しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:N響定期公演を聴く

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【Summary】
Shostakovich's Symphony No. 7, composed during WWII, reflects the terror and oppression of war rather than a simple anti-fascist theme. Its evocative structure and emotional depth resonate deeply amid current global tensions, offering a mix of darkness, absurdity, resignation, and hope.

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 以前,シャルル・デュトワさんがNHK交響楽団の音楽監督だったころに盛んにショスタコーヴィチの曲をとりあげていたので,今回のプログラムである交響曲第7番「レニングラード」も聴いたことがあるように思うのですが,私は,この曲を普段録音でも聴くことがないし,近年は演奏会でも取り上げられることが少ないから,はじめて聴くような気持ちでした。
 第2次世界大戦の異常な状況下で作曲,初演されたこの交響曲は,当時のソビエト連邦のレニングラードの開放を賛美するような内容ではありません。作曲以来,反ファシズム闘争の象徴になっていたのですが,歓迎されたわけでもなく,前衛主義が隆盛した冷戦時代になって,この作品の評価は急落しました。しかし,近年の世界情勢を受けてその真価が見直されているようです。
 ショスタコーヴィチはこう語っていました。
  ・・・・・・
 (第7番の意味は)もちろんファシズムさ。でも真の音楽は,決してある主題に文字通りに結び付けられることは出来ない。国家社会主義は唯一のファシズムの形態ではない。この音楽はあらゆる形のテロル,隷属,精神の束縛について語っているんだ。
  ・・・・・・

 第1楽章の提示部では,生命力に満ちた力強い第1主題「人間の主題」ののち,第2主題「平和な生活の主題」で極めて澄み渡った美しい主題が続きます。ところが,第2主題の高音のモチーフが現れて消えてゆくと,その静けさの中から,小太鼓のリズムが小さく小さく奏でられはじめ,やがて,象徴的になります。これが「戦争の主題」といわれる展開部ですが,まるで軍隊の行進で,ラヴェルの「ボレロ」のようです。「戦争の主題」は,小太鼓のリズムにのって楽器を変えながら12回繰り返されます。そして,小太鼓が途切れた時点で第1主題がもどってくると音楽が静かになり,再現部である戦争の犠牲者へのレクイエムの音楽が奏でられます。この楽章だけで30分あります。
 第2楽章は複合3部形式で,ショスタコーヴィチが「回想」と名づけたスケルツォです。こうした楽章での指揮者のトゥガン・ソヒエフさんは魅力的です。とにかくリズムがいい。
 第3楽章は美しい緩徐楽章で,ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」第3楽章に似たコラールとバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を様式化した主題が現れ,唐突にはじまる中間部で鞭打たれながら行進するような激しい音楽は,戦争の痛みを喚起します。そして,アタッカで途切れずに第4楽章に続きます。
 第4楽章では,冒頭で奏される2つの主題がサラバンド風のエピソードを挟みながら多彩に展開され,最後はバンダも加わって壮大な第1楽章の第1主題の循環を導き出します。このときの盛り上げ方は圧巻でした。

 交響曲第7番「レニングラード」非常に長いのですが,聴きどころ満載で,充実感のあふれる曲でした。現在のきな臭い社会情勢の中で,ショスタコービッチが聴かれているというのは,人々が,その音楽の現実を直視する暗さの中で,ある種の滑稽さとあきらめがあるのにもかかわらず,そこに希望を感じることができるからなのでしょうか。聴いている我々に生きるということの意味を改めて問い直してくれます。
 ソビエトの連邦の圧政の中で苦しみながら作曲を続けたショスタコービッチの音楽が,果たして,現在のロシアでも聴かれているのだろうか? と思ったことでした。それとともに,トゥガン・ソヒエフさんの母国への想いを感じて,悲しくなりました。はやく平和が訪れますように。
 貴重な時間でした。

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【Summary】
On January 18, 2025, I attended NHK Symphony Orchestra's 2028th subscription concert conducted by Tugan Sokhiev, featuring Shostakovich's Symphony No. 7 "Leningrad." The performance was extraordinary, with a full audience, reflecting Sokhiev's immense popularity. Notable incidents included a violinist appearing with crutches and a cello string breaking mid-performance.

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 2025年1月18日,トゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)指揮のNHK交響楽団第2028回定期公演 Aプログラムを聴きました。-ショスタコーヴィチ没後50年-として,曲目は交響曲第7番「レニングラード」(Leningrad)でした。
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 第2次世界大戦のドイツ。ソビエト連邦戦で,レニングラード攻防戦は最大の激戦といわれます。
 1941年,ソビエト連邦への軍事進攻を開始したナチス・ドイツは,レニングラードを完全に包囲し,約900日後に解放されるまでに,64万人の餓死者を含む80万人の犠牲者が出たといわれます。
 この間に着手されたこの交響曲は,生まれ故郷であるレニングラードに捧(ささ)げられ,封鎖下のレニングラードでの演奏は,極限状態に置かれた市民に生きる勇気と尊厳を思い起こさせました。そして,この交響曲と作曲者は,全世界的な反ファシズム闘争の象徴になりました。
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 2022年,祖国ロシアのウクライナ侵攻に胸を痛めたトゥガン・ソヒエフさんは,モスクワ・ボリショイ劇場とトゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団の音楽監督を辞任しました。そして,その年のザルツブルク復活祭音楽祭へ出演し,ショスタコーヴィチが,「ナチズム」ではなく「ファシズム」への戦いに捧げると言明した「レニングラード」を,ドレスデン国立管弦楽団と演奏しました。
 この日の演奏会は演奏時間約73分のこの1曲でした。
 現在,ロシアの指揮者でナンバーワンと高く評価されているのが,トゥガン・ソヒエフさんで,実力と個性は他の指揮者を圧倒しています。
 私は,トゥガン・ソヒエフさんの指揮するのが大好きで,いつの楽しみにしているのですが,これまで聴いた中で最高だったのが,ベートーヴェンの交響曲第4番でした。今回の「レニングラード」をどのように指揮するか,とても興味がありました。

 ショスタコーヴィチの「レニングラード」でどれだけ観客が集まるのか? と思っていたのですが,会場は満員でした。ひとえに,トゥガン・ソヒエフさんの人気でしょう。トゥガン・ソヒエフさんはNHK交響楽団を愛しています。私は,首席指揮者はファビオ・ルイージさんよりトゥガン・ソヒエフさんのほうがいいように思うのですけれど…。
 内容は次回書くとして,この日は第2ヴァイオリンの島田慶子さんが松葉づえをつきながらステージに現れてびっくりしました。なんでも右足を痛めたとかいう話ですが,ご回復をお祈りします。また,演奏中,第3楽章の途中で,チェロ次席の西山健一さんの弦が切れてしまい,後ろで弾いていた奏者とチェロを交換,そして,後ろの奏者はステージから消えて,弦を張りなおしてくる,というハプニングが見られました。生演奏ならでは,なのですが,先日はビオラの弦が切れるのを見ましたが,チェロは私ははじめてでした。
 とにかくそんなことは超越して,この日の演奏会はすばらしいの一言でした。

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【Summary】
On November 30, 2024, I attended the NHK Symphony Orchestra's December A Program, featuring Wagner’s Prelude and Liebestod from Tristan und Isolde, R. Strauss’s songs, and Schoenberg’s symphonic poem Pelleas und Melisande. While I enjoyed Wagner, Strauss's songs didn't resonate with me. Schoenberg’s complex work, with its vivid imagery and connections to Wagner, remains challenging for me to appreciate despite its innovative qualities.

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 もう11月も最終日なのに暖かな2024年11月30日,NHK交響楽団12月Aプログラムを聴きにいきました。
 この日の曲目は,-シェーンベルク生誕150年- と題して,ワーグナー(Wagner)の楽劇「トリスタンとイゾルデ」(Tristan und Isolde)から「前奏曲と愛の死」(Prelude and Liebestod), R・シュトラウス(R.Strauss)の「ばらの花輪」「なつかしいおもかげ」「森の喜び」「心安らかに」「あすの朝」,そして,シェーンベルク(Schönberg)の交響詩「ペレアスとメリザンド」(Pelleas und Melisande)でした。
 R・シュトラウスを歌ったクリスティアーネ・カルク(Christiane Karg)さんはドイツのバイエルン州フォイヒトヴァンゲン生まれで,リリックな響きと豊かな表現力でR・ シュトラウス独特の歌曲の世界を描き出すというのです。

 ワーグナーの「前奏曲と愛の死」は好きな曲です。次の,R・シュトラウスの歌曲は,いつも書いているように,私は,R・シュトラウスが苦手なので,だめですが,歌曲は何とかいけます。そして,最後に,今回の目玉であるシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」は,この曲は40分を越える大曲で,おそらくこれまでにも聴いたことがあると思うのですが,予備知識がなければさっぱりわからないものです。せめて,質のよいドラマのバックミュージックとして流してもらえば,私でもそのよさが理解できると思うのですが,悔しい限りです。そもそも,物語を音楽で表そうというのが無理な相談だと,浅はかな私は感じるのです。
 晩秋の東京の黄葉を味わいつつ,NHKホールに向かいました。今回は,私には感想すら書くことが無理なので,岡田暁生さんの解説を引用します。
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 このプログラムは,後期ロマン派の爛熟プロセスを辿るもので,ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」は半音階と管弦楽法による深層心理表現とエロスの解放の点で20世紀音楽の偉大な起点であり,それがR・シュトラウスに継がれ,やがて,シェーンベルクの無調に至るのですが,「ペレアスとメリザンド」はシェーンベルクがぎりぎりで調性に踏みとどまっていた最後の作品のひとつであることから,後期ロマン派音楽の終点といえる。
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だそうです。

 ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は,シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」と同じく三角関係を軸にした悲恋の物語です。そこで,「ペレアスとメリザンド」において,半音階で上下行する「メリザンドの主題」や広い音域の跳躍を伴う「運命の同機」は,「トリスタンの動機」に似ているし,次第に盛り上がっていく愛の場面は「トリスタンとイゾルデ」の〈愛の二重唱〉を思わせるということです。
 また,今回の曲目でR・シュトラウスを挟んだのは,シェーンベルクに「ペレアスとメリザンド」の作品化を勧めたのがR・シュトラウスだった,というのが理由だそうです。ただし,この曲は,前後の悲劇的な物語とは対照的に,男女のロマンティックな愛,満ち足りた喜びを描いたものだそうです。

 最後に
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 ひとたび「難解」という先入観から逃れることができれば,きらめく指環や,塔から垂れるメリザンドの髪,トロンボーンのグリッサンドによるおどろおどろしい地下の洞穴など,個々のシーンの描写は極めて具体的でわかりやすく,まるで冒険をテーマとしたゲーム音楽の先駆けとも言えるような,強いイメージ喚起力を備えている。
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と,解説にあるのですが,そんな魅力がわかるようになってみたいものだと思いました。わかりやすい解説などないものでしょうか?
 定期公演出なければ,絶対に聴きにいかない曲。これもまた,よしとしましょう。客席もけっこう空席がめだちました。しかしまあ,いつも思うのですが,演奏者はこういう難曲を演奏するのは楽しいのかなあ?

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【Summary】
I attended the NHK Symphony Orchestra's A Program on the first day in October 2024, conducted by 97-year-old Herbert Blomstedt. Despite his age, his profound musical leadership captivated the audience. On October 20, NHK BS broadcasted Blomstedt's remarkable performance of Bruckner's Symphony No. 9, which moved me deeply to tears.

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 今回私が聴いたのは,NHK交響楽団2024年10月のAプログラム1日目でした。もちろん満席でした。
 私の左隣は結構お歳を召された男性でした。少しお話をしたのですが,とても詳しくて,若いころは,楽器をやっていたようでした。
 やがて,開演時間になりました。いつもはじめにステージに姿を見せるのは,ファゴットの水谷上総さんとフルートの神田寛明さん。それに続いて,続々と入場するのですが,今回に限っては,第1ヴァイオリンのメンバーだけが入ってきません。それは,97歳の巨匠ブロムシュテットさんが,第1ヴァイオリンのメンバーより先に,この日のコンサートマスター川崎陽介さんの介添えでゆっくりゆっくりと入ってきたからです。すでにこの時点でものすごい拍手でした。この日は,その姿が見られるだけで,この会場に足を運んできた甲斐があったというものです。
 そして,それに続いて,第1ヴァイオリンのメンバーが入場しました。
 マエストロは,指揮台に上がるのもたいへんそうで,少し心配しました。この時点でもし転んでもしたら大変です。
 やがて,チューニングのあと,静かに曲がはじまりました。

 はじめはどうなるかと思ったのですが,マエストロは,手ぶりも指示もしっかりしていたし,やがて,そんなことも,また,マエストロが座っていることも忘れて,音楽にのめりこむことができました。不思議なもので,音楽は,それを指揮する人が偉大であればあるほど,単に音を奏でる以上の生命が宿るのです。
 途中の休憩をはさみ,プログラムの2曲がすべてが終了しました。
 マエストロが静かに指揮台から降りて,そのままステージから姿を消しました。
 いつものコンサートのようなカーテンコールはできないのです。しかし,川崎陽介さんの介添えで,2度ほどゆっくりとステージに登場したとき,場内は最高潮となりました。
 今回の「神が宿った」コンサートは,演奏について,何かをいうという次元を超えたもので,その時間をマエストロと同じ空間で共有できただけで,そのすべてが満ち足りたものになりました。
 来年の10月もまた,プログラムに名前があります。どうかお元気で,また,その姿を拝見できるのを楽しみにしています。

 ところで,翌10月20日の深夜,NHKBSで
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 2度の怪我からの復帰を果たし,依然として音楽に対して真摯な情熱を傾ける現役最長老指揮者のヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)が,2024年7月11日に97歳の誕生日を迎え,オルガン奏者だったブルックナー所縁の聖フローリアン修道院付属教会で,バンベルク交響楽団を指揮してブルックナーの交響曲第9番を演奏しました。
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という番組が放送されました。
 まるで神が乗り移ったかのようなそのすばらしい演奏に,私は泣けて泣けて仕方がありませんでした。


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【Summary】
I attended the 2020th NHK Symphony Orchestra concert on October 19, 2024, conducted by 97-year-old Herbert Blomstedt. The program featured Honegger's Symphony No. 3 "Liturgique" and Brahms' Symphony No. 4. Honegger's work, composed after World War II, explores themes of suffering, faith, and hope, while Brahms’ 4th symphony shares a similar message of finding joy in hardship, reflecting Blomstedt's deep faith. This concert was a profound experience of prayer through music.

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  2024年10月19日,第2020回NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きました。
 曲目は,オネゲル(Arthur Honegger)の交響曲第3番「典礼風」 (Symphonie Liturgique) とブラームスの交響曲第4番でした。このプログラムは,コロナ禍で中止となった2020年10月に行われるはずだった1950回定期公演Bプログラムと同じものです。
 ということですが,今回の演奏会は,指揮者が97歳となったヘルベルト・ブロムシュテットさんである,ということだけでも,歴史的なものでした。ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,一昨年来日されたときは,マーラーの交響曲第9番などを指揮し,私はそれを聴いたのですが,昨年は,体調不良からドクターストップがかかって来日できなかったので,今年の来日も不安視されていました。しかし,元気な姿を見せました。
 とはいえ,一昨年に比べたら,やはり,2年の月日は大きくて,歩くのがやっと。指揮台に上るのもたいへん,という状態でした。しかし,「存在そのものが放つオーラでオーケストラをまとめ,唯一無二の演奏を生み出す」巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんの指揮する演奏会に立ち会える,というだけでも,貴重な体験となりました。

 交響曲を5曲作曲したオネゲルは,1892年に生まれ,1955年に亡くなったスイスとフランスの二重国籍をもち,主にフランスで活躍した作曲家です。
 父はコーヒーの輸入商社の支配人を務めていた人物で,母と同じく音楽愛好家でした。教会のオルガニストを経て,チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(Tonhalle Orchester Zürich)の創設者フリードリヒ・ヘーガー(Friedrich Hegar)に勧められて作曲家を志しました。
 交響曲第3番「典礼風」は,プロ・ヘルヴェティア財団からの委嘱を受け,第2次世界大戦が終結した1945年から1946年にかけて作曲されました。「典礼風」は交響曲の宗教的な性格を表すために命名されたもので,3つの楽章には,死者のためのミサ(レクイエム)と詩篇の中から取られた句がタイトルとしてつけられています。
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●第1楽章「怒りの日」(Dies irae )
 神の怒りに直面した人間の恐れを表す楽章で,オーケストラは「全てを一掃する絶対的な激怒した竜巻」「力の爆発と全てを破壊する憎悪」を表現しています。
●第2楽章「深き淵より」(De profundis clamavi )
 神に見捨てられた人々の苦しみの瞑想,祈りを表現する,霊感に満ちた深遠なアダージョ楽章です。終結部分で「鳥の主題」がフルートの装飾的なソロに変容し,悲劇の中にあって平和への約束を象徴するオリーブの枝をくわえた鳩です。
●第3楽章「我らに平和を」(Dona nobis pacem )
 文明がもたらした「集団的な愚かさの台頭」と「隷属への人の絶え間ない進行のさま」を表しています。バスクラリネットによる「馬鹿げた主題」の行進は進み,ホルンの主題「被害者の反抗意識と暴動」,半音階で下降する木管楽器の動機,弦楽器によるエスプレッシーヴォの主題などが加わって次第に盛り上がり,不協和音によるクライマックスに至ります。これが静まると,人類の平和への願いを表す主題が奏でられ,「鳥の主題」を回想し静かに曲を閉じます。
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 ChatGPTはつぎのように説明します。
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 オネゲルの交響曲第3番「典礼風」は,第2次世界大戦後の荒廃と人間の苦しみを反映しつつ,最終的には平和と希望への祈りを表現しています。
 この作品は,戦争による破壊や人間の恐れ,そして苦悩を描きながらも,そこからの再生や癒し,平和への希求というメッセージを人類に伝えようとしています。
 第1楽章「怒りの日」は,神の怒りと戦争の恐怖を象徴し,人類の罪や破壊の衝動に向き合う姿を描きます。第2楽章「深き淵より」は,苦しみと祈りの中で救いを求める人々の姿を静かに表現しつつm悲劇の中にも希望があることを示唆します。第3楽章「我らに平和を」では,暴力と愚かさの中にあっても,人間の平和への願いが強く描かれ,最終的には静かな祈りとして曲を閉じます。
 オネゲルは,戦争の悲劇を経て,絶望の中でも平和と希望を見出そうとする強いメッセージをこの交響曲に込めており,特に,人類が戦争の教訓から学び,平和を追求する必要性を強調しています。
  ・・・・・・
 オネゲルの交響曲第3番「典礼風」ははじめて聴きましたが,まだ聴きこんでいない私にはそのよさがわかったとはいい難いものでした。ブロムシュテットさんもあまり指揮を経験した曲ではないようで,スコアをめくるのが精いっぱい,という感じを受けました。

 それに続くのが,私の大好きなブラームスの交響曲第4番でした。私はこれで救われました。
 ブロムシュテットさんも暗譜で,オネゲルの交響曲第3番「典礼風」とは打って変わって,大きく両腕を振り上げたり,細かな指示を出したり,座っているのを忘れるほどの熱演でした。
 第4楽章パッサカリアの主題の元になったコラールの歌詞は「苦難に満ちた私の日々を,神は喜びに変えてくださる」というもので,ここに,オネゲル作品との共通性があって「それこそが揺るぎない信仰とともに生きるブロムシュテットのメッセージを表している」とプログラムの解説にありました。
 今回は祈りの演奏会でした。

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 2024年9月14日。9月からはじまった2024年度のNHK交響楽団第2016回定期公演Aプログラムを聴きました。曲目は,「ブルックナー生誕200年」ということで,ファビオ・ルイージさん指揮するブルックナーの交響曲第8番の第1稿でした。
 このところ,マーラーの交響曲を聴く機会が多かったのですが,うって変わって,これからはブルックナー三昧です。ブルックナーの交響曲は,演奏機会の多い第3番以降では,第4番は少し未熟で,第9番は未完。したがって,第8番がもっとも充実したもので,最高傑作だと思うのですが,私が好むのは,まず第4番,次に第9番,それについで,第8番です。また,第7番は以前書いたことがあるのですが,第4楽章をやめて,第2楽章と第3楽章を入れ替えれば,聴く気になります。第3番は粗削りなところがあり,第5番は異色。第6番は地味で,聴いてみれはいい曲だし,よく聴くのですが,どんな曲かと突然問われても浮かびません。

  ・・・・・・
 ブルックナーの交響曲第8番は,1887年63歳のときに第1稿が完成された最も長大な交響曲です。指揮者ヘルマン・レヴィ(Hermann Levi)が「演奏不可能だ」と言ったことから ブルックナーは全面改訂を決意し,1890年に第2稿となりました。現在の演奏はほとんどこの稿を採用しています。
 また,出版の経緯から,この曲は多くの版があります。
 ブルックナーの弟子ヨーゼフ・シャルク(Joseph Schalk)が第2稿に手をいれたものが「初版」(あるいは「改訂版」)といわれるものです。また,1939年にローベルト・ハース(Robert Haas)によって第2稿を基にした「ハース版」(あるいは「原典版」)といわれるものが出版されました。その後,レオポルト・ノヴァーク(Leopold Nowak)によって,第2稿に基づく「ノヴァーク版第2稿」と第1稿に基づく「ノヴァーク版第1稿」が出版されました。
 「ハース版」と「ノヴァーク版第2稿」は,第3楽章と第4楽章に多くの相違点があります。それは,ブルックナーが第1稿から第2稿に改訂する際に「×」で消された箇所をハースは復活させ,ノヴァークはすべてカットしたからです。
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 交響曲第8番第2稿は,4楽章すべてがとても充実していてすばらしいのですが,特に,とても美しい第3楽章ともっともブルックナーらしいといわれる第4楽章が特筆すべきものです。
 第3楽章では,コーダに入る前の数小節で弦楽5部だけの和音の連続があり,そこに「天上の」ハープが絡まって4オクターブを越えるアルベッジョが聴こえ,そのあとに音楽が突如沈黙が訪れたあと「こころをこめて,優しく」(recht innig, sanft)で曲がはじまる部分は感動的です。
 また,第4楽章では,変ホ短調の主題が一貫したリズムで続いたあと,長い休止があって,その後,音楽は嬰ハ短調に変わり「荘厳でこころのこもった」(Feierlich, inning)主題を響かせるのです。
 では,第1稿ではどうでしょうか?

 9月6日に,東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第372回定期演奏会において,高関健さんの指揮でブルックナー交響曲第8番の第1稿(新全集版ホークショー(Paul Hawkshaw)校訂)を演奏したそうです。第1稿での演奏が流行っているのかな?
 第1稿と第2稿の違いは,聴いてみるとよくわかります。
 とにかく,第1稿では,聴かせどころで,つねに裏切られるのです。だから,聴いていてまったく楽しくありません。いよいよ来るぞ来るぞ! という箇所で来ないどころか,別のよくわからぬ旋律が流れてくるのだから,つねに,ドキドキハラハラ,そしてがっかりの繰り返しでした。
 我々は第2稿を聴きなれているからそう思うのであって,もし,第1稿しか存在していなかったら,それはそれで聴いていたという人もいますが,私はそうは思いません。第1稿だけだったら,傑作とは評価されなかったに違いないです。それでも,第1楽章と第2楽章に比べれば,第3楽章と第4楽章はそれほど違いがなかったし,特に,第4楽章は,盛り上がるところは若干変だったけれど,まあ,期待通りに盛り上がったから,何とか聴きとおせました。
 それにしても,はじまる前から「ブラボー」と叫ぶ観客がいたり,曲の終わりには大量の拍手のフライングが起きたり,演奏は,不慣れな曲であることも手伝ってか管楽器がやたらと目立って聴こえるし,この暑さで私はすべてがダレダレでした。
 ということで,一度は「お勉強」。めずらしい第1稿を聴くことができたということでよしとしましょう。でも,こんなのブルックナーじゃない。ブルックナー嫌いになりそう…,と感じました。家に帰ったら,第2稿を聴いて,お口直し,いや,お耳直し。聴き終えたあとのこころのむやむやを消し去ってしまいたい。

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 2024年6月8日,NHK交響楽団2024年6月Aプログラムを聴きました。
 毎年,6月の定期公演は,私にはなじみのない曲であることが多いのですが,今回は,とりわけ,全曲スクリャービンと,私にはまったく縁遠いもので,すべてはじめて聴く曲でした。スクリャービン(Aleksandr Nikolaevich Skryabin)は,1872年に生まれ,1915年に亡くなったロシアの作曲家です。
 指揮・原田慶太楼さん,ピアノ・反田恭平さんと,今,注目されるコンビに加え,コンサートマスター・郷古簾さんという,若々しいメンバーで,これだけでうれしくなりました。
 曲目は,「夢想」(Rêverie),ピアノ協奏曲,交響曲第2番でした。

 「夢想」は,当初の題名が「前奏曲」。とても美しい曲で,さあ,これから楽しい音楽の夢の時間がはじまりますよ,という感じがしました。文字どおり,この演奏会の「前奏曲」になりました。
  ・・
 ピアノ協奏曲は,ショパンの影響が濃厚に残る作品で,第1楽章は,短い導入のあと,メランコリックな旋律の第1主題,明るく甘い響きをもつ第2楽章が対位法的に旋律が絡み合う展開部を経て,再現部,そして,コーダと続きます。第2楽章は変奏曲。感傷を極めたかのような旋律の主題が,ピアノの細かいパッセージがセンチメンタルさを更に強調する第1変奏が第2変奏で前向きに一瞬動き出すものの,第3変奏で重厚なピアノが悩ましさを醸し出し,第4変奏では管弦楽が対位法的に絡み合い,最後に回帰した主題をピアノが装飾します。そして,第3楽章では,悲しくも力強い第1主題と祈りが上昇してゆくような第2主題が核になって,最後は,おもに第1主題が変奏されてクライマックスを迎えます。
 やるせなく美しい第1楽章,ピアノの枠に収まりきれずに滴り落ちるようなロマンの薫りの第2楽章,オブラートで包まれたような柔和な第3楽章からなる,美しく甘い旋律に彩られたこの曲は甘い香りのする極上のピアノ協奏曲でした。「もっとも美しいピアノ協奏曲」といわれるように,本当に美しく,感動しました。
 アンコールはグリーグ(Edvard Hagerup Grieg)の叙情小曲集から「トロルハウゲンの婚礼の日」(Wedding Day at Troldhaugen)でした。これがまたすばらしかった。
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 交響曲第2番は1901年に完成した初期の集大成で,ワーグナーに熱狂していたスクリャービンでしたが,ここでは,更に一歩前へ進んで,リヒャルト・シュトラウスにも接近しているそうです。全5楽章で,第1楽章と第2楽章,第4楽章と第5楽章は,それぞれ切れ目なく続けて演奏されます。
  第1楽章は,クラリネットが低い音域で奏する陰鬱な循環主題Ⅰと,ヴァイオリン,次いでフルートが独奏する明るい響きの循環主題Ⅱが全楽章を統べる主題となっていて,「悪魔的な詩」(Poeme Satanique)と称されるそうです。
 第3楽章は,フルートとヴァイオリンの掛け合いが小気味よく美しく,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロの独奏を思い出しました。
 スクリャービン自身は「作曲したときには気に入っていた曲ですが今となっては満足できません。終楽章が陳腐なもので」といい,いずれは終楽章を書き換えることも計画していたといわれますが,実現しませんでした。聞きやすい曲だという感想がみられますが,私は,第3楽章の美しく神秘的な曲が,最後にはただの平凡な曲になってしまったような気がして残念でした。
 3部構成に集約されているという観点から,マーラーの交響曲第5番の構成法にもよく似ています。スクリャービンは,生涯に5曲の交響曲を書きましたが,次第に楽章数を絞っていく方向に向かい, 最終的には単1楽章構成にたどりつきます。

 オールスクリャービンプログラムなんて,だれが聴きにくるのかな? 今日はガラガラだ,と思ったのですが,私の予想に反して,反田恭平さん効果なのか,満員札止めでした。私は,予習をして聴きにいったのですが,事前に思っていたよりもはるかに楽しく,久しぶりに,曲にのめりこみました。
 いい演奏会でした。

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 2024年5月11日,NHK交響楽団第2010回 定期公演 Aプログラムを聴きました。
 4月の定期公演は,天童市の人間将棋に行ったので,パスしましたが,このときのメインプログラムはブラームスの交響曲第1番でした。風のたよりでは,何がしかのことが起き,賛否両論だったということなので,聴いてみたかったな,と少し思いました。
 今回の指揮はファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)さん,曲目は,パンフィリ(Riccardo Panfili)の「戦いに生きて」(Abitare la battaglia)の日本初演と,「ローマ三部作」であるレスピーギ(Ottorino Respighi)の交響詩「ローマの松」(Pini di Roma)「ローマの噴水」(Fontane di Roma)「ローマの祭り」(Feste Romane)でした。

 イタリア中部の都市テルニに生まれたパンフィリの管弦楽曲「戦いに生きて」は,2017年にフィレンツェ5月音楽祭管弦楽団の委嘱で作曲され,ファビオ・ルイージの指揮で世界初演されたものです。
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 弦楽器の弱音によるかすかな響きに雫を落とすようなハープの音からはじまり,曲が進むにつれて時折襲う激しい音の波やティンパニの悍ましいほどの厳しい刻みが「戦い」をイメージさせ,厳選された音の集積によって私たちを包み込む響きの美しさとその和声的な美から滲み出る秘めたる意志,そして,最後に悲壮的な美がもたらされる。
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という曲だそうです。
 私には,「戦い」が終わった安らぎよりも,敗北感としか思えませんでしたが…。救いがない曲でした。こういう,はじめて聴く曲をどう受け入れるのか,いまもって私はよくわかりません。事前にYouTubeなどから探して聴きこんでくるほうがいいのか,そういう予備知識なしで初対面で聴くのがいいのか…,いつも困るのです。そして,どう受け止めればいいのかわからぬまま,消化不良で終わってしまいます。そして,音楽を聴くということがどういうことなのか,音楽を楽しむというより,忍耐をためされているのだろうか,と考えてしまいます。はたして,演奏する人たちはどう思っているのでしょうか。

 さて,今回のメインである「ローマ三部作」です。
 ボローニャ生まれのレスピーギは,1913年にローマに移住し、この地を活動の拠点とし,「ローマ三部作」とよばれる「ローマの噴水」を1916年に,「ローマの松」を1924年に、「ローマの祭り」を1928年に作曲しました。
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●「ローマの松」
 ローマの4つの歴史的名所に立つ松を主題とします。何世紀も生き続ける松の木を前に,古代ローマへと想像の羽は広がり,荘厳な古代世界が音楽によって表現されるというものです。
 〈ボルゲーゼ荘の松〉では,17世紀初頭に建造されたボルゲーゼ荘の庭園で子供たちが遊んでいる様子を,チェレスタ,ハープ,ピアノを加えた輝かしい響きで描きます。
 〈カタコンブ付近の松〉では,古代ローマで迫害された初期キリスト教徒の地下墓所であるカタコンブから聞こえてくる祈りの歌を,グレゴリオ聖歌に由来する旋律を用いて表現します。
 ピアノの分散和音に続くクラリネットの旋律で幕を開ける〈ジャニコロの松〉では,ローマの街を一望できるジャニコロの丘に立つ松が月明かりに浮かび上がり,幻想的な響きの中から,最後にナイチンゲールのさえずりが聞こえてきます。
 夜明けのアッピア街道に立つ松を表す〈アッピア街道の松〉では,低い弱音の刻みの中から,イングリッシュ・ホルンの異国的旋律が漂い,古代ローマの世界に入り込んでいきます。街道を行進する古代ローマ軍が次第に近づき通過していく様が,オルガンやバンダとして指定された金管楽器の堂々とした響きによって蘇るのです。
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●「ローマの噴水」
 夜明けから夕暮れまで刻々と変化する日の光を反映した水の幻想的美しさを表しているローマの噴水に施された神々の彫刻が,水と一体となって想像の世界を広げていきます。古い書法と前衛の融合した響きによって,ローマの4つの噴水を表現します。
 〈夜明けのジュリアの谷の噴水〉では,夜明けの冷たく湿った霧のなかを羊の群れが通り過ぎる牧歌的情景を表します。
 〈朝のトリトンの噴水〉では,ホルンのファンファーレにはじまり、この噴水を飾るトリトンの像が、朝日のなか、水の精ナイアデスと水しぶきを浴びて踊り出します。
 〈昼のトレヴィの噴水〉では,ネプチューンの戦車が通過する勇ましさが描かれます。
 〈たそがれのメディチ荘の噴水〉では,夕暮れどきの穏やかな自然の音と噴水や鐘の音が溶け合う感覚的な美を映し出します。
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●「ローマの祭り」
 ローマの特徴的な4つの祭りを時代を自在に行き来して劇的に描写した作品です。キリスト教と関わりの深い「祭り」の音楽は,アメリカ的な趣味が反映されています。
 〈チルチェンセス〉では,古代ローマの皇帝ネロの時代の,猛獣と人間が見世物として決闘した残酷な祭りを描写します。
 50年ごとに行われるカトリックの聖年祭〈50年祭〉では,巡礼者たちがローマを眼前にしたときの感慨を賛歌の旋律も援用して表現します。
 秋のぶどうの収穫を祝う〈10月祭〉では,前半にホルン,後半でマンドリンによるセレナーデなどの楽器の独奏が華を添えます。
 〈主顕祭〉では,主顕祭前夜の祭りの賑やかさを管弦楽法を尽くして描きます。
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 当初発表になった曲順は「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」だったのですが,「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」に変更になりました。これは,前半の時間と後半の時間のバランスを考えてのことだったように思います。
 多くの人が語るように,「ローマの松」が「ローマ三部作」の中で最も充実した曲だといわれています。私もこれまではそう思っていたのですが,今回,実際の演奏を聴いてみたら,「ローマの松」は金管楽器の音が派手すぎて,むしろ,地味だと感じていた「ローマの噴水」が一番いいなあと思いました。「ローマの祭り」に至っては,単なる映画音楽です。実際,「ローマの祭り」を作曲していた当時のレスピーギはアメリカの映画音楽を意識していたということです。とはいえ,「ローマの祭り」で終わるのが,もっとも観客のノリがいいでしょう。特に,ブラボーおじさんには…。
 いずれにしても,私は,リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」とか今回聴いた「ローマ三部作」のような,こういった写実主義的な曲のよさがよくわかりません。こころに響かないのです。ということで,私の好みだけで,今回の定期公演は,きっと空いているだろう,と思ったのですが,さにあらず。「ローマ三部作」というのは,すごく人気があるようで,満員でした。こうしたお祭りの出囃子のような音楽が好き,という人が多いんだなあ,というのが驚きでした。
 いつもはだれもいない私の周りも,はじめて聴きにきた,というような人が大勢座っていました。リズミカルなところでは体を躍らせたり,本人なりに楽しんでいるようでしたが,私は,クラシック音楽の演奏会では,そういうのは好ましいとは思えません。ブルックナーやマーラーを取り上げる演奏会とは,客層が違うのだなあ,と感じました。

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 2024年2月3日のNHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム,曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「クラップフェンの森で」,ショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番-行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」,交響曲第13番「バビ・ヤール」(Babi Yar)でした。
 指揮は井上道義さん,歌はバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov)さん,そして,オルフェイ・ドレンガル(Orphei Drängar)男声合唱団でした。今回が,2024年末で引退を表明している井上道義さんのNHK交響楽団との定期公演出演の最後となります。
 今回の定期公演の目玉はなんといっても,井上道義さんお得意のショスタコーヴィチから,交響曲第13番「バビ・ヤール」です。私は,演奏会では,はじめて聴きました。
 ショスタコービッチには15曲の交響曲があります。第2番「十月革命に捧げる」,第3番「メーデー」,第11番「1905年」,第12番「1917年」は聴いたことがなく,また,聴きたいとも思いませんが,それ以外の11曲は聴きごたえがあります。特に,私は交響曲第15番が大好きなので,ショスタコービッチ独特の響きは琴線に触れ,歌詞がわからずとも大丈夫です。それに,交響曲第13番「バビ・ヤール」は5楽章形式でわかりやすく,楽しめます。
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 それにしても,今年度のNHK交響楽団定期公演Aプログラムは,楽しみにしていた指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんとウラディーミル・フェドセーエフさんが来日できないというように受難続きであったことと,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」をはじめとして,なじみの薄い過酷な曲が続きます。私には,定期会員でなければ,チケットを買うこともないような曲目ばかりで,こんな機会でもなければ,聴くこともないから,それはそれで是としましょう。
 せっかくなので,今回は改めて勉強して,何度も録音を聴いてから出かけました。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,エフゲニー・エフトゥシェンコ( Yevgeny Yevtushenko)の詩によるバス独唱とバス合唱つきの5つの楽章からなっていて,第1楽章の標題である「バビ・ヤール」をこの交響曲の通称とします。歌詞はロシア語だし,なじみの薄い曲なので,翻訳を見なければさっぱりわかりません。
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●第1楽章「バビ・ヤール」
 「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」(Nad Babim Yarom pamyatnikov nyet)という暗くおどろおどろしい独白からはじまり,ユダヤ人の迫害や恐怖の歴史を歌い,反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難し,弔いの鐘が鳴り続けます。
●第2楽章「ユーモア」
 「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけれどユーモアだけは支配出来ない」(Vlastiteli vsei zemli, Komandovali paradami, No yumorom, no yumorom ne mogli)と歌います。ショスタコービッチが1942年に作曲した「イギリスの詩人による6つの歌曲」(6 Romances)の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」(Makferson pered kazn’ju)のダンスが使われています。
●第3楽章「商店で」
 「レジの列に立ちっぱなしで体が冷える。女たちはすべてに耐えてきた!」(Zyabnu, dolgo v kassu stoya, Vsyo oni perenosili)と、ロシア名物の行列と女性の忍耐強さを歌います。
●第4楽章「恐怖」
 「ロシアで恐怖が消えてゆく」(Umirayut v Rossii strakhi)と歌います。「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」が登場します。
●第5楽章「出世」
 「ガリレオは常識外れだ。だが,時の流れが証してみせた。常識外れこそがほんとうは賢い」(Shto nerazumen Galilei, No, kak pokazyvayet vremya, kto nerazumnei, tot umnei)と歌います。
 力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで曲は消えていきます。チェロ協奏曲第2番,交響曲第15番と共通するショスタコービッチお得意のフィナーレです。
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 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,舞台中央にバスがひとり,その背後に男だけの大合唱がユニゾンで,「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し,ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのです。

 ベートーヴェンの交響曲第9番で「人類は皆兄弟」(Alle Menschen werden Brüder)と歌うのも,マーラーの交響曲「大地の歌」で「春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…」(Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz Ewig... ewig...)と歌うのも,そして,ショスタコーヴィッチの交響曲「バビ・ヤール」で「バビ・ヤールに墓碑銘はない」と歌うのも,創造主が何かの間違いで地球上に作ってしまった愚かな人間が,その英知とやらを振り絞って,かなえられない願望や,あきらめや,そして,懺悔などを音楽で表わしているのです。そして,それらが受け入れられ人々に感銘を与えるのは,人間の性(さが)と自分の力ではどうしようもない現在の世界情勢を反映しているからです。
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 今回の演奏会は,満員の観客のそのほとんどが知らないロシア語で語られる歌を約1時間延々と聴かされて,それでも,女性の声が聞こえるのなら救いがあるけれど,バスと男性だけの大合唱では,まったく救いがない曲だ,と思いました。
 私は,ふと我にかえったとき,狂気の中にいるような錯覚を覚えました。そして,どんなに演奏がすばらしくとも,いや,すばらしければすばらしいほど,これは音楽をはるかに超えて,人を大虐殺する人間の恐ろしさとそうした社会に生きなけらばならない恐怖を感じて,切なくなりました。

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 2024年1月13日に行われたNHK交響楽団第2001回定期公演Aプログラムは,指揮がトゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)さんで,前半の曲目がビゼー(シチェドリン編)のバレエ音楽「カルメン組曲」(Georges Bizet / Rodion Shchedrin Carmen Suite, ballet)後半の曲目がラヴェル(Maurice Ravel)の組曲「マ・メール・ロワ」(Ma mère l’Oye,suite(Mother Goose))とバレエ音楽「ラ・ヴァルス」( La valse, ballet)でした。
 私は,フランス音楽は苦手ですが,指揮者がお気に入りのトゥガン・ソヒエフさんということと,これらの曲目なら大丈夫,ということで,期待して聴きにいきました。

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 トゥガン・ソヒエフさんは1977年にロシアのウラジカフカス(Vladikavkaz)に生まれました。2022年,愛する母国がウクライナに侵攻したことに心を痛めて,ボリショイ劇場(the Bolshoi Theatre)とトゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団 (the Orchestre national du Capitole de Toulouse)の両方のポストを辞任したことで,男を上げ,以後も世界中から引く手あまたの指揮者です。
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 今回の曲目は,近代フランス音楽の「バレエ上演された」管弦楽曲の特集です。
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 バレエ音楽「カルメン組曲」は,ロシアの作曲家ロディオン・シチェドリン(Rodion Shchedrin)が妻でバレリーナのマイヤ・プリセツカヤ(Maya Plisetskaya)のためにバレエ版へ編曲したものです。この曲は,弦楽と4群の打楽器から成っていて「カルメン」の「運命の動機」を要所に出現させて,それがまあ,とても子気味いいのです。
 ちょっと長いかな,とは思いましたが,打楽器奏者が多くの打楽器を手を変え品を変え,弦楽奏者の後ろを動き回るのが愉快というか,大変というか。これは一見に値します。後日放送されるテレビでの映像が興味深いです。また,多くの打楽器がすべて弦楽器奏者の後ろ管楽器の前に配置されていたために,この曲の終了後のわずか20分の休憩でステージの配置を変更するのがかなり大変そうでした。
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 組曲「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾組曲をバレエ化したものです。シャルル・ペロー(Charles Perrault)の「教訓付き昔話-マザーグース(マ・メール・ロワ) の話」から「眠りの森の美女」をバレエの筋書の中心に据えて,そこに前奏曲や間奏曲などを挿入し生まれた作品です。定期公演でたびたびこの曲は取り上げられていて,私は何度も聴いたことがあるのですが,この曲もまた,とても新鮮に聴こえました。
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 そして最後がロシア・バレエ団の興行主ディアギレフ(Sergei Diaghilev)から委嘱され作られた「ラ・ヴァルス」。
 「1855年ごろのウィーンの皇帝の宮殿」から「うずまく雲の切れ目からワルツを踊る男女たちの姿がときおり垣間見える。雲が少しずつ晴れてきて,輪を描きながら踊る人々であふれかえる広間が見える。次第に舞台は明るくなり,シャンデリアの光が燦然と煌めく」(Through rents in swirling clouds, couples are glimpsed waltzing. The clouds disperse little by little: one sees an immense hall peppered with a whirling crowd. The scene is gradually illuminated. The light of the chandeliers bursts forth at fortissimo.)という想定です。
 ラヴェルがワルツに見出していたのは,根源的な「生きる喜び」ということだそうで,トゥガン・ソヒエフさんは,うってつけの指揮者でした。

 トゥガン・ソヒエフさんの指揮は,音楽を体で表現するというもので,体の動きに従って魔法のようにオーケストラから音楽が紡ぎ出されるので,まさに,バレイ音楽には適任。第2000回の「一千人の交響曲」の次の第2001回がバレー音楽なんて粋な組み合わせでした。
 楽しかった。

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 今回は,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念ということなので,ある意味,お祭りです。どれだけのお客さんがマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を理解して足を運んでいるのかは知りませんが,もちろん満員で,私が座っている2階席後方のあたりは,いつもはほどんど誰もおらず快適なのに,この日だけは,ぎっしりと座っていて,窮屈に感じるほどでした。
 ベートーヴェンの交響曲第9番は,合唱があってもその意味をつかむのは容易です。マーラーの交響曲第2番や第4番,また,「大地の歌」も同様です。また,これらの交響曲には音楽だけの部分も多く,音楽の美しさにも惹かれます。しかし,交響曲第8番「一千人の交響曲」はそうはいきません。確かに,規模が大きくて,話題性に事欠かないにせよ,この曲は,ほとんどが意味のわからない声楽ばかりで,こうしたコンサートでもない限り,私は聴きたいと思うようなものではありません。
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 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,他のマーラーの交響曲とは異なるものです。大仰なのです。
 先日聞いた交響曲第2番も大仰ですけれど,それはそれで,若気のいたりというか,情熱というか,そういうものを感じて,とっつきやすいのです。第3番は第2番にくらべたら,二番煎じの感じがしないでもないけれど,この曲もまた,聴きにくいものではありません。
 私が大好きなマーラーの交響曲は,第9番は別格として,第4番と「大地の歌」ですが,それに比べると,第8番は「やりすぎ」ちゃっているのです。しかし,マーラーは,第8番で,生命の泥臭さや高貴さをすべて吐き出してしまうことができたので,それに続く「大地の歌」や第9番の枯れた境地にたどり着けたのではないでしょうか。
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 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,マーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品でした。大規模な管弦楽に加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する巨大なオラトリオのような作品で,2部構成をとり,第1部は,中世マインツの大司教ラバヌス・マウルス(Rabanus Maurus Magnentius)作といわれるラテン語賛歌「来たれ,創造主たる聖霊よ」(Veni, veni creator spiritus),第2部は,ゲーテの戯曲「ファウスト第2部」(Faust part 2)の終末部分に基づいた歌詞が採られています。オラトリオとは「宗教的な題材を扱った演奏会向けの長編の声楽曲」で,基本的にはオーケストラの演奏を伴います。日本語では「聖譚曲」(せいたんきょく)といいます。
 マーラーはこの作品を妻のアルマに献げました。
 「一千人の交響曲」(Symphonie der Tausend )という名前は,初演時の興行主であるエミール・グートマン(Emil Gutmann)が話題づくりのためにつけたものです。この商売気たっぷりのたくらみが功をそうしたのか,マーラー生涯最大の成功を収めました。

 私がこの曲を聴くときの最大の問題は,キリスト教とか文学に疎いことです。ゲーテなんて名前くらいしか知らないし,もちろん,小説を読んだこともないのです。
 キリスト教的人生感,生と死。私にはそれが理解不能なのです。
 「ファウスト」では,この宇宙で人は孤独であること,だからこそ,孤独をまぎらわすために人との繋がりを求めること,不安をかき消す光を求めて自分たちは生きていること,そして,生きている限り不安や悩みは尽きることはないけれど,それでも自分たちは光を求めて歩いていくというのが救いになること,そうしたことが語られているらしいのですが,正直いって,私にはわかりません。だから,交響曲第8番「一千人の交響曲」の本当のよさを理解するには至れないのです。
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 クラシック音楽を聴くために足を運ぶのは,もちろん我慢大会ではないわけですが,この齢になると,この曲が理解できるように勉強しようとか,そんな向上心もなくなる代わりに,80分という曲を聴いても,退屈することもなく,聞きとおせてしまうのが救いです。だから,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念のイベントに参加できた,ということだけでも,意義があったということにしておきます。

 「一千人の交響曲」と銘打っているのですが,ステージ上には500人弱の演奏者でした。合唱が上手なので人数が少なくてもよいということでしょうか。それにしても,聴きながら感心したのは,ステージにいるNHK東京児童合唱団の子供たちでした。客席はもちろんのこと,ステージ上でこの曲を聴いていて飽きたりしないものか…。という話を帰ってからしていたら,ある人が「私「一千人の交響曲」を演奏会で歌ったことがある」というので,さらに驚きました。
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 コンサートが終わって外に出たら,クリスマスマーケットのライトアップでとてもきれいでした。でも,ものすごい人混みでした。これが日本の実社会だと,現実に戻されました。
 いずれにしても,私は,このごろすっかりマーラーづいてしまっているわけですが,次に聴くのは,2024年3月9日に行われる井上道義指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団の交響曲第3番です。

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●「ファウスト」第1部
 悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が,多くの学問を究めてきた老博士ファウストの前に登場します。
 ファウストは,どんなに知識を学んだところで未知なることは無限に存在するし,自分の人生は学ぶ前も学んだ後も結局何ひとつ変わらないではないか,と嘆きます。生きることの充足感を求めていたファウストに,メフィストフェレスは,ファウストが死んだ後に魂を引き渡す代わりに,彼の欲望をすべてかなえようという「契約」をもちかけます。
 ファウストはメフィストフェレスの誘いに乗り,「時よ止まれ汝は美しい」(Werd’ ich zum Augenblicke sagen : Verweile doch! du bist so schon!)という言葉を言えば自分の魂を捧げる,というメフィストフェレスとの「契約」を結びました。
 メフィストフェレスの力で20代の姿となったファウストは,グレートヒェン(Gretchen)と出会い恋仲になるのですが,ファウストとの逢引のため,グレートヒェンは母に誤って致死量の睡眠薬を飲ませ死なせてしまい,さらに,彼女の兄もファウストとの決闘で殺されてしまいます。これが原因でグレートヒェンは次第に精神を病み,ついにはファウストとの子も殺し,自らも亡くなってしまいます。
 メフィストフェレスの計画は失敗に終わります。
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●「ファウスト」第2部
 絶望したファウストですが,アルプスの自然と精霊に囲まれ活力を取り戻し,メフィストフェレスの手引で神聖ローマ皇帝に取り入ります。ファウストは女神ヘレネー(Helen)の美貌に魅せられ,メフィストフェレスの力で神代の世界へ飛び,ヘレネーと結ばれます。しかし、彼女との間に生まれた息子は墜落死してしまいます。
 失意と共に現代へ帰ったファウストはメフィストフェレスの力で戦争に勝利し領地を得て,理想の国家を作ろうと大干拓事業に乗り出すのですが,立ち退きを求めていた地元の老夫婦を誤って殺害し,その報いとして盲目にされてしまいます。
 メフィストフェレスは手下にファウストの墓穴を掘るよう命じますが,盲目になったファウストはその音を土地の造成が進んでいるものと思い込むことで幸福を実感し,「時よとまれ汝は美しい」と呟き,人生の幕を下ろすのです。
 「契約」に従ってメフィストフェレスがファウストの魂を奪おうとしたとき,天上から天使が降り立ちます。かつての妻・グレートヒェンが聖母に捧げた祈りが届き,ファウストの魂は救済されるのでした。
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 2023年12月16日,NHK交響楽団第2000回定期公演,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を聴きにいきました。
 NHK交響楽団の定期公演は1927年からはじまったそうですが,それが今回2000回目を迎えたということです。コロナ禍で,2020年2月の第1935回定期公演のあと,2020年4月から6月まで1936回から1944回が予定されていたのが中止となりましたが,1年置いて,改めて2021年9月に1936回として再開されたので,切れ目なく続きました。しかし,2023年10月に1992回の定期公演が中止となったことで1回飛んでいるので,厳密には,今回は1999回なのです。というか,それ以前にも中止があったかもしれません。

 さて,記念すべき2000回の曲目は,事前にファン投票がありました。
 候補曲は,フランツ・シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」,シューマンのオラトリオ「楽園とペリ」でした。これら3曲から,となると,最も有名なマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」になるのは,はじめからわかっていた,とブログに書いた人がいました。
 ちなみに,残りの2曲は,もし選ばれていたらN響初演ということだったので,それもありかな,と私は思っていました。というのも,私は,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を生で聴く機会どころか録音でさえも聴くことなどまずないのですが,それでも,過去に1度生で聴いたことがあるのです。それは,私の地元名古屋で,1985年の年末,朝日新聞社名古屋本社発刊50周年記念特別演奏会として,外山雄三指揮,名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏したものを聴きにいったのです。こんな大曲,2度と聴くことはできないだろうと思って足を運んだのです。
 近年のNHK交響楽団では,N響90周年記念特別演奏会として,パーヴォ・ヤルヴィ指揮で2016年にNHKホールで行われたことがあるのですが,この演奏会は聴きにいきませんでした。FMでは放送されず,ただ1回だけテレビで放送されたようですが,私はそれも見逃しました。

 近年,ベートーヴェンの交響曲第9番は,テンポは早く早く,そして,オーケストラも小規模になって演奏されはじめました。これを仮に21世紀的演奏とします。それに対して,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」は,贅肉たっぷりのコテコテ演奏を聴衆は期待しているから,21世紀的演奏は似合いません。でないと,感激も何もなくなってしまいます。
 パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,ベートーヴェンを指揮するときは21世紀的演奏になるのですが,ブルックナーやマーラーでは,そこに上手な味つけがされて,聴かせどころは聴かすのですが,コテコテにはならず,シンプルさを残して,分離と融合の使いわけがうまいので,20世紀的演奏に21世紀的な味つけがあってすばらしいものという評価だったので,それを聴いてみたいものでした。
 それに対して,今回は,ファビオ・ルイージ指揮です。
 私は,パーヴォ・ヤルヴィ対ファビオ・ルイージというのは,まあ,塩ラーメンと味噌ラーメンの違いのような気がするのですが,それはどちらがいいとかいうのではなく,持ち味が違うので,どちらも楽しめるのです。
 演奏のことは多く書かれるでしょうから,これくらいにして,私は,昔話をします。

 今から55年ほど前のこと。
 当時私が通っていた中学校は,今では考えられないほど大人びていました。ろくに英語もできないのにドイツ語の勉強をしたり,授業なんて最後の5分だけ聞いていればわかるからとずっと芥川龍之介を読んでいたり,ものすごく優秀なのに字が下手すぎて名前が読めないからお前はもう勉強しなくていいから書き方の練習をしろといって先生から字の書き方のドリルをもらったり,とそんな生徒だらけだったし,まったく勉強もしないで放課後も遅くまで教室に残ってしゃべくっていただけの女子生徒がめちゃくちゃ賢かったりしました。みんな後に偉い人になりました。
 学校の音楽の授業では,音楽家になるわけでもないのに,音楽大学さながら,小難しい音楽史やら楽典を習ったし,歌のテストの課題はドイツ語でベートーヴェン作曲の「Ich liebe dich」(きみを愛す)だったりしました。だから今でも歌えます。
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 Ich liebe dich,so wie du mich,
 Am Abend und am Morgen,
 Noch war kein Tag,wo du und ich
 Nicht teilten unsre Sorgen.
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 あなたを愛しています、あなたが私を愛するように、
 夕方でも朝でも。
 あなたと私が悩みを分かち合わない日など
 1日もないのです。
  ・・・・・・
 週末ごとに東京に通ってヴァイオリンの指導を受けていた生徒もいたのですが,彼女は,やがてプロになって,今はアメリカのオーケストラでヴァイオリンを弾いています。
 私は無知な生徒で,完全に落ちこぼれだったので,楽器も弾けませんでしたが,そんな環境の中で育ったので,自然に覚えたのがクラシック音楽でした。当時はレコードを買ってくるか,FM放送で流れなければ聞きたい音楽を聴くこともできない時代でしたが,帰りにレコード屋さんに行っては,こんな曲があるのだ,と語る友人の影響を受けて,知識だけが増しました。それは,たとえば,ニールセンには「不滅」などという大げさな題名の曲があるとか,ブルックナーには交響曲第0番やマイナス1番があるとか,マーラーには千人で演奏する交響曲があるとか…。
 それでも,今,コンサートを聴きに行くだけの知識ができたのだから,それでよかったのでしょう。今回のように,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を実際にコンサートで聞く機会があると,そんなことを思い出します。

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 NHK交響楽団定期公演,10月のヘルベルト・ブロムシュテッドさんに続いて,11月のウラディーミル・フェドセーエフさんも体調不良で来日が不可能となりました。2月連続で90歳を越える高齢の指揮者ということで,心配はしていたのですが,それが現実となってしまいました。
 先月は時間がなかったこともあって,Aプログラムだけが中止となり,BプログラムとCプログラムは指揮者を変更して行われましたが,今月の定期公演は,すべて指揮者を変更して行うということでした。指揮者の変更は,コロナ禍のころずいぶんとありましたが,私は,こういう場合,指揮者の変更なんてよくないなあ,公演は中止,という意見です。そもそも,この指揮者だからチケットを購入した,という人にとっては,そりゃないぜ,です。せめて,中止ができないのなら,行く気のなくなった人にはキャンセルを認めるべきでしょう。その指揮者がウリで大きな写真を載せたパンフレットがあるのに,別の人が出てくるわけですから。
 ということだったのですが,Aプログラムで代わりに抜擢されたのは,NHK交響楽団指揮研究員の平石章人さんと湯川紘惠さんで,それぞれが前半と後半を受け持つということでした。私は,先週,読売日本交響楽団の演奏会に行ったこともあって,今回はパスしようと思っていたのですが,ウラディーミル・フェドセーエフさんだから行ってみようと改めて思っていたから,やはり,指揮者が変更になるのならパスかな,と思ったのですが,抜擢されたのが若手だったので,興味が湧いて,聴きにいくことにしました。
 2023年11月25日でした。

 曲目は,前半がスヴィリドフの小三部作,プロコフィエフの歌劇「戦争と平和」から「ワルツ」(第2場),A・ルビンシテインの歌劇「悪魔」のバレエ音楽から「少女たちの踊り」,グリンカの歌劇「イワン・スサーニン」から「クラコーヴィアク」,リムスキー・コルサコフの歌劇「雪娘」組曲,後半がチャイコフスキー,フェドセーエフ編のバレエ組曲「眠りの森の美女」でした。
 私の知らない曲ばかりでした。特に前半なんて,代りができる指揮者がいるとは思えません。そんな事情もあって,若手の抜擢となったのかもしれません。思いついた人,グッドアイデアでした。
  ・・
 演奏の出来不出来なんて,はじめて聴いた曲だし,私にはまったくわかりません。
 ただいえるのは,無難にこなしたなあ,ということですが,それはまあ,NHK交響楽団の団員さんが優秀だから,もし,うまくできなかったとしても,何とかしてくれたことでしょう。
 一時代前なら,団員さんも一癖二癖あったから,こんな場合,抜擢された若い指揮者には,リハーサルが,さぞかし,たいへんだったことでしょう。何せ,あの,小澤征爾さんですら揉めたくらいです。しかし,今は,きっとやさしい団員さんばかりだから,暖かく見守ってくれたのではないだろか,などと想像してしまいます。それでも,本番はドキドキだったことでしょう。そして,いい経験になったことでしょう。 
 聴いていた観客の人たちもとてもやさしい空気がNHKホールを包んでいました。たまには,こういう演奏会も悪くないと思いました。子供の発表会を聴きにいくみたいな。代々木公園の美しいイチョウの黄葉を見ながら帰路につきました。

 さて来月は,いよいよ,ファビオ・ルイージさんが指揮するマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」です。2000回目の定期公演を祝して,でしたが,10月の1992回が中止となったので,実は1999回目ではないか。などという野暮なことはいわず,今度こそ,プログラムどおりに演奏会が行われると信じています。

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 2023年10月14日に行われる予定だったNHK交響楽団10月Aプログラムが中止になりました。そろそろ「お元気に来日されました」というニュースがあるころだなあ,とこころ待ちにしていたところに飛び込んできた速報でした。
 2023年9月のNHK交響楽団の機関紙「フィルハーモニー」によると,マエストロ・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)に「N響100周年(2026年)を一緒にお祝いしたい」と言ったら「ウィーン・フィルとは,私の120歳のバースデー・コンサートを開く約束をしている」と述べたということだったので,今年もまた,お元気な姿を見ることができると楽しみにしていた桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさんの10月の定期公演でしたが,残念ながら,健康上の理由で来日がかないませんでした。
 昨年は思わぬアクシデントがあって,直前に予定されていたヨーロッパでの公演が軒並みキャンセルになったことで来日が危ぶまれ,大変心配しましたが,無事,来日を果たし,マーラーの交響曲第9番を指揮されました。私には,忘れられないコンサートになりました。このときのコンサートはかなり衝撃的なものでしたが,この偉大なマエストロに悲劇性はふさわしくありません。その後はみるみる健康を取り戻し,明るく,さわやかなマエストロの姿に戻っていました。

 中止になってしまった今年の曲目は,ブルックナーの交響曲の中でも最高傑作とされる交響曲第5番でした。
 ブルックナーの交響曲第5番は,「対位法上の傑作」であるとともに,複数の主題を伸縮自在に組み合わせるポリフォニーの技術が駆使されていて,特に,第1楽章や第4楽章の展開部,第4楽章のフーガなど,その荘厳な響きに魅了されます。ブルックナーの交響曲は,オーストリアの雄大な大地を想像させるのですが,第5番はそれとは少し異質で,この長大な交響曲では,複数の旋律を重ね合わせ,そのおのおのの特徴を生かして調和させていきながら,音楽の中にヨーロッパの大寺院を思わせる壮大な音の建築物を出現させているものです。
 「レンガを一枚一枚ていねいにに積み重ねていくかのよう」と表現されるマエストロ・ブロムシュテットにとって,まさに,ブルックナー,特に第5番の交響曲はふさわしいものであり,それを味わうことができる喜びは,ほかの何ものにも代えがたい経験となるはずでした。しかし,聴くのもたいへんな大曲が無事に指揮できるのかという心配もありました。それもこれも,かなわぬこととなってしまいました。

 私は,これまでも,桂冠名誉指揮者だったヴォルフガング・サヴァリッシュさん(Wolfgang Sawallisch)のキャンセルとなった最後の定期公演,エフゲニー・フョードロヴィチ・スヴェトラーノフさん(Yevgeny Fyodorovich Svetlanov)が指揮をする予定だった最後の定期公演などのチケットを持っていたのですが,そのいずれも,代役が指揮をしました。今回は直前のキャンセルだったために代役もなく中止となってしまったのですが,コロナ禍のときのさまざまなコンサートでも痛感しましたが,私は,オーケストラのコンサートに指揮者の代役はふさわしいものではないと思っています。その指揮者だからこそ,聴きに行くからです。
 それよりも,どうかお元気になられて,再び,日本でその姿を見せていただけるようにこころから祈っています。

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 9月。NHK交響楽団の定期公演が帰ってきました。今シーズン最初の,2023年9月9日の第1989回 Aプログラムを聴きました。コンサートマスターは篠崎史紀さんで,これがいいんだなあ。引き締まります。指揮は首席指揮者の ファビオ・ルイージさんで,今回の曲目は,私が苦手とするリヒャルト・シュトラウスの3つの作品でした。
 ここで,私が以前書いた「リヒャルト・シュトラウスのよさとは」を再び載せます。
  ・・・・・・
 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
  ・・・・・・
 要するに,リヒャルト・シュトラウスを味わうというのは,リヒャルト・シュトラウスのチャラさを理解する,ということになるわけです。NHK交響楽団の演奏がチャラいというわけではありませんよ!
 それはそれでいいのですが,私がクラシック音楽を聴くときに求める,こころに染みる,という感じはまったく味わえません。

 さて,今回の定期公演,まずは,交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(Till Eulenspiegels lustige Streiche)からはじまりました。この曲のチャラさは,ディズニーの映画音楽みたいなもの,ということだと私は思います。1895年に作曲されたこの曲で,主人公ティル・オイレンシュピーゲルをホルンで描くのは,リヒャルト・シュトラウスの父へのオマージュだそうで,反権威主義的な,乾いた挑発の哄笑と独創性がその底に沈んいます。
 「むかしむかしティル・オイレンシュピーゲルは…」ではじまり,リヒャルト・シュトラウスのさまざまな作品同様に,何がメロディーかもわからないロンド形式の堂々巡りを繰り返し,最後にティル・オイレンシュピーゲルが悲鳴を上げて処刑にされるような音楽が終わると,すべてをあざ笑うかのように,再び「むかしむかし」のテーマが繰り返される,というだけのものです。

 2曲目は「ブルレスケ」(Burleske)で,この曲ははじめて聴きました。
 「ブルレスケ」というのは下品な笑劇のことで,リヒャルト・シュトラウスが作曲した2曲の左手のためのピアノ協奏曲「家庭交響曲余禄」(Parergon zur Symphonia Domestica),「パンアテネ神の大祭」(Symphonische Etuden in Form einer Passacaglia)と並ぶピアノ独奏とオーケストラのための作品だそうです。ピアノは1982年生まれのマルティン・ヘルムヒェン(Martin Helmchen)さんでした。
 冒頭の4台のティンパニによるソロは子気味よく,かつ,挑発的で結構楽しめましたが,これもまた,それだけのことでした。解説では,ブラームスのピアノ協奏曲の影響が濃厚,という話ですが,私には,まったくそうは思えません。しいていえば,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロとピアノの掛け合いみたいなものを連想しますが,ブラームスのほうがずっといいです。いずれにしても,リヒャルト・シュトラウスがピアノ協奏曲を作るとこうなる,ということでしょう。それにしても,アンコールのシューベルトの「即興の時」のほうがこころに染みるのだから,困ったものです。

 最後が,交響的幻想曲「イタリアから」でした。
 当時のヨーロッパの上流家庭では,20歳くらいになると息子に見聞を広めるため,イタリア長期旅行をさせる習慣があって,リヒャルト・シュトラウスもそれに習ったそうで,ローマとナポリを中心に名所旧跡を見て回り,鮮烈な印象を受けて,帰国後に完成させたのがこの作品ということでした。
 第1楽章は「エステ荘から眺めた灼熱の太陽に燃えるローマのカンパーニャ」を描いたもので,ドイツ的なものへの訣別とラテン的なものへの志,第2楽章はソナタ形式で意外なほど古典主義的な音楽でメンデルスゾーンのよう,と解説にありましたが,メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」のほうがずっといいです。第3楽章は「風にそよぐ葉、鳥の歌、自然のひそやかな声、海の遠い波、岸辺に届く寂しい歌」を描いたもの,だそうですが,これもまた,何がメロディーかもわからない堂々巡り。まあ,別に,という感じです。
 極め付きは第4楽章です。リヒャルト・シュトラウスは,ナポリ民謡だと思い込んでいた「フニクリ・フニクラ」をパラフレーズしたものということで,フィナーレでこうした俗謡を引用すること自体,ロマン派の真面目くさった交響曲伝統への嘲笑であって,まさにチャラさ絶好調のようでした。
 リヒャルト・シュトラウスには家庭交響曲とかアルプス交響曲という名前の交響曲らしきものがありますが,それらもまた,実体は交響詩であって,この曲こそが,リヒャルト・シュトラウスの交響曲でしょう。

 ということで,今回の定期公演は,だれでも知っている交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」で客寄せをしておいて,そのあとに,チャラさ絶好調のリヒャルト・シュトラウスなりに作曲したピアノ協奏曲と交響曲を,まあ,一度は聴いてみてごらん,というものだったと私は理解しました。
 演奏者にとれば,多くの団員が参加できて,しかも,思い切り演奏できるリヒャルト・シュトラウスは,久しぶりの定期公演の肩慣らしにちょうどいいのかもしれません。それにしても,観客の方は,私の座っていた2階席のうしろのあたりはガラガラでしたけれど。
 さて,来月は,待ちに待った巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんのブルックナー。きっと満員でしょう。お元気で来日されますように!

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 NHK交響楽団2023年6月のA定期公演を聴いてきました。これで今シーズンは終了です。久しぶりに1年を通して定期公演を聴きましたが,いいものです。
 今回のプログラムは,プロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」,ピアノ協奏曲第2番,そして,カゼッラの歌劇「蛇女」から交響的断章でした。私にはほとんどなじみのない曲ばかりで,定期公演でなければ聴くこともないようなものでした。定期会員以外で,これを聴きにくる人って,たとえば,ピアノ協奏曲第2番が好きだ,とか,この協奏曲を弾いたピアニストのベラゾド・アブドゥイモフさん(Behzod Abduraimov)を聴いてみたい,といった動機がある人くらいのものだろうから,果たしてどのくらいいるのかな? と思ってしまいました。実際,お客さんも少なく,私が座っていた2階の最後尾席のあたりはほとんど空いていたので,ステージがよく見渡せました。

 プロコフィエフは悪くない。結構好きな作曲家です。私には,シロップのたっぷり入ったアイスコーヒーのような甘ったるいラフマニノフより,砂糖の入っていない渋めのホットコーヒーのようで,ずっといいです。
 交響組曲「3つのオレンジへの恋」は「行進曲」だけが非常に有名ということで,この旋律にはなじみがありましたが,全体を通して聴いたことがあったかなあ? この曲は,プロコフィエフが亡命中に影響を受けたストラヴィンスキやフランス6人組に触発されたモダンで刺激的な色彩感豊かな組曲ということで,なかなかいいものでした。
 ピアノ協奏曲第2番は知っている! と思っていたのですが,実ははじめて聴くものでした。
 考えてみれば,私がなじみがあると思いこんでいたプロコフィエフの交響曲や協奏曲で聴いたことがあったのは,7曲の交響曲のうち,第1番,第5番,第6番,第7番,5曲のピアノ協奏曲のうち,第1番,第3番,ヴァイオリン協奏曲は全曲である第1番,第2番でした。
 今回のピアノ協奏曲第2番はちょっと難解で,一度聴いただけではその聴きどころやよさを感じることができたとはいえませんでした。聴き込むとのめり込むかもしれません。どうやら,プロコフィエフにはまだ宝の山が一杯眠っているようです。聴いたことがなかった曲の多くは,一度聴いてみると,私の感性に合っているなあ,といつも感じます。コンサートであまり取り上げられないのは人気がないからでしょうか?

 カゼッラの歌劇「蛇女」から交響的断章なんて,全く知らない曲でした。それも当然で,日本初演だそうです。
 今回の指揮者ジャナンドレア・ノセダさん(Gianandrea Noseda)はイタリア・ミラノの生まれで,1997年にマリインスキー劇場の首席客演指揮者に迎えられ,それ以後,ヴァレリー・ゲルギエフとともに同劇場を支えていたというから,イタリア人というより,どことなく,ヴァレリー・ゲルギエフに似た感じがします。指揮は,とても激しく,ダイナミックです。
 歌劇「蛇女」というのは,原作が18世紀ヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィの寓話劇で,モーツァルトの「魔笛」などと同様に,主人公が試練を乗り越えて目的を達成するファンタジックな冒険譚だそうですが,「色彩豊か,特に,後半はまるでハリウッド映画さながらのゴージャスな」行進曲が含まれているとありました。
 ビゼーの「アルルの女」と同じく,歌劇「蛇女」には第1組曲と第2組曲があって,今回取り上げられたのはそれでした。組曲は,歌劇の中の曲のいいところ取りをしたようなものだと思うのですが,このふたつの組曲は,おそらく別物なのでしょう。この日の演奏では,はじめに第2組曲,次に第1組曲という順序になりましたが,このほうがバランスがよかったからでしょう。

 アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella)という埋もれかけていた作曲家に光を当てたのが,ジャナンドレア・ノセダさんの大きな功績のひとつだそうです。
 2012年にNHK交響楽団の定期公演で交響曲第2番が演奏された録音を聴いてみたのですが,なかなかいいものだったので,ちょっと期待しましたが,私にはあまりよくわかりませんでした。
 今回の定期公演のコンサートマスターは客演の川崎洋介さんで,となりに,伊藤亮太郎さんが座っていました。NHK交響楽団は篠崎史紀さんが特別コンサートマスターになって,ゲストコンサートマスターのライナー・キュッヒルさん(Rainer Küchl)さんの名前も消え,先日までゲストコンサートマスター白井圭さんは契約が終わり,新たに郷古廉さんがゲストコンサートマスターとして迎えられたのですが,私には,新たなコンサートマスターを探しているかのように感じます。


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 NHK交響楽団第1983回定期公演を聴きました。
 曲目は,ラフマニノフの歌曲集から「ラザロのよみがえり」(The Raising of Lazarus)と「ヴォカリーズ」(Vocalise), グバイドゥーリナ(Gubaidulina)の「オッフェルトリウム」(Offertorium),そして,ドヴォルザークの交響曲第7番でした。
 指揮者は下野竜也さん。いつものように,凝りに凝ったプログラムでしたが,私は,「ヴォカリーズ」とドヴォルザークの交響曲以外は聴いたこともなく,また,強いて聴きたいとも思わない曲なので,楽しめばいいと思ってコンサートに通う私には,ちょっと荷が重いのですが,今回は,たまにはお勉強,みたいな感じで聴きに行くことにしました。

●ラフマニノフの歌曲集から
 ラフマニノフは80曲以上の歌曲を残したそうですが,今回は,14曲からなる「歌曲集作品34」のうちの2曲をオーケストラ編曲で演奏したものです。
 「ラザロのよみがえり」というのは,ラザロの復活という奇跡を目の当たりにした民衆の思いを伝える音楽だそうですが,そもそも「ラザロのよみがえり」が何なのか私にはわかりませんでした。これは新約聖書にでてくる物語ということで,いろいろな解説を読んでみたのですが,さっぱり理解ができないので,居直って,単に音楽として楽しむことにしました。
 「ヴォカリーズ」は有名なので,私も聴いたことがあります。きれいな音楽です。「ヴォカリーズ」というのは,歌詞を伴わずに母音のみによって歌う歌唱法のことで,さだまさしさんの歌った「北の国から」とか由紀さおりさんの歌った「夜明けのスキャット」などもその仲間だそうです。
 指揮者の下野竜也さんのおはなしによれば,「ラザロのよみがえり」は、メロディをトロンボーンが担うように編曲し,原曲の歌曲伴奏でピアノが奏でる教会の鐘のような音の響きをオーケストラ全体にちりばめたもの,また,「ヴォカリーズ」は,ソプラノのソロをヴァイオリン16人で弾くことがおもしろく,サウンドの厚みを楽しむことができる,ということなので,深く考えずに,純粋に音楽として味わえばいいということでしたが,ともに,美しく,うっとりとする音楽でした。
●「オッフェルトリウム」
 グバイドゥーリナの「オッフェルトリウム」は,ラトヴィア出身の世界的ヴァイオリニストであるギドン・クレーメル(Gidon Markusovich Kremer)に捧げられたものですが,今回のソリストであるバイバ・スクリデ(Baiba Skride)の祖国でもあるということです。
 「オッフェルトリウム」とは,カトリックのミサで聖歌隊と会衆とによって交互に歌われる奉納唱のことです。この曲では,ウェーベルン風に提示されたバッハの「音楽の捧げもの」の主題が徐々に解体され,1音に削ぎ落とされたのち,そこから再構築がはじまって,やがて慈愛に満ちたコラールへと到る「死と復活」を象徴するかのような曲の展開,そして,一筋の光明のように残って静かに消えていく最後のヴァイオリン・ソロは感動的だ,と解説にありました。
 前衛音楽がひとつの曲がり角を迎え,疲弊していた中で,1931年生まれのグバイドゥーリナは,当時支配的だった社会主義リアリズムの理念とは一線を画し,奔放であるにもかかわらず前衛のさまざまな技法とはまるで異なった「言語」に貫かれた音楽を作曲しました。その敬虔で無垢な響きは、それまでの現代音楽ではけっして聴くことのできなかったもので,この作品は,厳しさと同時に気高い美しさをもっているのだそうです。
 昨日,名古屋フィルハーモニー交響楽団の「歴史的事件」のコンサートで「ノモス・ガンマ」を聴いてきた私は,「ノモス・ガンマ」と何か似ているなあ,と感じたのですが,「ノモス・ガンマ」の刺激が強すぎて,残念ながらこちらはだめ,全くよさがわかりませんでした。未来の人は,こうしたいわゆる現代音楽を理解するようになるのだろうか?
●交響曲第7番
 この息詰まる2曲ののち,ドヴォルザークの交響曲を聴くと,ホッとします。そしてまた,聴きに来てよかったと思いました。
 ドヴォルザークらしく流麗なメロディが惜しみなく注ぎ込まれた交響曲第7番は,1883年にブラームスの交響曲第3番の初演を聴いたドヴォルザークが1884年から翌年にかけて作曲したものです。
 ですが,このプログラムにはちょっとした趣向がありました。それは,第4楽章の最後に,まるでバッハのコラールのようなお祈りの音楽が出てくるのですが,これが,イエスがラザロを生き返らせるという奇跡を起こす「ラザロのよみがえり」とも,ミサ曲の奉献唱を意味する「オッフェルトリウム」ともぴったりと合うということです。下野竜也さんによれば,今回の定期公演は「祈り」をテーマにして組み立てたもの,ということでした。

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 2023年4月15日,第1980回NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きました。
 今回は,指揮・パーヴォ・ヤルヴィさん,曲目・リヒャルト・シュトラウス作曲の「ヨセフの伝説」から交響的断章と「アルプス交響曲」でした。元来,2020年5月20日と21日に行われるはずだった第1941回NHK交響楽団定期公演Bプログラムで行われるものだったのですが,コロナ禍の緊急事態宣言で公演がなくなり,さらに,2022年2月11日と12日に行われるはずだった第1952回NHK交響楽団定期公演Cプログラムでは,パーヴォ・ヤルヴィさんがコロナ禍の緊急事態宣言で来日できなくなったために,第1952回の定期公演が,指揮・鈴木雅明さん,曲目・ストラヴィンスキー作曲の組曲「プルチネッラ」とバレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)に変更になったことから再び持ち越されたものです。
 もともとサントリーホールで行われるBプログラムはチケットの入手自体が難しく,また,平日の夜だから行くことはできないので別として,二度目に予定されたCプログラムは休憩なしで,比較的短い曲目をプログラムしたという触れ込みだったのが,三度目の今回はまったく同じ曲目がAプログラムで演奏されて,単に途中で20分の休憩を挟むために時間が伸びた,というだけで値段が約2,000円も高くなった,つまり休憩代が金2,000円也,さらに,Cプログラムではサービスで行われている開演前の室内楽すらAプログラムにはない,ということが私にはちょっと腑に落ちないのですが,まあ,これは大人の事情というものでしょう。
 ともあれ,パーヴォ・ヤルヴィさんが首席指揮者のときにずっと演奏していたリヒャルト・シュトラウスの曲目の集大成として最後に用意していた「アルプス交響曲」を,これだけは譲れないとばかり,2度の延期を経て,ついに演奏できたことが何よりでした。また,コンサートマスターは,このたび,第1コンサートマスターを勇退して特別コンサートマスターになった篠崎史紀さんでした。

 2015年から2021年のシーズンまで首席指揮者を務め,2022年9月に名誉指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,2022年12月10日にドイツ・カンマーフィルを率いて来日したときに聴いたのですが,NHK交響楽団にはひさびさの出演です。次年度2023年9月からの定期公演には出演予定がないのはどうしてなのかな? ととても残念なのですが,この先,また,指揮をしてくれることを期待してます。
 さて,今回取りあげた「ヨセフの伝説」は第1次世界大戦勃発の直前,「アルプス交響曲」は第1次世界大戦の最中に初演された作品で,リヒャルト・シュトラウスがモダニズム最前線に後れを取りはじめた,つまり,時代の流れについていけなくなったころのものだと解説にありました。
 「ヨセフの伝説」(Josephslegende)は1幕物のバレイ音楽で,旧約聖書のエピソードに基づく,ヨセフ少年が裕福な商人ポティファルの妻からの誘惑を断ったために監禁されるものの夢の中に現れた天使によって解放されるという物語ということです。
 この曲では,リヒャルト・シュトラウス独特の官能的な不協和音は和らげられ,豪華絢爛たる音色の饗宴が押し出されているのが,リヒャルト・シュトラウスの創造力の鈍化と酷評されたのですが,初演は大成功でした。今回演奏された交響的断章は,最晩年にリヒャルト・シュトラウスが編曲したものです。私は,聴いていると,子供たちが森の中で妖精と戯れているような映像が浮かんできました。
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 「アルプス交響曲」は「家庭交響曲」以来,10年ぶりに書かれた交響曲です。
 ドイツ・バイエルン州とオーストリア・チロル州の国境にある高さ2,962メートルのドイツ最高峰・ツークシュピッツェ山(Zugspitze)の登山を豪華に描くこの作品は,リヒャルト・シュトラウス自身の10代のころの経験に基づいているといわれ,ドイツ帝国の大ブルジョアの楽しい夏のバカンスの1日が表現された作品です。
 けた外れに長大な作品は,「形式の細分化」という手段で〈夜〉〈日の出〉〈登り道〉〈森に入る〉… といった22の小さな区画から組み立てられています。それは,この作品が成立したころ,映画はオペラや交響曲を駆逐しつつあって,これまでのような交響詩は時代遅れとなったので,効果的な短いショットを次々に繰り出すといった映画的手法で作られたものです。
 音楽批評家のパウル・ベッカーは「相変わらず豊かで魅力的だが,見まがうことなく没落しつつある萎みゆく花の明らかな兆候」と指摘し,「私にはこの作品の標題が,作曲者が考えていたのとはまったく別の,そしてはるかに広い意味で,実現されたように思える。〈下山〉は衰退であり,〈終結部〉は終焉だ」と書き,リヒャルト・シュトラウスが体現していた世紀転換期の輝かしいドイツ・ブルジョア文化の終焉の兆候を聞き取ったとあります。

 パーヴォ・ヤルヴィさんは,「安定のヤルヴィ」というか,長年指揮をしていたからこその安心感がありました。しかし,以前にもこのブログに書いたように,私は,リヒャルト・シュトラウスのよさが「英雄の生涯」と「最後の4つの歌」以外はよくわかりません。いろいろと調べてみたところ,リヒャルト・シュトラウスの音楽は,劇音楽,つまり,なんらかのドラマに付随する音楽だと思えばいい,ということを悟り,それで,やっとなんとなく理解ができるようになったのではありますが,この作品もまた,山登りの雄大な風景のバックミュージックだと思えば退屈はしないわけです。つまり,音楽なんて現実のバックミュージックに過ぎない,というチャラさなのです。要するに,映画音楽なのです。だから,音楽を聴きながら「きれいだなあ」とか「雄大だなあ」と感じればそれでいいわけで,こころに染みる,とか,思わず泣けてくる,という,私が求める音楽とは別のものなのです。
 と悟りながら,アルプスの映像を頭に浮かべて聴いていれば,まあ,眠たくもならないし,聴けなくもないというか,むしろ楽しいものでした。それにしても,ダラダラと同じような旋律の繰り返しは,ブラームスの交響曲第4番第4楽章のような,緻密な計算に基づいた変奏とも違うし,標題音楽といっても,ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」ようなこころに染みるものとも違うし…。というのが私の正直な気持ちでした。
 それにしても,依然として私が納得できないのは,どうしてリヒャルト・シュトラウスの作品はいつもいつもこんなにむにゃむにゃととりとめもなく長く,また,異常に多くの演奏家を必要としているのか,ということです。これは成金趣味なのか? ただし,楽器の弾ける人に聞くと,演奏するのはものすごく難しくて大変だということですが,これでは浮かばれません。なんだかねえ…。苦労が報われません。

 なお,私は,前回までのCプログラム2日目土曜日のマチネから,今回からAプログラム1日目土曜日のソワレに変更したのですが,こちらの方がずっと雰囲気がよかったです。

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 2023年2月のNHK交響楽団第1978回定期公演を聴きました。
 Cプログラムだけのサービスである開演前の室内楽は,チャイコフスキーの弦楽六重奏曲 「フィレンツェの思い出」の第1楽章を,ヴァイオリン松田拓之,宮川奈々,ヴィオラ中村洋乃理,小野聡,チェロ渡邊方子,小畠幸法というみなさんが演奏しました。
 私は,次回から再びAプログラム土曜日夜の定期会員に変更するので,開演前の室内楽を聴くのはこれが最後になります。こういうプレコンサートはとてもいいものなので,聴けなくなるのが残念です。
 私が3か月でCプログラム土曜日からAプログラム土曜日に変更するのは,Cプログラムの土曜日マチネというのが,お客さんがコンサートの後は食事でもしよう,みたいな感じで,12月の公演では曲が終わってもいないのに拍手をはじめた観客がいたりということに加えて,私の選んだ座席は2階席中央の音のいい場所で気に入っていたのですが,左側の人が大柄で座席が窮屈だったことと,右側の人がいつも寝ているのにときどき起きてはうなり声をあげながら指揮をしはじめるといったことが嫌になった理由です。次回からは,以前座っていた,もっと後列,というか2階席最後列の,周りはほとんど人のいないところに再び戻ることにしました。
 NHK交響楽団の定期会員になってかれこれ20年近くになるのですが,これまでも,何度か席替えしていろいろな席に座ったことがあります。しかし,なかなか満足いく席がないのが残念です。

 さて,話をコンサートに戻します。
 今回の曲目は,バーンスタイン作曲の「ウエスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンスとラフマニノフ作曲の交響的舞曲で,指揮はヤクブ・フルシャ(Jakub Hrůša)さんでした。
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 ヤコブ・フルシャさんは,1981年チェコのモラヴィア地方の中心都市ブルノ生まれで,以前,NHK交響楽団定期公演で好評を博したラドミル・エリシュカ(Radomil Eliška)さんの薫陶を受けたことがプロの指揮者になるきっかけだったといいます。2010年にプラハの春音楽祭の開幕公演で「わが祖国」を指揮したのは記憶に新しいところです。
 私は知らなかったのですが,ヤコブ・フルシャさんは,2010年から2018年まで東京都交響楽団の首席客演指揮者だったそうなので,日本ではなじみの指揮者だったようです。現在はバンベルク交響楽団首席指揮者,チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の首席客演指揮者です。
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 まだ若いヤコブ・フルシャさんですが,2011年に雑誌「グラモフォン」で「大指揮者になりそうな10人の若手指揮者」のうちのひとりに選ばれたということで,現在,とても人気があります。
 私は,今回,はじめて聴いたように思うのですが,パーヴォ・ヤルヴィさんがはじめてNHK交響楽団を指揮したときに感じたのと同じような衝撃を受けました。指揮がわかりやすく,かつ,なめらかで,とても気に入りました。

 今回の曲目は一見変わっています。それは,このふたつの曲に関連があまりないように感じたからです。解説によると,作曲年代が比較的近く,ともにアメリカで作られたという類似点があると書かれてありました。私は,実際に聴いてみて,そんな理由以上に,休憩なしのCプログラムでは,楽器編成が似ている,という点が選曲の理由であったように感じられました。
 バーンスタインのシンフォニック・ダンスは,定期公演の曲目,というより,ファミリーコンサートで取り上げられることのほうが多い感じですが,いかにも,いかにも,アメリカサウンドです。ステージ上で楽団員が大声で「マンボー」と叫んじゃったりするのは,お品のよい定期公演の曲としては異例です。うがった見方をすると,コロナ禍末期の現在,ステージで大声で「マンボー」なんて叫ぶことが許されるのはとてもすばらしいと思うわけですが,それは意図したことなのか,あるいは,シマッタ,と後悔していることなのか? しかも,昨日の演奏よりも大きな声を出そうと打ち合わせまでしたというではないですか。
 日本という同調意識の高い人が多く住む魔訶不思議な国では,今もまだおバカさんみたいに,感染予防だのマスクマスクだの,などということにきちんとした知識もないくせにこだわっている人がいるのをさもあざ笑うかのようで,コロナなんて無縁だとはじめっから思っている私には,とても微笑ましいというか愉快でした。私もまた,思わず,ブラボーと叫びたくなりました。
 そんな冗談はともかくとして,私が今回,ぜひ書きたかったのは,2曲目のラフマニノフの交響的舞曲についてです。
 昨日2月10日のコンサートはNHKFMでライブ放送されたのですが,その放送のなかで,聴視者から「はじめて聴いた」というコメントがあったと紹介されていました。しかし,この曲は,これまで何度かNHK交響楽団の定期公演でも演奏されている,決してめずらしいものではないのです。私にもとてもなじみのある曲です。
 作曲家のラフマニノフといえば,1月の定期公演でもピアノ協奏曲が演奏されていて,そのとき私は
  ・・・・・・
 ラフマニノフもチャイコフスキーも,聴いて楽しい曲であっても,私は,あえて聴きたいというものではありません。出てくればおいしくいただいても自分からは注文しない料理のようなものです。
  ・・・・・・
と書きました。
 交響的舞曲もまた,自分から録音を探して聴くこともないですが,とても好きな曲のひとつです。

 ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov)の管弦楽曲は,ドイツ系ともフランス系とも違う,そしてまた,ロシア的でもない独特の質感があって,派手に金管が跳ね回るよりも,複数の旋律が合わさり太いうねりを作るというか,そんな感じがします。交響的舞曲は1940年に作曲されたラフマニノフ最後の作品で,「舞曲」と銘打たれてはいるものの,3楽章制の交響曲もしくは交響詩のようなもので,コンサートのとりを務める大役を担える大作です。
 穏やかな第1楽章の中間部にサクソフォーンのソロがあって,それがピアノと絡んで,なにかとても妖艶な,というか,なまめかしさが感じられるのが,エロチックでもあり,くすぐったく魅力的です。それにつられた第2楽章は夢をみているような幻想曲であり,第3楽章はオペラ的で,人生の集大成のような壮大なクライマックスを迎えます。これこそが,ラフマニノフが最後にこの世に書き残した美しい響きです。早春のこの時期にこんな曲を聴くのも悪くありません。
 ところで,この日は,右隣の方がお休みだったので,私は,きわめて快適にコンサートを楽しむことができました。

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 2月のNHK交響楽団第1975回定期公演の指揮者は,トゥガン・ソヒエフ(Tugan Taymourazovitch Sokhiev)さんでした。
 トゥガン・ソヒエフさんは2008年にはじめてNHK交響楽団と共演し,定期公演に登場したのは2013年だそうです。私は,毎年大勢来る外国人指揮者のひとりだ,くらいに思っていたのですが,コロナ以前の定期公演でそのすばらしさに目覚め,ぜひまた聴きたいと思うようになりました。
 2020年,NHKホールとは違って狭くステージと座席が近いので目の前で見ることができるNHK交響楽団名古屋公演の指揮者だったので楽しみにしていたのですが,コロナ禍で中止となり,とても残念でした。また,その後も,たまたまコロナ禍のために来日が中止となるといった不運が続き,やっと今回,3年ぶりの来日がかないました。
 ロシアのウクライナ侵攻後,ロシアの音楽家はその対応で苦慮しているのですが,トゥガン・ソヒエフさんは,2008年から音楽監督を務めていたトゥールーズ・キャピトル管弦楽団の役職と2014年に就任したモスクワのボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者の座を自らの意思で退いたということで,そのニュースには驚いたと共に,私の好感度はさらにアップしました。
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 トゥガン・ソヒエフさんは,1977年に旧ソビエト連邦・北オセチアのウラジカフカスで生まれ,サンクトペテルブルク音楽院でムーシンとテミルカーノフに指揮法を師事したのち,1999年にプロコフィエフ国際コンクール指揮部門で最高位を得て注目を集めました。マリインスキー劇場での仕事を通じてゲルギエフの薫陶も受けています。
 また,2012年から2016年までベルリン・ドイツ交響楽団で音楽監督兼首席指揮者を務めました。
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 Cプログラムだけの楽しみであるN響メンバーによる開演前の室内楽を楽しんだ後にはじまった今回の定期公演の曲目は,ラフマニノフの幻想曲「岩」と チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」でした。
 幻想曲「岩」は,20歳のラフマニノフの管弦楽作品で,レールモントフの詩「切り立つ岩」の印象にもとづいて書かれたというものだそうですが,私ははじめて聴きました。NHK交響楽団の冬の定期公演では,毎年何がしかのラフマニノフの曲を聴くことができるということです。
 交響曲第1番「冬の日の幻想」は,第1楽章と第2楽章で広大なロシアの冬の情景を喚起し,独特なリズムをもつ軽快な舞曲を奏でる第3楽章,そして,明るく勇壮な第4楽章で,華やかに幕を閉じます。
 2作品とも,というか,ラフマニノフもチャイコフスキーも,聴いて楽しい曲であっても,私は,あえて聴きたいというものではありません。出てくればおいしくいただいても自分からは注文しない料理のようなものです。そこで,今回は,午後の暇つぶし,みたいな感じで聞いていましたが,なかなかよかったです。

 それよりも,注目に値したのは,トゥガン・ソヒエフさんの指揮ぶりでした。
 11月に聴いた井上道義さんが,体の内面から湧き上がる感性を表現した「踊る指揮者」であったのに対して,トゥガン・ソヒエフさんのほうは,音楽そのものを体で表現した「踊る指揮者」でした。ピアノになれば体をかがめ,フォルテになれば大きくし手を広げ,また,主題を奏でる楽器の方を向く,というように,音楽を聴かなくても指揮を見ているだけで曲が理解できるわけで,これがとてもおもしろかったのです。
 私は楽器が弾けないのでわからないのですが,演奏する側はとてもわかりやすく,かつ,楽しいのではないだろうか,と感じました。

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 Cプログラムはコンサート自体は短いのですが,おまけとして開演前の室内楽があります。これは以前,NHKホールのロビーで行われていたものです。そのときはそのときでとても楽しいものではありましたが,自由席だったのでよい席を取るのがたいへんでした。それが,ステージで行われるようになって,自分の席で楽しめるようになりました。
 開演前の室内楽は正規のコンサートが開演する午後2時の45分前で,約20分ほどの演奏でした。今回はベートヴェンの弦楽四重奏曲第3番が取り上げられていて,演奏の前にはステージ上では軽く挨拶がありました。なかなかいいものでした。

 今回の定期公演のプログラムは,前回書いたように,モーツアルトの交響曲第36番「リンツ」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」でした。
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 交響曲第36番は,モーツァルトが1783年の10月から11月に掛けてのリンツ滞在中に,トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵の予約演奏会のために4日間という驚異の速さで作曲した曲で,そうした経歴から「リンツ」という愛称でよばれています。
 曲の完成度は,第38番「プラハ」,第39番,第40番,第41番「ジュピター」と並ぶウィーン古典派交響曲の傑作です。
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 交響曲第3番は,フェリックス・メンデルスゾーンが1830年から1842年にかけて作曲した最後の交響曲です。この交響曲の作曲には,モーツアルトの「リンツ」とは対照的にとても長い年月がかかりました。
 「スコットランド」という愛称は,メンデルスゾーンがこの曲を着想したのがスコットランド旅行中だったことによるものです。
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 こうした,リズミカルで楽しい曲は何度聴いてもいいもので,私は,NHKFM放送で中継したものを録音して,あとで何度も聞いています。何かをし「ながら」気楽に流しておけるのです。

 それにしても…
 この演奏会では,「スコットランド」の最後に,演奏が終わってもいないのに拍手をはじめた観客がいて,その気持ちはわからないこともないのですが,そりゃないなあ… と思いました。
 私は,ひさびさにCプログラムの2日目に返り咲いたのですが,どうも以前から土曜日のマチネは観客のお品があまりよくありません。以前にも,フライングの拍手とか度を越えたブラボーとか最上階の席でいやいや連れてこられた高校生が騒いでいたとかいろいろ問題がありました。私は,すでにチケットを持っている残る1月と2月の定期公演を聴きにいったら,再び変更を考えなくてはならないのかなあ,と思ってしまいました。

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 2022年12月8日にドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団のコンサートを聴いた翌日12月9日は鎌倉観光をして,1日おいて12月10日に今度はNHK交響楽団の定期公演を聴きました。
 9月,10月,11月はNHK交響楽団定期公演のAプログラム2日目の日曜日のシーズンチケットを購入しましたが,12月,1月,2月はCプログラム2日目の土曜日のシーズンチケットに変更しました。
 今シーズンの私の目玉は,先に書いたように9月から11月のAプログラムだったので,それ以降は,休憩なしで時間が短いCプログラムで気楽に楽しもうと思ったわけです。今シーズンはあと4月,5月,6月とあるのですが,どうするかはまだ未定です。

 11月のCプログラムは,指揮者がファビオ・ルイージさんで,曲目はモーツアルトの交響曲第36番「リンツ」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」というとても気楽に楽しめる2曲でした。このことについては次回書きます。
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 さて,土曜日のお昼間のNHKホール周辺は,日曜日とは違って,思ったほどの混雑もなく人が少なく驚きました。
 NHK周辺がもう少し落ち着いたところだといいといつも思うのですが,渋谷に限らず,東京はどこもかしこも人が多すぎます。よくもまあ,これほど人がいるものだとつくづく感心しますが,人混みの大嫌いな私には耐えられません。
 ともかくも,NHKホールに着きました。館内は2022年9月から首席指揮者となったファビオ・ルイージさん一色でした。

 私がクラシック音楽を意識して聴くようになったのは今から50年以上前のことですが,そのころは,ベルリンフィルハーモニー管弦楽団はヘルベルト・フォン・カラヤン,シカゴ交響楽団はゲオルク・ショルティ,クリーブランド管弦楽団はジョージ・セルというように,それぞれのオーケストラに確固たる地位をしめる指揮者がいたものです。
 それに比べて,当時のNHK交響楽団ではさまざまな指揮者が次々とやってきて,それはそれでおもしろかったのですが,だれがこのオーケストラの芯となる代表的な指揮者なのかよくわからず,海外のオーケストラをうらやましく思ったものです。

 近年は,シャルル・デュトワさんが1996年から2003年まで7年間にわたって常任指揮者を経て音楽監督となり,次が,ウラディーミル・アシュケナージさんで2004年から2007年まで音楽監督,そしてその次が,パーヴォ・ヤルヴィさんで2015年から2022年までの7年間首席指揮者となりました。このように,近年は,芯となる指揮者が年に3月ほど指揮をすることで,指揮者の個性が出るプログラムを構成しているので,落ち着きます。そして,今年からは新たにファビオ・ルイージさんが首席指揮者に就任しました。
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 私が定期公演を聴くようになったころは,シャルル・デュトワさんが私の知らなかったドイツ音楽以外のレパートリーや日ごろなじみのなかったオペラを積極的に取り上げていたときで,とても楽しめました。次のウラディーミル・アシュケナージさんはちょっとなあという気持ちがしましたが,それなりにそつのないプログラムではありました。
 しばらく空白が続いて,それに続いたパーヴォ・ヤルヴィさんはとてもすばらしく,私は大好きでした。今回契約の満了でとても残念に思っていたのですが,ファビオ・ルイージさんが新たに就任して,また,異なった個性の指揮者を知ることになったわけです。

 これは,音楽のことをまったくわからない私の感想にすぎませんが,パーヴォ・ヤルヴィさんとファビオ・ルイージさんとでは,いろいろな点で似ているところと全く異なる点があって,とても興味深いです。
 パーヴォ・ヤルヴィさんは毎回いい意味で出たとこ勝負的なよさがあって,魅力がありました。その反対に,ファビオ・ルイージさんはとてもきちんとしていて,いい意味でおよそイタリア人らしくないと思います。これま私が聴いた曲の中では,ブルックナーがいいなあと思いました。
 ところで,NHK交響楽団の定期公演はまもなく2000回を迎えます。そこで,この記念すべき2000回に何を演奏するかというファン投票が行われて,ダントツでマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」に決まったという発表がありました。それ以外の候補曲はフランツ・シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」,シューマンのオラトリオ「楽園とペリ」だったそうですが,この3曲を並べたら,多くの人はやはり最もなじみのあるマーラーになるでしょう。私もあとのふたつを聴いたことがありません。というわけで,私個人としては,ファビオ・ルイージさんがどんなマーラーを演奏するのか,という点にとても興味があります。そのときになったら,ぜひ,この公演を聴きに行きたいと今から楽しみにしています。


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 今回のブログの題名「蔓延する同調圧力に屈せずに」というのは,NHK交響楽団のホームページあった文章を一部引用すると
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 コンサートに予定調和を望まず,聴き手に新鮮な驚きを与えることが井上道義の信条だ。コロナ禍に蔓延する同調圧力にも抗い 続けてきた。
  ・・・・・・
と書かれていたものからからとったものです。
 実は,今回の11月定期公演Aプログラム2日目,ショスタコービッチの交響曲第10番が終わったとき,禁止されているはずの「ブラボー」が大声で飛んだのです。2日目は放送されないので,これはNHKホールにいた人しか知りません。
 井上道義さんは自分のブログに次のように書いています。
  ・・・・・・
 録画があった昨日(と違って)今日は楽員さんも開放感からか,現実の戦争には大反対の老兵士は相応のエネルギーでこの名曲が本来の姿をとって刻まれていく時をちょっとだけ客観的に共有できたと感じた。僕が最も誇りとした一瞬はマスク越しのこころからのブラボーの嵐が続く流れを生んだ曲の終わりでのブラボーの一声だった。
 目立ちたいだけのブラボー,よい声を聞かせたいブラボー,終わりを俺は知っているぜのそれ,ひどい演奏への悪意あるそれ,等々聞いてきたが… 今日のあれは違った。
  ・・・・・・
ということだったので,このブラボーは井上道義さんには好印象だったのでしょう。
 ただし,私は,禁止しているのにそういう声が出たということを責めているのではなく,本質的にブラボーは嫌いです。いや,それが空気になじんでいるのならともかく,日本人のそれは,歌舞伎の大向こうのようなものだからです。今回のコンサートは例外で,このコロナ禍ではコンサートではブラボーと叫ぶ輩がいないので,むしろ私にはここちよいのですが,NHK交響楽団の定期公演には,フライングの拍手とか,時折,おかしな観客が混じっています。

 ところで,アメリカやヨーロッパでのクラシックのコンサートやオペラはマナーがいいと思っている人も多いでしょうが,実際は,日本よりもずっとざわざわしています。マナーも特にいいとはいえません。しかし,自然体というか,馴染んでいるというか,それが場に溶け込んでいるので,全く不快なものではないのです。演奏前は,まるでパーティに行くように着飾った人たちが集まってきて,演奏の合間にはアルコールを親しみながらおしゃべりをして,コンサートが終わると自然と立ち上がり,花を投げる,といった行為すべてをこころから楽しんでいるのです。
 それに比べたら,やはり,日本人にとってはクラシック音楽というのはよそ者であって,外国人が着物を着ているような,そんな感じが否めません。また,演奏前に,まるで小学校の朝礼の先生の「ご注意」のように,うるさいくらいに何度も何度も注意を喚起する場内放送がかかります。アメリカやヨーロッパのコンサートでは記憶にありません。チケットを買ってもらって聴きにくる観客に対して失礼です。コンサートを楽しみに来る大人に対して,こりゃないぜ,と私は思います。観客の不快な行為以上にこの放送が私には不快です。これもまた,日本らしき責任逃れのやったふりです。
 文化水準の低い,そして,知的好奇心の低い日本人は,いつまでもずっとガキなのです。社会全体が幼稚園です。それは,欧米ではベイビーシッターに子供を預けて大人の時間を楽しむべきレストランに,日本では子連れでやってきて,客席を子供たちが走り回る,という日々の光景とも重なります。何も考えず,言われたことを従順にやるのがよい子という教育なので,そうして育って齢だけ大人になっても自分がないのです。精神的には大人になっていないのです。だから,人と同じことをまねるしかなく,同調圧力が幅を利かすのです。そして,何が真実かも正義かも知らないのにそれに外れた行為を見ると「先生に言ってやろ」が正しい行動だと,それを当然と思っているなさけない人が存在するのです。

 それはともかく。 
 今回もまた,私は,このところの定番である,新幹線N700Sのグリーン車で名古屋・東京間を往復しました。優雅な旅です。
 これで,私の聴いた9月,10月,11月,3回のAプログラムは終了です。それぞれのコンサートはまったく異なる特徴があって,興味深いものでした。まだしばらく海外に行くのもたいへんなのでNHK交響楽団の定期公演で満足することにして,次回からは,再びCプログラムに戻って,土曜日のマチネを楽しみたいと思っています。

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 2022年NHK交響楽団の定期公演Aプログラムは,9月のファビオ・ルイージ首席指揮者就任記念ヴェルディ「レクイエム」,10月の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんのマーラー・交響曲第9番とならんで,11月は,今,私が最も聴きたかった日本人マエストロ井上道義さんで,とても楽しみしていました。2022年11月13日,その日が来ました。
 井上道義さんは1946年に生まれ,1971年にミラノ・スカラ座主催グィド・カンテルリ指揮者コンクールで優勝したという経歴で,新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督,京都市交響楽団音楽監督,大阪フィルハーモニー交響楽団首席指揮者,オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任しました。
 2014年に大病に倒れるも復帰しましたが,それ以降の神がかり的な活躍で,私は興味をもちました。
 なお,2024年を限りに引退を表明しているので,今が聴く最後のチャンスとなります。

 今回のプログラムは,伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」とお得意のショスタコーヴィチの交響曲第10番です。
 伊福部昭は1914年(大正3年)に北海道で生まれ,2006年(平成18年)に亡くなった作曲家ですが,日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴で,映画音楽「ゴジラ」で有名です。前回2020年に井上道義さんがNHK交響楽団のコンサートに登場したとき,ピアノとオーケストラのための「リトミカ・オスティナータ」という曲を指揮して,私は感動しました,今回はそれに続くもので,「シンフォニア・タプカーラ」は代表作。この曲はアイヌの人々への共感とノスタルジアから書かれたものだそうです。
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 西欧的な主題展開を拒否したモザイク的な形式や息の長い旋律,執拗なオスティナートといった独特の音楽語法が凝縮されていて,特に第2楽章冒頭のハープに惹かれ,フルートの低音域とコールアングレの息の長い旋律が美しく,また,第3楽章の勇壮な感じなど,そのリズム感がたまりません。
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という説明が書かれてありました。
 伊福部昭さんは「すべての芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達する」といいます。
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 ショスタコーヴィチの交響曲第10番ホ短調作品93は,1953年,プロコフィエフと同日にスターリンが死去した年,満を持して発表した交響曲です。
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 交響曲第5番で確立されたショスタコーヴィチの純器楽的な交響曲は交響曲第10番で頂点を極め,さまざまな表現イディオムが暗号のように張り巡らされる一方で楽章をまたいだ主題動機の回想や予告によって全体は幾重にも関連付けられているといった魅力的な語り口とその意味の広がりは他に類をみないものです。
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 ソビエト連邦下の抑圧的な体制で,苦しみながら時代と個人の真実を体現してきたショスタコーヴィチの交響曲ですが,皮肉にも,今のロシアの有り様が,そのころのショスタコービッチの想いと重なって,救いのない絶望感の中に,ある種の救いを見出す苦しみのように感じます。

 この日のコンサートは,前回のヘルベルト・ブロムシュテッドさんのときとは客層が少し違っているように感じました。もちろん,定期会員の人たちは同じですが,それ以外は,年齢が若く,井上道義さんファン,というか,そんな感じでした。当然のことですが…。
 クラシックのオーケストラではないですが,かつて「踊る指揮者」といわれた人がいました。それはスマイリー小原さんですが,井上道義さんの指揮はまさにそんな感じで,指揮というより曲のイメージを体で表現して踊っているように見えました。お元気です。というか,元気すぎるというか。また,カーテンコールが異質で,何度もステージに出てきては団員さんのまわりを駆け回りました。そんなカーテンコールはこれまでに見たことありませんでした。
 11月の定期公演は,今回のAプログラムだけが井上道義さんなので,この日で終わりです。そこで,恒例で花束が贈られたのですが,贈るほうでなく,受け取るほうの井上道義さんがひざまづくなんて,何だか不思議な光景でした。
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 今回取り上げられた曲は,どちらも,打楽器が異様に響き,人間の生命の鼓動を表現しているという感じで,それが強いものだから,聴いている者のこころに訴えるというよりも,扇動するという,そんな感じで,私には,少々,食あたり気味になりました。
 ショスタコービッチの音楽は,私が忙しかったその昔は,気が乗らないときはそれを聴いて自分を奮い立たせたものですが,その必要もなくなった今となっては,まあ,もう少し静かにしてよ,みたいな気にもなります。それは,演奏のよし悪しとはまったく関係がありません。それよりも,音楽を聴くというのは,そのときの精神状態がかなり大きな意味をもつものなのです。

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 今日の写真は,ウィーンにあるマーラーが住んでいたという建物です。
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 マーラーの交響曲はみなある種の暗さと深刻さ,それに対比したなまめかしさと通俗的な旋律でできています。私ははじめてマーラーを聴いたときには,この通俗的なところがいやで,これがブルックナーのようなストイックな曲にくらべて質の低いものに感じたものです。
 ブロムシュテッドさんも「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝-音楽こそわが天命-」(Mission Musik: Gespraeche mit Julia Spinola)で,同じようなことを書いていました。
 しかし,聴き込むうちに,それは表面的なことにすぎず,奥の深い音楽であればこその感動を味わうことができるようになります。
 私が最も好きなのは交響曲「大地の歌」ですが,交響曲第9番は,それ以上に高貴なものであり,だからこそ難解で,気軽に接することができるものではありません。また,90分にもわたるこころの内面に訴えかける静寂の音楽は,よほど耳の肥えた聴衆が集う場で,ゆらぎのない演奏でなければ務まりません。

●第1楽章(Andante comodo ニ長調)
 いつ開始されたかよく注意していないとわからないほどの小さな音の短い序奏によって曲は開始されます。やがて,夜明けのように,ヴァイオリンが第1主題の動機を奏します。この動機は,「大地の歌」の結尾「永遠に」(ewig))です。次に,ホルンの音とともにヴァイオリンが半音階的に上昇する第2主題がはじまります。
 第1主題と第2主題は「死の舞踏」となり,金管の半音階的に下降する動機が発展し盛り上がります。これが第3主題です。
 頂点に達すると暗転し,ここから長い長い展開部に入ります。
 序奏が回想されたのち,主題が変形されテンポが早くなり力を増し,さらに狂おしくなっていきクライマックスを築きます。音楽は急速に落ち込み,テンポを落とし陰鬱さが増し,不気味な展開が続いたあと落ち込み,銅鑼が強打され展開部がやっと終了します。
 再現部では,主題が自由に再現され,曲は一転しカデンツァ風の部分となったのち,残照のようなホルンの響きに変わりコーダに入り,最後に救いを感じ,こころ温まる気持ちがします。
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●第2楽章(Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb ハ長調)
 序奏のあと,3つの舞曲が入れ替わり現れます。
 マーラーらしいかなり土俗的で諧謔的な雰囲気になる楽章で,第1楽章で味わった緊張感をほぐします。
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●第3楽章(Rondo-Burleske: Allegro assai. Sehr trotzig イ短調)
 「道化」を意味する第3楽章は短い序奏のあとユーモラスな主題が続きます。快活で皮肉的な雰囲気で曲は進んでいきます。頂点でシンバルが打たれたのち雰囲気が一変し,トランペットが柔らかく回音音型を奏します。
 最後は速度を上げて狂おしく盛り上がり楽章がおわります。
  ・・
●第4楽章(Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend 変ニ長調)
 コーダの形式で,絶えず表情が変化していきます。
 弦の短い序奏からはじまり,ファゴットのモノローグが拡大されたような音楽が奏されます。
 ヴァイオリンの独奏や木管ののちホルンが主題を演奏して,やがて弦楽によって感動的に高まり,その後,重苦しくなっていきますが,再び独奏ヴァイオリンと木管が現れて緊張が解けていきます。
 ハープの単純なリズムのうえに木管が淋しげに歌いながら, 弦,金管が加わって,大きくクライマックスを築きます。
 そして,ヴァイオリンの高音に,第1楽章冒頭のシンコペーションが反復されたのち,大きなクライマックスを築き,それは形を変えて断片的になっていきます。
 ヴァイオリンが「亡き子をしのぶ歌」を引用し,その後,徐々に力を失いながら休止のあとアダージッシモのコーダに入ります。
 最後の34小節はコントラバスを除く弦楽器だけで演奏されます。なんと神々しいことか。
 浮遊感を湛えつつ「死に絶えるように」,最弱奏で曲は終わりを告げます。

無題


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 私は,一時,マーラーの音楽から遠ざかっていました。墨絵のようなブルックナーとは違い,カラフルなマーラーの音楽が私には重くなってしまっていたからです。
 しかし,2018年,2019年とオーストリアのウィーンに出かけたとき,マーラーの活躍した場所や,ウィーンの中心街から遠く離れたウィーン中央墓地でないグリンツェング墓地にあるマーラーの墓を訪ねて以来,気持ちが変わりました。
 また,偶然,私がこの墓地を訪ねたときに居合わせたある人の葬送で人が埋葬されるのをはじめて目撃して,マーラーの暗さと悲劇性を私に印象づけてしまいました。
 さらには,グスタフ・マーラーの墓の近くに背を向けるようにして不仲といわれた妻アルマ・マーラーの墓があるのを見て,マーラーの孤独がわかったような気もしました。
 以前,私は,このブログに次のように書きました。
  ・・・・・・
 マーラーのお墓のあるグリンツェング墓地に着くと,グスタフ・マーラーの墓の近くの墓に墓参りに来ていた人がいました。そこにいた人に,アルマ・マーラーの墓がどこにあるかを聞くと,ついておいで,というポーズをとって,連れていってくれました。それは,グスタフ・マーラーの斜め後ろではなく,少し離れた場所にありました。聞かなければ,今回もまた見つからなかったことでしょう。ここに,アルマ・マーラーは,グスタフ・マーラーの死後に再婚したヴァルター・グロピウスとの間にもうけた娘で早世したマノンと眠っています。
  ・・・・・・

 今回の定期公演で聴いたマーラーの作曲した交響曲第9番ニ長調は,交響曲「大地の歌」 (Das Lied von der Erde)の次に作曲された10番目の交響曲です。
 交響曲には「第9の呪い」があって,それは
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 ベートーヴェンが交響曲第10番を未完成に終わらせ,また,ブルックナーが10曲の交響曲を完成させたものの11番目にあたる交響曲第9番が未完成のうちに死去したことを意識したマーラーが,9番目の交響曲に番号を与えず,単に「大地の歌」としたのですが,その後に作曲したものについに交響曲第9番としたのですが,続く交響曲第10番が未完に終わり,結局「第9」のジンクスが成立してしまったわけです。
  ・・・・・・
というものです。
 そんな因縁のある交響曲第9番は,全曲が,「別れ」や「死」のテーマによって貫かれています。

 マーラー自身は作曲後すぐに亡くなってしまったので,初演を果たすことはできませんでした。作曲したマーラー自身はこの曲を聴いていないのです。
 マーラーは生涯にわたって死の影に怯えているので,交響曲第9番の完成後にこの世を去っていることでこの曲を「死」と関連づけることになるのですが,NHKFM放送でも解説されていたように,この曲を作曲していた時期のマーラーは,自らが指揮した交響曲第8番の初演を大成功に終わらせ,アメリカにも招かれ旺盛な指揮活動を行っていた時期でした。つまり,マーラーの音楽活動の最盛期であって,エネルギーが充溢していたころのもので,だから「死」の世界に立ち向かい音にする強さがあってこそできた曲であるともいわれます。
 マーラーは交響曲を第9番で終わらせる意図はなく,さらに交響曲第10番の作曲を開始して,さらに進もうと意図していました。この時代の多くの芸術家が「死」を主題として多くの作品を作り上げているので「死」をテーマにした芸術は特別なものではなく,交響曲第9番は終わりの音楽でもなけれは,「死」の恐怖に怯えた作品ではありません。

 グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は1860年に生まれ,1911年,50歳で亡くなりました。
 交響曲第9番は死の2年前1909年夏,イタリアのトブラッハ(Toblach)近郊のアルト・シュルーダーバッハで2か月で作曲され,ニューヨークに楽譜を持ち込んで仕上げにかかり,翌1910年に完成しました。
 マーラーの死後,1912年にウィーンでブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されましたが,マーラーの交響曲がウィーンで初演されたのはこれが唯一でした。

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 私は,世界のどこに出かけるのも苦ではなく,わざわざ何かを新たに買って準備するということもなく,旅は普段の変わりない行動の一環となっているのですが,それでもさすがに今回の東京行きは緊張しました。今年最大のイベント,と自分で位置づけたので,まずは,すべてを豪華にしようと考えました。
 NHK交響楽団の定期公演はNHKホールで午後2時開演。そこで,朝7時4分名古屋発ののぞみで出かけることにしました。東京に到着後,午前中は,これもまたマイブームである「男はつらいよ フーテンの寅」にちなんで,葛飾柴又に行き,午後はコンサート。その後,東京駅で食事をして,午後7時発ののぞみで帰宅するということにしました。この時間の新幹線に限定したのは,往復ともに最新型車両のN700Sであるということでした。混雑がきらいなので,当然,グリーン車にしました。

  ・・・・・・
 N700Sは東海道新幹線の第6世代で,「S」は英語で「最高の」「究極の」などを意味する「Supreme」の頭文字です。高速鉄道で世界初となるバッテリ自走システムを搭載します。
 先代のN700Aとの違いは乗り心地で, グリーン車のシートは背もたれを倒すと座面が沈み,さらにシート全体がわずかに後ろへずれることで,腰と太ももの負担を軽減し,疲れにくい姿勢を維持できるように人間工学に基づいて設計されました。
 また,N700Sは,照明を間接照明化したうえ,スピーカーも天井から客室前後にある仕切り壁の上側へ移動することで,視覚的に車内空間が広く感じられるようにされ,さらに,LEDの間接照明で大型の曲面天井パネルを照らすことで,客室全体に暖かみのある光が均一に降り注ぎ,落ち着きのある雰囲気のなかで過ごせるといいます。
  ・・・・・・

 いつものとおり,名古屋駅までは自家用車で行き,太閤通口近くの駐車場に車を停めました。
 出発まで何かがあっては大変と,要らぬ心配に陥りました。それは,朝,寝坊したら,とか,車が動かなかったら,とか,熱が出たら,とか,新幹線が遅れたら,とか。また,1日目は無事に終了したコンサートでしたが,マエストロは2日目も元気だろうか,とさえ,考えました。
 ということで,旅慣れていてもこんな心配をするなんて,私はいつまでたっても成長しません。
 しかし,多くの心配をよそに,当日は数日前までは天気がよくないという予報もあったのですが,やはり,今回も晴れました。
 何の問題もなく,名古屋駅に到着しました。
 また,何の問題もなく,新幹線は出発しました。
 途中,雪のまったくない富士山がきれいに見えました。
 そして,定刻通り東京駅に到着しました。
 かねてからの計画通り,午前中は葛飾柴又に行きましたが,このことは,また,後日書きます。
 そして,前回書いたように,大感激の定期公演も無事終了しました。
 再び,東京駅に戻り,夕食をとり,また,予定通り,新幹線も運行して,帰宅しました。
  ・・
 このように,2022年10月16日という日は,私の計画していたとおりに,すべてが完璧に終わりました。

 それにしても,いつも東京へ行くたびに思うのですが,この大都会,人多すぎです。確かに東京には何でもあります。何でもありますが,だからといって,自分が何かをしたいときに出かければよいのであって,ここに住みたいという気になるところではありません。
 また,交通の便もものすごくいいです。どこにもほとんど待ち時間もなく,簡単に行くことができます。しかし,乗客は私ひとりというわけもなく,何に乗っても混雑しています。
 また,どんなときもほぼキャッシュレスで過ごすことができます。Suica さえあれば,他に何も要りません。
 そんな都会で生活している人たちは,これもまた,いつも書いていることですが,政治家もマスコミをはじめとして,この日本の中では異質な東京という中の出来事を,さも日本であるように思っている。そして,その中で何かの政策を決め,また,報道しているようです。であっても,やはり,ここは日本を代表しているところではなく,日本の現状とはまったく異質な空間です。
 そしてまた,いつものことですが,NHKホールの中で,時間も忘れ,場所も忘れ,すっかり偉大な芸術に浸りきっていても,そのあとホールから出ると,あらゆるところから聞こえてくる雑音やらわけのわからぬ音楽やら,人だらけの雑踏に,それまでの余韻はすべて吹っ飛んでしまいます。ウィーンとの違いです。これがとても残念なことです。


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 ついに待望のNHK交響楽団第1965回2日目の10月16日がやってきて、緊張して出かけました。私の今年最大のイベントです。
 指揮は95歳,桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)さん,曲目はマーラーの交響曲第9番です。
 ヘルベルト・ブロムシュテットさんが去る6月25日に転倒し入院したというニュースがあって,来日がかなわないのでは,と私はずいぶん心配していたので,無事来日されたという情報があったときは泣けました。昨年来日されたときはとてもお元気そうだったのですが,1年という月日は高齢者には過酷でした。
 数年前に亡くなった私の父と同じ年に生まれた,おそらく,世界最高年齢の偉大なマエストロが指揮するマーラー交響曲第9番とあっては,これを聴きにいかずにおれようか,ということで,前回も書いたように,もともとCプログラムの定期会員だったものを変更して,この10月の定期公演を含め,9月と11月の3回のAプログラムのシーズン券を購入しました。

 私は,マエストロが前回,この曲を指揮した2010年にもNHKホールで聴きましたが,あれから12年の月日が流れ,今回のコンサートは特別でした。
 私の出かけた日の前日に行われた1日目の様子はNHKFMで中継されましたが,ラジオからだけでもものすごい緊張感が漂ってきて,曲が終わった後にしばらく続いた静寂,そして,観客のだれかが小さな声で「ブラボー」と叫んだ,その絶妙なタイミングに続いた割れんばかりの拍手がすごいものでした。番組の司会をしていた金子奈緒さんは涙声でした。
  ・・
 さて,私の聴いた2日目。
 もう,ひとりで歩くことさえままならなくなったマエストロが,コンサートマスターの篠崎史紀さんのサポートでステージに姿を現したときにすでに会場は熱気に包まれました。これだけで泣けてきました。本当によく来日できたものです。マーラーの交響曲第9番は長く,かつ重く,難解で,この曲のよさがわかるのはとても大変なことです。私は,この場に立ち会うことができて,そしてまた,曲が理解できて,本当に幸せでした。2日目の演奏は,1日目以上の出来だったということです。
 静かに静かに第1楽章がはじまりました。序奏のあとの旋律はマーラーの最高傑作である交響曲「大地の歌」(Das Lied von der Erde)の最後「永遠に永遠に」(Ewig... ewig...)に続くものです。マーラーらしいおどけのある第2楽章。まったく乱れのなかった第3楽章。そして,いつ終わるとも知れない長いアダージョが奏でる第4楽章では,あの大きなNHKホール一杯の観客がまったく音を立てず,ただ聴こえるのはオーケストラの小さな小さな音色だけという,とんでもない状況が延々と続きました。やがて,生命賛歌のような高揚が終わったあとの消え入るような救いの最後の1音が終わると,まるで時が止まったかのように,静止画を見ているように,ステージ上のオーケストラの団員も,そして,観客もだれひとり全く動かない,という状態がしばらく続きました。まるで,終わってはいけない,とでもいうように…。私はこれが永遠に続くのでは,とさえ思いました。ずっとこのままならどんなにすばらしいことか。
 やがて,マエストロの力が抜けて,曲が終わったことをだれしもが自分にいい聞かせ,納得しはじめたころ,ものすごい拍手が起きました。イスに座ったままのマエストロがなんとか観客のほうを振り返ると,さらに拍手が大きくなりました。観客が,ひとりひとりと立ち上がりはじめました。そして,団員の人たちがステージから去り,マエストロも篠崎史紀さんとともに退場すると,スタンディングオベイションが起きました。それにつられて,マエストロはふたりのコンサートマスターに寄り添われながら3回もステージに登場しました。会場中に「ブラボー」が巻き起こりました。日本の会場で,クラシック音楽のコンサートで,観客がみな立ち上がるのを私ははじめて見ました。

 マーラーの交響曲第9番は、会場で配布される「フィルハーモニー」によると
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 この作品は3重の意味で「辞世の歌」である。
 第1に,死を目前にしたグスタフ・マーラー最後の完成作だということ。第2に,ウィーン古典派以来のドイツ/オーストリア交響曲文化を総括する作品だということ。そして,第3に,第1次世界大戦によってほどなく崩れ落ちる運命にあったヨーロッパ・ベルエポックへの哀歌だということ。
 ブロムシュテットは2010年にもN響と本作品の超絶的名演を残した。本公演が一期一会のものとなることはまちがいない。
  ・・・・・・
とありました。そして,最後に
  ・・・・・・
 本作品が「死」を連想させずにおかないとすれば,それは生成と分解のこのプロセスが生命の営みそのものと聴こえるからであろう。
  ・・・・・・
と結ばれているのですが,結局,この曲は「死」ではなく「生への賛歌」なのです。
 今回,マエストロがこの曲を選んだ理由もわかるような気がしました。
 これまで数多くのコンサートに出かけましたが,これほどまでの演奏を聴いたのははじめてのことでした。音楽は時間の芸術,忘却の芸術といわれますが,私には決して忘れることのないとても幸福な時間となりました。

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 新たにNHK交響楽団の首席指揮者に就任したファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)さんは,イタリア・ジェノバで1959年に生まれたということなので,私より若いですが,前任者のパーヴォ・ヤルヴィさん(Paavo Järvi)が1962年生まれなので,それより年上ということになります。
 イタリアの指揮者といっても,あまり,イタリアという感じは私にはしません。近ごろの指揮者はどの人もレパートリーが広く,そのどれもすばらしいので,あとは,個性の違いという感じがします。私には,前回来日したときに指揮したブルックナーの交響曲第4番がすばらしかったのでそのイメージが強いですが,これからどんな曲目を取り上げるのかとても楽しみにしています。

 今回のヴェルディ「レクイエム」,私が知っているのは「怒りの日」(Dies irae)の旋律くらいです。これは,かつて,薬師丸ひろ子さんが主演した「Wの悲劇」で効果的に流れたものです。それ以外は,これまできちんと聴いたことがありません。
 このようなキリスト教の音楽は私には難解で,そのよさがよくわかりません。それでも3大レクイエムのほかのふたつである,モーツアルトの「レクイエム」のような音楽性だけでも楽しめる曲や,フォーレの「レクイエム」のようなこころに染みるものとは違い,これでもかこれでもかと音の洪水が押し寄せてきて,それがはじめて聴く私にはいつ終わるとも,どこで盛り上がるのかもわからないので,辛いものでした。
 この曲はヴェルディの尊敬するイタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニ(Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni)を追悼する目的で作曲され,アレッサンドロ・マンゾーニの1周忌にミラノのサン・マルコ教会で初演されたものです。アレッサンドロ・マンゾーニは,高雅なことばでキリスト教徒としての心情を歌った詩「聖なる讃歌」(Inni sacri)や,歴史小説「いいなづけ」(I promessi sposi)を書いた人だそうですが,それもまた私はまったく知らないので,これではどうにもなりません。
 このような大曲を予習もせずいきなり聴くこと自体が無謀で,正直いってとまどうだけでした。あとで調べてみると,「あまりにイタリア・オペラ的」「ドラマ性が強すぎる」「劇場的であり教会に相応しくない」といった評価があるそうです。さらには,「絶叫するばかりのコーラス」「怒号の連続」「正常な神経の持主がこの詩句と同時に受け入れることのできるメロディーはどこにも聴かれなかった」などという酷評も存在しますが,私がそれを読んで納得したりしているのです。この曲が理解できる人ごめんなさい。
 「この作品は,それまでの多くのレクイエムのいかなる価値観とも別のもので,人間の死と運命という主題を感動的で普遍的な方法で扱った音楽として感じるべきだ」ともあったので,それを感じることができるまで聴きこんでみるべきだとも思うのですが,そこまで執着するほどの情熱が起きないのが残念です。

 と,これは,演奏の出来不出来ではなく,私の不徳の致すところですが,このような大曲に接することができただけでも幸せな時間でした。そしてまた,この曲を取り上げたファビオ・ルイージさんの矜持を強く感じました。
 さらに,それよりなにより,広いステージにも関わらず,オーケストラと合唱団とソリストの人たちで一杯になったその美しさ,そして,このような大規模な曲を再び聴くことができるようになっただけで,私は感動しました。そして,来てよかったと思いました。
  ・・
 なお,今回のコンサートから,カーテンコールは写真を写すことができるということで,私が選んだステージ全体が見渡せる極上の席は,さらに満ち足りた気持ちにしてくれました。
 さあ,次の演奏会は,待望のヘルベルト・ブロムシュテッドさんのマーラー・交響曲第9番です。今からとても楽しみです。

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 2022年9月11日,NHK交響楽団第1962回定期公演をNHKホールで聴きました。私がNHK交響楽団の定期公演を聴いたのは2020年2月以来のことでした。
  ・・
 コロナ禍とは関係なく,NHKホールは2020年の夏から改修工事で,2年間NHK交響楽団の定期公演を行わず,その代わり,池袋の東京芸術劇場コンサートホールを使用することになっていました。私のように,NHKホールの定期公演の座席をもっていた人は,その間NHKホールの座席が維持され,NHKホールでの公演のない間は,中断しても,あるいは,東京芸術劇場コンサートホールで新たな座席を確保してもいいということでした。私は,中断を決めました。
 ところが,奇しくもコロナ禍となってしまい,2020年の4月から6月までの定期公演は中止となり,この3つの公演のチケット代が返金となりました。また,2020年の秋からの定期公演は1年間中止となりました。

 やがて,NHKホールの改修工事が終わり,予告通り今年の定期公演の案内がきました。再び定期会員を続けようかどうしようか迷ったのですが,Aプログラムは9月が首席指揮者となったファビオ・ルイージさん(Fabio Luisi)指揮のヴェルディ「レクイエム」,10月が御年95歳の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブルムシュテッドさん(Herbert Blomstedt)のマーラー・交響曲第9番,そして,11月が今私がもっとも聴きたい指揮者である井上道義さんお得意のショスタコービッチ・交響曲第10番とあったので,この3回のコンサートにだけはぜひ行きたいと思って,奮発してS席を確保しました。

 ということで,今回,久しぶりに東京へ出かけることにしたのですが,以前のように,深夜バスで往復するなどということはもう体力的にもする気がなく,日帰りで新幹線のグリーン車をとりました。
  ・・
 コンサートは午後2時からでしたが,午前10時ころに品川駅に着いて,それまでの時間,品川のキヤノンギャラリーで開催されている「キヤノンフォトコレクション:木村伊兵衛写真展」を見るつもりでした。
 そのこともあって,前回,木村伊兵衛さんについてこのブログに書いたのですが,あいにく日曜日がお休みであることを失念していて,木村伊兵衛写真展を見ることができませんでした。そこで,急遽,別のところに行くことにして,コンサートまでの時間を潰したのですが,そのことはまた後日書きます。
  ・・
 12時過ぎまで浅草にいた私は,地下鉄銀座線で渋谷に向かいました。2年ぶりの東京でしたが,渋谷の変貌に驚きました。地下鉄銀座線の渋谷駅が以前とは完全に変わてしまっていて,こうなると,私は「田舎のネズミ」状態で,さっぱりわからなくなって,道に迷いました。
 私は,この2年の間,人の少ない地方にけっこう出かけたのですが,どこに行っても日本の退廃ぶりが目につきました。それに対して,東京はどうでしょう。どこもかも,いつも工事をして,どんどんと新しくなっていきます。政治家もマスコミも,こんな姿の東京を基準にそれが日本だと思っているようです。これでは東京以外に住んでいる人たちは浮かばれません。それが今回私が東京に行ったときに感じたことでした。


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