ビスマルクへ④
2013アメリカ旅行記―日の出と日の入りと⑩
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ②
●願いはかなうもの●
春に走った中南部とは全く風景が違う。私は,はやり,モンタナ州のほうがいい。空気がやさしい。
インターステイツ15はモンタナ州に入ったら町がなくなっった。だから,ガソリンスタンドもない。たった1軒だけあったスタンドは,人もおらず機械が壊れていた。私の車はガソリンを入れなくてもビュートまで余裕で行けそうだったのだが,念のためガソリンを入れようとそのスタンドに寄ってみたのだが,そんなありさまだった。
本当にガソリンのなくなった夫婦がそこに車を停めて呆然としていた。
さらに北上を続けていくと,遠くに見慣れたビュートの町並みが見えてきた。
ここで,インターステイツ15は東西を走るインターステイツ90にぶつかり,インターステイツ15はクランク状に少しだけインターステイツ90の併用区間になり,再び北上を開始する。
ビュートからヘレナまでは100キロメートル,1時間というところか。日本なら30キロメートルくらいの感じで,通勤圏内のような距離である。
インターステイツ15を北に少しだけ走ると,ビュートの町並みを見渡すことができる高台があって,そこからの景色が素晴らしい。ただし,その展望台は左手にあって,南向きに走行するときでなければ立ち寄ることができないのだった。
私は,前回この道を走ったときにこの展望台に車を停めなかったことをずっと後悔していた。
そこで,今回はぜひそこへ行こうと,しかし,それはヘレナからの帰りでよいはずだったけれど,また何らかの事情で行きそびれるかもしれないと,わざわざその次のジャンクション,といっても,かなり先まで行かねばならなかったのだが,そこでUターンをして,念願の展望台に行くことができたのだった。
その時に写した写真が今日のものである。
いつも書いているが,願いは願い続けれはかなうものである。私は,また,こうしてビュートに来るとは,本当に夢にも思わなかったのだ。
ビュートを見下ろす東側の山,分水嶺の上に「Our Lady of the Rockies」という高さ27メートル,アメリカで3番目に高い白い女性像がある。
この像は,1979年,ボブ・オビル(Bob O'Bill)によって発案された。彼の妻は重病で,彼は妻が治るなら聖母5フィートの像を製作すると聖母マリアに約束した。妻が回復したのち,彼はその計画を実行に移し,多くの人の寄付によって建造が開始され,1985年に像が完成した。
この像までは,6月から9月までツアーバスが運行されているという。
私は,こうして旅すると,いつも自分のこれまでを振り返る。そして,ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまったことを口惜しく思うのだ。
それは,後悔というのとは違う。
誰もが経験するであろう程度の悩みや少しの苦しみはあったとしても,およそ平穏な日々を過ごしたのだから。私の周りの人たちのほとんどもそうした日々を過ごしているし,せっかく定年退職しても時間を持て余し相変わらず仕事に就いて日々を過ごしたり,退職金で念願のマイホームを手に入れて満足したりしている。
あるいは,ツアーで海外旅行を楽しんだりしている人もいる。
それを,幸せな人生というのだろう。
しかし,私は,そういうものとは違った経験や体験を,どうやらし過ぎてしまったようだ。そしてまた,私がマネのできないダイナミックな日々を送る多くの人を,雄大な世界を知りすぎてしまったようだ。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ①
●ガソリンスタンドひとつない。●
☆2日目 7月31日(金)
マウンテンホームで1泊して2日目の朝,私は1泊2日の日程で,モンタナ州の州都ヘレナまで行ってくることにした。
これまでに幾度となく書いたように,私には,モンタナ州ビュートという町は第2の故郷である。
前回そのビュートへ行ったとき,帰りの飛行機の出発まで3時間ほど余裕ができたので,往復してきたのがヘレナであった。
ビュートからインターステイツ15を北上していくと,道路は山間を抜け,この先には人が住んでいる場所などあるのだろうか,と思うほど人家もなく道だけが続くようになる。そして,この先は地の果てかと思った途端,忽然と眼下に都会が見えてきた。そんなその時の印象がずっと私の頭に残っていた。
しかし,前回はヘレナを観光する時間がなかったので,どこへ行くでもなく町を1周して戻ってきただけであった。
だから,一度訪れたヘレナという町に私が大いなる思い入れができたのも当然であろう。
それ以来,私はこの町のことをきちんと知りたいと,ずっと思ってきたのだった。
今回は,1泊2日だったので,本当はもっと北のグレイシャー国立公園まで行きたかったのだが,それは次回ということにして,ヘレナで1泊して戻ることにしたのだった。
アイダホ州マウンテンホームからインターステイツ84を東に走り,途中でユタ州に南下していく84とは別れを告げて,インターステイツ86にショットカットして,やがて出会うソルトレイクシティから北のビュートにつながるインターステイツ15に乗って北上する。
こうしてインターステイツ84,インターステイツ86,インターステイツ15と走っていけば,ヘレナへはわずか6時もあれば到着できるのだ。
信号と渋滞だらけの日本とは違って,アメリカでは正真正銘100キロは1時間で走ることができるから,例えば1日5時間のペースで走れば,大陸横断は4,000キロだから8日で旅することが可能なのだ。
インターステイツ15を走っていくと,途中で美しい景色に出会った。
そこは,クラークキャニオン貯水池(Clark Canyon Reservoir)であった。
貯水池といったって,愛知用水のため池「愛知池」のような代物ではない。広さだって2,000ヘクタールもあるし,キャンプ地もあれば,ボート遊びもフィッシングもできる。天気がよく,私は,池の袂で,しばし休息となった。
私は,この後,2泊3日の日程でアイダホ州でキャンプをすることになったのだが,そのスケールがとんでもなくすごいのだ。私が,日本の,狭く,混み混みでゴミゴミのところでアウトドアをするなど,全く興味がないのも,こういう風景を知ってしまったのが原因なのだ。まして,日本で小人が乗るような小さなキャンピングカーで旅をしている人は気の毒にしか思えない。
そのあと,私は,インターステイツ15を快調に北上していくことになったのだが,今一番印象に残っているのは,アイダホ州は周りが薄茶色の草原と背の低い山と砂漠に覆われていたのに,モンタナ州の州境を越えると,その風景が一変して,山なみは突如雄大になり,緑が茂り,とても美しくなったことだった。
それとともに,モンタナ州に入ると町がなくなった,ということだった。
私は,ガソリンを満タンにして走っていたから問題はなかったが,アイダホ州からモンタナ州の州境に進むにつれて,インターステイツ15は走る車も次第に少なくなり人が住む住居もなくなった。だから,忘れたころにあったジャンクションも「ノーサービス」,つまり,ガソリンスタンドがない,というありさまだった。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国⑤
●代替機にチケットが用意してあった。●
まず私が見たのは今日の写真にある掲示であった。この赤色で示された2533便の憎ったらしい冷酷な「CANCELLED」という文字が人を地獄に突き落とすのだ。しかし,そのキャンセルになったフライトの一段下に1:00PM発の9320便があるのがおわかりであろう!
そうそう,ここで余談をひとつ。
日本で「PM1:00」という書き方をする人が多くいる。これは,「午後1時」をそのまま英語に直したつもりのものだが,正しい英語表記は「1:00PM」である。英語で表記がしてある結構気取ったレストランの看板などにこうした誤りがあると,それだけでそのお店の価値はがた落ちである。
私が意気揚々とカウンタに行くと,すでに優先的に私の代替機のチケットが用意されていて,9320便に変更になっていた。
チケットを受けった後になって,私にメールが来て,そこにはそれとは別の4時間後の便が表示されていて,ちぐはぐな感じであった。結局,いくらネット社会とはいえ,直接交渉のほうがはるかに便利だと思ったことだった。
結局私は,40分ほどの遅れで,無事,ボイジーに向かうことができた。
機内から見た眼下の景色は,すでに見慣れてはいたが,荒涼たる砂漠にスネーク川が流れ,川に沿ってインターステイツが走り,アメリカ開拓時代の面影をほうふつとさせた。これがアイダホ州の原風景である。
やがて,砂漠のむこうに緑が見えてきた。そこが,アイダホ州の州都ボイジーであった。
しかし,私の乗った飛行機ははるかにその上空を過ぎていく。眼下には空港も見えたが,それも過ぎ去った。私がボイジーとは違う町なのかな,と思ったころに,飛行機は旋回をはじめた。
この年,ずいぶんと飛行機に乗ったし,窓際の席だったことが多かったので,それまであまり気にしていなかったことを「発見」した。
そのひとつは,空港の滑走路は通常1本で,そこに着陸もするし,離陸もするということだ。だから,着陸する飛行機があると,それが来るまで,離陸する飛行機は待っていなくてはならない。離陸する飛行機は次から次へとあるから,順番待ちがすごいことになる。だから,飛行機がターミナルから動き出してもなかなか飛び立たないのは,順番待ちをしているということなのだ。
日本に比べてアメリカの空港は巨大だが,だからといって,滑走路が長いわけでも何本もあるわけでもなく,ターミナルがでかいだけなのである。
ふたつめは,飛行機の旋回というのは,思う以上に大きな弧を描くということなのだ。だから,着陸する空港をはるかに過ぎてからぐるりと上空を旋回するわけだ。
1時間程度の飛行で,私はボイジーに到着した。
空港で,従姪が子供たちと迎えに来ていたのだが,乗ってくるはずの飛行機がキャンセルになり,新たに乗った飛行機の便名を知らせたのに,その情報がボイジーの空港にはなく,心配したといっていた。しかし,無事に会うことができて,私は,ボイジーから車で30分のマウンテンホームに向かった。
1か月前と同じであった。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国④






●突然「キャンセル」になった。●
マウント・フッド( Mount Hood)は,オレゴン州ポートランドの東南東80キロのクラカマス郡とフッドリバー郡の郡境に位置する成層火山,オレゴン州最高峰の山である。イギリスの海軍のサミュエル・フッド提督にちなんでウィリアム・ロバート・ブロートンが命名した。日本人や日系人の間では「オレゴン富士」とも呼ばれている。
到着したとき,ポートランドは快晴で,空港から遠くに,このマウント・フッドの美しい姿を見ることができた。
私のアメリカ合衆国50州制覇をめざす旅も,残すは3州となった。これまでに多くの州に行ったが,結局,私は,ロッキー山脈に連なるワシントン州,オレゴン州,アイダホ州,ユタ州,モンタナ州,ワイオミング州,コロラド州が最も雄大で美しくかつ素晴らしいと思うようになった。
この旅で東海岸へ行けば,それで残り3州のうちの2州(ノースカロライナ州,サウスカロライナ州)を制覇することはできたのだが,今回は小休止。私は,それよりも,この夏は,アイダホ州,モンタナ州,ワシントン州,オレゴン州の大自然を満喫することにしたのだった。
ポートランドの国際空港は勝手知ったところで,アメリカの空港の中では広くなく,そして,きれいだ。空港からポートランドのダウンタウンまでは電車ですぐなのできわめて便利で,車がなくとも観光ができる。しかも,サンフランシスコのように混雑しているわけでもないし,治安もよいし,日本から気ままに来るには最高のところだ。
シアトルにも近い。
この空港でひとつだけ問題なのは入国検査だ。その場所が狭いから時間がかかる。しかも,自動の入国検査機がない。オレゴン州は州をあげて日本人の留学生やホームステイを受け入れているから,特に,日本人の女子大生が大勢飛行機に乗っていて,観光気分の彼女たちより先に入国検査を済ませないと,やたらと時間がかかる。
それを知っている私は,飛行機を降りると一目散に入国審査場に向かった。
一番先に入国審査場に着いた私は,何の問題もなく短時間にあっさりと入国することができた。
ただし,私が「観光で来た,行くのは,オレゴン州,ワシントン州,モンタナ州…それにアイダホ州」と係官に言って,しまったと思った。即座に,係官が「アイダホ州は観光地でないが…(冗談)」と反論されてしまったのだった。
この空港は中央の部分にレストランやバーがあって,放射状にターミナルが伸びている。
私は,ここからアイダホ州ボイジーまでアラスカ航空のプロペラ機に乗り換えるのだが,プロペラ機は小さいから,空港の一番端のターミナルから外に出て滑走路を歩いてタラップで乗り込むことになる。
昨年も来たからよくわかっていて,そのままターミナルまで行って,サンドウィッチを買って昼食をとった。
ボイジーまでの乗り換え便の出発は2時間ほど後だった。出国したのが今日の午後で,到着したのが今日の午前。1日得したようで気楽なものだった。
やがて,搭乗の時間になった。
するとそのとき,驚いたことに,掲示モニターの私の乗るべき便の欄に「キャンセル」の文字が出たのだった。
今回の旅で起きた唯一のトラブルがここで発生した。
私は「ちょっと待てよ,ここまで来て足止めというのはないぞ」と思った。
私のiPhoneにもその直後にメールが来て,予定の便がキャンセルになった,しかし,心配はいらない,代わりの便は… などと書かれてあったが,その代わり便の出発時間というのが4時間以上も後ではないか!
これには参った。
それにしても,2015年は18回と非常にたくさんの飛行機に乗ったが,まともに飛んだことがまるでなかった。
その結果,カンザスシティでは1日帰国が遅れたし,この後で行った九州は乗りこんだあとになって飛びたてず,降ろされて,出発が1日遅れた。だから,これくらいのことは想定の範囲内といえばそれまでだが,こういうことが起きると旅慣れていない人は困ってしまうだろう。
私はいよいよここからが経験で培った腕の見せどころだとワクワクしながら? 搭乗ゲートにあるカウンタに行って,係員と交渉することにした。
こうことがあるから旅は楽しい,と強がっておくことにしよう。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国③
●「クラーク探検隊」の見た岬●
ずっと海の上を飛行してきたが,8時間後,ついに窓からアメリカ大陸が見えてきた。今日の1番目の写真が,この旅で初めて見たアメリカ大陸の姿である。この感動は何度味わっても素晴らしい。
私は,この風景を見ながら,「ルイス・クラーク探検隊」のことを思い出していた。
アメリカ人には常識であっても,日本人のほとんどは「ルイス・クラーク探検隊」のことを知らない。
私は,ノースダコタ州へ行ったときに,このルイス・クラーク探検隊の遺構がたくさんあったのだが,当時,何のことかさっぱりわからなかった。それ以来,アメリカを旅行するには,スポーツや文化と並んで,こうしたアメリカの歴史を知らねば面白くないと思うようになった。
ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)とは,陸軍大尉メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)と少尉ウィリアム・クラーク(William Clark)に率いられて,アメリカ人として初めてミシシッピ川から太平洋に至る大陸横断をなしとげた探検隊のことである。
1804年5月,セント・ルイスを出発した一行48人は,ロッキー山脈を越え,1805年11月に太平洋岸のコロンビア川の河口に達し,1806年9月,セントルイスへ戻った。 探検隊は新しい合衆国の領土とそこに住んでいる人々,領地に広がる川や山など,多くの重要な情報を持って帰ってきた。また,北アメリカ大陸の地図作成にも偉大な貢献をしたのだった。
もう少し詳しく書いてみよう。
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アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)には,探検隊を結成する夢があった。彼は個人秘書を務めていたメリウェザー・ルイス大尉を探検隊の隊長に任命し,「貴殿の任務は,ミズーリ川とその主流にかかる沿道,さらにコロンビア川,オレゴン川,コロラド川ほか太平洋との連絡水路を探索し,大陸を最も短い距離で横断,かつ通商を行う目的で通行できる陸路を発見すること」と指示した。
指示を受たルイスは相棒としてウィリアム・クラークを選び,探検隊を組織した。
当初33人で構成されていた探検隊は,イリノイ州ハートフォードに近いキャンプ・デュボワ(Camp Dubois)を出発し,1804年5月14日,歴史的探検を開始した。ミズーリ州セントルイスでルイスと落ち合い,48人になった隊員達はミズーリ川西方に沿って進み,最後の白人入植地であったラ・シャレット(La Charrette)を過ぎ,現在のカンザスシティやネブラスカ州オマハを通り,8月には,グレートプレーンズの端に辿り着いた。
1804年から1805年にかけた冬の間,一行はノースダコタ州ウォッシュバーンの近隣マンダン族の集落のそばに砦(Fort Mandan)を建設した。このマンダンは,現在のノースダコタ州都ビスマルクの隣にある。私も行ったことがある広大なところである。
ある日,猛烈な嵐が一行を襲い,食べ物も無いまま小屋に閉じ込められる羽目になったが,その時,ショーショーニー族(The Shoshone)インディアンの娘サカガウィア(Sacagawea)とその夫であるフランス系カナダ人のトゥーサン・シャルボノー(Toussaint Charbonneau)が一行に加わり,魚を持ち寄って飢えた隊員達の命を救ったのだった。
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やがて,探検隊はミズーリ川の源流まで進行し続け,馬を介してレミ峠のロッキー山脈分水嶺を渡った。
カヌーを使ってクリアウォーター川,スネーク川,コロンビア川に接する山を下り,セリロ滝や現在のオレゴン州ポートランドを通り過ぎた。
クラークは日記に「海が見える!おお!喜びが!」(Ocian in view! O! The Joy!)と書いた。また,ある日の日記の導入部には「太平洋へ流れるコロンビア川入り口の失意の岬(Cape Disappointment)」という見出しもあった。
探検隊はここで2度目の冬を迎えた。
隊員達はコロンビア川の北側か南側のどちらで野営するか投票して決めた。その結果,川の北側であるオレゴン州アストリアに野営をすることで合致し,越冬宿舎としてクラットソップ砦(Fort Clatsop)を建てた。
冬が過ぎ,探検隊は出発地へ帰還する折り返しの旅を1806年3月23日に開始した。
ロッキー山脈分水嶺を横断後の1806年7月3日,隊はルイスがマリアス川を探索できるようふたつに分割された。その後ルイスとクラークは8月11日にイエローストーン川とミズーリ川の合流地点に達するまで別々で行動したが再び合流して,ミズーリ川に沿って帰路につくことができた。
1806年9月23日,探検隊はついに出発地であるセントルイスへ帰還したのである。
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私がこの旅で機内から初めて見たアメリカの大地は,まさにクラークが「海が見える!おお!喜びが!」と叫んだオレゴン州の岬であった。
アメリカの北西部を旅行するときは,この探検隊の遺構を訪れて,先人たちの夢に想いを寄せてみるといい。