●こんな長い旅はもうしないだろう。●
☆16日目 2017年8月31日(木)
フェアバンクスを出発してシアトルに到着した。成田便の搭乗時間までは6時間ほどあった。
シアトルの空港では,デルタワンラウンジで6時間を過ごすことにした。私はアメリカの空港ではほとんどラウンジで過ごす。とはいえ,ラウンジで寝てしまって乗りおくれると,今度こそ日本に帰れなくなってしまうから,それがまたストレスとなった。
ラウンジの広い窓から外の空港の様子を見ていると,預けた荷物を飛行機に乗せるための車が走っているのが見えた。それを観察していると,その貨車に積んだカバンがひとつ落っこちて,それに気づかぬまま貨車が行ってしまった。
これはかなり「やばい」出来事である。落ちた荷物が転がっている。ラウンジにいた若者たちもその様子を見ていて騒いでいた。どうなるのか見ていると,そのうちに係員がきて,無事に落ちたカバンを回収して事なきを得たのだった。
日本と違って,アメリカではこのようにいい加減だから,私は極力カバンを預けたくないのだが,今回の旅は,日食を撮影するための機材を持っていたためにカバンを2個持っていたから,しかたがなくそのうちの1個だけを預けてあったので,気が気でなかった。
ちなみに私は,海外に行くとき,機内持ち込みのできる大きさのカバンをひとつ持っていくだけだ。そんなわけで,大きなサイズのカバンを持っていないので,荷物の多い今回は,機内持ち込みサイズのカバンを2個持っていったわけである。
やがて成田便の搭乗時間となって,無事にそれに乗ることができた。乗ってしまえばあとは帰るだけだから,機内でやっと一息つくことができた。
私がこの旅で記憶にあるのはここまでである。この後,機内でどのようにすごしたのか,そして,成田空港からどのように自宅まで帰ってきたのか,そういったことがまるで記憶にないのである。
…と書きながら,思い出したことがある。この後はそれを書く。
・・・・・・
成田空港に着いた私は,東京駅までバスに乗ることにした。このバスが乗り方を知らないと,また不便なのである。
成田空港から東京駅までのシャトルバスは3社が運航しているのだが,それらはすべて同じバス停から出発する。そのうちの2社については予約が不要で,来たバスに乗ればいいのだが,ターミナル間を巡回してくるからすでに満員で乗れないことがある。しかし,京成バスだけは事前にチケットを購入しないといけないから,空いていても乗れない。バス停には係員がいるのだが,係員はそれぞれのバス会社の専属で,全体を総括している係員はいない,という次第である。
要するに,事前に京成バスのチケットを購入するのが一番確実だということを今は知っているのだが,このときはそれを知らず,いきなりバス停に行って私はかなり戸惑った。
満員だったりチケットがなかったりして乗ることができなかった数台のバスを見送って,やっと乗ることのできたバスもほとんど満員であった。となりに乗っていたのは一見うざったい外国人の若者であった。しかし,話をしてみると,なかなかいいやつであった。彼はイタリアから来たひとり旅であった。
私は,「私以外の」日本人はいつも早朝から深夜まで働いているんだと言った。彼はそんな日本人の姿をまったく知らず,疑心暗鬼であった。やがてバスが八重洲口に近づくと,勤務時間をとうに過ぎた仕事帰りのスーツ姿のサラリーマンが大挙して信号待ちをしていた。それを見た彼は,私の言ったことをやっと認識したのだった。それが彼の日本に来た第一印象となった。
・・・・・・
こうして私はこの旅から帰ってきた。
この旅ではほんとうにいろんなことをした。皆既日食を見た。その1週間後にオーロラまで見た。
アイダホではキャンプもしたし,シアトルではフットボールも見た。大豪邸も見た。
アラスカにも行った。
東京駅に着いて,お茶漬けを食べたときの写真がこの旅で最後に写した写真である。この旅は盛りだくさんすぎて,忘れ去ってしまった思い出が多いのが残念なことである。わずか1年前のことなのに,この旅が遠い昔のことのように思えるのは,旅から帰ったあとで,身の回りにあまりに多くのことが起きたことと,そうであったにもかかわらず,その合間にさまざまなところに出かけたからである。
1週間以上の旅をすることが億劫になってしまった私は,今後はもう,こんなに長い期間の旅をすることはないだろう。しかし,この旅を機会に,私はオーロラに目覚めてしまった。そんなわけで,今は,アメリカを越えて世界中の隅々まで,オーロラが見られるといわれる場所であれば夏であろうと極寒の冬であろうと,時間が許せばそこへ出かけはじめたのだった。
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アラスカのオーロラを見にいく④-2017夏アメリカ旅行記
●帰国への長い道のりがはじまった。●
☆15日目 2017年8月30日(水)
結局,寝たのか寝なかったのかよくわからぬまま夜になってしまったが,いよいよ空港に向かう時間になった。
今回のアラスカ旅行は,皆既日食を見るためにアイダホ州に行ったあとに帰国するまでの空いた1週間に計画した旅であった。3泊4日,本来の旅とは別に航空券とホテルをエクスペディアでセットでアラスカ旅行を予約して来たので,こういう帰国のスケジュールになってしまった。
そもそも,フェアバンクスからシアトルを経由して,その日に乗り継いで日本に帰るという日程にかなりの無理がある。フェアバンクスを朝に出発すればシアトルで成田便に間に合わない。だから,前日の深夜の便に乗るしか方法がない。
しかし,アラスカでなくアメリカ本土から帰国するときも,日本までの直行便のない場所から帰るときは,最終日の日程はいつもハードになってしまう。それは,日本への直行便に間に合うようにフライトを乗り継いでこなければならないから,どうしても早朝の出発になってしまうからだ。となれば,深夜の2時起きなどざらである。
しかも,地図を見ればわかるように,日本までの直行便のないアラスカから日本に帰るには,アメリカ本土に比べてさらに大変で,まず,アラスカから逆方向のシアトルに向かい,シアトルから,再びアラスカの上空を通って! 日本に向かうという不合理なことになってしまうのだ。
アラスカは遠い。そして不便である。
さらにいまひとつ腑に落ちなかったのが,エクスペディアでセットで予約したら,夜遅くチェックアウトするからその日は1泊しないのに,この日の1泊料金も含まれていたということだが,まあ,そんなせこい話はよしとしよう。
私は乗り遅れるといけないので,早めにチェックアウトしてフェアバンクスの空港に着いた。しかし,まだフライトまでの時間には早すぎて,空港のカウンタには人がおらず,フライトのチェックインができなかった。しかも,空港にはゆっくりできるようなレストランの1軒すら開いていなかったから,私は空港のベンチで所在なげに過ごすことになってしまった。
地方空港から日本に帰るのはこのように大変なのだが,便利なこともある。それは,国内線と国際線の区別のないアメリカでは,国際線に乗り換えるときに日本のように再びセキュリティを通る必要がないということである。特に,アメリカの大都会の空港はやたらと混雑しているから,こうして空いた地方空港でセキュリティを通過した方がはるかに楽なのである。
やっと空港のカウンタが開いたのでチェックインして私はカバンを預けた。やがて搭乗時間になったので飛行機に乗り込んだ。
深夜の空港を飛び立った。この晩もまた,機内で寝たのか寝なかったのか,いずれにしてもわずか数時間のフライトでは熟睡もできず,私は2晩連続で睡眠不足のままシアトルに到着した。過酷な帰国への道のりであった。
アラスカのオーロラを見にいく③-2017夏アメリカ旅行記
●すべてのツキの税金を払っているような日●
☆14日目 2017年8月29日(火)日目
午前1時ころにチナ・ホットスプリングスリゾートを出て,深夜のアラスカを慎重に運転して,3時間以上かけてフェアバンクスに戻ってきた。
どこで何が飛び出すかわからないのでスピードを落として運転した。ほとんど車は通らなかったが,まれにバックミラーで後ろに車のライトが見えると,車を停めて追い越させた。ただ一度だけトナカイがのっそのっそと道を横切ったことがあって緊張した。
次第にフェアバンクスに近づいてくると,空はチナに比べたら明るくて,オーロラが見える環境ではないことがわかった。
星を見るにせよ,オーロラを見るにせよ,海外に行けばだれでも見られる,というような甘いものではない。それは,日本で星空を見ようと山に出かけるのと同様である。だから,ほとんどの人はなんらかのツアーに参加するのだが,近頃人気の日本の星空観察ツアーにしても,天気が悪くては見られないし,そういったツアーはけっこう高額なのである。
私は,幸い,満天の星空もオーロラもそして皆既日食も見ることができたし,それらを見る術を知っているけれど,多くの人は,自然を楽しむことすら,今の地球上では簡単なことではない。
アドレナリンが満ち満ちていて,ベッドに入ってもまったく寝つけなかった。
この日は旅の最終日であった。特に予定もなかったし,この旅の目的は全て達成したから,この1日をぐたぐた過ごしても何の問題もなかった。
しかし,最後の難題が待ちかまえていた。それは,帰国の行程であった。
帰国の行程は,この日の晩未明にフェアバンクスを飛び立って早朝シアトルに到着し,そこで6時間ほどの待ち時間ののち日本へ帰国するというものであった。
フェアバンクスとシアトルは時差が1時間あるから3時間の飛行時間でも4時間かかる。しかも,日本は西にあるから西に向かって帰国するのにもかかわらず,まず東に向かって行かなければならない。そのあとは,シアトルと東京の時差は8時間(マイナス16時間)で,飛行時間は11時間ほどだから27時間後に帰国することになるから,この日の時間感覚はめちゃくちゃであった。いったいいつ寝ることができるだろう。そこで,この日にゆっくり休養をしないと,この先の見通しが立たないのであった。
しかし,私の思いとは別に,まったく眠れなかった。朝になっても昼になってもそれは同様であった。
私は,ずっとベッドで横になっていたが,眠るでもなく,何かをするでもなかった。そんなことをしていてもしかたがなかったので,少し外出することにした。
いつもはダウンタウンに向かって観光に出かけたが,この日は逆方向に行くことにした。
私の泊まっていたB&Bから西に向かうと,そこは住宅街になっていて,道なりに進んでいったら,あっという間にパイオニアパークの裏門についてしまってびっくりした。こんな位置関係になっているとは思わなかった。
この日はじめてパイオニアパークにある博物館へ行った。すべてを見たと思ったが,まだ行っていない場所があったことに驚いた。
この博物館もまた航空博物館同様古びていたがここは無料だった。そしてとてもおもしろかった。
その後,小さな店でラーメンを食べた。その店は中国人がやっていたが,単にカップラーメンをそのまま器に入れただけのようなまずいものだった。そして量がなかった。そんなものが7ドルもした。
いつも書いているように,現在アメリカと日本の物価を考えると,1ドルは80円が相場である。それが異常な円安のために,こんなものが日本円にすると900円近くしてしまうわけだ。これを夕食の代わりにしようと思ったのだが,まったくお腹が膨れなかった。
一旦ホテルに戻ったが,これでは空腹感が消えなかったので,再び外出して,今度はモールに行って,寿司を買ってきた。
そんなわけで,徹底的に怠惰な,しかし寝不足な1日を送ることになってしまった。
そうこうしているうちに夜になり,今度は今更寝てしまったら飛行機に乗りそこなってしまうという強迫概念に襲われて,さらに寝られなくなった。
私は,アメリカの国内線はほとんどの場合アップグレードされてファーストクラスを利用しているから,今回もそれを期待した。それならばイスも広く,深夜の便だからゆっくりできそうであった。しかし,この日に限って,客が多くてアップグレードさえ見込めなかった。
まったくもって,この旅のすべてのツキの税金を払っているような1日であった。しかし,旅の思い出というのは,こうしたときのことのほうが忘れられないものなのである。
アラスカのオーロラを見にいく②-2017夏アメリカ旅行記
●オーロラ写真撮影講座の先生となる。●
信州の赤沢自然休養林みたいな感じのチナ・ホットスプリングスリゾートは森の中にコテッジやホテルがあり,駐車場には多くの車が停まっていた。私には予想外の展開だった。
車を停めて外に出ると,そこにいたのはものすごい数の日本人だった。私はツアー旅行のパンフレットすら見たことがないので全く知らなかったが,ここは日本からのオーロラツアー御用達のリゾートで,ちょうどこの日,日本からのチャーター便が到着したということだった。
もし,チャーター便が到着したこの日でなければ,私はチナ・ホットスプリングスリゾートにはまったく違う印象をもったに違いない。
オーロラが見られるのは冬,と思っている人が多いから,こんな夏の時期にこれほど多くの日本人がオーロラを見に来ていることもまた驚きだった。
体育館のような建物があって,その入口に案内所があったので聞いてみた。スタッフも数人のアメリカ人以外は日本人の女性だった。
私が驚いたのは,「オーロラは見えますか?」と聞くと,見えるとか見えないとかいう次元ではなくて,(当たり前に今日も)見えるけれど,どのレベルのオーロラが見られるか,という話がかえってきたことだった。私は,おそらく見られないだろうから,可能性がなければすぐに帰ろうと思っていたから,大した準備もなくやってきたのに,これでは帰るわけにもいかなくなってここにしばらく留まることにした。
この日到着したのはJTBとクラブツールズムのツアーで,JTBは午前1時30分までここでオーロラ観察をして深夜にフェアバンクスに帰る,クラブツーリズムはチナ・ホットスプリングリゾートに数日宿泊するというものだった。当然,ここに滞在するほうがずっと高価だ。
私のように,のこのことフェアバンクスからひとり車でやってきたような人は他にいなかったが,ツアー客といえども見ず知らずの人たちの集合だから,私もツアー客の一員のような感じになってしまった。
まだ,太陽が沈むには時間があって,みんなこの決して豪華とはいえない建物でコーヒーを飲んだり持ってきた機材の自慢話をしたりして暇をつぶしていた。聞いてみると,ここに滞在して温泉に入るか犬ぞりを楽しむというのが昼間の過ごし方なのだそうで,私もそうした人たちと散歩を楽しんだりした。
そのうちに次第に暗くなってきて,それとともにすごく寒くなって,防寒着すらもってこなかった私はここで服を買うはめになってしまった。
オーロラが見れるにしても深夜だろうとコーヒーを飲みながら手持ち無沙汰にしていると,外から「もうオーロラ,見えていますよ」という声がした。
外に出ると,そこは今は使われているのかいないのか知らなかったが,飛行場の滑走路であった。そこにめいめいが陣取ってオーロラを見るのであった。
私は三脚さえ忘れてきたので,平らな場所にカメラを固定しなくてはならなくなった。まったくさえない話だったが,そのくらい,私はオーロラが見られることがうれしい誤算だったのだ。ただし,日本から持ってきた魚眼レンズだけは忘れなかったのがいつものように悪運の強さを物語っていた。
まだ空は十分には暗くなく,肉眼では見えるか見えないかというレベルであったが,写真に写すと,山の上にはっきりとオーロラが捕らえられた。私はこれで満足してしまった。このときの私には,すばらしいオーロラが見たいというより,オーロラを見たという事実だけで充分だった。
ほかの人たちの反応はまちまちで,喜んでいる人からこんなものかと落胆している人までいた。これはそれまで星を見たことがない人が流星群や彗星,さらには,小さな望遠鏡で惑星を見たときの反応と同じであった。
そのうち空が暗くなって,オーロラがはっきり見えてきた。さらに多くの人が集まってきて写真を写そうとしているのだが,うまくいかない。そのうちに,私はオーロラ写真撮影講座の先生のような感じになってしまった。
しだいに夜がふけて来て,私はオーロラを楽しむよりも帰ることができるかどうかのほうが心配になったので,いい加減に切り上げてフェアバンクスのホテルに戻ることにした。深夜の山道は予想以上にかなり大変であった。何が飛び出すかも予想できなかった。私は,来たときの2倍以上の時間をかけて真っ暗なアラスカの原野を走り,午前4時前にホテルに戻った。帰る途中,だれもいない空の開けたキャンプ場に車を停めて北の空を見上げると,そこには,カーテンのように揺れ動くすばらしいオーロラが輝いていた。
アラスカのオーロラを見にいく①-2017夏アメリカ旅行記
●チナ・ホットスプリングス●
今までに何度も書いているように,今回のアラスカ旅行の目的は,アメリカ50州制覇のために一度はアラスカをきちんと観光したいということと,運がよければオーロラをきちんと見たいというこのふたつであった。
この旅からまだ1年も経っていないというのに,その後私は,2月にフィンランドに出かけて冬の寒空でオーロラを満喫し,すっかりオーロラ観光の専門家になってしまったような気になっている。しかし,このときの私は冬の寒空にオーロラを見にいくなんて論外だったし,オーロラを見るための知識もまったくなかった。
オーロラは冬でなくとも見られるということを知って,それなら暖かな夏にアラスカに行けば見られるかもしれないという期待があっただけだった。
しかし,実際アラスカに行ってみて,それは無理なことだと実感した。なにせ,この時期のアラスカは思った以上に天気が悪い。それに加えて,フェアバンクスの夜は思った以上に明るかった。
オーロラを見るのは夢物語だと悟ったが,それでもあきらめきれなかった私は,何とかならないものかと,はじめてまじめに調べ出したのだった。そして「フェアバンクスの郊外でオーロラの見える場所」のリストを探し出し,そのなかでフェアバンクスに一番近かったチナ・ホットスプリングスという場所を知ったのだった。しかし,そこがどういうところなのかは全くわからなかった。私はこの1年前に行ったモンタナ州グレーシャー国立公園にあったようなゴージャスなリゾートホテルを想像した。そして,そのゴージャスなホテルのロビーで優雅にコーヒーでも飲みながらオーロラの出現を待つ,といった姿を想像したのだった。
問題だったのは,その場所がフェアバンクスから近いといっても車で2時間ほどかかるということと,行くはいいとしても深夜にどうやって帰るのか,ということであった。だから,行ってみたいという気持ちの反面,いっそ天気が悪ければあきらめもつくだろうとも思った。それは日本で星見に出かけるときの気持ちと同じであった。
星好きのおかしなところは,晴れていたら見逃すのは悔しいけれど,天気が悪くて見られなかったというのは諦めがついてまったく残念でないことなのである。私が2001年のしし座流星群の大流星雨を見逃したのを悔やむのは,その晩が快晴だったからで,もしその日が雨だったら,そんな気持ちにはならなかったのである。
そんなわけで,心のどこかに曇ればいいという気持ちがあったのに,天気はどんどん回復して,ついにアラスカにきて唯一の快晴になってしまった。こうなれば行くしかない,行かなかったら後悔すると腹を決めて,私は。チナ・ホットスプリングスに向かって,雄大なアラスカの山道をひたすら走っていったのである。
チナへ向かう道路は日本の山岳道路とは違って,片側1車線のきちんとラインが引かれたものであった。しかし,私の予想に反して,この先に本当にリゾートなんてあるのかと思えるほど,ずっと樹海だけが続いていた。そしてまた,ほとんど車も通っていなかった。救いといえば,日が沈むのが遅く,到着までずっと明るいことであった。やがて,目の前にリゾートの入口が見えてきた。それは,私の予想とは違って,日本のしけたリゾートのような,そんなエリアであった。私はずいぶん前に一度だけ行ったことがある木曽の赤沢自然休養林を思い出した。
アラスカの外輪船クルーズ⑧-2017夏アメリカ旅行記
●青空がのぞいたので●
この日の午後に参加した外輪船クルーズは,フェアバンクスで一番のアトラクションだった。
クルーズがはじまる午後2時ごろになるとすっかり空が晴れ上がり,私はアラスカではじめて青い空を見ることができた。楽しかったクルーズは3時間あまりで終了し,船を降りることになった。
下船後,車に戻る途中で大型車の駐車場を通ると,すごい数の観光バスが駐車してあった。まるで,日本の観光地のような錯覚を覚えた。
せっかく青空がのぞいているので,たとえ実現できなくとも,オーロラを見ることができる可能性に賭けることにした。しかし,時間は午後5時。季節は夏。緯度の高いアラスカでは陽が沈むにはまだまだ時間が早かったので,まず夕食をとり,それでも時間があるから,さらに時間を潰すためにフロンティアパークに寄ることにした。
フロンティアパークのある,町を東西に走るエアポートウェイには多くのレストランがあったので,そのなかからデニーズに行くことにした。
ひとりで旅をしていて,一番困るのは食事である。このことはだれしも同じであるようだ。日本でもひとり焼肉とか,いろいろと表現されている。常々書いているように,私はグルメでないから食にこだわりがない。日本でひとりで食事をする必要があれば,吉野家で何の問題もないのだが,アメリカではそうした店がないから困るわけである。
アメリカでもモールに行けばファーストフード店がならんでいるから何とかなる。ショッピングセンターに行けばケイタリングもできる。そうした場所のよい点はチップが不要ということだ。そこで,フェアバンクスでもそうした食事をしていたが,この日は気が変わってデニーズに行った。ちなみにアメリカのデニーズは日本のデニーズとは今は何の関係もない。
デニーズには「+55」という55歳以上対象の安いメニューがあるから,それを選ぶことにしている。この日もそうしたのだが,それでも,食事を終えたあとで,つまらないお金を使ってしまったような気持ちになったものである。
その後,パイオニアパークに立ち寄った。パイオニアパークの入口ではサーモンベイクをやっていた。サーモンベイクとは,サーモン,タラ,プライムリブなどをその場で好みに応じて焼いてくれる食べ放題の野外バーベキューである。値段は4,000円ほどであった。それを安いと思うか高いと思うかは人次第だが,友人とパーティでもやるのなら話は別だけれど,ひとり旅の私には縁がない。
サーモンベイを横目に園内に入ると,子供たちが遊び場で楽しんでいた。ここは絶好の遊園地に違いない。
パイオニアパークの園内は無料であるが,航空博物館というアトラクションだけは3ドルであった。せっかくアラスカまで行ったのだからと,この日はじめてこの博物館に入ることにした。
本当にアメリカ人は飛行機好きで,どこに行っても航空博物館があるが,要するに,これまで使った飛行機の捨て場に困ってこうして展示してあるということだ。この博物館はかなり古びていて,日本の温泉街にある場末のアトラクションのようなところであった。しかし,けっこう楽しむことができた。
帰りがけ,公園の広場ではバイオリンの演奏をしていた。遠くからもその音楽が聴こえてきていい雰囲気だったが,写真でもわかるように,演奏しているステージのまわりにいた客はたったひとりであった。
夏の季節であるのにこんな感じの公園はわびしさ満点であった。私はこのしがなさは嫌いでない。しかし,フェアバンクスはパイオニアパーク以外のどこもまたこんな調子であった。
大都会の人混みもアメリカなら,これもまたアメリカなのである。
この広場で目についたのが1両の車両であった。これは大統領車両であった。1923年7月,アラスカ鉄道建設の終了を記念して当時のウォーレン・ハーディング(Warren Gamaliel Harding)大統領の手によって黄金の鉄道レール用の釘(くぎ)が打ち込まれた。車両はそのとき大統領が乗った記念の特別車で,アラスカの美しい自然が楽しめるように大きな窓がついている。
大役を終えて,現在はこの地に展示されてなかを見ることができるようになっている,というわけであった。
こうして時間を潰してもまだ空は明るかったが,そろそろ私はオーロラを見るためにアラスカの広大な大地を走っていくことにしたのだった。
アラスカの外輪船クルーズ⑦-2017夏アメリカ旅行記
●先住民に欠かせなかったサケ猟とは●
アラスカ内陸部の人々は,ヨーロッパ人と接触する以前から哺乳類や鳥類の狩猟,罠猟,河川や湖沼における生心,植物の採集によって食料を獲得してきた。なかでも,毎年決まった時期に河川を遡上するサケは安定して大量の漁獲が見込め,しかも加工によって備蓄できるために,確実に確保し利用できる食料資源として生活を支えてきた。
アラスカ内陸部でサケを捕獲していたのはアラスカ州内陸部からカナダ北西部を生活領域とする先住民である。
アラスカ州内陸部からカナダ北西部を流れる河川はユーコン川とマッケンジー川のふたつがある。ユーコン川(Yukon River)は,カナダのユーコン準州から西にアラスカ州を流れてベーリング海に注いでいる。「ユーコン」とは「偉大なる川」という意味である。マッケンジー川(Mackenzie River)は,カナダのノースウエスト準州から北に北極海へ注ぐ川である。 マッケンジー川はカナダ最長の川である。
なかでも,ユーコン川は,マスノスケ(king salmon),シロザケ(chum salmon),ギンザケ(silver salmon)といったサケが遡上し,これらのサケを,人と飼育する犬の食料として獲得してきた。
サケは6月後半から8月初旬にかけて到達する。先住民は,これを刺し網やフィッシュ・ホイールと称される北米産トウヒ製の漁獲用水車を用いて捕獲する。刺し網は,ヤナギの樹皮やヘラジカやカリブー(トナカイ)の腱,皮などを使って製作する。
魚網やフィッシュ・ホイールから漁獲を回収することは男性の仕事とされた。
サケは長期保存と虫の発生防止のため,3枚におろして切り目を入れるか,細くひも状に切り分けたのち,騒騒する。燃煙は,地域に自生する植物を用いた憾煙小屋を建てて行った。
まず,トウヒなどを用いてぶどう棚に似た枠構造を建造し,煙を閉じ込めるためにハンノキやヤナギの葉がついた枝で壁を覆って燃煙小屋とする。燃製にされたサケは保存食や携行食として用いられる。特に,サケの皮付き憔製魚肉を太目のボールペンほどの大きさに切り分けたサーモン・ストリップは携帯に便利で,移動しながら高カロリーの栄養を摂取することができるため,狩猟など野外で活動する際に携行する。また,サケの頭部はスープの素材として珍重されるが,これも保存する場合は乾燥する。
サケは燃製加工する場合と天日乾燥する場合がある。単に天日乾燥したものは,食べやすくするために,ヘラジカの関節を煮て採った脂やエスキモーから入手したアザラシの脂肪をつけて食べる。犬用の餌とする場合は燥製にせず,単に切り分けて天日乾燥する。
20世紀前半までは,いくつかの核家族あるいは拡大家族が一時的なバンドを編成し,漁獲地点近くの岸辺や中洲に滞在・作業拠点を置いて,サケの捕獲や加工に係わる一連の作業を行っていた。これを「フィッシュ・キャンプ」と称する。
当時は,それに先立つ6月から交易所のある集落に人々が集まり,交流交歓や物資の交換が行われ,そこで出会った人々がおもに血縁的紐帯によって集団を構成し「フィッシュ・キャンプ」を編成した。
「フィッシュ・キャンプ」では,漁獲や加工に用いられる施設や道具は,参加した人々で共用した。また,サケの捕獲・加工作業のほかに,罠猟や水鳥の捕獲など自給用食料の調達活動を行った。さらに他のキャンプへの相互訪問など,社会的活動も活発に行っていた。
1930年代以降は集落への定住化が進行し,1960年代以降は船外機付きボートの普及によって短時間に長距離の往復が可能となった。これにともなって,生計活動レベルで「フィッシュ・キャンプ」を設けることは徐々に減少した。
電気冷凍庫が普及する1960年代以前は,サケなど夏季に捕獲した魚は地面に埋めて保存した。穴を掘って葉のついたトウヒの枝を敷き詰め,魚を置いてその上からさらにトウヒの枝をかけて埋め戻した。この方法で冬まで保存することが可能であった。またサケ皮製の容器に,干したサケなどの魚を入れておくと,長期に保存することが可能だったという。
しかし,現在は大型冷凍庫の普及によって,これらの方法は見かけられなくなっており,また冷凍焼けを防ぐために,加工作業をあえてしないまま冷凍保存することが多くなっている。
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アラスカの外輪船クルーズ⑥-2017夏アメリカ旅行記
●「アサバスカ族」の村に上陸する。●
ディスカバリー号クルーズは犬ぞりを引くための犬の訓練施設の前で停泊して,犬たちのパフォーマンスを楽しく見学した。私はこのアラスカでもその後で行ったフィンランドでも犬ぞりには乗らなかったが,いつか乗ってみたいものだと思った。
再び船が動き出した。今度は右手にトナカイが現れたが,このトナカイたちもまた野生ではなく,飼われているものであった。トナカイの飼われているその場所には集落があって,そこで燻製を作くる小屋から煙が上がっていた。
私はこのときはそれらもこの場所に実際に住んでいる住民の自然の風景であると思っていたが,これもまた,リバークルーズのアトラクションの一環であったことがあとでわかる。
つまり,このリバークルーズは,ディズニーランドのジャングルクルーズなのである。しかし,ジャングルクルーズがすべて「作り物」のであるのに比べて,これらは「本物」なのである。
アメリカでは,こうしたアトラクションに限らず,さまざまなことが単純である。たとえば,テレビ番組にせよ,道路整備にせよ,バスルームにせよ,どこも同じ形式で作られていてわかりやすいのだ。
日本人はきわめてディズニーランド好きだが,ディズニーランドのアトラクションは,それらがすべて作り物であるにの対して,実際にアメリカにいけば,そうしたアトラクションのまさにホンモノがある。
やがて,リバークルーズも折り返し点のタナナリバーとタナノーリバーとの合流点にやって来た。私は船の最上階にいたが,そこから遠くの景色を見ると,延々と悠久の原野が広がっていた。いつか,再びアラスカに来て,私がこの原野を車で走る日がくるだろうか? と眩しくなった。
船はここで大きく旋回した。
私の利用したことのある多くの他のクルーズでは,折り返し点をすぎるとほぼ見物は終わりで,あとは引き返すだけだから,私はこのクルーズもまたこれで終わりかと思った。
しかし,ここからがこのクルーズ最大のお楽しみであった。
先ほど煙があがっていたのは,このクルーズのアトラクションのひとつであるネイティブの集落であった。まず,ここで船が沖合に停泊して,岸でネイティブの女性がサーモンをさばくのを船上から見学することになった。水車を使ってサーモンを取り,それをさばいてスモークする方法が実演とともに説明され,なかなか興味深かった。
その説明が終わると船は再び動き出したが,少し進むと,今度は船が船着き場に到着して横づけされた。ここで乗船客は船を降りて「アサバスカ族」の村に上陸することになるのだった。
「アサバスカ族」というのは「ナ・ディネ言語群」」(Na-Dené languages)に属するアサバスカ語を話すアメリカン・インディアンのことで,アラスカからカナダ西部の広い範囲とアメリカ合衆国本土太平洋岸北部と南西部に分布する。
「アサバスカ族」の人達を「ディネ」( Dene)という。「ディネ」には,「北部アサバスカ語」を話す「ヘアー・インディアン」(hare indan)と「アラスカとカナダのディネ」,「南部アサバスカ語」を話す「ナバホ族」(Diné, Navajo)と「アパッチ族」(Indé, Apache)がいる。
「ディネ」とは「流れと大地」を意味する言葉である。
アラスカの外輪船クルーズ⑤-2017夏アメリカ旅行記
●フェアバンクスの見ものはこれ●
アンカレッジにそそぐタナノーリバーはニナナ(Nenana)の町で支流に分かれて,北にタナノーリバー,東がタナナリバーとなる。タナナリバーはさらにフェアバンクスの空港の手前でチェナリバーとタナナリバーと分かれ,フェアバンクスの南をタナナリバー流れ,市内の北をチェナリバーが流れている。
ディスカバリー号クルーズはタナナリバーを西に,タナノーリバーとの合流点まで進み,そこで引き返す3時間余りのクルーズであった。
予想していたよりはるかに楽しく面白く,フェアバンクスに行って,これに乗らないという選択肢はないと思った。
日本からのオーロラツアー旅行でこのクルーズに乗れるものがあるのかどうかは知らないが,もしあれば,ぜひそれを選択したほうがいいだろう。
私は,フェアバンクスに行くまでこのクルーズの存在を知らなかったが,前日にそれを知って予約してよかったと思った。
クルーズがはじまった。
毎日天気が悪かったが,午後になって,青空が見えてきた。やはり私は正真正銘の晴れ男のようのようであった。このクルーズも天気がよかったからこそ楽しめたのだろう。
静かに船が動き出した。
船のまわりを飛行機が飛んでいた。はじめは船の進路を邪魔している地元の愛好家なのかと思ってうざかったが,そうではなく,この飛行機もまた,クルーズ観光のアトラクションの一環なのであった。
アメリカのこうした観光は非常によくできている。たとえば,ニューヨークの市内観光ツアーでは,車中から外を見るとその観光ツアー向けにダンスをしたりパフォーマンスをしたりというアトラクションが繰り広げられる。それは,偶然そこを通りかかったというのではなく,そのツアーに合わせてそれを行うわけだ。
このクルーズツアーもまた,そうした趣向で,行きも帰りも川べりでさまざまなアトラクションが繰り広げられることになる。
考えてみれば,私は水陸両用飛行機というのもナマで飛んでいる姿をみたことがなかった。
その後は,川に沿って船が進んでいったが,川の周りにあるのは大金持ちの別荘であった。なかにはレーガン大統領の奥さんだったナンシー・レーガンの別荘もあった。
アメリカの別荘のすごいのは,川べりまでが自分の土地であって,川のほとりがプライベートビーチとなっていることだ。
日本のように,川べりにわけのわからない護岸工事もなければ,柵もない。だたし,川べりは私有地だからだれでも近寄れるというものではない。
船が進んでいくと,犬のとレーニンセンターを通りかかった。犬たちが川べりで遊んでいて,係員が犬たちの説明をはじめた。船にいる船員がその係員と受け答えをするという趣向であった。
やがて,川べりでは犬ぞりのデモンスレーションがはじまった。この犬たちは,アイディタロット国際犬ぞりレースで4回優勝し,2006年,白血病で51歳で亡くなったスーザン・ブッチャーがマネージしたケンネルの犬だそうだ。
犬がつながれて走るのをはじめて見たが,その速度というのが尋常でなくびっくりした。
アラスカの外輪船クルーズ④-2017夏アメリカ旅行記
●外輪船クルーズ「ディスカバリー号」●
フェアバンクスの外輪船クルーズは,ディスカバリー号クルーズ(Riverboat Discovery)とタナナ・チーフ号クルーズ(Tanana Chief Cruises)のふたつがある。ともに6月から9月までの就航だが,夏至の6月に行っても白夜に近いから夜が短く,オーロラは見られないので,オーロラ観賞を兼ねたアラスカ旅行でこの外輪船クルーズに乗るには8月から9月に行くことが必要となる。
ディスカバリー号クルーズは1日2回,9時と2時のものがあって,フェアバンクスのダウンタウンから西にある空港近くのボート発着所を出港する。また,タナナ・チーフ号クルーズは夜6時45分からのディナークルーズと週末のブランチクルーズがあって,ディスカバリー号クルーズとは発着所が異なっている。
私が乗船したのはこのうちのディスカバリー号クルーズのほうであった。
クルーズは人気があるので事前予約が必要とあったから,前日に2時のほうをネットで予約をしておいた。
発着所のある場所がけっこうわかりにくく少し苦労したが,なんとか到着できた。日本と違い,こうした観光施設は大きな看板があるわけでもないから,知らないと戸惑うことも多い。
発着所に着いた時間はかなり早かったので,駐車場はまだほとんど車がなかった。車を停めて歩いて行くと,日本のそうした施設のように,土産物屋やら,さらにはレストランまであった。
ここで予約してあることを告げて,乗船券と交換をするのだが,これもまた,日本のような過剰な指示書きや掲示がないから,システムを知らないとけっこう戸惑うことになる。要するに聞けばいいだけのことなのだが…。
やがて,ずいぶんと多くの人が集まってきた。あの,閑散としたフェアバンクスのどこにこれだけの人がいたのだろう,と思うほどであった。
よく見るとそのほとんどは観光バスで来たツアー客であったが,日本からのツアー客というのはひとりもいなかった。
この船着き場で食事をしてから乗船するものやら,そうでないものやら,さまざななツアーがあるようだった。出港が午後2時だから,昼食をとってから乗船するにはうってつけであろう。ツアー客の多くは,アメリカ本土やらヨーロッパからの観光客で,老人が多かった。
ここは,なにやら日本の観光地のようであった。しかし,アメリカの観光地でも,日本と同様に,団体のツアーで旅行をしている年配の人は存外少なくない。そしてまた,アラスカという地はアメリカ人にとっても憧れの場所で,日本人の北海道のような感じであると思える。
やがて乗船時間になって,船に乗り込むことになった。こうした観光船は,乗ってからどこに座るのかがいつの場合も大問題となる。私の経験でいえるのは,こうした「自由席」の乗り物で真っ先に人の迷惑顧みず,展望席を集団で独占するのは,常に中国人であるということだ。しかし,幸いこの日はそうした中国人の輩はいなかったから,私は不快な思いをしなくてすんだ。
アラスカの外輪船クルーズ③-2017夏アメリカ旅行記
●謎の多いフェアバンクス●
フェアバンクス(Fairbanks)はアラスカ州の中央部に位置する都市である。人口は約3万人。アラスカ州ではアンカレッジに次ぐ第2の都市である。
北緯65度あたりにあって,北極圏からは約160キロメートル南に位置している。このときの私はテンションが低く,車で北極圏に行くこともできたのだが気が進まなかった。行かなかったことを帰国してから後悔していたのだが,その後,フィンランドのロバニエミに行ったときに北極圏に到達したから,それ以降はどうでもよくなった。
フェアバンクスの面積は約85平方キロメートルというから,9キロメートル四方というところか。車で走ってみるとあっという間に市街地を抜けて大平原に出る。
市内をチェナ川(the Chena River)が流れ,すぐ南でタナナ川(the Tanana River)と合流しているが,今日の午後はそのチェナ川を下る外輪船クルーズに乗船することになっていた。この町でタナナ川は網状流路となっている。
フェアバンクスは冷帯湿潤気候に属していて,冬季は摂氏マイナス30度から40度前後にまで下がるが,私の訪れた夏は昼は25度まで上昇するから,寒いということはまったくなかった。
今日の1番目の写真はフェアバンクスのダウンタウンである。人の少ないダウンタウンは静かな町だが,私が行ったときは町の東側は道路工事で車の通行の妨げになっていた。
2番目の写真はバスターミナルである。私はバスに乗ることはなかったので,詳しくは調べなかったが,一応,町の様々な場所にはバスで移動することができる。しかし,郊外まで行こうとすれば,車がなければどうにもならない。
そして,3番目が市役所,4番目はアパート,5番目が高等学校である。 また,最後6番目の写真がスーパーマーケットである。スーパーマーケットはフェアバンクスの市内には数件あって,ここに行けば食事はなんとかなったので,かなり重宝した。パック寿司も売っていた。
1900年ごろ,カナダ・ユーコン準州のクロンダイクで金が発見(Klondike Gold Rush)されると,その隣のアラスカ全土もゴールドラッシュに沸いた。そして,現在のフェアバンクス近くタナナ川支流の渓谷でイタリア人フェリックス・ベドロが金を発見したことにより,タナナ川とチェナ川の合流点に交易所が開かれた。これにより町が整えられていき,1903年に上院議員のチャールズ・W・フェアバンクスの名前をとって,フェアバンクスと名づけられたわけだ。ここでは現在もなお複数の金山が稼働している。
フェアバンクスは日本人にとってはオーロラの最もよく見える町として知られているが,実は,冬季にフェアバンクスを訪れる日本人は夏季に訪れる観光客からすると僅かであるという。
これは私にも意外に思える。しかし,雪のないこの季節のフェアバンクスは,車さえあれば楽しく観光ができる。また,この日の夜,私はフェアバンクスの郊外まで遠出して,ついにオーロラを見ることができたのだが,これもまた,車がなければ行くことはできなかった。そんなわけで,夏のフェアバンスクは車さえあれば観光をするのが簡単なので,冬に比べて日本人観光客が多いというのもわからなくもない。
それに比べて,冬のフェアバンクスは私には謎の多い町である。一体,冬にフェアバンクスに行ったときには,どのような移動手段があるというのだろう。おそらく現地ツアーにすべてをお任せするしか手段がないように思う。
この数か月後に行った冬のフィンランド・ロバニエミは,フェアバンクスに比べて,非常に観光のしやすいところであった。日本人向けの現地オーロラツアーもあったし,お昼間も徒歩やバスを使えば観光をする場所にはことかかなかった。その点,フェアバンクスはかなり大変であろう。
このように,冬のフェアバンクスにも行ってみたいが,この町に冬に行って,どうすればよいのか,私には謎が一杯なのである。いずれにせよ,個人旅行に比べて何倍もする高価な団体旅行に参加してすべてお任せで行く限りは何の問題もないのだけれど。
アラスカの外輪船クルーズ②-2017夏アメリカ旅行記
●「氷の彫刻世界競技大会」が味わえる博物館●
冬のフェアバンクスは気温が摂氏マイナス20度からマイナス40度になる厳寒の地である。そこで,フェアバンクスでは毎年3月に「氷の彫刻世界競技大会」(World Ice Art Championships)が行われる。これは世界中から氷の彫刻家たちが集まり作品を競い合う世界一の氷の彫刻大会である。
この大会は,近くにある凍った池から244センチメートル×152センチメートル×91センチメートルの巨大な氷のブロックを切り出して,各チームに与えられ,それを60時間以内に作品として完成させるというものである。
札幌の冬に行われる雪祭りや日本各地の砂浜で夏に行われるサンドフェスティバルの氷バージョンのようなものであろう。雪や砂とは違って,氷の像は光を幻想的に反射しクリスタルのように輝くというのが魅力である。
この大会は,1990年にわずか8組のチームで開催されたのが正式なはじまりとされる。現在はパイオニアパークから北にチナ川を渡ったところにあるジョージ・オーナー・アイスパーク(George Horner Ice Park)で行われている。
競技大会の時期は,この広場に作られた高さ約3メートル,長さ30メートルほどの氷のすべり台が作られ,勢いよくすべるそりの音と子どもたちの歓声が雪の上にこだまする。夜のとばりが下りると,氷に埋め込まれた青,緑,赤のライトがすべり台を光るレールのように宵闇に浮かび上がらせる。
ひとつの氷の塊から作るシングルブロックの部と複数の氷の塊を使うマルチブロックの部があって,参加者はアメリカをはじめ,中国,ロシア,カナダ,ポルトガル,スペイン,ドイツ,イギリス,フィリピン,日本からと多彩である。透明度の高い地元の天然氷から生まれた彫刻は色とりどりにライトアップされ,夕闇の中でひときわ映えるという。
ダウンタウンにある劇場を改造したフェアバンクス氷の彫刻博物館(Fairbanks Ice Museum)では,この競技大会で作られた作品が保存されていて,夏でも見ることができる。
私が入場料を払ってなかに入ると,他にいたのは一組のカップルであった。まず,氷の彫刻に囲まれた客席に座り,競技大会の様子や彫刻の妙技を紹介したビデオを見た後で,実際に彫刻が展示された部屋に行って写真を撮ったりする。そして,最後に,実際に彫刻を作るデモが行われて,中国人の係員が上手に氷を削っていく様を見学するすることができるというものであった。
このように,オーロラ以外に楽しみの少ない冬の時期にフェアバンクスに行けば,この競技大会を見ることができるわけだ。しかし,フェアバンクスに宿泊しオプショナルツアーでこうした競技大会に出かけ,オーロラを見るために夜だけ郊外に出かけるといった団体旅行にでも参加しなければ,雪の多い冬にはこうしたフェスティバルすら行くことができないだろう。
私のような個人旅行で冬にフェアバンクスに行っても,雪の積もった不慣れな道路をレンタカーで走る覚悟がなければ,自由に外出することもままらないないに違いない。ましてやオーロラを見るために深夜に郊外までドライブするなんて論外だろう。冬のフェアバンクスを個人で旅するのは容易なことではない。
アラスカで泊まったB&B②-2017夏アメリカ旅行記
●充実した博物館とアラスカの歴史●
朝食を終えて,アラスカ大学フェアバンクス校のなかにある博物館に行った。大学はフェアバンクスの北西の高台にあり,広大な敷地のなかを進んで行くと博物館の建物と駐車場があった。
駐車場は有料だったので料金を入れようと説明書きを読んでいたら,ちょうど車を停めて降りてきた別の観光客に,今日は休日だから駐車場は無料だよ,と言われた。
館内に入ると,広い展示室に興味深い様々な展示品があって,アラスカに来たんだということを認識させられた。私この旅の半年後,今度はフィンランドのロヴァニエミで同じような博物館に行ったので,今ではこのふたつの博物館の展示が記憶のなかに混在している。本質的によく似ているのだ。
展示室を出てから,オーロラのビデオが上映されていたので,次にそれを見た。この博物館は展示も説明も非常に充実していて,何時間いても退屈しなかったのだが,この大学はオーロラ研究で有名なこともあり,もっとオーロラに関する展示があるものだと思っていたので,それだけが不満であった。
しかし,アラスカに来るまでアラスカではもっとオーロラに関する観光の機運があるものだと思っていたのにそうでなかったことを意外に思っていたが,この博物館ではビデオを見て,やはり,この地ではオーロラは身近な存在だということを再認識することが出来たのだった。
この博物館にはカフェテラスが併設されていて非常におすすめであるということだったが,なにせまだお昼には時間が早すぎて,ここで昼食をとることができなかったのが残念だった。
私もアラスカに来るまでこの土地の歴史についてほとんど知らなかったので,ここで簡単にまとめておくことにしよう。
・・・・・・
アラスカの歴史は紀元前12,000年頃の旧石器時代に遡るという。一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡りアラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。
ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触がはじまるころには,この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが,先に発見したのは1741年,聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し,アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが,乱獲によるラッコの減少,イギリスのハドソン湾会社との毛皮交易競争,アラスカからロシアまでの毛皮の輸送経費がかかることなどにより経営は悪化していった。
・・
一方,イギリス人移住者の多くは海路でこの地にやってきて,交易のための居留地を点々と作っていた。1778年には,「北西航路」を捜索する最後の冒険航海の途上にあったジェームス・クックは北アメリカの西海岸沿いを北上した。
北西航路調査のためにアラスカを訪れているクックに対して,ロシア側は自分たちのアラスカにおける支配力を印象づけようとしたが,ロシア国内の財政事情の悪化,アラスカがクリミア戦争を戦ったイギリスの手に落ちることへの恐れ,居留地が大して利益を上げないことといった要因がロシアをアラスカ売却へと駆り立てた。
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1867年,アメリカ国務長官のウィリアム・スワード(William Henry Seward, Sr.)が720万ドル(約9,000万ドル)でアラスカを購入した。この買収は「スワードの愚行」「スワードの冷蔵庫」といわれ,当時は評判がよくなかった。しかし,金が発見されたことでこの買収が無駄ではないことがわかった。
1896年,隣接するカナダ・ユーコン準州で金が発見された。この事件は,大勢の鉱夫をユーコン準州のとなりのアラスカへも引きつけた。1899年,アラスカでも金が発見されゴールドラッシュが起こり,フェアバンクスやルビー等の町が作られるようになった。
そしてアラスカ鉄道の建設がはじまった。また,銅鉱,漁業,缶詰製造業が盛んになり,大きな町々で合わせて10の缶詰工場が作られた。
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1912年,アラスカはアラスカ準州となった。20世紀になる前からアラスカを州に格上げしようとする動きはあったが,アラスカの人口が少なすぎること,遠く離れていて孤立していること,合衆国に加える価値があるほどには経済が安定していないことが障害となっていた。しかし,第二次世界大戦と日本軍の侵略がアラスカの戦略的な重要性を浮き彫りにした。そして,石油の発見がアラスカのイメージを変えた。
1958年,大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカ州法に調印してこれを合衆国法に加え連邦加入への道筋をつけた。ついに,アラスカは連邦の49番目の州となったのだ。準州都だったジュノーはそのまま州都になった。石油の発見があってからひとり当たりの収入は上昇し,すべての地域が恩恵を受けた。
1977年,トランス・アラスカ・パイプラインが完成すると,原油生産による収入で人口が増加に転じ,インフラ整備が進んだ。 現在,州の半分以上は連邦政府によって所有されている。
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アラスカで泊まったB&B①-2017夏アメリカ旅行記
●素晴らしい朝食●
☆12日目 2017年8月27日(日)
この日は日曜日であった。旅に出ていると曜日の感覚がなくなってくる。曜日によって博物館が休館だったりすることもあるから,もっときちんと計画を立てるべきなのだが,出たとこ勝負の私にはそれができないのだ。しかし,今回は,この日が日曜日だったことで恩恵を受けることになる。
昨日は到着したばかりで土地勘もなかったのに深夜にドライブをして方向感覚が余計におかしくなってしまったために,朝にはさらにどこに何があるのか混乱状態であった。ともかく,夏にやって来て,しかも無計画なのにもかかわらすてオーロラを見ようとすることにかなり無理があることを理解した。
朝早く,私の泊まっているB&Bには朝食を作るために若い女性がやってきて,キッチンで料理をはじめた。やがて朝食の時間になった。
昨晩は私を含めて3組が宿泊をしていた。それはフロリダからきた夫婦とニューヨークから来た夫婦であった。彼らも1階の大広間に用意された朝食を食べるために集まってきた。
私は,以前から泊まりたいと思っていたがその機会が今までなく,今回もまた,B&Bに泊まろうと思ったわけでもなかったが,結果として,B&Bに泊まるという体験をすることができた。
用意されたのは写真のような豪華な朝食であった。一緒になった人たちと楽しく語らいながらの朝食はたいへん楽しかったが,この程度の日常英語もできないと,こうした集まっての朝食もたいそうストレスのたまる時間になってしまうかもしれない。
日本で受けた教育は,人生を楽しむためには,障害となることはあっても利になるようなことはほとんどない,と私は断言できる。これは私の体験から出てきた考えである。もし,その意見に反対する人がいるのなら,私は逆に,ではそういう人は,学校で学んだことで今楽しい人生を過ごしているかを反対に質問したいものだ。
食事を終えて,今日はまず,フェアバンクスの見どころをすべて制覇しようと,私は車で外に出た。まず目指したのはアラスカ大学の博物館であった。
アラスカに行かなくちゃ⑦-2017夏アメリカ旅行記
●さまよった夜の記憶●
旅の思い出というのは不思議なもので,ずいぶんと思入れのあった場所に行ってその時点では感動しても,あとになるとほとんど忘れ去ってしまうものもあれば,その逆に,この夜の出来事のように,完全なる敗北であっても,いつまでも印象に残っているものもある。
私の泊まっているB&Bはとても美しい建物で,またカワイイ部屋であったが,狭く寝るためのベッドとテレビがあるだけだったので,寝転んでテレビを見るくらいしか部屋ではすることがなかった。バスとトイレは隣の部屋との共有だったが,使用しているときに相手方の部屋の鍵を外からかけるようになっていたので全く問題はなかった。
若いころは日本国内のユースホステルを泊まり歩いたものだが,その程度の宿泊施設で何のストレスも感じないで旅ができる「才能」が,楽しく旅をするためには最も重要な才能であろう。
オーロラを見ることも諦め,失意? のなかで今日1日がすぎた。そして,明日から何をしようかと思って夜を迎えた。
夜11時過ぎ。それまで小雨が降っていたが,この時間になるとそれも止み,窓から少し星が見えたので,まだあきらめきれずオーロラが見えるのではないかとわずかな期待をもって外に出てみたのだが,フェアバンクスが小さな町とはいえ,市街地は明るく星すら見えるという雰囲気ではなかった。
オーロラというのは天の川と同じで,天の川が見える程度の暗い夜空のある場所でないと,たとえオーロラが出ていても見ることができないのである。それは,南半球に出かけてマゼラン雲を見ようと思っても,明るい市街地では見ることができないのと同様である。
日本でも暗い夜空のあるところに住んでいなければ生まれてから一度も天の川を見たことのない人がほどんどであるのとそれは同じだが,勝手のわかる日本であっても,深夜,空の暗い場所に出かけることはたやすいものではないのだから,外国ではなおさらのことである。最低限,車を運転できなければならないし,治安の問題もある。私のように,日本で夜星を見るために暗い夜道をドライブすることに慣れていても,海外で同じことをしてよいのかどうかはかなりの問題であった。
フェアバンクスは治安もよさそうだったし,さすがにクマは出そうになかったので,ともかく,ためしに車に乗って市街地を抜けて空の暗いところまで行こうと,あてもなく走り出したはよいのだが,走っているうちに位置関係がさっぱりわからなくなった。後で知ったことには,北に向かって走っていたつもりだったのが,道なりに西に曲がって,フェアバンクスの西に進んでいたようであった。私がもっとも恐れたのは,帰ることができなくなったらどうしよう,ということで,しだいに恐怖を感じるようになった。
この晩,私が走っていったのは,フェアバンクスの北西にあったアラスカ大学の構内を抜けた森のなかの一本路であった。さすがにそのあたりにまで行くと周囲は真っ暗だった。車を道路際に停めて外に出ると,満天の星空が輝いていた。しかし,樹林に囲まれていて視野がせまく,しかも,オーロラというものがどのように出現するかも皆目見当がつかなかったから,こんなところであてもなく空を眺めていたところでどうにもなるものではないなあと感じた。そのうちににわかに天気が急変して空が一面雲ってしまったので,帰ることにした。
これではオーロラなんてやはり絶望的だなあと思ったが,無事,もどれるかどうかのほうが心配であった。迷った挙句,とにかく町の明かりのあるほうに走っていって,なんとかB&Bにたどり着いて,失望感の中で就寝することになった。
この晩走った車の中から見た景色は,フェアバンクスの郊外にはぽつんと灯りのついた家や,まったく車の通らない道路が果てしなくずっと続いていたというものであった。たったそれだけのことであったが,ドライブをしながら眺めたそうした風景が,今でも私の記憶に鮮明によみがえってくる。
アラスカに行かなくちゃ⑥-2017夏アメリカ旅行記
●タイ料理でライスのお代わりは?●
オーロラどころか雨さえ降ってきた。
アラスカの大地を歩きたい,というのが第一の目的で,あわよくばオーロラを見てみたいというのが第二の目的でやってきたのだが,事前の研究もしていないものだから,オーロラを見る方法すらわからず,私はすっかりあきらめぎみであった。
特にすることもないし,フェアバンクスのダウンタウンは歩いて回れるくらい狭いし,雨は降ってくるし…。せめて夕食くらいは満足に食べようとお店をさがした。
驚いたことに,フェアバンクスにはタイ料理のレストランが目についたのだった。どうしてアラスカにタイ料理なのか,私にはさっぱりわからなかった。後で調べても一向にわからない。
そのときは,こうなったらタイ料理に挑戦してみようと思った。「タイ・ハウス」とかいう名の老舗があるということだったので,行ってみることにした。
私は,弟がタイに住んでいることもあって,タイなんて隣町のような身近な存在で,その気になれば明日にでも行けるのだけれど,まったくタイには興味がない。したがってタイ料理も食べたこともないので,これもまたまったくわからない。
私はタイどころか,中国にも韓国にも,当然インドにも,まったく興味がない。それは人が多いという理由からである。日本のような人だらけの国に住んでいて,外国に行ってまで人混みに出会うなんて懲り懲りなのである。そうした国だけでなく,私の好きなアメリカやオーストラリアであっても,大都会には興味がない。私が行きたい外国というのは,人が少なく自然が多い,そんな場所なのだ。
そんなわけで,タイ料理を食べたいというわけではなかったが,店に入った。
タイ料理の魅力というのは辛さなのだということを後で知った。私は辛いものが苦手である。もともとは好きだったのだが,いつのころからか,辛いものを食べると頭のてっぺんから汗が噴き出すようになって食べられなくなった。辛いものを食べると汗まみれになってしまうのだ。幸いメニューを見ると辛いものは印がついていた。そこで辛くないものを選んだのが今日の写真の食べ物である。
お店はよい雰囲気であった。アメリカなどによくある中国料理店の小汚さもなく,清潔感と,そしてちょっぴり高級感があった。店員は女性で,タイの民族衣装を着ていた。食事はおいしかったけれど,タイ料理についてはまったくわからないのでこれくらいのコメントしか書けない。
それより,私がとまどったのはライスであった。アラビアンナイトの壺のような入れ物にライスが入ってきて,料理より先にこれが運ばれて来た。それを自分で皿によそうのかよそってくれるのか,といったマナーがわからないのだった。そのままにして待っていると,店員が皿によそってくれた。このライス,食べ終わったら自分でお代わりをよそっていいものかどうか今でもわかりかねている。そうだ,今度弟が帰国したら聞いてみよう。
アラスカに行かなくちゃ⑤-2017夏アメリカ旅行記
●オーロラを見る夢はどんどんと遠くに●
宿泊先のチェックイを終えて,私はフェアバンクスのダウンタウンへ車で出かけた。
このとき私がアラスカに来た理由はふたつあった。
そのひとつはアメリカ合衆国50州制覇のけじめをつけるためであった。それまで50州を制覇したと公言していても,実際はアラスカはトランジットでアンカレッジの空港に降り立っただけだったからである。
ふたつめは夏でもオーロラが見られると知ったからであった。チェックインをするときまで,私はアラスカの地では当たり前にオーロラを見ることができると思っていた。しかし,B&Bでチェックインをしたとき,オーロラについて尋ねたらまったくもっていい返事が聞けなかった。オーロラ? それなあに? みたいな反応であった。私はその反応で落胆したのだった。それ以来,オーロラを見にきたと言うこと自体恥ずかしい気がしてきた。
しかし,オーロラが見られないのなら,この地で他にしたいことがない,というか,他に何があるのか全く調べていなかったので,3日間をどうやって過ごそうかと思った。
フェアバンクスのダウンタウンは閑散としていた。道路は広く駐車帯もあるから車なんてどこにでも停められるし,歩道を歩いている人もほどんどいなかった。ただし,年配の日本人らしき女性がふたり,地図を見ながら歩いているのを見つけてたときはびっくりした。いったい彼女たちは何をしにきたのだろうと思った。あれは幻想だったのだろうか?
少しだけ町を走り回ってから適当なところに車を停めてダウタウンを歩いてみたが,寂れた田舎町にすぎなかった。レストランもあるにはあったけれど,特に食べたいというものもなかった。土産物を買う気もないというのはハワイに行ったときと同様であった。しかも,行く前に私が予測していたような「日帰りオーロラツアー」なる看板を掲げた旅行社の1件も見つけられなかった。
そこで,ともかく,ビジターセンターがあるのでそこに行ってみることにした。
先に書いたオーロラの件だが,私は,フェアバンクスのダウンタウンにも,ハワイのように旅行者用の現地ツアーを扱うような店舗がどこにでもごろごろあって,そこでオーロラツアーを申し込んでそれに参加すればいいや,くらいに思っていたから,オーロラがどこで見られるか,ということすらまったく知らなかった。そこで,ビジターセンターに行けば手がかりくらいは掴めるかもしれないと思った。
ビジターセンターにも広い駐車場があって,私は車を停めてなかに入った。ビジターセンターは充実していて,アラスカに関する展示や,さまざまなパンフレットが並んでいた。私はまずフェアバンクスの見どころを教えてもらって地図も手に入れた。しかし,オーロラツアーのパンフレットもかろうじてあるにはあったのだが,実施時期が9月からということであった。私はすっかり落胆した。オーロラを見る夢はどんどん遠くなっていくのであった。
そんなこんなでビジターセンターの展示を見学をしていたら,雨が降ってきた。この時期のフェアバンクスは天気が悪く,これではオーロラどころではないということも行ってみてわかった。
私のテンションは限りなく低くなっていくのだった。
アラスカに行かなくちゃ④-2017夏アメリカ旅行記
●はじめてB&Bに泊まった。●
私が予約をしたのは「アラスカ・ヘリテッジ・ハウス」(Alaska Heritage House)という名前のB&B であった。ここを予約した理由は,単に安かったというだけであったが,結果的にとてもよい選択であった。ちなみに,B&Bとは主に英語圏の国における小規模な宿泊施設のことで,宿泊と朝食の提供を料金に含み低価格で利用できるもののことをいう。多くのB&Bは家族経営による小規模な宿泊施設である。
私は旅というのは現地行くための航空券と宿泊先,それに現地での移動手段さえあればあとはなんとかなると思っているので,旅行社でパック旅行を購入することはないが,一番の問題は宿泊先なのである。これまで私も数多くの失敗をしてきた。
以前は,現地で飛び込みでホテルを探した。その当時はマクドナルドなどにクーポンがあって,それを頼りにして当日の夕方に直接フロントに行ったものだが,ホテルが見つからず苦労したこともあった。そのうち,エクスぺディアなどで予約ができるようになったので,逆にホテルを見ないで予約するリスクが生れた。
おそらく今でも直接現地に着いてからホテルを探せばよいのだろうが,予約をしておいた方がホテル探しをしなくてよいので安心だからである。しかし,このエクスペディアの口コミというのもあまりあてにならないものなのである。それよりも,やはり,安いホテルにはどこもそれなりのリスクがある,と思った方がいい。
私は,今回予約したところがB&Bだという認識すらなかったが,事前にメールが来て,そのメールに,到着時にスタッフが誰もおらず玄関が締まっていたときに家に入るキーナンバーが書かれていた。
幸い私が到着したときはスタッフがいたので何の問題もなかったが,後でわかったことに,このスタッフというのは単なるバイトであってこのB&Bの経営者ではなく連日人が変わった。そして,朝になると,朝食を作ってくれる別のスタッフが来たが,その人たちも日替わりであった。そんなわけで,一応玄関にキーがあるにはあったがけっこう不用心で,だれでも自由に入ることもできるので,部屋のキーだけが支えであった。
私のあてがわれた部屋はとても狭くベッドと椅子だけで,ほとんど残りのスペースがなかったが,寝るだけなのでそれで充分であった。それよりも,部屋の調度品がとても素敵だった。
部屋にはバス・トイレがなく,これは部屋を出たところにあって,隣の部屋と共有であった。使うときだけ隣の部屋のキーをかけるのである。これもまた,それで実用上は十分であった。
建物には1階と2階があって,さらに地下にも部屋があった。私の部屋は1階であった。
1階の中央に大きな部屋があって,そこが食堂になっていた。
この家のは100年以上も前に作られた,いわば欧米のペンション,つまり「大邸宅」だった。要するにB&Bは朝食付きの「民泊」のようなものだが,こんな大邸宅に泊まれるというのもかななか貴重な体験であった。外には3台ほど車が駐車できるスペースがあったが,あたりの道路も路上駐車が可であった。また,このB&Bの付近は清楚な住宅街であったが,フェアバンクスのダウンタウンには徒歩でも行くことができるくらいの距離であった。
アラスカに行かなくちゃ③-2017夏アメリカ旅行記
●初体験の「B&B」●
いくらガイドブックを読もうとその場所を取り扱ったテレビ番組を見ようと,行ってみなければ本当のことはわからないのである。その結果,自分にとってとても過ごしやすいところだったり,憧れていたのに実際に行ってみるとそうでもないところだったり,あるいは,旅をしているときはさほどでなかったのに帰ってからしばらくして懐かしくなるところだったりと,場所によって異なる状況が生まれるのだが,私は自分でも行くまでわからなかったそうした不思議な感情が起きるのを一番楽しみにしている。
旅はあまりたくさんの予備知識をもたず,実際に行ってきたのちにその場所について詳しく調べてみてさらに知識が増して,その後に再び訪れる,というのが理想であろうと思う。それは旅に限らないことでもある。
本を読むという効用がよくいわれるが,文字によって得られた知識の危うさを説く人は少ない。しかし私は,文字による知識の危うさのほうを,近年はむしろ重視するようになった。このことはすでに「有明の月」としてこのプログに書いたことがあるが,私は学生のころからそうした文字による知識の危うさをうすうす感じていた。今はそれを確信をもって主張できる。「有明の月」とは,実際夜明けまで寝ないでいて明け方の月を見たという経験もないのに,「有明の月」をよんだ和歌の本当の気持ちは語れないといったことである。それと同様なのは,旧東海道を自分の足で歩いたこともないのに,古人の旅の苦しみはわからないとか,吉野ケ里遺跡の地に行ったこともないのに古代史を語れない,ということである。
「百聞は一見しかず」ともいう。
ゲームばかりやっている子供に眉をしかめる教師たちであっても,彼らが学校で教える学問が体験に基づいたものでなく,本の上で得た知識の受け売りだけであるなら,実はそれはゲームばかりをやっている子供と同類なのである。
さて,私は生まれてはじめてアラスカ州フェアバンクスの地に降り立って,空港でレンタカーを借りた。とりあえずフェアバンクスのダウンタウンに向かって走っていって,今日から3泊するホテルに行ってみることにした。
着陸する前に機内から見たアラスカはある種絶望的な大地だったが,空港を出て走り出した道路の両側に広がるこの風景こそがその絶望的な大地の生の姿であった。私は人混みがきらいだから,この種の雄大さは気持ちが落ちつく。さらに,フェアバンクスは小さな町だから,空港からわずかの距離でダウンタウンに到着できるのも好ましい。
ただし,ここでアラスカについて書いても,私には負い目がある。それは私がここでいくらアラスカについて語ろうと,それは恵まれた夏のアラスカでしかなく,おそらくはもっと過酷であろう冬のアラスカを知らないということである。これについて少しだけ言い訳をすれば,私はその後,冬のフィンランドに行ってマイナス20度を超える極寒を経験したから,冬のアラスカについてもほぼ同様の姿だろうと想像できることだけである。しかし,無知な旅人が冬にアラスカを訪れても,今回のように車を借りて雪の大地を駆け巡るようなリスクを冒すにはかなりの危険が伴うから,冬に行ったとしても,本当の冬のアラスカについて語る手段をもっていないことが悔しい。
空港からわずか数十分走っていくと,左手にフェアバンクスの小さな町が見えてきた。この町のダウンタウンは思った以上に小さく,歩いてまわれるほどであった。もし私がこの町に住んでいたとしたら,退屈するであろうか? それとも,この地の自然を友達として,毎日を過ごすであろうか? 逆に言えば,今の自分の日本での生活に退屈していないだろうか?
結局のところ,人が生きるというのは,自分が精神的に満ち足りることができるかということであって,物質的なものではないのだろう。
私の予約したホテルはフェアバンクスの町はずれの落ち着いた一角の古いマンション(邸宅)であった。ここはホテルではなくB&Bであった。私は以前からB&Bというものに泊まってみたいものだと思っていたのだが,期せずして,今回,それがかなったのだった。
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九州で日本人について考えた-吉野ケ里にて①
九州で日本人について考えた-吉野ケ里にて②
待ち出づるかな-「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」②
アラスカに行かなくちゃ②-2017夏アメリカ旅行記
●人の少なさが快適だった。●
このアラスカ旅行で私が最も印に残るのが,このフェアバンクスの空港に近づいたときの飛行機の機内から見た風景であった。
私はこの旅のあと,2018年2月に冬のフィンランドに行った。そのとき機内から雪に覆われた極北の大地を見たから,このときのアラスカ以上に雄大な風景をあとで見たことになるが,このときはまだそんなことは当然知らない。そして,この時点では,この悠久の大地こそがアラスカなのだ,と大いに感動した。もし冬にこれを見たら,おそらくこの地もまた真っ白な雪景色に覆われていて,さらに雄大なものであるに違いない。
いずれにしても,地球というのは,そして,自然というのはものすごいものである。こうした自然を知らない日本人が自然に対して敬意を払わないのもわかる気がするが,これではいけない。
やがて,機体はどんどん高度を下げていって,フェアバンクスの空港に着陸した。
私はこの旅を計画しはじめたころ,アンカレッジに降りてそこからフェアバンクスまでドライブして,テナリ(マッキンレー)を車窓から見ようと思っていた。しかし,計画を立てる時間がなかったことと,そうした旅程にしたときにさまざまな予約をするのが面倒だったこと,そして,とにかくアラスカに行くことができればそれで充分だと思ったこと,という安易さでフェアバンクスを往復するだけになってしまったことを,今にして少し後悔している。それは,アラスカというところは,簡単に行けそうで実はよほどの覚悟をしないと,再び行くことができるような場所でないからである。
若い人が旅をするときは,歳をとったら行くことが難しくなるような場所や,なかなか見ることが困難なことから先にした方がいいと思う。なかなか見られないというのはたとえばオーロラなどである。また,簡単に行ける場所というのは,ヨーロッパとかハワイといったように,日本から直行便で気軽に行くことができる場所のことであり,行くことが難しい場所というのは,アラスカのような,距離的に,あるいは時間的に遠い場所である。
着陸して到着ゲートに向けて飛行機が滑走路を走行しているときに機内からみたフェアバンクスの空港は,ものすごく広々としていた。アメリカ空軍の戦闘機がたくさん留まっていたのはこの空港が軍の空港を兼ねているからだろうが,それ以外はアメリカ本土の非常に混雑した空港とはまるで違っていて,ほとんど旅客機がいなかった。
アラスカ州はハワイ州ホノルルの空港のように,世界各国の航空会社の機体が勢ぞろいしているのとはまったく異なっていて,アラスカ航空とあと2~3社のデザインの異なる機体が見られるだけであった。それくらいしか人の行き来しかないということである。
ここは国内線だから,飛行機から出ると入国審査もなく,そのまま外に出ることができる。私は,これくらいの旅ならいつもは機内持ち込み荷物だけなのだが,今回は皆既日食を見にきたその帰りだから,そのための機材を入れたもうひとつの大きなカバンを持っていたのでそれを預けたから,バゲッジクレイムでそれが出てくるのを待つ必要があった。しかし,いつもは重宝する優先的に先に荷物が出てくるプレイオリティの黄色いタグがこのときはまったく不必要なほど,出てきた荷物は少なかった。
空港のビルにもまた,ほとんど人がいなかったから,空港内にあったハーツのレンタカーカウンタで予約しておいた車はすぐに借りることができた。空港から出た場所にレンタカーの駐車場があって,車はすぐに見つかった。アラスカとはいえ,夏なので寒いということもなかったし,そしてまたこの人の少なさが私にはとても快適であった。それにしても,アラスカの大地を踏みたいというだけの動機でやって来たこのフェアバンクスだったので,そこがどういうところなのか,不勉強な私には,このときはまるで予想ができなかった。
アラスカに行かなくちゃ①-2017夏アメリカ旅行記
●アラスカはどんなところだろう?●
☆11日目 2017年8月26日(土)
「2017夏アメリカ旅行記」の続きである。
この旅の目的は皆既日食を見ることで,8月16日に日本を出発した。シアトルで降り立ちアイダホ州に移動し,8月21日に快晴のアイダホ州ワイザーで皆既日食を見た。その前後は,シアトルで友人のEさんとメジャーリーグを見たり,フットボールのプレシーズンマッチを楽しんだりしたが,帰国を遅らせてアラスカに行った。
今回からは,その,シアトルから4日間の日程で出かけたアラスカ旅行について書く。
この当時,私が目指していたのはアメリカ合衆国の50州にすべて行くということであった。そんないわば「アメリカ合衆国50州制覇」という「熱病」に侵されていた私は,アメリカ以外にはまったく関心がなかった。そのことは今思うと滑稽でさえある。
世界にはアメリカ合衆国だけでなく,行く価値のある場所がたくさんあるからだ。しかし,今にして,そんなことをして本当によかったと思うのである。そうした旅を通して,私はずいぶんといろんな経験ができたし,今,アメリカ以外の国々を旅行するのにとても役立っているからだ。
「アメリカ合衆国50州制覇達成」はこのときの旅の前にすでに達成していたが,私には負い目があった。それは,50州を制覇したとはいっても,アラスカに行ったのはアンカレッジでトランジットをするために空港に降りたというだけで,ちゃんとアラスカ州を観光したことがなかったからなのである。そこで,今回シアトルに行ったついでに日本に帰るのを数日遅らせて,アラスカまで足を延ばしてみたというわけだった。
訪れたアラスカは,何度でも行ってみたいと思うところであった。しかし,日本からアラスカに行くのはかなり不便なのである。
一般に,アラスカ観光をする日本人の目的は,オーロラと,もうひとつはマウントテナリ(マッキンレー)であろう。そこで,そうしたツアーもたくさんあって,ツアーで行くのならチャーター便も出ているから,それほど不便でもなかろう。しかし,ツアーで行くとなるとかなり高価であるし,私のように個人で旅行をするとなると,まず日本からシアトルに行ってそこからアラスカに行くことになるから,ムダに遠い。
さらに,アラスカに行って得られる感動と似たものは,フィンランド,ノルウェー,カナダなどでも味わえるし,そちらに行くほうが便利だということを,私はその後に知ってしまったから,わざわざアラスカに行く気もなくなってきた。そこで,このとき思い切ってアラスカに行ってみて本当によかったと思うのだ。
8月26日,シアトル・タコマ空港から飛びたった私は,目的地のアラスカ州の中央にある町フェアバンクスをめざして,アップグレードされたデルタ航空のファーストクラスの窓際の座席で外を眺めて過ごしていた。
いつものように,シアトル・タコマ空港は混み合っていて,飛行機は長い時間離陸の順番待ちをしたのち,やっと飛び立ったのだった。離陸後,窓から見えるシアトルの街並みはいつものように美しかった。
アメリカの国内線ではファートクラスだけ食事が出る。私は,かつて搭乗の直前になってファーストクラスにアップグレードになって,すでに食事をすませてから乗り込んだので困ってしまったことがあったが,今回は,これも織り込み済みであった。
いつものように食事の前に飲み物の注文が来た。隣の女性がなにか凝ったものを注文していたので,私は興味をもって「Me,too.」と言ったら,こじゃれたカクテルが運ばれてきて困ってしまった。到着後私は車に乗らななければならないからアルコールは御免である。しかし,それは隣の女性も同じだろう。
さて,順調に飛行を続けて,次第に目的地に近づいてきた。私の興味ははじめて見るアラスカの大地であった。いったいどんな風景を見ることができるのであろうか? 私は期待で胸が一杯であった。窓から景色を凝視していた私が見つけたのは,虹のように丸い影のなかに,私の乗っている飛行機の機体の影が地上に光る姿であった。
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アメリカで再びキャンプをしよう①-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう②-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう③-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう④-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう④-2017夏アメリカ旅行記
●日本人の思考と能力・発想の限界●
平坦な道路を走っていたが,次第に道路は標高を高くして,山岳地帯にさしかかった。
実際は全く違う景色なのだが,どういうわけか,この山岳道路を走っていると,私は四国の高知県の山間を走っていたときのことを思い出した。どうしてだろう? それとともに,こちらのほうはとても似た景色なのだが,オーストラリアでブリスベンからクイーンズランド州の山岳地帯を抜けてバランディーン(Ballandean)に向かって走っていたときのことも思い出した。
いずれにせよ,国道95は非常に景色もよく素晴らしい道路であった。また,写真でもわかるように,ほとんど車が通っていなかった。
今日の1番目の写真にある道路が山に向かって伸びたところが何かおわかりになるだろうか?
この支線は,坂道を下るときにブレーキの利かなくなったコンボイが停止するための避難道路である。この険しい山岳道路にはこうした場所がいくつか存在したのが興味深いところであった。
アメリカでもオーストラリアでも同じであったが(日本はまったく違うが)こうした道路はいくら山道とはいえ道幅が広いから普通乗用車で走っていてもさほど実感がないのだが,実際はかなりの勾配である。したがって,コンボイは坂を登るのが大変で,スピードがまったく出ない。こんな車がたくさん走っていると渋滞して大変である。その逆に,坂を下るときは地球が味方するから,今度はスピードが出過ぎると止まらなくなってしまうのでる。
そのための避難道路がつくられているというわけなのである。
アメリカでドライブをするのは日本でドライブをするのに比べて非常に快適であるが,アメリカの自然がとても厳しいということをいつも頭に入れておかないといけない。突然の豪雨とか積雪である。雨が降れば日本では考えられないほどの雨量であるし,たとえ夏でもこうした山岳地帯では温度が異常に低くなることもある。
それとともに,野生の動物にも気をつける必要がある。今では日本でもクマやシカが出没して様々な問題になっているが,それ以上にアメリカの道路にはさまざまな巨大な動物が出没するのである。
日本では車というのは早く走ってはいけないものという「車性悪説」があるから,やたらと走りにくくすることに道路行政は力を入れているように感じる。そういう対策を講じるから逆に夜間や雨天では道路が光り,それによって道路に引かれたラインも認識不可能になりますます危険になる。
もし,アメリカでこんなバカげた道路整備をしたら危険極まりないのである。アメリカでは最悪の条件のときにもっとも安全に走行できるように道路整備がされている。
これもまた,「日本人の思考と能力」,そして「発想の限界」だと私はいつも思うのである。
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アメリカで再びキャンプをしよう③-2017夏アメリカ旅行記
●とても美しい夜明けの道路を走って●
皆既日食を見るためにアイダホ州ワイザーで2泊3日のキャンプをしたことはすでに書いたが,私はこのキャンプをするために前日に宿泊をしていたアイダホ州のルイストンからワイザーまで,今日の1番目の地図にあるルートを車で走った。
そこで,今回のキャンプをまとめるために,ルイストンからワイザーまでの行程を書いておこう。
私は8月19日の朝,アイダホ州の西の境にあるスネーク川畔の美しい町ルイストンのホテルを早朝出発した。まだ夜明け前で東の空には2日後に大役を控えた月齢27の月と金星が美しく輝いていた。
ルイストンは(Lewiston)の人口はアイダホ州の北部地域ではコー・ダリーンに次いで第2位で約3万人である。スネーク川とクリアウォーター川の合流点にある。スネーク川とコロンビア川にダムと閘門があるためにルイストンには外洋船で来ることができる。ルイストン港はアイダホ州で唯一の海港であり,アメリカ西海岸では最も内陸かつ東にあるという特徴がある。主要産業は農業,製紙,および木工製品であり,また軽工業もある。
1805年ルイス・クラーク探検隊がこの地域を訪れた。そのころのルイストンにはネズ・パース族インディアンの集落があった。ルイスとクラークは1806年の太平洋からの帰り道でもこの地域を通過した。
ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)についてはすでに書いたことがあるが,陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられ太平洋へ陸路での探検をして帰還した白人アメリカ人で最初の探検隊である。
ところで,ルイストンはこのルイスにちなんでつけられているが,ほかにもワシントン,エドモントンなど,語尾に「トン」とつく地名がたくさんある。この「トン」が何か? 私はずっと疑問で,周りにいたアメリカ人に聞いてまわったところ,それは「タウン」のことだということがようやくわかった。
町はその北東にあるピアースの近くで1860年に始まったゴールドラッシュの流れで,1861年に設立された。この町はとても美しく,モンタナ州,アイダホ州,ワシントン州につながる山岳地帯にはこのような町がたくさんある。アメリカで私が最も好きな場所である。
この町を通る国道95は1975年から1979年に建設された新しい4車線の道で,東側は直線に近く急な下り坂でその後に南西に転じていて,ルイストンとクラークストンおよび周辺地域のすばらしい景観を楽しむことができるところである。
私は夜明けの美しい景色を眺めながら国道95を南下していった。距離にして225マイルだから約360キロということになる。この距離はちょうど名古屋・東京間くらいのものである。所要時間は約4時間ということであったが,インターステイツでないので,渋滞や工事があればどのくらいかかるか予想がつかなかった。なにせ,すでにこの日,オレゴン州は皆既日食を見るための大渋滞がはじまっているという,実際は誤報に近いものであったが,そうしたニュースが流れていたからである。
しかし,実際走っていて,こんなところが渋滞する理由がないと思うようになった。なにせ,近くに大きな都会がない。これから行くワイザーだって,そこに行くにはアイダホ州の州都ボイシーくらいしか都会はなく,ボイシーから皆既日食を見に行くなら何も北上しなくても東に向かってアイダホフォールズのほうへ行くだろうから,ここに集まる理由がないのである。
そして,実際もそうであった。
ほとんど車も走っていないので順調に進み,走行時間の割りに距離が稼げるのでガソリンがなくなってきた。
こうなると逆に田舎のこと,早朝に営業しているガソリンスタンドがない。というよりも,国道95を走っていても町すらないのである。国道がバイパス化している町を見つけたので(その町の名前はおそらくカルデサック=Culdesacだった)国道を降りて町のダウンタウンに向かった。しかし,そこもまた,町というよりも農村地帯であった。やっと1件のガソリンスタンドを見つけたが店舗は閉まっていた。
ガソリンは入れられるようになっていたが,問題は給油機のカード読み取り機では日本で発行されたクレジットカードが反応しないことが多いということで,私は近頃はこうした機械にクレジットカードを読み取らせることはやめて直接店舗の中のレジでお金を払うようにしていたから,これではだめだとがっかりした。しかし試しに機械にクレジットカードを読ませてみると,何の問題もなく反応し,無事にガソリンを入れることができたのだった。
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アメリカで再びキャンプをしよう①-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう②-2017夏アメリカ旅行記